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大岡忠相

ジャパンナレッジで閲覧できる『大岡忠相』の日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)
大岡忠相
おおおかただすけ
[1677―1751]

江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元禄15)書院番士に任ぜられ、順調に昇進して12年(正徳2)山田奉行(ぶぎょう)となり、従(じゅ)五位下能登守(のとのかみ)に叙任。俗説ではここで当時の紀州藩主、後の8代将軍徳川吉宗(よしむね)に認められたというが疑わしい。16年(享保1)江戸に戻って普請(ふしん)奉行、翌17年町奉行に登用され、越前守(えちぜんのかみ)に改める。36年(元文1)旗本としてはまったく異例な寺社奉行に昇進、ついで奏者番(そうじゃばん)を兼ね、三河国西大平(にしおおひら)(愛知県岡崎市)に陣屋をもつ1万石の大名となる。
忠相は名奉行として講談、落語、演劇などで有名であるが、その名裁判物語はほとんど彼の事績とは関係なく、中国やインドの故事、あるいは忠相以外の奉行の逸話などが彼の事績として集積、脚色されたものである。しかし忠相はその昇進の早さからみて、すでに吉宗以前からその才腕が認められていたと考えられる。享保(きょうほう)期(1716~36)の司法面の改革においても、審理の促進、公正化などに重要な役割を演じたばかりでなく、100万都市に膨張した江戸の行政官としても、防火、救貧、風俗問題や物価対策などと取り組み、さらに1722年から45年(延享2)まで地方(じかた)御用掛を兼務し、関東地方の幕領の経営や開発、治水工事などに尽力した。彼の性格は、逸話などでは機知に富み、人情味あふれた人物として描出されているが、その日記などを通じて推測するに、きわめてきちょうめんで勤勉かつ誠実な人物であったことが想像できる。また、その配下に国学者加藤枝直(えなお)、蘭学者(らんがくしゃ)青木昆陽(こんよう)、数学者野田文蔵、農政功者田中丘隅(きゅうぐ)、簑(みの)正高など多方面の識者を抱えていたことも注意を要する。宝暦(ほうれき)元年12月19日没。相模(さがみ)国高座(こうざ)郡堤村(神奈川県茅ヶ崎(ちがさき)市)浄見寺に葬られる。
[辻 達也]



世界大百科事典
大岡忠相
おおおかただすけ
1677-1751(延宝5-宝暦1)

江戸中期の幕臣,政治家。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第4子。1686年(貞享3)同姓の忠真の養子となる。93年(元禄6)実兄が八丈島に流罪,96年一族の忠英(書院番)が番頭を殺害してみずからも死ぬという事件が起き,彼の一族とともに連座するという不幸にあうが,以降は順調であった。すなわち1700年に養父の遺跡1920石を継ぎ,02年書院番,04年(宝永1)徒頭,07年使番,08年目付を経て12年(正徳2)山田奉行となり,従五位下能登守となる。16年(享保1)普請奉行に転じ,17年2月3日町奉行に昇進,越前守と改める。22年関東地方御用掛を命じられ,45年(延享2)までこの職を兼務する。1736年(元文1)8月12日寺社奉行に栄進,48年(寛延1)閏10月1日奏者番を兼ねる。このとき1725年の2000石,36年の2000石との2度の加増に,さらに4080石を加えて都合1万石の大名となり,三河国額田郡西大平(現,愛知県岡崎市)に陣屋をおく。51年(宝暦1)11月2日病のため寺社奉行,奏者番両職の辞任を申し出たが,寺社奉行のみ許された。同年12月19日没。法名は松運院興誉仁山崇義大居士。同家本貫の地である相模国高座郡堤村(現,神奈川県茅ヶ崎市堤)の浄見寺に葬られた。

彼は1717年41歳で町奉行となり,以降36年60歳までの約20年間この職にあり,その後75歳で死亡するまでの約16年間は寺社奉行という,いわば幕府にあって実質上もっとも重要なポストを占め,それら両ポストに付属する役務としての評定所一座の座を都合35年占めている。つまり徳川吉宗政権の全期間のみならず,つぎの家重政権下にあっても死ぬまでその地位を保っている。このことは彼が並々ならぬ有能かつ誠実な実務官僚であったことを示しており,その業績も多大である。そのなかでもっとも充実した40歳から60歳という年齢を過ごした町奉行時代の業績は抜群である。

それを要約すると江戸市民生活安定のための努力ということになろう。彼は職につくや両替商ら当時の日本の金融界を握っていた巨大商業資本の猛烈な抵抗をうけながら,安価で豊富な商品の江戸流入をめざして努力した。元文の貨幣改鋳(元文金銀)も彼の発議により,彼みずからの指揮のもとで,この目的のために実施したものである。また彼は物価問題はまずなによりも流通問題であるとして,流通界を問屋-仲買-小売という各段階ごとに組織し(日本的流通組織の確立),江戸市民を火災から守るために,町火消〈いろは四十七組〉をつくり,火災時の避難用地としての空地造りとその管理に力をいれた。また板ぶきの屋根を瓦ぶきにするなど,その不燃化に力をいれた。そのほか江戸下層社会の貧窮者を救うために小石川養生所をつくった。彼は日本歴史でもまれにみる有能な実務官僚であったが,有名な〈大岡政談〉の話は実際の彼とはほとんど関係がなく,政治家とはかくあれかしという庶民の願望が託された架空譚である。
→大岡政談物
[大石 慎三郎]

[索引語]
町奉行 越前守 町火消 小石川養生所 大岡政談


新版 日本架空伝承人名事典

大岡越前守
おおおかえちぜんのかみ
1677‐1751(延宝5‐宝暦1)
 大岡忠相ただすけ。江戸中期の幕臣、政治家。幼名は求馬、のち市十郎、忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第四子。一六八六年(貞享三)同姓の忠真の養子となる。九三年(元禄六)実兄が八丈島に流罪、九六年一族の忠英(書院番)が番頭を殺害してみずからも死ぬという事件が起き、彼の一族とともに連座するという不幸にあうが、以降は順調であった。すなわち一七〇〇年に養父の遺跡一九二〇石を継ぎ、〇二年書院番、〇四年(宝永一)徒頭、〇七年使番、〇八年目付を経て一二年(正徳二)山田奉行となり、従五位下能登守となる。一六年(享保一)普請奉行に転じ、一七年二月三日町奉行に昇進、越前守と改める。二二年関東地方御用掛を命じられ、四五年(延享二)までこの職を兼務する。一七三六年(元文一)八月一二日寺社奉行に栄進、四八年(寛延一)閏一〇月一日奏者番を兼ねる。このとき一七二五年の二〇〇〇石、三六年の二〇〇〇石との二度の加増に、さらに四〇八〇石を加えて都合一万石の大名となり、三河国額田郡西大平(現、愛知県岡崎市)に陣屋をおく。五一年(宝暦一)一一月二日病のため寺社奉行、奏者番両職の辞任を申し出たが、寺社奉行のみ許された。同年一二月一九日没。法名は松運院興誉仁山崇義大居士。同家本貫の地である相模国高座郡堤村(現、神奈川県茅ヶ崎市堤)の浄見寺に葬られた。
 彼は一七一七年四一歳で町奉行となり、以降三六年六〇歳までの約二〇年間この職にあり、その後七五歳で死亡するまでの約一六年間は寺社奉行という、いわば幕府にあって実質上もっとも重要なポストを占め、それら両ポストに付属する役務としての評定所一座の座を都合三五年占めている。つまり徳川吉宗政権の全期間のみならず、つぎの家重政権下にあっても死ぬまでその地位を保っている。このことは彼が並々ならぬ有能かつ誠実な実務官僚であったことを示しており、その業績も多大である。そのなかでもっとも充実した四〇歳から六〇歳という年齢を過ごした町奉行時代の業績は抜群である。
 それを要約すると江戸市民生活安定のための努力ということになろう。彼は職につくや両替商ら当時の日本の金融界を握っていた巨大商業資本の猛烈な抵抗をうけながら、安価で豊富な商品の江戸流入をめざして努力した。元文の貨幣改鋳(元文金銀)も彼の発議により、彼みずからの指揮のもとで、この目的のために実施したものである。また彼は物価問題はまずなによりも流通問題であるとして、流通界を問屋‐仲買‐小売という各段階ごとに組織し(日本的流通組織の確立)、江戸市民を火災から守るために、町火消「いろは四十七組」をつくり、火災時の避難用地としての空地造りとその管理に力をいれた。また板ぶきの屋根を瓦ぶきにするなど、その不燃化に力をいれた。そのほか江戸下層社会の貧窮者を救うために小石川養生所をつくった。彼は日本歴史でもまれにみる有能な実務官僚であったが、有名な「大岡政談」の話は実際の彼とはほとんど関係がなく、政治家とはかくあれかしという庶民の願望が託された架空譚である。
[大石 慎三郎]
伝承
 大岡越前守忠相の名裁判ぶりを伝える物語は非常に多く、実録本(『大岡仁政録』ほか)、講談、歌舞伎狂言、映画、テレビ、大衆文学などの好題材になっている。「天一坊」「村井長庵」「嘉川主税之助」「直助権兵衛」「松葉屋瀬川」「小間物屋惣兵衛」「煙草屋喜八」「畦倉重四郎」「鈴川源十郎」「越後伝吉」「白子屋お熊」「雲霧仁左衛門」「津の国屋お菊」「小西屋嫁入裁判」「三方一両損」など、数多くの物語が、前述のさまざまな分野に脚色されて口演あるいは上演をみている。これらの事件と裁判の話の中には、他の奉行が担当したものや、中国の小説(『棠陰比事とういんひじ』など)や『イソップ物語』から趣向を翻案して創作したもの、まったくの創案などが混じっており、そのほとんどが史実とは異なる虚構であった。それらを生むほど大岡は名裁判官としての誉れが高く、大衆から神のように信頼され、伝説化された人物だったといえる。
[服部 幸雄]
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大岡忠相の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 154
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検索コンテンツ
1. 大岡忠相
日本大百科全書
江戸中期の幕府行政官。幼名求馬(もとめ)、のち市十郎、忠右衛門。旗本大岡忠高(2700石)の四男、同族忠真(ただざね)(1920石)の養子となる。1702年(元 ...
2. 大岡忠相
世界大百科事典
1677-1751(延宝5-宝暦1) 江戸中期の幕臣,政治家。幼名は求馬,のち市十郎,忠右衛門。先祖は徳川氏三河以来の譜代。忠高の第4子。1686年(貞享3)同 ...
3. おおおか‐ただすけ【大岡忠相】
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江戸中期の幕臣。越前守。八代将軍徳川吉宗に登用され名奉行といわれたが、いわゆる「大岡裁き」は、和漢の裁判説話によって作為されたものが多い。町奉行ののち奏者番兼寺 ...
4. おおおかただすけ【大岡忠相】
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、彼が当時の法をできるだけ現実の姿に近づけようと努力したことは事実である。なお、彼の日記に『大岡忠相日記』がある。 [参考文献]『寛政重修諸家譜』一〇六一、辻達 ...
5. 大岡忠相
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10. 『大岡忠相日記』
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18. えどきょうほうじゅうはちねんうちこわし【江戸享保十八年打毀】
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20. おおおか-えちぜんのかみ【大岡越前守】
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21. おおおか‐さばき[おほをか‥]【大岡裁】
日本国語大辞典
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22. おおおかせいだん【大岡政談】
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はじめ、歌舞伎や浄瑠璃の題材にもなっているが、すでに宝暦元年(一七五一)には『銀の笄』という大岡忠相が事件解決に全権をふるう筋の実録小説が成立している。(内山美 ...
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47. 大岡政談 2 275ページ
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解説 これは平戸藩主松浦静山『甲子夜話』巻六に見える大岡忠相の逸話である。静山は甚だ博聞強記の大名で、その見聞を綴った『甲子夜話』には史料として興味ある逸 ...
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昭和五九年六月)を頂戴した。これについては前巻「総解説」でもちょっと言及しておいたが、いわゆる大岡忠相の「実像」に関しても啓発される所多かった。 また延広真治氏 ...
「大岡忠相」の情報だけではなく、「大岡忠相」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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