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  11. 井伊直弼

井伊直弼

ジャパンナレッジで閲覧できる『井伊直弼』の国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典
井伊直弼
いいなおすけ
一八一五 - 六〇
江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)などの号がある。五歳で母を失い、天保二年(一八三一)十七歳で父に死別したので、長兄の藩主直亮から三百俵を与えられ、城外の北の御屋敷に移り住んだ。同五年さる大名の養子の口があって、異母弟の直恭と江戸に出たが弟が選ばれ、翌年彦根に帰着した。江戸滞在中、『埋木舎(うもれぎのや)の記』を草し、北の御屋敷を埋木舎と名づけ、文武諸芸の修業に励んだ。居合術では奥義をきわめて一派を創立するほどの腕前となり、禅では清凉寺の仙英禅師より悟道の域に達したといわれた。石州流の茶道では、片桐宗猿について奥義をきわめて一派を立て、藩主になってから代表作『茶湯一会集』を著わした。同十三年十一月本居派の国学者長野義言(よしとき)とめぐりあい、義言と師弟の契りを結んで以来、国学の研究に没頭した。直亮の世子となっていた仲兄の直元が病死したので、弘化三年(一八四六)二月江戸に出て世子となり、十二月従四位下侍従に叙任、玄蕃頭を兼ねた。翌四年二月彦根藩は相州警備の幕命を受けたが、直弼は井伊家は京都守護の家柄と反発、爾来老中阿部正弘を快しとしなかった。嘉永三年(一八五〇)九月直亮が国許で没し、十一月二十一日遺領三十五万石を継いで十三代藩主となり、二十七日掃部頭を称した。直亮との間柄は冷たかったが、直弼は養父の遺志と称して金十五万両をあまねく領内の士民に分配し、翌四年六月初入部すると、直亮時代の弊政の一掃に着手した。同六年六月江戸から帰国した直後、米国使節ペリーが浦賀に来航したが、彦根藩は相州警備の任を果たして幕府から慰労された。ついで出府、幕府の諮問に答え、八月再度にわたり米国措置の意見書を提出したが、開国を主張する意見は、幕府参与に起用された水戸老侯徳川斉昭の意見と相容れないものであった。翌安政元年(一八五四)正月ペリーが再航すると、江戸城西湖間における斉昭と溜間詰大名との討議で、打払いを主張する斉昭と和平穏便論を唱える直弼ならびに佐倉藩主堀田正睦らとは激論し、この対立がのちの政局に大きな影響を与えた。前年十一月相州警備から羽田・大森警備に転じ、安政元年四月待望の京都守護を命ぜられた。斉昭との対立は、翌二年十月老侯の嫌悪する正睦を溜間詰から推して老中に就任させたことから抜き差しならぬものとなり、三家対溜間詰の対立へと発展していった。同四年八月出府して、米国総領事ハリスの上府に反対していた溜間詰大名の意見をくつがえし、十二月米国の要求を容れるべしとの意見を連署して幕府に提出した。このころから政治問題化した十三代将軍徳川家定の継嗣に関し、血統論を唱えて紀州慶福(よしとみ)を推し、南紀派の重鎮として、一橋慶喜(よしのぶ)を推す一橋派の福井藩主松平慶永・鹿児島藩主島津斉彬らと対立した。翌五年二月堀田正睦が条約勅許奏請のため上京すると、これに先立って長野義言を入京させて廷臣間に運動させ、関白九条尚忠を幕府支持に立たせ、内勅によって慶喜を将軍継嗣にしようとする一橋派の運動を阻止することを得たが、ついに勅許を得ることに失敗した。正睦が帰府してから三日後の四月二十三日、大老に就任。六月十九日井上清直・岩瀬忠震にハリスと日米修好通商条約に調印させたが、これに先立って反対派に違勅の罪を責められると調印の中止を諫言した宇津木六之丞に対し、兵端を開かず、国体を恥かしめないためにもその罪は甘受するといい、また二十四日の三家の押掛け登城にも動ぜず、二十五日慶福(のち将軍家茂)を将軍継嗣とする旨を公表した。朝廷より三家・大老のうち一人上京すべき勅諚が下ったが、老中間部詮勝を上京させることにし、またこの前後、京都の情勢を好転させるために、二回にわたり長野義言を上京させた。しかるに八月八日密勅が水戸藩に降下し、ついで九条関白が排斥されて辞職のやむなきに至ると、ついに義言の誇張潤色した報道に惑わされ、反対派の運動を水戸藩の陰謀と信じ、九月近藤茂左衛門・梅田雲浜の逮捕を契機に安政の大獄を断行、翌六年にかけて反対派の諸侯・有司・志士を厳罰したほか、累を宮・堂上とその家臣に及ぼしたが、条約の勅許を得るに至らなかった。大獄では水戸藩への処罰が最も厳しく、さらに同六年十二月、水戸藩に降下した密勅の返納を迫ったため、同藩激派を激昂させ、ついに万延元年(一八六〇)三月三日、水戸浪士を中心とする十八士に桜田門外で襲われて暗殺された。年四十六。井伊家では幕命によって喪を秘し、同月三十日大老を免ぜられ、閏三月三十日発喪、四月十日荏原郡世田谷の豪徳寺に埋葬。法名宗観院殿柳暁覚翁大居士。のち文久二年(一八六二)十一月幕府から安政五年以降の失政を追罰されて十万石削減された。→安政の大獄(あんせいのたいごく),→桜田門外の変(さくらだもんがいのへん),→将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)
[参考文献]
『井伊家史料』(『大日本維新史料』類纂之部)、井伊正弘編『(井伊家史料)幕末風聞探索書』、『彦根市史』中、『井伊家秘書集録』、『公用方秘録』、島田三郎『開国始末井伊掃部頭直弼伝』、中村勝麻呂『井伊大老と開港』、同『(至誠之人)井伊大老』、岩崎重英『(維新前史)桜田義挙録』、吉田常吉『井伊直弼』(『人物叢書』一一三)
(吉田 常吉)


世界大百科事典
井伊直弼
いいなおすけ
1815-60(文化12-万延1)

江戸末期の大老,彦根藩主。掃部頭と称した。1850年(嘉永3),長兄直亮の死により13代彦根藩主となった。この時期の幕政の重要問題は,開国の可否と将軍継嗣問題とであった。直弼は鎖国の維持を望んでいたが,外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上,当面は開国せざるをえないという立場に立った。53年(嘉永6)にペリーが来航した直後に,幕府の諮問にこたえて,積極的に商船を海外に派遣し国威を示すことが皇国の安泰の道であるという意見書を出し,58年(安政5)1月,老中堀田正睦(まさよし)に日米修好通商条約の調印はやむをえないという意向を伝えたのも,そのためであった。この点で攘夷論を主張し続けた徳川斉昭(なりあき)とは,意見を異にしていた。将軍継嗣問題は,1853年10月,徳川家定が13代将軍となったときから表面化した。直弼を中心とする譜代大名は,家定の継嗣として紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))を推し,斉昭は雄藩の諸大名とともに一橋慶喜を推した。両派は激しく争ったが,58年初め,斉昭らは朝廷に働きかけて継嗣を慶喜に定めるとの勅命を得ようとし,幕府の条約勅許奏請の運動を妨害した。このような情勢下に,58年4月23日,直弼は大老に就任し,6月19日には勅許を得られないままに日米修好通商条約に調印し,25日には慶福を将軍継嗣と定めた。また,これに反対した斉昭,徳川慶恕,松平慶永に謹慎を命じ,徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。8月8日,幕府の条約調印は遺憾であるという内容の勅諚が水戸藩へ下った(戊午(ぼご)の密勅)。これが前例になると幕府の存在は有名無実になると考えた直弼は,この降勅を画策した反対派の勢力に,徹底した弾圧を加えることを決意した。この弾圧が58年9月から59年10月にわたった〈安政の大獄〉である。公卿とその家臣,大名とその家臣,幕臣,尊攘派の志士など処罰者は100人をこえ,吉田松陰など7人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では,直弼への反感が強まり,60年3月3日,直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は,国学,古学,兵学,居合,茶道,和歌などにも,すぐれた才能を発揮した。とくに茶道は,石州流を学んでみずから一派を立て,著書に《茶湯一会集》《閑夜茶話》があり,茶道の号を宗観という。また歌集《柳廼四附(やなぎのしずく)》がある。
[小野 正雄] 桜田門外の変を舞台化することは江戸期には法的に禁じられていたが,河竹黙阿弥の手で,曾我の世界に脚色,雪中に曾我兄弟が祐経の乗物に近づく趣向を構え《蝶千鳥須磨組討(ちようちどりすまのくみうち)》(1863年2月,江戸市村座)として上演したが中止を命じられた。明治初年には解禁となり歌舞伎化も試みられたが,史実を劇化するには1920年7月東京歌舞伎座の《井伊大老の死》(中村吉蔵作)をまたねばならなかった。この作では社会劇的な歴史劇として,幕府崩壊期に苦悩しつつ自己の政策を断行する宰相直弼が形象化された。以下,《井伊大老》(1953年10月,東京明治座,北条秀司作)や《花の生涯》(1958年10月,東京新橋演舞場,舟橋聖一原作・北条誠脚色)などがあり,側室静の方もしくは長野主膳の愛人たか女らとともに人間的な側面をも描出したが,51年のサンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印の時代が作品の背後にあったことも見落とせない。
[小池 章太郎]

[索引語]
井伊掃部頭 将軍継嗣問題 安政の大獄 桜田門外の変 蝶千鳥須磨組討(ちようちどりすまのくみうち) 井伊大老の死 中村吉蔵 井伊大老 花の生涯


新版 日本架空伝承人名事典

井伊直弼
いいなおすけ
1815‐60(文化12‐万延1)
 江戸末期の大老、彦根藩主。掃部頭かもんのかみと称した。一八五〇年(嘉永三)、長兄直亮の死により一三代彦根藩主となった。この時期の幕政の重要問題は、開国の可否と将軍継嗣問題とであった。直弼は鎖国の維持を望んでいたが、外国と戦って鎖国を守りぬくことが不可能である以上、当面は開国せざるをえないという立場に立った。五三年(嘉永六)にペリーが来航した直後に、幕府の諮問にこたえて、積極的に商船を海外に派遣し国威を示すことが皇国の安泰の道であるという意見書を出し、五八年(安政五)一月、老中堀田正睦まさよしに日米修好通商条約の調印はやむをえないという意向を伝えたのも、そのためであった。この点で攘夷論を主張し続けた徳川斉昭なりあきとは、意見を異にしていた。将軍継嗣問題は、一八五三年一〇月、徳川家定が一三代将軍となったときから表面化した。直弼を中心とする譜代大名は、家定の継嗣として紀州藩主徳川慶福よしとみ(のち家茂いえもち)を推し、斉昭は雄藩の諸大名とともに一橋慶喜を推した。両派は激しく争ったが、五八年初め、斉昭らは朝廷に働きかけて継嗣を慶喜に定めるとの勅命を得ようとし、幕府の条約勅許奏請の運動を妨害した。このような情勢下に、五八年四月二三日、直弼は大老に就任し、六月一九日には勅許を得られないままに日米修好通商条約に調印し、二五日には慶福を将軍継嗣と定めた。また、これに反対した斉昭、徳川慶恕、松平慶永に謹慎を命じ、徳川慶篤と一橋慶喜を登城禁止とした。八月八日、幕府の条約調印は遺憾であるという内容の勅諚が水戸藩へ下った(戊午ぼごの密勅)。これが前例になると幕府の存在は有名無実になると考えた直弼は、この降勅を画策した反対派の勢力に、徹底した弾圧を加えることを決意した。この弾圧が五八年九月から五九年一〇月にわたった「安政の大獄」である。公卿とその家臣、大名とその家臣、幕臣、尊攘派の志士など処罰者は一〇〇人をこえ、吉田松陰など七人の刑死者を出した。とくに厳しい弾圧をうけた水戸藩では、直弼への反感が強まり、六〇年三月三日、直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士らに登城途中を襲撃され殺害された(桜田門外の変)。直弼は、国学、古学、兵学、居合、茶道、和歌などにも、すぐれた才能を発揮した。とくに茶道は、石州流を学んでみずから一派を立て、著書に『茶湯一会集』『閑夜茶話』があり、茶道の号を宗観という。また歌集『柳廼四附やなぎのしずく』がある。
[小野 正雄]
 桜田門外の変を舞台化することは江戸期には法的に禁じられていたが、河竹黙阿弥の手で曾我の世界に脚色、雪中に曾我兄弟が祐経の乗物に近づく趣向を構えて『蝶千鳥須磨組討ちょうちどりすまのくみうち』(一八六三年二月、江戸市村座)として上演したが中止を命じられた。明治初年に解禁となり歌舞伎化も試みられたが、史実を劇化するには一九二〇年七月東京歌舞伎座の『井伊大老の死』(中村吉蔵作)をまたねばならなかった。この作では社会劇的な歴史劇として、幕府崩壊期に苦悩しつつ自己の政策を断行する宰相直弼が形象化された。以下、『井伊大老』(一九五三年一〇月、東京明治座、北条秀司作)や『花の生涯』(一九五八年一〇月、東京新橋演舞場、舟橋聖一原作・北条誠脚色)などがあり、側室静の方や長野主膳の愛人たか女らとともに人間的な側面をも描出したが、五一年のサンフランシスコ講和条約・日米安保条約調印の時代が作品の背後にあったことも見落とせない。
[小池 章太郎]
判じもの、井伊掃部頭、下からよめば、くびをぶつぱらつてもいゐとなる。
井伊しかけ毛せんなしの雛まつり真赤に見へし桜田の雪
首ばかりとんだ噂の取沙汰もうそか誠か白雪のなか
水戸石にけつまづいたる今日の怪我人参剤も少しおそまき
第四首、「水戸石」は茨城郡木葉下あぼつけ村(現、茨城県水戸市木葉下町)の特産であった紫石(『日本産物誌』)に水戸藩浪士をかける。三月三日(雛の節供)の凶変で、井伊大老は表向き負傷との届を出したため、幕府は小納戸塩谷豊後守を上使として朝鮮人参五斤を贈ったことをからかっている(『落書類聚』より。桜田門外の変当時行われた落書)。
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1860年(万延1)正月、若年寄から老中に昇任、外国事務取扱となる。大老井伊直弼(なおすけ)のもとで、一橋(ひとつばし)派を押さえ、同年3月、井伊直弼の横死後、 ...
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41. いい-なおただ【井伊直忠】
日本人名大辞典
1881−1947 明治-昭和時代前期の華族。明治14年5月29日生まれ。井伊直弼(なおすけ)の孫。井伊直憲(なおのり)の次男。伯爵。能楽書,能衣装などの収集に ...
42. いい-なおのり【井伊直憲】
日本人名大辞典
1848−1904 幕末-明治時代の大名,華族。嘉永(かえい)元年4月20日生まれ。井伊直弼(なおすけ)の次男。桜田門外で暗殺された父のあと,万延元年近江(おう ...
43. いい-なおやす【井伊直安】
日本人名大辞典
1851−1935 幕末-昭和時代前期の大名,華族。嘉永(かえい)4年2月11日生まれ。井伊直弼(なおすけ)の3男。井伊直充(なおあつ)の養子。文久2年越後(え ...
44. いいのや【井伊谷】
国史大辞典
静岡県浜名湖の東北方、都田川の支流域にある地名。引佐郡引佐町。井伊直弼で有名な彦根藩井伊氏の故地。律令制下でいう渭伊(いい)郷はここにあたると考えられている。 ...
45. 井伊文子[琉球国最後の国王尚泰のひ孫の歌人、死去]
イミダス 2018
1917年、東京生まれ。旧琉球王家尚昌の長女。34年、女子学習院本科卒業。37年、幕末の大老井伊直弼のひ孫で、彦根市長を9期務めた故・直愛氏と結婚した。佐佐木信 ...
46. いおはら-ともよし【庵原朝儀】
日本人名大辞典
昌(ともまさ)の長男。家老庵原朝成(ともなり)の養子。嘉永(かえい)4年第二家老となり,藩主井伊直弼(なおすけ)を補佐,湖東(ことう)焼の御用掛もつとめる。直弼 ...
47. いたくら-かつきよ【板倉勝静】
日本人名大辞典
の養子。嘉永(かえい)2年備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩主板倉家7代となる。安政の大獄で井伊直弼(なおすけ)に反対して寺社奉行を罷免される。文久元年復職,2 ...
48. 一期一会
日本大百科全書
亭主ヲ敬(うやま)ヒ畏(かしこまる)ベシ」とあるのを初見とし、『南方録』の「一座一会」に継承される。さらに、井伊直弼(なおすけ)は『茶湯一会集』で「一期一会」の ...
49. 一期(いちご)一会(いちえ)
故事俗信ことわざ大辞典
千利休の言葉として見られる「一期に一度の会」が典拠とされる。幕末の大名で茶道石州流の茶人としても知られる井伊直弼は、その著を「茶湯一会集」と名付け、「一期一会」 ...
50. いなだ-じゅうぞう【稲田重蔵】
日本人名大辞典
え,のち郡奉行金子孫二郎のもとで郡吏をつとめる。安政7年3月3日金子らと江戸城桜田門外に大老井伊直弼(いい-なおすけ)を襲撃し討ち死に。47歳。名は正辰。 ...
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
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