1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. ペリー
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

ジャパンナレッジは約1500冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
国史大辞典
ペリー
Matthew Calbraith Perry
一七九四 - 一八五八
米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち、一八〇九年父や兄と同様海軍に入り少尉候補生となる。一四年ニューヨーク商人ジョン=スライデルJohn Slidellの娘ジェーンJaneと結婚。二〇年アフリカ西海岸、地中海艦隊、三〇年ロシア派遣、三三年ブルックリン(ニューヨーク)海軍工廠に配属、三七年米国最初の蒸気軍艦を建造し、その初代艦長、海軍大佐。英仏派遣、四一年同廠長官。四三年アフリカ艦隊司令長官、四七年メキシコ湾艦隊司令長官など海軍の要職を歴任、多くの勲功を建て、近代的科学技術を応用した軍艦の建造により「蒸気艦の父」と尊崇された。ペリーは、大統領フィルモアより東インド艦隊司令長官兼遣日特使に任命、外交上軍事上先例のない広範な自由裁量権を付与された。五二年十一月米本土を出航、大西洋廻りで五三年四月香港投錨。五月旗艦サスケハナ号に座乗、上海発、嘉永六年四月十九日(一八五三年五月二十六日)沖縄那覇着。小笠原諸島の父島も訪れ、両港が太平洋横断汽船航路上の貯炭所・碇泊地に最適とみて諸施設の建設を進めた。六月三日(七月八日)四艦を率い江戸湾に入り浦賀沖投錨。風に抗して進む蒸気艦は黒船渡来の報となって日本全国を震撼させた。日本最高位者以外とは会談せずの原則を貫き、九日久里浜応接所で幕府応接掛に米国国書・全権委任状を授受し、来春大艦隊での渡来を表明して中国に引き揚げた。中国に待機中、米本国でフィルモアからピアス大統領への政権交代を知り、駐清米公使と太平天国軍の評価、日本優先論で対立、露使プチャーチンの対日協同行動提案を拒絶、英国香港総督の父島処置抗議に反論した。列国に先がけて五四年一月香港発。七艦を率い安政元年正月十六日(一八五四年二月十三日)前年よりさらに北上して小柴沖投錨。会見地は江戸の近接地に固執して、全艦を北上させ、羽田・品川沖を測量し、示威行動により幕府の横浜提案を承諾した。二月十日(三月八日)横浜応接所で日米会談開始、応接掛林〓(あきら)らは阿部正弘ら幕閣の指令を受けつつ次第にペリーの要求に譲歩して、三月三日(三月三十一日)日本最初の近代的条約の日米和親条約を締結した。通商は認められないが、鎖国日本の開国に平和裡に成功し、主要目的を達成した。贈呈品の小型汽車・電信機を実験して日本人を驚嘆させた。横浜・下田・箱館を視察後、下田で五月(六月)和親条約付録を協定、六月(七月)那覇で琉球と修好条約を締結、帰国の途につく。ペリーは日本人の器用さから将来機械工業分野で「強力な競争者」となることを予見した。五五年一月帰国、名声はさらに高くなった。米政府より『日本遠征記』の編纂監修を依嘱され、五七年厖大な三冊本として完成出版。五八年三月四日ニューヨークで死去。六十三歳。八年後、生前の希望でニューポートのアイランド墓地に改葬された。→日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)
[参考文献]
『ペルリ提督日本遠征記』(土屋喬雄・玉城肇訳 『岩波文庫』)、『横浜市史』二
(秋本 益利)


日本大百科全書(ニッポニカ)
ペリー
ぺりー
Matthew Calbraith Perry 
[1794―1858]

アメリカ海軍軍人。4月10日、現在のロード・アイランド州ニューポートに生まれる。父クリストファー・レイモンド、長兄オリバー・ハザード、次兄レイモンドも海軍軍人で、彼は三男。1809年海軍に入り、西インド、地中海、アフリカなど各地に勤務し、その間、1833年1月にニューヨークのブルックリン海軍工廠(こうしょう)の造船所長となり、1837年にアメリカ海軍最初の蒸気船フルトン号を建造、同年海軍大佐に昇進し、1841年に同海軍工廠司令官に就任した。蒸気船を主力とする海軍力の強化策を推進するとともに、士官教育の振興、灯台施設の改善などに尽力し、アメリカ海軍の近代化の基礎を築くことに貢献した。ついで1846~1847年のアメリカ・メキシコ戦争に参加、1852年3月東インド艦隊司令長官となり、日本開国の使命を与えられた。そして同年11月、フリゲート艦ミシシッピ号を旗艦としてバージニア州ノーフォークを出航、ケープ・タウン経由シンガポール、香港(ホンコン)、上海(シャンハイ)、沖縄、小笠原(おがさわら)を経て、1853年7月8日(嘉永6年6月3日)浦賀に入港した。久里浜(くりはま)で浦賀奉行(ぶぎょう)に大統領フィルモアの国書を手交し、開国を要求したが、翌年までの猶予を求められて退去した。同年10月30日(和暦9月28日)小笠原島を占領したが、これは本国政府の承認するところとはならなかった。翌1854年2月13日(嘉永7年正月16日)、ふたたび旗艦サスケハナ号以下軍艦7隻を率いて江戸湾金沢沖に至り条約締結を求め、3月31日(和暦3月3日)神奈川で林大学頭(だいがくのかみ)、井戸対馬守(つしまのかみ)、伊沢美作守(みまさかのかみ)、鵜殿民部少輔(うどのみんぶのしょう)らと日米和親条約を調印、さらに下田(しもだ)で日米和親条約付録に調印(1854年6月18日=嘉永7年5月22日)、下田・箱館(はこだて)2港を開き、漂流民保護、欠乏品供給、領事駐在、最恵国待遇などを決めた。帰途、琉球(りゅうきゅう)王国と通商条約を調印、香港に戻り、のちオランダを経て1855年1月11日帰国した。1858年3月4日、ニューヨークで死去。
 ペリー日本遠征の公式記録として、フランシス・ホークスを編纂(へんさん)主幹として1856~1860年に刊行された遠征記3巻Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Sea and Japan, performed in the years 1852, 1853 and 1854(邦訳『ペルリ提督日本遠征記』)があるが、これとは別に、ロジャー・ピノーによって1968年に刊行された『ペリー日本遠征私日記』The Japan Expedition 1852~1854, The Personal Journal of Commander Matthew C. Perryがある。
[加藤榮一]



世界大百科事典
ペリー
Matthew Calbraith Perry
1794-1858

アメリカの海軍将官。日本開国の先駆者,最初の日米条約の締結者。ロード・アイランド州サウス・キングストン(ニューポートの説もある)に海軍一家の三男として生まれる。1809年,海軍に入り,兄オリバーOliver Hazard Perry指揮下の砲艦勤務を振出しに,1812年英米戦争に参加,その後アフリカ,西インド諸島,地中海方面で海賊鎮圧などに従事。33-41年,海軍教育の改革に尽力,海軍の近代化を強力に唱え,1837年アメリカ最初の蒸気軍艦フルトン2世号の艦長になる(のち〈蒸気船海軍の父〉といわれる)。43年アフリカ艦隊司令官として奴隷貿易禁圧に従事。米墨戦争ではメキシコ湾艦隊副司令長官として指揮をとり,手柄をたてた。

 52年,東インド艦隊司令官(准将)に任命,大統領フィルモアから親書を託され日本遠征を命じられる。訓令では,日本人との条約交渉において〈断固とした決然たる態度〉が必要としつつも,なるべく〈平和的〉手段にとどめるよう制約を課していた。ペリー自身,時代の膨張思潮マニフェスト・デスティニーを体現し,日本を欧米キリスト教文明の恩恵に浴させることこそアメリカの歴史的使命だと確信していた。日本について周到な調査研究のうえ,旗艦ミシシッピ号ほか3隻を率いて琉球,小笠原諸島に寄港したのち,53年7月浦賀沖に投錨。幕府は江戸湾からの退去を要求したが,ペリーは峻拒,〈体面〉を重んじて最高位の日本役人との面会を強要,軍隊上陸を示唆して威嚇した。しかし結局,大統領親書を手交しただけでいったん退去した。翌54年2月再び江戸湾に来航,軍艦7隻の威を借りて交渉した結果,3月31日,神奈川条約が調印された。同条約では,下田・箱館の開港,薪炭の供給,遭難船員の保護,領事駐在の約束などを認めただけで,通商条項は含まれていない。遠征中ペリーは高度の戦略的観点から琉球の占有を具申して,本国政府に却下されたが,55年帰国後も太平洋支配をめざすイギリス,ロシアの勢力拡張や闘争について警告した。彼の膨大な《遠征記》(1856)には,日本の経済大国化や日米通商競争を予言するなど,日本人の特性への鋭い洞察が散見される。
→開国
[麻田 貞雄]

[索引語]
Perry,M.C.
ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
タブレットやスマホからも利用できます。
ペリーの関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 1415
検索コンテンツ
1. Noël Péri【ペリー】[人名]
能・狂言事典
1865‐1922フランスの宣教師。ヨーヌ県生れ。一八八九年(明治二二)宣教師として来日、以来信州松本教区、水戸教区などで司祭を歴任、一九〇二年には外国宣教会を ...
2. ペリー(Matthew Calbraith Perry)画像
日本大百科全書
香港に戻り、のちオランダを経て1855年1月11日帰国した。1858年3月4日、ニューヨークで死去。 ペリー日本遠征の公式記録として、フランシス・ホークスを編纂 ...
3. ペリー(John Perry)
日本大百科全書
イギリスの工学者。アイルランドに生まれる。ベルファスト市の小学校を終了後、製図や模型製作に従事した。1868年クイーンズ・カレッジに入学、工学を修めた。1870 ...
4. ペリー(Ralph Barton Perry)
日本大百科全書
アメリカの哲学者。プリンストン大学卒業後、ハーバード大学で学位をとる。1902年より44年間ハーバード大学で哲学を教える。新実在論の立場にたち、自然主義的な価値 ...
5. ペリー(Gaylord Jackson Perry)
日本大百科全書
アメリカのプロ野球選手(右投右打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のサンフランシスコ・ジャイアンツ、クリーブランド・インディアンス、テキサス・レンジャーズ、サンデ ...
6. ペリー(Matthew Calbraith Perry)
世界大百科事典
とした決然たる態度〉が必要としつつも,なるべく〈平和的〉手段にとどめるよう制約を課していた。ペリー自身,時代の膨張思潮マニフェスト・デスティニーを体現し,日本を ...
7. ペリー(Ralph Barton Perry)
世界大百科事典
と性格》2巻(1935。1936年度のピュリッツァー賞受賞)の著者としてもよく知られている。ペリーの哲学的立場はみずから〈新実在論〉と称しているもので,論理学, ...
8. ペリー
日本国語大辞典
〔一〕(John Perry ジョン─)イギリスの工学者、数学教育者。ケルビンの助手となり、その推挙で明治八年(一八七五)来日、工部大学校の助教授として数学・土 ...
9. ペリー画像
日本人名大辞典
琉球王国とも修好条約を調印。1858年3月4日死去。63歳。ロードアイランド州出身。著作に『ペリー提督日本遠征日記』。 ...
10. ペリー
日本人名大辞典
1850−1920 イギリスの数学者,工学者。1850年2月14日生まれ。明治8年(1875)来日し,工部大学校(現東大)の助教授となり,数学をおしえた。当時, ...
11. ペリー【Matthew Calbraith Perry】
国史大辞典
歴任、多くの勲功を建て、近代的科学技術を応用した軍艦の建造により「蒸気艦の父」と尊崇された。ペリーは、大統領フィルモアより東インド艦隊司令長官兼遣日特使に任命、 ...
12. ペリー
日本史年表
アメリカ東インド艦隊司令長官 ペリー 、軍艦4隻を率い琉球那覇に来航(5月3日、退去)(維新史料綱要)。 1853年〈嘉永6 癸丑〉 12・25( 54・1・2 ...
13. ぺるり
古事類苑
外交部 洋巻 第1巻 1736ページ ...
14. ペリー プロセス[カタカナ語]
イミダス 2018
[Perry Process]【政治】アメリカのクリントン政権末期に構想された北朝鮮の核・ミサイル問題解決への段階的取り組み.  ...
15. ペリー・コモ[アメリカンポップスの大スター、死去]
イミダス 2018
ペリー・コモ。Perry Como。アメリカの歌手。 5月12日、20世紀を代表するポピュラー歌手の一人、ペリー・コモ氏がフロリダ州の自宅で病死。88歳。 ビ ...
16. ペリー症候群[カタカナ語]
イミダス 2018
[Perry syndrome]【医学・生理】パーキンソン病の一種で,手足の震え,動作の緩慢化などの症状が出る.最初に症例報告をしたカナダの医学者の名に由来. ...
17. ペリー上陸記念碑[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
1853年(嘉永6)のペリー上陸を記念して、1901年(明治34年)に建立された記念碑。碑文「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」は伊藤博文(ひろぶみ)の揮毫(き ...
18. ペリーていとくにほんえんせいき【ペリー提督日本遠征記】
国史大辞典
Washington. Vols.3. 1856.で、『ペリー提督日本遠征記』の原書名である。膨大な本書の豊富な内容の内、まず注目されるのはペリーの日本に対する ...
19. ペリーによる近隣住区の原則[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©Shogakukan ...
20. ぺりーのはただていいわ【ペリーの旗立岩】沖縄県:沖縄島中部/中城村/新垣村
日本歴史地名大系
望できる。一八五三年に来琉した米国のペリー艦隊が派遣した島内探検隊は五月三一日当地に至り、岩上に旗を立て、Banner Rock(旗岩)と名付けた。「ペリー艦隊 ...
21. ペリーラ[外来語・カタカナ語]
現代用語の基礎知識 2019
《植物》シソ。シソ油。  ...
22. ペリー・ローダン・シリーズ
日本大百科全書
十数人の作家が交替で書き継いでいる世界最長のSFシリーズ。人類史上初めて月面に到着したアメリカの宇宙飛行士ペリー・ローダンは、不時着した巨大な宇宙船を発見して、 ...
23. ミラー ペリー
世界文学大事典
アメリカの文学研究者。ハーヴァード大学教授。『ニューイングランドの精神』The New England Mind(2巻,1939,53),評伝『ジョナサン・エド ...
24. めいじいしん【明治維新】 : 明治維新/(一)ペリー来航から大老井伊暗殺まで(嘉永六年―万延元年(一八六〇))
国史大辞典
日、アメリカ東インド艦隊司令長官・海軍代将マシュウ=カールブレイス=ペリーは四隻の「黒船」を率いて浦賀沖に出現した。ペリーはその前年、アメリカの東海岸ノーフォー ...
25. ペリエ
日本大百科全書
フランスの政治家。ペリエ銀行の頭取、フランス銀行の理事であったが、1817年に衆議院議員に選出されてから政界で活躍するようになった。復古王政期には自由主義的議員 ...
26. ペリシェ
日本大百科全書
ソ連の政治家。ラトビア共和国の農家に生まれる。1914年にリガで労働者として働き始め、1915年にボリシェビキ党に入る。1931年に赤色教授大学を卒業、1937 ...
27. ペリー艦隊日本遠征記[文献解題]沖縄県
日本歴史地名大系
解説 一八五二―五四年、ペリーの指揮下で行われた米艦隊の日本遠征の公式記録。フランシス・L・ホークスの編纂により、五六年に公刊された。一八五三年と五四年ペリー ...
28. ミラー(Perry Miller)
日本大百科全書
アメリカの批評家。ハーバード大学教授。アメリカのピューリタニズムおよびその文学への影響の研究で知られる。主著は『ニューイングランドの精神』二巻(第一巻『17世紀 ...
29. スペリー(Elmer Ambrose Sperry)
日本大百科全書
1929年(昭和4)東京で万国工業会議を開催したのは彼の発意によるとされる。スペリーの設立したいくつかの会社はスペリー・コーポレーションとして統合されていたが、 ...
30. スペリー(Roger Wolcott Sperry)
日本大百科全書
大脳は左右二つの半球で構成され、脳梁(のうりょう)とよばれる多量の神経線維束がそれらを連絡している。スペリーはてんかん治療のため脳梁の切断手術を受けた患者を観察 ...
31. スペリー(Elmer Ambrose Spery)
世界大百科事典
0年には自分の会社スペリー電気会社を設立。88年,スペリー鉱山用電気機器会社を設立し,電動機を用いた鉱山機械を製造。なかでも鉱山用電気機関車は,90年に設立され ...
32. スペリー
日本人名大辞典
1860−1930 アメリカの電気技術者。1860年10月12日生まれ。ジャイロ-コンパスや強力アーク灯の発明など400件にのぼる特許をもち,電気関係の会社を設 ...
33. スペリーによる言語中枢の実験[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
脳梁(のうりょう)を切断した分割脳では、視交叉(しこうさ)は半交叉であるため、左視野のものは右半球に、右視野のものは左半球に入る。この場合、左視野にKEYの文字 ...
34. ドラペリー
世界大百科事典
化に類似した現象が見られる。たとえば古代ギリシア彫刻の場合アルカイク時代の彫刻に見られるドラペリーは一般にきわめて装飾的で,繊細な平行線が規則的なリズムを守りな ...
35. パンペリー
日本大百科全書
アメリカの地質学者。ニューヨーク州オスウェゴーに生まれる。学業を終えたのち、1862年(文久2)に徳川幕府の招きで、北海道の渡島(おしま)半島東部の地質調査にあ ...
36. パンペリー
日本人名大辞典
1837−1923 アメリカの地質学者,鉱山技術者。1837年9月8日生まれ。文久2年(1862)幕府のまねきで来日。蝦夷(えぞ)地(北海道)の地質調査をおこな ...
37. パンペリー石
日本大百科全書
なかのパンペリー石グループ鉱物の総称で、現在11種類が知られている。もっとも普通に産するのがアルミノパンペリー石で、単にパンペリー石といえばほとんどこの種のこと ...
38. めいじいしん【明治維新】 : 明治維新/第一期 ペリー来航から江戸幕府倒壊まで(嘉永六年―慶応三年)
国史大辞典
第一期 ペリー来航から江戸幕府倒壊まで(嘉永六年―慶応三年)  ...
39. クレペリン
日本大百科全書
ドイツの精神医学者。メクレンブルクのノイストレリッツに生まれる。ライプツィヒ大学で医学博士の学位をとり、ミュンヘン大学、ライプツィヒ大学、ハイデルベルク大学など ...
40. ツェッペリン
日本大百科全書
硬式飛行船の発明者。ドイツ、バーデンのコンスタンツに生まれる。士官学校を卒業し陸軍将校となったのち、チュービンゲン工科大学に学んだ。1891年中将で退役すると、 ...
41. デ・ペリエ
日本大百科全書
フランス・ルネサンスの人文学者(ユマニスト)、詩人。ブルゴーニュ地方のアルネー・ル・デュックに生まれる。マルグリット・ド・ナバールの庇護(ひご)を受け、その秘書 ...
42. パンペリー【Raphael Pumpelly】
国史大辞典
一九〇三年中央アジア、〇四年トルキスタンを探検。二三年八月十日死去。八十五歳。 [参考文献]『パンペリー日本踏査紀行』(伊藤尚武訳 『新異国叢書』二ノ六)、R. ...
43. パンペリー
日本史年表
1923年〈大正12 癸亥〉 8・10 没。  ...
44. ヒペリオン
日本大百科全書
ギリシア神話のいわゆるティタン神族の1人。ウラノスとガイアの子。姉妹のテイアとの間にヘリオス(太陽)、セレネ(月)、エオス(曙(あけぼの))をもうけた。その名は ...
45. レッド・ツェッペリン
日本大百科全書
イギリスのロック・バンド。1970年代以降のハード・ロック、さらにヘビー・メタルの雛型をつくったが、同時にイギリスをはじめさまざまな地域の伝統音楽、民族音楽の要 ...
46. パンペリー石(データノート)
日本大百科全書
パンペリー石 英名    pumpellyite 化学式   Ca2(Al,Mg,Fe2+,Fe3+,Mn2+)        (Al,Mn3+,Fe3+,Cr ...
47. Gaston Renondeau【ルノンドー】[人名]
能・狂言事典
自身の観能体験を生かした上演台本としての性格が強い。それらの中から、日仏会館副理事杉山直治郎の手により、ペリーの「能五番」「続能五番」と双璧をなすように一五番が ...
48. Paul-Louis-Charles-Marie Claudel【クローデル】[人名]
能・狂言事典
とはできない。一つは、当時ヨーロッパの言語で入手できる情報、つまりミシェル・ルボン、ノエル・ペリー、アーサー・ウェーリー、チェンバレン、ルノンドーらを十二分に活 ...
49. UNIVAC[欧文略語]
イミダス 2018
Automatic Computer]【IT関連用語】【コンピューター】ユニバック.アメリカのレミントン スペリーランド社製のコンピューター.  ...
50. 会沢正志斎
日本大百科全書
調役(しらべやく)、彰考館総裁を歴任、1840年(天保11)弘道館教授頭取(とうどり)となる。ペリー来航に際し和議の非を説いたが、1858年(安政5)修好通商条 ...
「ペリー」の情報だけではなく、「ペリー」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る

ペリーと同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「ペリー」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三七 - 一九一三 江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山
勝海舟(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男
吉田松陰(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 五九 幕末の思想家、教育者。長門の人。幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す。天保元年(一八三〇)八月四日、父長州藩士杉百合之助常道(家禄二十六石)・母滝の次男として
井伊直弼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八一五 - 六〇 江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)など
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五八 米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち
人物に関連する記事をもっと見る
ジャパンナレッジは約1500冊以上(総額600万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る