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  11. 上杉謙信
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
上杉謙信
うえすぎけんしん
一五三〇 - 七八
戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は、上田(新潟県南魚沼郡塩沢町)の長尾房長や揚北(あがきた)衆、上条(じょうじょう)定憲や宇佐美・柿崎氏らに攻められ窮地に立ち、八月守護代職を嫡子晴景に譲り、十二月に死没。その葬儀のときには府中(新潟県上越市)の膝もとまで敵軍が迫り、虎千代までが甲冑に身を固めて葬列に加わる有様であった。ここで虎千代は長尾家の菩提寺である春日山(上越市)の林泉寺の天室光育に預けられた。晴景は朝廷から「私敵治罰」の綸旨を下されたが、翌六年揚北衆と和し、姉(仙洞院)を房長の長子政景におくって上田長尾氏と結び、上杉定実を守護の座に復活させた。しかし定実が伊達稙宗の三男時宗丸(実元)を養子に迎えようとするとこれに反対し、ために越後は再び乱れ、さらに黒田秀忠も叛いた。景虎はすでに同十二年叛乱鎮圧のために中越地方に乗り出し、栃尾城(新潟県栃尾市)にあったが、栖吉(すよし)長尾家に援護されて中越を平定し、十五年黒田一党をことごとく自害させた。このため景虎の武名はあがったが、晴景や政景と対立。守護の上杉定実の斡旋により、十七年十二月晦日、景虎が兄晴景のあとをつぐという形で春日山城に入った。政景は上田の坂戸城によって、景虎方の栖吉(新潟県長岡市)や栃尾と抗争していたが、景虎は翌十八年関東管領上杉憲政を援けることにし、宇佐美定満・平子(たいらご)房長を味方にひきいれ、翌十九年二月定実が没し越後の実権を握ると、上田討伐を決意し、二十年八月ついに長尾政景父子を屈服させた。ついで二十二年四月および八月、北信濃に迫った武田信玄を迎えて信濃国川中島(長野市川中島辺)に出兵、関東と信濃との二正面作戦を展開する。また、この年上洛して後奈良天皇から隣国の敵討伐の勅命を蒙り、幕府や本願寺、さらに越前の朝倉氏と好を通じ、徹岫宗丸に参禅して宗心という法名を与えられ、十二月帰国した。弘治元年(一五五五)、北条(きたじょう)高広が信玄に応じて挙兵したため甲・越の対立は決定的となり、七月景虎は川中島に出陣、対陣五ヵ月に及んで、今川義元の斡旋により両軍とも兵を引いたが、この滞陣中に越後国侍の士気は弛緩し、内紛は激化した。もともとかれらは景虎の家臣ではなく、それぞれが館と城をもち、一族・被官を従える小領主で、小国衆・上田衆・栖吉衆・与板衆などのように組織されつつ、内部的には矛盾や対立をはらんでいた。国主の役割はかれらの地位を安堵し、矛盾を緩和し、給恩を与えて忠誠を期待することであるが、空しく撤退した景虎は、裁定者・統率者としての権威を失墜した。やがて景虎に近い上野家成と上田衆の下平修理との抗争で、公銭方(財務機関)の大熊朝秀が下平を支持し、老臣本庄実乃がこれに対立し、執政府の分裂を見ることになった。ここで景虎は突如隠退を決意し、二十七歳の若さで出家するため比叡山に向かったが、長尾政景が家臣群を代表して帰国を要請すると、景虎は国人たちに誓紙と人質を出すという条件を認めさせて、家臣統制を強化することができた。一方、大熊朝秀は武田信玄のもとに走り、信玄は弘治三年信濃の葛山城を抜き、飯山城(長野県飯山市)に迫ったので、景虎は四月出陣して善光寺に布陣したが、決戦に至らず九月帰国。この年相模の北条氏康に追いつめられた上杉憲政が越後に亡命し、景虎に上杉家の家督と関東管領職・系譜・重宝を伝えようとした。景虎は永禄二年(一五五九)上洛して将軍の許諾を得、十月二十八日祝宴を開き、憲政のためには、「御館(おたて)」を造営した(ここは現在の国道一八号線と北陸本線の交差するところで、明製の青磁・白磁・天目・染付や古銭・古瀬戸・古越前・珠洲焼・燈明皿・硯・櫛や朱塗りの大盃の破片が出土している)。かくして同三年九月、景虎は憲政とともに大軍を率いて関東に入り、翌四年三月小田原城を攻撃した。しかし、この年長尾家領の藪神・妻有・上田の三荘に徳政令を発し、また前年の出陣直前に越府での諸役・地子を五年間免除するという政令を出していることからも知られるように、景虎の遠征を支える領国の基盤はなお弱く、関東諸将の軍勢に依存しなければならなかった。ために小田原城攻囲軍は四月九日ごろからくずれ始め、景虎は鎌倉に退いて鶴岡八幡宮に参詣し、管領職襲職を明らかにして名を上杉政虎と改め、足利藤氏を関東公方に立てた。しかし北条氏康の反攻によって鎌倉を放棄し、上野国廐橋(前橋市)にひきあげ、ついで六月二十八日越府に帰着した。武田信玄の部将高坂昌信が、川中島を見おろす位置に海津城を築いていたからである。政虎は関東に対しては佐竹義昭と結んで北条氏をおさえ、会津の蘆名盛氏、出羽庄内の大宝寺義増の援軍を依頼して西頸城に布陣せしめることとし、府中の留守は長尾政景・蔵田五郎左衛門に委ね、北陸方面は越中へは斎藤朝信・山本寺(さんぽうじ)定長を派遣して一向一揆をおさえ、越中出陣という名目で八月十四日川中島へ出発した。越後勢の構成は、先手は信濃衆、次に外様国衆であり、政虎の本隊は譜代と一門で編成されていた。両軍は九月十日八幡原で決戦したが、越後軍は犀川を越えて善光寺に退却、ついで帰国した。やがて北条氏康が反攻に転じ、信玄も碓氷峠を越えて上野に出兵、成田・佐野・小山・小田などの上杉方の諸将も相ついで北条方についた。政虎は将軍足利義輝の偏諱を得て永禄五年初頭から輝虎と称していたが、こののち連年三国峠や田口・関山の豪雪を踏んで関東-越後-信濃の間を転戦往来せねばならなかった。同七年春、信玄は野尻島城を陥れて越後に侵入、蘆名盛氏の会津軍も菅名荘(新潟県中蒲原郡村松町)へ侵入した。十一年には越後の本庄繁長、越中の椎名康胤、出羽の伊達輝宗、常陸の佐竹義重らも信玄と結ぶなどの動きがあったが、信玄が今川氏真を攻めたため、上杉と北条は接近し、翌十二年に越相同盟が成立、翌元亀元年(一五七〇)氏康の子三郎氏秀が輝虎の養子に送られた。輝虎はこれに景虎の名を与え、長尾政景の女(景勝の妹)を妻として与えた。翌二年になると北条と武田は和を復し、信玄は越中の一向一揆に輝虎を牽制させつつ、同三年西上の軍を起した。このため輝虎は織田信長と同盟し、越中富山城を攻略、天正元年(一五七三)信玄が病死すると、急速に越中を平定する。翌二年十二月剃髪、法印大和尚に任ぜられ謙信と称するが、同四年信長と断交して本願寺と結び、能登に進んで翌五年九月十五日七尾城(石川県七尾市)を手に入れ、加賀の湊川(手取川)で織田軍を撃破した。さらに関東平定を実現せんとし、六年正月陣触れを行い、三月十五日を進発の日と定めたが、十三日の午後脳溢血で永眠した。年四十九。不識院殿真光謙信と法諡す。かれは身長六尺に近く、目つきの鋭い偉丈夫であったが、和歌に巧みで、甥の景勝に習字の手本を書いて与えるなど、人情味のある武将でもあった。ただし「霜満〓軍営〓秋気清(下略)」の詩は生涯で唯一の漢詩で、彼の作かどうか疑問とされている。なお、越後には室町時代以来三条西家を本所とする青苧座があり、守護上杉氏の雑掌神余(かまり)氏が常に在京して同家や京師の動向を本国に送っていたが、このようなつながりは謙信の時代にもある程度受け継がれていたと思われる。→上杉氏(うえすぎし),→上杉憲政(うえすぎのりまさ),→川中島の戦(かわなかじまのたたかい),→武田信玄(たけだしんげん),→長尾氏(ながおし),→北条氏康(ほうじょううじやす)
[参考文献]
高橋義彦編『越佐史料』三-五、布施秀治『上杉謙信伝』、井上鋭夫『上杉謙信』、同『謙信と信玄』(『日本歴史新書』)
(井上 鋭夫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
上杉謙信
うえすぎけんしん
[1530―1578]

戦国時代の越後(えちご)(新潟県)の武将、戦国大名の雄。近世上杉家米沢藩(よねざわはん)の祖。本姓は平姓長尾(ながお)氏、父は越後国の守護上杉氏の守護代で頸城(くびき)春日山城(かすがやまじょう)(上越市)の城主長尾為景(ためかげ)、母はその一族で古志(こし)栖吉城(すよしじょう)(長岡市)の城主長尾顕吉(あきよし)の娘である。享禄(きょうろく)3年正月21日生まれ。初名を生まれた寅(とら)年にちなんで虎千代(とらちよ)、ついで平三景虎(へいぞうかげとら)といい、のち政虎、輝虎と名を変え、また道号は初め宗心、1570年(元亀1)から不識庵(ふしきあん)謙信という。
 1507年(永正4)父為景は守護上杉房能(ふさよし)を殺し、上杉一族の上条定実(じょうじょうさだざね)を傀儡(かいらい)守護にたてて、実質的な越後国主となったことから、典型的な下剋上(げこくじょう)の人として知られる。1536年(天文5)その死後は嫡子(ちゃくし)晴景が後を継ぐが、国内は各地に分立対抗する長尾一族の勢力ごとに分裂し戦乱が続いた。弟の景虎は春日山城下の臨済宗(りんざいしゅう)林泉寺(上越市)の天室光育(てんしつこういく)に預けられるが、のち母方の古志長尾家を頼って栃尾城(とちおじょう)(長岡(ながおか)市栃尾地区)に移り、中越地方のなかばを掌握して、中越魚沼(うおぬま)地方の上田坂戸城(さかどじょう)(南魚沼市)にいる義兄の長尾政景や、上越地方を押さえる実兄晴景の勢力を圧倒する。1548年末には兄の養子となる形で春日山城に入り、1551年には政景をも陰謀で倒して、上・中越地方の統一を実現し、政景の子喜平次(きへいじ)(上杉景勝(かげかつ))を養子にすると、その勢威で下越揚北衆(あがきたしゅう)といわれた豪族領主たちをも率いて、以後、多方面にわたる外征に転ずる。まず1552年、小田原の北条氏康(ほうじょううじやす)に追われた関東管領(かんれい)上杉憲政(のりまさ)を助けて関東に兵を出し、上洛(じょうらく)して後奈良天皇(ごならてんのう)から従五位下(じゅごいげ)、弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に任ぜられたのち、越山といわれた関東出兵は、1569年(永禄12)まで17年間にわたって続けられ、また、甲斐(かい)(山梨県)の武田信玄(たけだしんげん)に追われた小笠原長時(おがさわらながとき)、村上義清(むらかみよしきよ)らを助けた北信濃(きたしなの)出兵は、川中島(かわなかじま)(長野市)の戦いといわれ、1564年まで繰り返された。とくに1561年9月の川中島八幡原(はちまんばら)での謙信・信玄両雄激突は戦史に有名であるが、戦後処理で信玄はこの地方を知行地(ちぎょうち)として家臣に分配する宛行状(あてがいじょう)を出しているのに、謙信はただ戦功をねぎらう感状を出しているにすぎないという事実からみると、勝利は信玄のものであったと推定される。
 1559年上洛し将軍足利義輝(あしかがよしてる)に会い、1560年からは北陸にも進出し、一向一揆(いっこういっき)との戦いが始まる。1561年北条氏を小田原の本城まで追い詰めるが破れず、帰途に鎌倉の鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)で上杉憲政から関東管領職と上杉の名跡を受け継ぐ儀式を挙行して上杉政虎と称し、足利藤氏を鎌倉公方(くぼう)に擁し厩橋城(うまやばしじょう)(群馬県前橋市)を北関東制圧の拠点とした。1569年には北条氏康に請われて上野(こうずけ)一国(群馬県)の割譲と氏康の子三郎氏秀の入嗣(にゅうし)(上杉景虎)を条件に講和し、武田信玄を共同の敵とするが、1573年(天正1)信玄の死後は、北陸から朝倉義景(よしかげ)や一向一揆を滅ぼして国境に迫った織田信長軍との対決が大きな課題となる。天正(てんしょう)6年3月13日中気(脳溢血(のういっけつ))により春日山城中で没した。49歳であった。軍事的行動半径の広さや神仏信仰、名分の重視などによって知られる。法名は不識院殿真光謙信、高野山(こうやさん)清浄心院に葬る。
 終生妻をめとらず、死の直後から2人の養子、春日山城に拠(よ)った景勝、府内御館(おたて)に拠った景虎の間で越後を二分した抗争3年にわたる御館の乱が続き、かつての豪族連合的な謙信の支配の形は一変し、争乱に勝った景勝の下で、その実家上田長尾家の勢力と新参の北信衆を中心とした独裁が実現する。
[藤木久志]



世界大百科事典
上杉謙信
うえすぎけんしん
1530-78(享禄3-天正6)

越後国の戦国大名,関東管領。父は守護代長尾為景。幼名虎千代,元服後は平三景虎。1543年(天文12)父為景の死後,古志郡栃尾城に移り,48年末兄晴景に代わって越後守護代,事実上の国主の座につく。当初,一族長尾政景と抗争したがこれと和し,越後統治の障害を除いた。52年弾正少弼に任じられ,翌年春上洛,このころ入道して宗心と称した。武田信玄に追われた北信濃の村上,高梨氏らから救援要請をうけると,信濃川中島に出兵した。武田信玄との対陣は以後5回におよぶが,川中島の戦として有名なのは,4回目のもので,このときだけ両軍の衝突がおこった。信濃出兵は,概して信玄の老練な外交戦にふりまわされ,所期の成果をあげることなく終わり,北信深く武田氏の進出を許す結果となった。また,後北条氏の圧迫によって52年関東管領上杉憲政が越後に逃れて来ると,その後は関東方面にも兵を送らねばならなくなった。61年,関東越後の軍兵をひきいて長駆小田原に北条氏康を攻囲したが,事態の変化のないまま囲みをといて鎌倉にひき返し,鶴岡八幡宮で憲政から譲られた上杉姓と関東管領職をつぎ,名を上杉政虎と改めた。帰国後に前述の第4次川中島合戦を戦い,年末には再び関東に出て北条氏康と戦って越年したが,このころから室町将軍足利義輝の偏諱(へんき)をうけて輝虎と称する。これ以後は連年関東に出て後北条,武田両氏とせめぎあいを続けるが,関東管領の威令を示しえないまま後北条氏勢力の拡大を許す結果となった。68年(永禄11)越後村上の本庄繁長が武田信玄に誘われて籠城,翌年下すが,この間に信玄の攻撃をうけた北条氏康の要請をいれて,70年には越相同盟を結んだ。このころから謙信を称するようになる。越相同盟は氏康の死によって2年後には破れてしまった。この時期から,越中への出陣が多くなり,信玄と結ぶ一向一揆と戦うが,73年(天正1)信玄の死により戦局を打開し,越中から能登に進んで七尾城を落とし,織田信長と北陸で接するようになるが,77年には織田軍を加賀で打ち破った。数年ぶりの関東出陣を目前にした78年,謙信は春日山城内で急死した。越後国内は養子景勝,景虎の2人の間に御館(おたて)の乱とよばれる跡目争いの戦乱がくりひろげられ,謙信の領国は一時的に崩壊することになる。

 謙信の領国統治をみると,前代の統治方式,すなわち幕府・関東管領・守護体制の枠内にとどまるもので,他の戦国大名のように分国法制定や領内検地という独自の政策を実施していない。家臣団の編制の面では,知行給与と一定の軍役徴収は晩年になるまでみられず,知行安堵・新恩給与の事例がほとんどなかった。越後では,家臣=国人の独立性が強かったこともあるが,春日山城中での席次序列や,名字付与のような家礼上の厚遇,親疎関係をのぞけば,家臣団編制,統制上の特徴はみられなかった。このことは,連年の戦陣における謙信の動員した軍事力にも影響し,動員軍は,一門と旗本衆のほか謙信擁立地域の古志・蒲原郡を中心とした兵農未分離の半農兵を用い,国人層の動員は必ずしも多くなかった。領国化した地域の統治も,晩年の越中や能登では旗本衆の在番支配をうち出すが,それまでは従来の領主支配をそのまま承認したから,謙信の撤退後は旧に復してしまう例が多かった。総じて,上洛,関東管領就任にみられるように,幕府体制に依存する姿勢が強かったとみられる。信仰の面では,早く出家し禅宗への接近もみられたが,むしろ,武田晴信打倒祈願の願文や毘沙門天信仰にみられるように現世利益的傾向も強かった。
[阿部 洋輔]

[索引語]
上杉政虎 越相同盟 長尾景虎
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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37. あかぼりごう【赤堀郷】群馬県:佐波郡/赤堀町
日本歴史地名大系
る。戦国時代になると、東上野には小田原北条氏の勢力が伸びていくが、天正二年(一五七四)春には上杉謙信が関東に再び現れ、赤堀、善(現勢多郡粕川村)などを占領してい ...
38. あきばじんじゃ【秋葉神社】新潟県:栃尾市/向谷地
日本歴史地名大系
経て長岡の金峰神社付近に移転したが、般若院と供僧は同地にとどまったという。瑞麟寺の焼失後、長尾景虎(上杉謙信)は谷地に常安寺を建立。その後、般若院とその寺領を寄 ...
39. 秋山記行・夜職草 223ページ
東洋文庫
なりはひ二亡父牧水居士の業、祖父儀右衛門居士の悌鈴木家の家譜によれば、初代五郎左衛門国宗は上杉謙信に仕えた武将であった。四代助右衛門(慶安二年没、五十八歳)の代 ...
40. 秋山記行・夜職草 318ページ
東洋文庫
町に生まれた。幼名を弥太郎、成人して儀三治と改め、牧之と号した。 鈴木家の先祖は家譜によると上杉謙信の臣であったが、四代のとき土着して農を営んだという。また代々 ...
41. あきやまごう【秋山郷】新潟県:中魚沼郡/津南町
日本歴史地名大系
置く市河氏の領有下にあったが、その範囲が越後国に入っていたかは不明。なお秋山闔村縁由によると、高倉山で上杉謙信に鷹を献上したことにより、一〇〇石の免除を認められ ...
42. あきよしむら【秋吉村】石川県:珠洲郡/内浦町
日本歴史地名大系
宝永二年(一七〇五)の再興棟札には瀬津目神社とある。高野山真言宗の清水寺は医王山木郎寺の結衆寺院の一という。上杉謙信の軍勢に焼かれたと伝える。宝蓮坊の跡と称され ...
43. あさかいよりいじょうあと【浅貝寄居城跡】新潟県:南魚沼郡/湯沢町/浅貝村
日本歴史地名大系
芳綱・栗林政頼宛の上杉謙信書状(栗林文書)に「信玄出張延引候間、早々浅貝江上田衆召連打越、寄居取立尤候」とあり、寄居(城塞)の構築を命じている。この頃の五月二八 ...
44. 朝倉氏
世界大百科事典
紛鎮定のために出陣し,畿内近国における後期室町幕府体制の維持に活躍。戦国末期義景に至り,当初上杉謙信と提携し加賀一向一揆との抗争を繰り返す。後,織田信長の台頭を ...
45. 朝倉義景
世界大百科事典
はじめ孫次郎延景,52年,将軍足利義輝の偏諱(へんき)を受け左衛門督義景と名のる。当初,越後の上杉謙信と攻守同盟を結び,加賀一向一揆の挟撃をもくろみ,何度も加賀 ...
46. あさひやまじょうあと【朝日山城跡】石川県:金沢市/旧河北郡地区/朝日村
日本歴史地名大系
腰郭とみられる(「金沢の古城跡」金沢市教育委員会・一九八五年)。天正元年(一五七三)と推定される八月一〇日の上杉謙信書状(中条文書)に「あさひとりつめせめ候へば ...
47. あしかがし【足利市】栃木県
日本歴史地名大系
尾氏を継ぎ、由良・長尾氏の同盟が成立、北関東の一大勢力となった。しかし天正六年(一五七八)の上杉謙信の死を契機に北条氏の圧力が強まり、同一三年一月に顕長は北条氏 ...
48. 足利義昭画像
日本大百科全書
毛利氏は信長と断交し、石山本願寺も挙兵。のち信長と義昭を頂点とする勢力とが戦い、戦略を展開する。上杉謙信の死と信長の鉄船の出現で、本願寺は敗退。信長の死後は、羽 ...
49. 足利義昭
世界大百科事典
すでに武田信玄は病没し形勢は不利であったが,義昭は悲願を捨てず六角承禎,河野牛福,武田勝頼,上杉謙信,北条氏政,徳川家康,本願寺顕如,毛利輝元,島津義久らに幕府 ...
50. あしかがよしあき【足利義昭】画像
国史大辞典
和解したものの、同三年に入ると反信長の態度を明らかにして、五月武田信玄との盟約を固くし、七月上杉謙信に信玄と講和するよう命じた。そして石山の本願寺門跡顕如・浅井 ...
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真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書(ニッポニカ))
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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伊達政宗(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一三五三 - 一四〇五 室町時代の武将。本領は陸奥国伊達郡。兵部権少輔・大膳大夫、五位下。入道して円孝と号す。文和二年(一三五三)誕生。父は伊達宗遠。夫人は石清水善法寺通清の娘(蘭庭尼)で、足利義満の母紀子と姉妹。永和三年(一三七七)
足利義昭(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三七 - 九七 室町幕府第十五代最後の将軍。一五六八―七三在職。天文六年(一五三七)十一月三日、十二代将軍義晴の次男として京都で誕生。母は近衛尚通の女。幼名未詳。同十一年十一月尚通の子稙家の猶子となり、興福寺別当一乗院門跡覚誉に入室
上杉謙信(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五三〇 - 七八 戦国時代の武将、越後国の大名。享禄三年(一五三〇)正月二十一日、越後守護代長尾為景の末子として生まれた。生年の庚寅(かのえとら)にちなんで童名を虎千代といい、元服して平三景虎と称す。天文五年(一五三六)長尾為景は
武田信玄(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一五二一 - 七三 戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が
毛利元就(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一四九七 - 一五七一 戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に
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