という。通称は与五郎・伝蔵・勘解由。字は在中または済美。白石はその号。ほかに紫陽・錦屏山人・天爵堂・勿斎などとも号した。明暦三年(一六五七)二月十日江戸に生まる。白石の祖父は勘解由と称し、常陸国下妻城主多賀谷宣家に仕えたが、関ヶ原の戦の後、主家とともに所領を失い、以後旧領の地に牢人生活をすごして、慶長十四年(一六〇九)に死去した。白石の父正済(まさなり)はその四男で、九歳の時父に死別し、かつて新井家の召使であった豪農に養われたが、十三歳の時はじめて養子の事実を知りこれを恥じて江戸に出奔した。その後、当時流行のかぶき者のような生活を送り、東奔西走、居所定まらなかったが、三十一歳の時、上総国久留里の城主土屋利直に仕えてその信任を得、目付の職を務めた。白石も幼時から利直にかわいがられ、常に側近く召し使われた。しかし利直の晩年、継嗣をめぐって藩に内紛が生じ、延宝三年(一六七五)利直が死去して頼直の代になると、白石父子もその争いにまきこまれ、同五年白石二十一歳の時、ついに父子ともに土屋家を追われ、他家への奉公も禁ぜられた。その後、豪商角倉了仁や河村瑞賢から縁組の話があったが、白石はこれに応ぜず、父がかつて養子とした相馬藩士郡司正信から仕送りを受けて、浪人生活をした。やがて同七年土屋家が廃絶されたので他家へ仕官も可能となり、天和二年(一六八二)、時の大老堀田正俊に仕えた。しかし貞享元年(一六八四)正俊が殺されて後、堀田家は将軍綱吉に冷遇されるようになり、経済的にも苦しい状態に陥ったので、元禄四年(一六九一)白石は堀田家を去り、再び浪人生活に入った。かれは幼時から学問にすぐれた才能を示したが、青年時代まではほとんど独学ですごした。貞享三年(一六八六)三十歳のころから木下順庵の門に入り、やがてその高弟として木門の五先生または十哲の一人に数えられるに至った。堀田家を去った後、順庵はかれを金沢藩に推薦しようとしたが、白石は同国出身の岡島石梁にその職を譲った。これはかれの友情を示す話として名高い。元禄六年(一六九三)の冬、順庵の推挙により、甲府藩主徳川綱豊(のちの六代将軍家宣)の侍講となり、宝永元年(一七〇四)家宣が五代将軍綱吉の世子として江戸城西ノ丸に入ると、かれも寄合に列せられた。同六年家宣が将軍となってからは、その篤い信任のもとに幕府政治上に積極的な発言をし、前代以来の弊政の改善につとめた。正徳元年(一七一一)には従五位下筑後守に叙任し、武蔵国埼玉郡、相模国鎌倉・高座二郡において一千石を領した。同二年家宣が死去し、その子家継が将軍となって後も、側用人間部詮房とともに政治に力を尽くしたが、享保元年(一七一六)吉宗が将軍となると政治上の地位を失った。その後は不遇のうちに著述にはげんだが、同十年五月十九日六十九歳をもって死去した。法名慈清院殿釈浄覚大居士。墓はもと東京都浅草報恩寺にあったが、今は中野区上高田の高徳寺に移されている。白石は上に立つ為政者がまずみずから高い徳を身につけ、道に則った政治を率先して行うことこそ幕府長久の安定を得る根本だとの信念のもとに、将軍家宣が堯舜のような理想的君主となることを念願して講義をした。その回数は十九年間に千二百九十九日に及んだという。そうして礼楽の振興に力を尽くし、仁愛の精神をもって人民に臨むことを主張した。しかしその政治論はあまりに高遠な理想主義であり、しかもかれ自身圭角の多い人物で、反対意見に対しては妥協することなく徹底的に論破したので、老中などからも「鬼」の異名をうけて忌みきらわれ、やがて間部詮房とともに孤立の状態に陥ってしまい、失意のうちに晩年をおくらざるをえなかった。かれは朱子学派の系統に属するが、当時の多くの儒者がもっぱら漢籍上の知識をもつにとどまったのに対し、かれは日本の文献についても強い関心と豊かな知識をもち、これに合理的、実証的態度で臨み、広い領域にわたって独自の見解を表明している。その中でも特に力を注いだのは日本史についての論述であった。家宣への進講案をまとめたものとして、各大名の家の事績を系譜的に述べた『藩翰譜』、摂関政治の創始からの政権の移行をたどり、政治の得失に論評を加えつつ、家康制覇の由来を説いた『読史余論』がある。古代史については、神話に合理的解釈を試み、その中に含まれる歴史的事情を究明しようとした『古史通』があり、さらに『史疑』を著わし、六国史の文献批判を行なったが、これは現在ほとんど伝わっていない。かれの歴史研究は幕政の当面する課題の解決にも活用された。たとえば『本朝宝貨通用事略』はわが国の金銀産出の起源から説きおこして、貿易による宝貨の海外流出の損害を論じ、これが正徳五年(一七一五)の長崎貿易制限の新令の一つの論拠となっている。また礼楽振興のためには、『武家官位装束考』その他、制度史・有職故実に関する考証的著述も少なくない。地誌編著においてもかれは先駆者である。ことにローマ人宣教師シドッチを訊問して得た知識に基づいて著わした『西洋紀聞』『采覧異言』は、鎖国時代において世界の事情を紹介した著述として最も早期のものの一つである。しかもその中において、ヨーロッパの宗教・道徳の価値を否定する一方、その知識・技術の優秀性を認めた態度は、その後長く日本人がヨーロッパ文化に対していだいた観念の起源をなすものであった。また蝦夷地・琉球についての最初のまとまった地誌として、『蝦夷志』『南島志』『琉球国事略』を著わしている。言語・文字の研究においては、『東雅』で広範囲に国語の名詞を集めて、その語源とその後の変遷を考証し、『東音譜』では五十音を表わす漢字について、わが国と当時の中国諸地域とを比較し、『同文通考』では漢字の起源ならびにわが国における神代文字・仮名・国字・俗字などについて述べている。かれはまた漢詩文にもすぐれ、木下順庵に認められたのも、山形へ旅行した時の紀行文によるという。若いころには俳諧を好んだが、堀田家に仕えるころ、学者は漢詩文を工夫すべきだとしてやめた。しかしかれの著書は、その内容とともに、すぐれた和文によって叙述されたものが多いところにその特色がある。かれが幕政上の地位を退いてから著わした『折たく柴の記』は、当時を考える史料としても貴重であり、自叙伝文学としても高く評価されているが、またかれの和文の代表作の一つでもある。『新井白石全集』全六巻がある。→折たく柴の記(おりたくしばのき)江戸中期の儒学者,政治家。白石は号。名は君美(きんみ)。通称は与五郎,伝蔵,勘解由。字は在中,済美。ほかに紫陽,錦屛山人,天爵堂など。新井家はもと常陸国下妻城主多賀谷氏に仕えたが,関ヶ原の戦の後,主家とともに所領を失う。父正済(まさなり)は江戸へ出奔し,当時流行のかぶき者のような生活を送った。やがて上総国久留里土屋利直に仕え,信任を得て目付を務めたが,お家騒動にまきこまれ,1677年(延宝5)父子ともに土屋家を追い出され,他家への奉公も禁ぜられた。牢人中豪商角倉了仁や河村瑞賢から縁組の話があったが,白石はこれに応ぜず,土屋家が断絶して他家へ仕官も可能となったので,82年(天和2)大老堀田正俊に仕えた。正俊の死後,91年(元禄4)堀田家を去り,再び牢人生活に入った。彼は青年時代まで独学ですごしてきたが,1686年(貞享3)木下順庵に入門し,高弟として木門の五先生または十哲の一人に数えられるに至った。93年順庵の推挙により甲府藩主徳川綱豊(6代将軍徳川家宣)の侍講となり,1704年(宝永1)家宣が叔父5代将軍綱吉の養子となったとき,彼も幕臣として寄合に列せられた。09年家宣が将軍となると,その厚い信任のもとに幕府政治に発言の場を得,幕政の改善につとめた。彼は家宣を中国古代の聖人のような理想的君主にしようと講義につとめ,政治上の実践として礼楽振興に力を尽くし,仁愛の精神をもって人民に臨むことを主張した。11年(正徳1)従五位下筑後守に叙任,知行地1000石を与えられた。翌12年家宣の死後も側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに幼将軍家継を補佐し,通貨改良,貿易制限,司法改革などに努力した。その活躍の時期は〈正徳の治〉とも称される。しかし彼の政治論はあまり理想にすぎ,彼の性格は圭角多く他人と妥協するところがなかったので,しだいに間部詮房とともに孤立の状態となり,16年(享保1)吉宗が将軍となると政治上の地位を失い,晩年は不遇の中に著述にはげんだ。
白石は朱子学派に属するが,漢籍ばかりでなく日本の文献にも豊かな知識をもち,それに合理的・実証的見解を加えたところに独自性がある。歴史では各大名家の事跡を系譜的に述べた《藩翰譜》,摂関政治から家康制覇に至る間の政治の変転を論じた《読史余論》,神話に合理的解釈を試みた《古史通》があり,地誌には蝦夷地,琉球の最初の地誌というべき《蝦夷志》《南島志》《琉球国事略》のほか,イタリア人宣教師シドッチの尋問によって得た知識に基づく《西洋紀聞》《采覧異言》は,鎖国下に世界事情を紹介した著書として早期に属する。彼は言語・文字の研究でも先駆者で,《東雅》は国語の名詞の語源とその変遷の考証,《東音譜》は五十音の音韻の研究,《同文通考》は漢字の起源と日本の神代文字,かな,国字などを論じた著述である。白石の文章はとくに和文の叙述に特色があり,その代表作というべき自叙伝《折たく柴の記》は,また同時代の幕政その他についての貴重な史料でもある。25年5月19日死去,墓は浅草の報恩寺にあったが,現在は中野上高田の高徳寺に移されている。
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