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  11. 大隈重信

大隈重信

ジャパンナレッジで閲覧できる『大隈重信』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
大隈重信
おおくましげのぶ
一八三八 - 一九二二
明治・大正時代の政治家。天保九年(一八三八)二月十六日佐賀の会所小路に、父信保、母三井子の長男として生まれた。幼名は八太郎。大隈家は代々、佐賀藩に砲術・築城家としてつかえ、父信保も知行地四百石、物成百二十石を支給された上士であった。だが、大隈は十三歳で父を失い、それ以後はもっぱら母に育てられた。七歳で藩校弘道館外生寮(蒙養舎)に入学、十六歳で内生寮に進級したが、葉隠主義と朱子学を主とする藩校の制度に反発し、安政元年(一八五四)義祭同盟に加わり、翌年弘道館の南北寮騒動の首謀者として放校され蘭学寮に移った。のち蘭学寮が弘道館と合併されてその教官となった。文久三年(一八六三)長州藩の下関外国船砲撃にあたり長州藩援助を計画、また元治元年(一八六四)の長州征伐に際しては、藩主鍋島直正を動かして長幕間に斡旋し、それを中止させようとしたが果たせなかった。このころ、長崎でオランダ系米人宣教師フルベッキについて英学を学び、慶応元年(一八六五)五月長崎に英学塾「致遠館」を設立し、みずからその経営にあたった。こうして大隈は幕末動乱期に京都・兵庫・長崎などに赴いて尊攘激派として活躍し、同三年三月には将軍徳川慶喜に政権返還を勧告しようとして副島種臣とともに脱藩上京したが、間もなく藩役人に捕えられて佐賀へ送還、一ヵ月の謹慎処分をうけた。明治元年(一八六八)三月徴士参与職、外国事務局判事として横浜在勤を命ぜられ、キリスト教徒処分問題でイギリス公使パークスとの外交交渉にあたり、十二月外国官副知事に昇進、翌年三月会計官副知事を兼務し贋貨問題の処理にあたった。ついで大蔵大輔となり、鉄道・電信の建設、工部省の開局などに尽力し、同三年九月参議に任ぜられ、六年五月大蔵省事務総裁ついで大蔵卿となり、十一年五月地租改正事務局総裁を兼任、十三年二月参議専任となった。この間征韓論に反対し、七年の台湾出兵で蕃地事務局長官、十年の西南戦争では征討費総理事務局長官となり、大久保政権の一翼として財政問題を担当、秩禄処分・地租改正などの改革の推進者となり、また殖産興業政策を進め、いわゆる大隈財政を展開して近代産業の発展に貢献した。特にこのとき岩崎弥太郎の三菱汽船会社を援助し、後年までの三菱との密接な関係の基礎をつくったことは有名である。十四年三月「国会開設奏議」を提出して政党内閣制と国会の即時開設を主張、また開拓使官有物払下げに反対、さらに財政上の不手ぎわも加わって薩長勢力と衝突し、十月参議を免ぜられ、大隈派とみられた多数の官吏も辞職した(明治十四年の政変)。政変後大隈は、小野梓(あずさ)・矢野文雄ら辞職官吏と政党組織をすすめ、翌年四月立憲改進党を結成して総理となり、十月に東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立した。二十年五月伯爵を授けられ、二十一年二月伊藤内閣の外務大臣となり、ついで、黒田内閣で条約改正交渉にあたったが、外人裁判官任用問題で激しい反対にあい、二十二年十月玄洋社員来島恒喜に爆弾を投ぜられて負傷し辞職した。その後枢密顧問官となったが、二十四年十一月自由党総理板垣退助と提携したため免官された。二十九年三月改進党を中心に小政党を合併して進歩党を結成し党首となり、まもなく薩派と提携して松方内閣の外務大臣となり(松隈内閣)、翌年三月農商務大臣を兼任したが、薩派と合わず十一月に辞職した。三十一年六月、多年の宿敵板垣とともに自由・進歩両党を合同させて憲政党を組織、ついでわが国最初の政党内閣(隈板内閣)を組織したが、両党派の対立と閣内統一に苦しみ、わずか四ヵ月にして憲政党は憲政党(自由党派)と憲政本党(改進党派)に分裂し、隈板内閣も総辞職した。そののち大隈は憲政本党総理としてなお政党を率いたが、四十年一月に高齢のゆえをもっていったん政界から引退し、四月に早稲田大学総長に就任した。このあとしばらくの間、「文明協会」を設立し、『新日本』『大観』などの雑誌を発行し、また多数の著書を著わし各地で講演会・演説会を開いて国民文化の向上につとめた。ついで大正初年の第一次護憲運動が起ると再び政界にもどり、立憲同志会の援助のもとに大正三年(一九一四)四月第二次大隈内閣を組織し内務大臣を兼任、第一次世界大戦に参戦し、また翌四年には対華二十一箇条要求を提出し、陸海軍備の拡大につとめた。同年八月内閣を改造し外務大臣を兼任し翌年七月侯爵に叙せられたが、十月総辞職し、完全に政界から離れた。大隈はきわめて磊落(らいらく)かつ楽天家であり、そのため「民衆政治家」と呼ばれて人々に親しまれたが、他方「早稲田の大風呂敷」などと悪口もされた。大正十一年一月十日胆石症のため早稲田の自宅で死去した。八十五歳。十七日に日比谷公園で国民葬が催され、音羽(文京区大塚)の護国寺に葬られた。著書に『開国五十年史』『開国大勢史』『大勢を達観せよ』『国民読本』『東西文明の調和』『大隈伯昔日譚』などがある。
[参考文献]
早稲田大学社会科学研究所編『大隈文書』、大隈侯八十五年史編纂会編『大隈侯八十五年史』、渡辺幾治郎『大隈重信』、同『文書より観たる大隈重信侯』、中村尚美『大隈重信』(『人物叢書』七六)、柳田泉『明治文明史における大隈重信』
(中村 尚美)


世界大百科事典
大隈重信
おおくましげのぶ
1838-1922(天保9-大正11)

明治維新から大正期にかけて,財政・外交にすぐれた手腕を発揮した政治家。佐賀藩の上級士族の家に生まれ,幼少から藩校弘道館で漢学を学び,のち蘭学に移り,ついで長崎に遊学してアメリカ人フルベッキについて英学を学び世界的な視野を開いた。幕末の政局で,彼は尊攘派として長州藩の外国船砲撃事件(1863)を支持し,1867年(慶応3)には脱藩上京して徳川慶喜に政権返還を説こうとしたが捕らえられ,王政復古のときも藩主に討幕出陣を勧めたが入れられなかった。68年(明治1)新政府の成立と同時に徴士参与職として外国事務局判事となり,キリスト教徒処分,贋貨処分などの外交を担当した。このあと外国官副知事,会計官副知事,民部大輔,大蔵大輔,大蔵省事務総裁,地租改正事務局総裁,大蔵卿,参議などを歴任し,鉄道・電信の建設,工部省の設立や幣制改革,地租改正,秩禄処分などを主宰し,1881年(明治14)までいわゆる〈大隈財政〉を展開した。また,三菱汽船会社を助成し,三菱財閥との関係を深めた。しかし同年国会即時開設論を主張し,開拓使官有物払下げに反対して自由民権派と通じているとみられ,薩長藩閥と衝突し,多数の大隈派官吏とともに辞職した(明治14年の政変)。82年4月小野梓,矢野文雄らと立憲改進党を組織して党首となり,藩閥政府に対立する民党の首領となるかたわら,10月に東京専門学校(現,早稲田大学)を創立して在野の教育運動を開始した。88年外務大臣となり条約改正にあたったが国権論者に反対され,翌年排外主義者による爆弾事件で右脚を失い,辞職した。96年進歩党を結成して党首となり,第2次松方正義内閣の外務大臣となったが,98年6月に板垣退助と憲政党を結成して日本最初の政党内閣(隈板内閣)を組織した。しかしこの内閣は,薩長藩閥ならびに官僚グループの抵抗と党内の自由,進歩両派の対立から,みるべき政策を展開することなく10月に瓦解した。1907年に党首を辞して早大総長となり,著述や講演などの文化活動を続けた。第1次護憲運動後の14年立憲同志会を与党として第2次大隈内閣を組織した。この内閣は,成立後まもなく第1次世界大戦への参戦を決め,翌年中国に二十一ヵ条を要求するなど,日本を軍国主義と中国侵略へ導く役割を演じて16年10月辞職した。葬儀は国民葬として行われた。
[中村 尚美]

[索引語]
フルベッキ,G.H.F. 大隈財政 明治14年の政変 立憲改進党 東京専門学校 進歩党(日本) 憲政党 隈板内閣
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10. 『大隈重信関係文書』
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16. 青木周蔵画像
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23. アカデミー
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安政三年(一八五六)イギリス商人オルトから大量の注文を受け、茶の輸出が増大していった。これで富を得た慶は大隈重信・松方正義・陸奥宗光らに経済支援を行った。その屋 ...
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り、同二十三年衆議院議員に当選、二十五年第二回総選挙に落選し以後政界を退く。他方卒業とともに大隈重信創立の東京専門学校教師となり、大正六年(一九一七)十月早稲田 ...
28. あめみやけいじろう【雨宮敬次郎】
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34. アーネスト・サトウ 神道論 263ページ
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37. いいだまちいつちようめ【飯田町一丁目】東京都:千代田区/旧麹町区地区地図
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41. 伊集院彦吉[文献目録]
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臣となった。三十一年六月自由党が進歩党と合同して憲政党となり、第三次伊藤内閣が総辞職すると、大隈重信・板垣退助に組閣の大命が下り、同月三十日隈板内閣が成立し、板 ...
44. 板垣退助[文献目録]
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1900年(明治33)貴族院議員に勅選され、法制局長官、内務次官などを歴任。1914年(大正3)第二次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣の文部大臣、翌年内務大臣と ...
46. 一木喜徳郎
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第1次桂太郎内閣の法制局長官,第2次桂内閣で内務次官に就任。この間貴族院勅選議員。その後,第2次大隈重信内閣の文相,内相を歴任し,17年から枢密顧問官。日本の地 ...
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ばら)(現、阿賀野(あがの)市)に生まれる。本名謙吉。1881年(明治14)東京大学を中退、大隈重信(おおくましげのぶ)の傘下に入り、改進党や東京専門学校(早稲 ...
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年来の懸案たる地租増徴をもはや不可避とする情勢にあった。ここに伊藤首相は議会対策の上から、板垣退助と大隈重信の入閣による自由・改進両党の支持、挙国態勢の構築を試 ...
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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