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  11. 田沼意次
日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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日本大百科全書(ニッポニカ)
田沼意次
たぬまおきつぐ
[1719―1788]

江戸中期の老中。遠江(とおとうみ)国(静岡県)相良(さがら)城主。幼名は竜助。主殿頭(とのものかみ)と称す。享保(きょうほう)4年田沼意行(おきゆき)の嫡男として江戸に生まれる。意行は、紀州徳川吉宗(よしむね)の青年時代から近侍、吉宗の徳川宗家(そうけ)継統に際して随従した新参の旗本(小姓(こしょう)→小納戸頭取(こなんどとうどり)となる)。意次は1734年(享保19)に世子家重(いえしげ)付きの小姓を振り出しに、家重が徳川9代将軍となると、彼が隠退するまでその側近として勤仕、昇進した。51年(宝暦1)御用取次となり、58年加増され1万石となって大名に列した。翌々年10代将軍家治(いえはる)に代替わりしたが、意次はとくに前代の「またうと(全人=正直な人)のもの」だから、ゆくゆく目をかけて用いよとの遺言で、むしろ家治の代に目覚ましく出世した。67年(明和4)側用人(そばようにん)に昇進、遠江国相良城主(2万石)となる。ついで老中格となって初めて表役人として正規の幕閣首脳の一員となり、72年(安永1)本丸老中=加判に列した。表役人となっても依然として奥兼帯(けんたい)だったので、側用人の役割を老中になっても保持していたことになる。しかも家治代にはしばしばの加増で5万7000石になった。意次の出世ぶりは目を見張るものがあり、とくに嫡男の意知(おきとも)が83年(天明3)若年寄となり父子相並んで幕閣首脳に列したとき、世間では飛ぶ鳥を落とす勢いと評したが、意次昇進の道はすぐ先任の大岡忠光(ただみつ)、板倉勝清によって前例がつくられており、その延長線上に意次の栄達があって、いうなれば宝暦(ほうれき)期(1751~64)以後の幕府の側近政治がもたらした結果だった。
 普通、田沼意次の政治というと賄賂(わいろ)公行=汚職政治の代名詞のように認識される傾向がある。確かに意次の行動の軌跡には明白な痕跡(こんせき)をとどめているとはいえよう。しかし彼に関する悪評の多くは、田沼没落後の噂(うわさ)話というだけでなく、失脚に追い込んだ反田沼派による儒教的批判に基づいた評価でもあった。田沼政権の多くに結び付けられた当代の経済政策の大半は、田沼よりも、むしろ前任老中だった松平武元(たけちか)(上州館林(たてばやし)藩主)の主導下に実施されたものだったように、すべて田沼に連結させる理解は歴史的に正しくない。しかし松平武元没後の田沼全盛期の天明(てんめい)年間(1781~89)になると賄賂が公行して幕政に作用したようで、このころになると封建支配層はじめ広く社会的に反田沼の空気が醸成された。1786年(天明6)8月、将軍家治の死を契機に突如意次は老中を失脚して幕府を追われ、二度の処罰(隠居謹慎、家督は孫の意明(おきあき)継承、1万石に減封、相良城地破却、陸奥(むつ)下村に移封)を受け、天明8年7月24日失意のうちに江戸で死に、駒込(こまごめ)勝林寺に葬られた。
[山田忠雄]



世界大百科事典
田沼意次
たぬまおきつぐ
1719-88(享保4-天明8)

江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意次は西丸御小姓を経て,1751年(宝暦1)将軍家重の御側衆,58年1万石を与えられて大名となり,62年に5000石加増,67年(明和4)側御用人となって知行2万石に加増され遠江相良に築城,69年には老中格(知行2万5000石),72年(安永1)老中,知行高も漸増した。83年(天明3)若年寄となった子の意知が,翌年佐野政言(まさこと)に江戸城中で傷つけられて死ぬという事件が起きたが,意次は85年には5万7000石になり,権勢をふるった。しかし86年,将軍家治の死を機に閏10月,意次は差控を命ぜられ,87年相良城も没収されて,孫意明がわずかに1万石の領主として家名を継ぐことを認められた。失脚した意次は失意のうちに,翌年死んだ。

 意次が幕政の指導者として活躍した時代を田沼時代といい,1760年それまで実権を握っていた大岡忠光の死に始まり,失脚に至るまでの27年間をさす。この間の意次を中心とした政治は,幕政史の中でも特異な性格をもっていた。在株の設定や改印制度,絹糸貫目改所の設置,座・株仲間の増設などによって,展開しつつある商品生産・流通の編成にのり出し,西宮・兵庫などの収公,信州中馬(ちゆうま)裁許,過米切手売買禁止,大坂御用金賦課,御貸付会所の設置などによって,幕府財政を中心においた領主財政の救済をはかった。貿易においても銅座や俵物役所をつくって金銀の輸入につとめ,また蝦夷地の開発なども計画した。これらの積極政策によって田沼政治は評価されるが,そのことは反面において,権力と商人資本との密着した関係を強めるとともに,一般民衆の生活基盤を脆弱にし,自然災害への抵抗力をいちじるしく弱めた。また,本来の幕政の方針を踏襲すべきだという幕府内外の保守層の反感をも強め,田沼政治それ自体が政治の理論的基礎や理念をもたなかったことが,田沼政治の崩壊を結果した。
[佐々木 潤之介]

[索引語]
田沼時代
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1. 田沼意次
日本大百科全書
いうなれば宝暦(ほうれき)期(1751~64)以後の幕府の側近政治がもたらした結果だった。 普通、田沼意次の政治というと賄賂(わいろ)公行=汚職政治の代名詞のよ ...
2. 田沼意次
世界大百科事典
1719-88(享保4-天明8) 江戸幕府の側用人,老中。父の意行は紀伊徳川家の足軽であったが,徳川吉宗が紀伊から将軍になるとともに江戸に移って旗本となった。意 ...
3. たぬま‐おきつぐ【田沼意次】
日本国語大辞典
江戸中期の幕政家。遠江相良(とおとうみさがら)藩主。幼名龍助。九代将軍家重の小姓から明和四年(一七六七)一〇代将軍家治の側用人、安永元年(一七七二)老中となる。 ...
4. たぬまおきつぐ【田沼意次】
国史大辞典
収)、同「田沼意次に関する従来の史料の信憑性について―田沼時代再検討のため―」(『日本歴史』二三七)、山田忠雄「田沼意次の政権独占をめぐって」(『史学』四四ノ三 ...
5. 田沼意次
日本史年表
1747年〈延享4 丁卯〉 9・15 幕府、 田沼意次 を小性組番頭格とする(実紀)。 1758年〈宝暦8 戊寅〉 9・3 幕府、側衆 田沼意次 を大名に列し、 ...
6. たぬま-おきつぐ【田沼意次】
日本人名大辞典
1719−1788 江戸時代中期の大名。享保(きょうほう)4年生まれ。9代徳川家重(いえしげ),10代家治(いえはる)の両将軍のもとで,小姓から側用人,老中とな ...
7. 田沼意次[文献目録]
日本人物文献目録
『近世日本の経世家』野村兼太郎『徳川吉宗と田沼意次』津田秀夫『乱世の歴史像』高橋磌一『江戸幕府その実力者たち 』北島正元『田沼意次』辻善之助『田沼意次』富岡金次 ...
8. 田沼意次差扣 (見出し語:田沼意次)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 595ページ ...
9. 田沼意次爲系圖 (見出し語:田沼意次)
古事類苑
姓名部 洋巻 第1巻 417ページ ...
10. 田沼意次被隱居 (見出し語:田沼意次)
古事類苑
法律部 洋巻 第2巻 579ページ ...
11. あかい-ただあきら【赤井忠〓
日本人名大辞典
江戸時代中期の武士。享保(きょうほう)12年生まれ。天明2年京都町奉行から勘定奉行となり,老中田沼意次(おきつぐ)のもとで財務を担当。田沼の失脚とともに西丸留守 ...
12. 赤蝦夷風説考
世界大百科事典
1783年(天明3)老中田沼意次に献上された。その結果,田沼は蝦夷地開発を計画し,調査隊を派遣したが,彼の失脚によりこの計画は中止された。佐藤 昌介 工藤平助  ...
13. 秋山記行・夜職草 228ページ
東洋文庫
き松平越中守松平定信(一七五八i一八二九)。奥州白河藩主、隠居後白河楽翁と号す。田安宗武三男。田沼意次のあとをうけて老中となり、いわゆる寛政の改革、異学の禁など ...
14. あきやまこへえ【秋山小兵衛】
日本架空伝承人名事典
江戸四谷仲町に道場を開いて門人を厳しく指導する一方で、諸大名や大身の旗本と親しく交流し、特に田沼意次とは昵懇の仲。五七歳頃で道場を閉じて大川(隅田川)沿いの鐘ヶ ...
15. あにこうざん【阿仁鉱山】秋田県:北秋田郡/阿仁町
日本歴史地名大系
に定められ、五三パーセントを占めた。明和元年(一七六四)幕府から阿仁銅山上知令が出されたが、田沼意次を介してその撤回を交渉し、一ヵ月後廻銅定額を一〇〇万斤に切り ...
16. いずしちとうしまかいしょ【伊豆七島島会所】
国史大辞典
この計画は産物の一部を会所で取り扱い、産物売上代金一両につき銀一匁を冥加金として上納させるのにとどまり、田沼意次の失脚もあって結局は失敗に終っている。松平定信も ...
17. いずしよとう【伊豆諸島】東京都:総論地図
日本歴史地名大系
れた。島問屋は島の困窮時には金銭・食糧を貸すなどして連携を強め、島の産物を独占販売した。老中田沼意次は、伊豆諸島物産の専売により島々の困窮を救い、幕府の扶持米負 ...
18. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
藩主牧野貞長の所領が設けられ、天明元年(一七八一)南・日根両郡一五ヵ村約一万石が、ときの老中田沼意次の所領となり、同七年までその支配が続いている。天保(一八三〇 ...
19. いなば-まさあき【稲葉正明】
日本人名大辞典
親(まさちか)の3男。兄正福(まさとみ)のあと稲葉正員(まさかず)系の分家3000石を相続。田沼意次(おきつぐ)のもとで側御用取次(そばごようとりつぎ)となる。 ...
20. いなば-まさたけ【稲葉正武】
日本人名大辞典
1769−1840 江戸時代後期の大名。明和6年4月生まれ。稲葉正明の4男。天明6年田沼意次(おきつぐ)の失脚により,父の罷免に連座して処罰をうけたが,のち赦免 ...
21. いわみのくに【石見国】島根県
日本歴史地名大系
間が後期松平周防守時代である。松平康福は宝暦一二年江戸城西の丸老中、次いで本丸老中へ昇進し、田沼意次とともに幕閣の中枢を占めた。天明五年(一七八五)二月一万石の ...
22. 印子金
世界大百科事典
った。これとともに銀も輸入され,これらの金銀は貨幣改鋳の素材とされたが,この金銀輸入政策は,田沼意次の積極政策として高く評価されている。佐々木 潤之介 ...
23. 印旛沼画像
日本大百科全書
そこで印旛沼には逆デルタの形成をみ、水田冠水の害も出た。そのため数次にわたって干拓が進められ、とくに田沼意次(たぬまおきつぐ)、水野忠邦(ただくに)ら幕府の要人 ...
24. 印旛沼
世界大百科事典
,請負人,出資人の資金が不足して中断された。第2回目は,大規模な殖産興業政策を採っていた老中田沼意次の手で着手された。新田開発,治水,水運を目的に,82年(天明 ...
25. いんばぬま【印旛沼】千葉県:印旛郡地図
日本歴史地名大系
印旛郡惣深新田(現印西市)名主平左衛門、千葉郡島田村(現八千代市)名主次郎兵衛に立案させ、老中田沼意次の音頭取で実施されたものであるが、田沼の失脚後宮村は遠流と ...
26. いんばぬまかんたく【印旛沼干拓】
国史大辞典
工事意のごとく進捗せず源右衛門をはじめ倒産する者多くついに挫折した。ついで安永元年(一七七二)田沼意次が老中となるや再び開疏を計画した。すなわち天明二年(一七八 ...
27. うえざき-くはちろう【植崎九八郎】
日本人名大辞典
江戸時代中期-後期の武士。宝暦6年生まれ。幕臣で小普請組。天明7年老中となった松平定信に上書を提出し,前老中の田沼意次(おきつぐ)への批判と政治・経済改革を建言 ...
28. 植崎九八郎上書
日本大百科全書
もっていた幕臣の立場から、政治の刷新を期待し、改革政治の課題を率直に論じている。すなわち前代の老中田沼意次(おきつぐ)の政治を痛烈に批判し、年貢負担の軽減、綱紀 ...
29. うえざきくはちろうじょうしょ【植崎九八郎上書】
国史大辞典
意見書。天明七年(一七八七)七月付となっている。松平定信の老中就任の直後に書かれたこの書は、田沼意次のもとで志を伸ばすことのできなかった幕臣の立場から、寛政の改 ...
30. うりごうむら【瓜郷村】愛知県:豊橋市
日本歴史地名大系
あったが、村高は本村下五井と合計高になったものが多い。安永元年(一七七二)から同三年まで一時田沼意次が領有したが、他は吉田藩領であった。村域内に曹洞宗、通月山満 ...
31. うるつぷとう【ウルップ島】北海道:総論
日本歴史地名大系
派遣してラッコ猟を再開したのはそれから二〇年も後のことであった。日本人が初めてこの島を調査したのは、老中田沼意次が幕吏たちを蝦夷地調査に派遣した一七八六年(天明 ...
32. 蝦夷拾遺[文献解題]北海道
日本歴史地名大系
公文書館内閣文庫 解説 天明五―六年に、蝦夷地奥地におけるロシア人との抜荷の噂を知った老中田沼意次によって蝦夷地調査に派遣された勘定奉行配下の幕吏たちが、田沼 ...
33. えぞち【蝦夷地】画像
国史大辞典
彼らはわが国と交易を望んでいるから、これに応じて国を富ますべきことを論じ、天明三年これを幕府に提出した。老中田沼意次はこれに興味を持ち、同五年調査のため、普請役 ...
34. えぞちいっけん【蝦夷地一件】
国史大辞典
捉(えとろふ)・国後(くなしり)島方面と樺太方面の二手に分かれて探検したが、同六年十月、老中田沼意次失脚の政変に伴ってこの事業も中止された。しかしこの調査によっ ...
35. 江戸参府紀行 316ページ
東洋文庫
用部屋政治は再び側用人政治に移り、一〇代家治の時代に至って軽輩から身をおこして側用人となった田沼意次(一七一九-八八)が政治の実権を握り、いわゆる「田沼時代」と ...
36. 江戸参府随行記 370ページ
東洋文庫
油、これを広き池水の内に点ずれば散って満池に及ぶとや」というように、蘭学は盛んになった。世は田沼意次が老中の時代で、自由闊達な時代であり、新たな学問への意欲は盛 ...
37. 江戸時代(年表)
日本大百科全書
東海の天領を巡察。年貢増徴1749(寛延2)5月 定免法を全面的に施行する1751(宝暦1)田沼意次側衆となる(田沼政治の時代。~1786)1754(宝暦4)8 ...
38. えどてんめいしちねんうちこわし【江戸天明七年打毀】
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一の収納成よし」(『後見草』)という丙午年の飢饉と重なって、九月には将軍徳川家治の急死と老中田沼意次の失脚という政情不安、しかも同年の諸国人別改では安永九年(一 ...
39. 江戸繁昌記 3 150ページ
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お化けのようにならないほうが、かえって怪しい (五)米符米寿(八八歳のお祝)のお札(六)田沼侯田沼意次。もと紀州侯の臣。将軍家重および家治の寵を受け、遠州相良の ...
40. おうみや-さへいじ【近江屋佐平次】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代中期の商人。田沼意次(おきつぐ)が側用人・老中をつとめた時代(1767-86)の十八大通のひとりで,札差。江戸天王町一番組に属して浅草にすむ。茶 ...
41. おおいし-しんざぶろう【大石慎三郎】
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物館長。平成16年5月10日死去。80歳。愛媛県出身。東大卒。著作に「享保改革の経済政策」「田沼意次(おきつぐ)の時代」など。 ...
42. おおえはちまんぐう【大江八幡宮】静岡県:榛原郡/相良町/海老江村
日本歴史地名大系
相良社」と記されている。享保三年(一七一八)相良藩二代藩主本多忠通は本殿・拝殿を再建。また相良藩主田沼意次は当宮を厚く崇敬し氏神と定め、宝暦一〇年(一七六〇)神 ...
43. おおおかただみつ【大岡忠光】
国史大辞典
関係にあった。しかし忠光の人柄は恭謙ではあったが賄賂を拒まず、官職周旋の問屋といわれ、次代の田沼意次への過渡的存在であったといえよう。宝暦十年四月二十六日没。五 ...
44. 大奥画像
世界大百科事典
うに,表の政治に介入することは厳禁されていたが,実際には影響を及ぼしたことも少なくなかった。田沼意次が将軍家治の側妾津田氏と結んで大奥を操縦し,家斉の大御所時代 ...
45. おおおく【大奥】画像
国史大辞典
大奥が表の政治に介入することは厳に禁止されていたが、実際には影響を及ぼしたことも少なくなかった。田沼意次が縁故を頼って将軍家治の側妾津田氏と結び、奥女中に賄賂を ...
46. おおさかさんごう【大坂三郷】大阪府:大阪市
日本歴史地名大系
「役ニ立タヌモノハ救ハヌ」(稽古談)といった傾向に陥る問題も含んでいた。〔株仲間の強化〕享保改革から田沼意次の時代にかけては商業組織が認められ株仲間が公認された ...
47. おおはまはん【大浜藩】
国史大辞典
五千石を加えられて一万三千石を領した際、三河国碧海郡大浜(愛知県碧南市)を本拠とした。忠友は田沼意次とむすんで異例の昇進をつづけていたもので、安永六年(一七七七 ...
48. おき
日本国語大辞典
九アゴナイ、十ヒン。つまり十銭がヤリ貫、五円がシズカ両」田沼意次(おきつぐ)の紋所七曜によっていう。寄席芸人の符丁では、タヌマ、ヌマという。 ...
49. おのさとむら【男里村】大阪府:泉南市地図
日本歴史地名大系
、高一千一一石余。岸和田藩領と幕府領の相給地として続くが、天明元年(一七八一)から遠江相良藩田沼意次領となり(田沼家系譜)、同三年幕府領、同四年山城淀藩領となり ...
50. かいぼうもんだい【海防問題】
国史大辞典
著わして幕府に献策し、また林子平は『三国通覧図説』『海国兵談』を公刊して国防の必要を説いた。時の老中田沼意次は工藤の献策に従い、天明五年(一七八五)蝦夷地調査隊 ...
「田沼意次」の情報だけではなく、「田沼意次」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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