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  11. 杉田玄白

杉田玄白

ジャパンナレッジで閲覧できる『杉田玄白』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
杉田玄白
すぎたげんぱく
一七三三 - 一八一七
江戸時代中期の蘭方医・蘭学者。諱は翼、字を子鳳、号を〓斎といい、晩年に九幸翁の別号を用いた。その居を天真楼と称し、家塾名ともした。晩年建てた書斎を小詩仙堂と呼ぶ。玄白は通称。享保十八年(一七三三)九月十三日、江戸牛込矢来の小浜藩酒井侯の下屋敷に生まれる。父は小浜藩医杉田甫仙、母はこのとき難産で死去。古学派の宮瀬竜門に漢学を、幕府の奥医師西玄哲に蘭方外科を学び、宝暦三年(一七五三)藩医となる。同藩の医師小杉玄適を通じ、京都の山脇東洋が唱導する古医方に刺激を受け、また江戸参府随行の通詞吉雄幸左衛門らに会い蘭方外科につき質問。やがてオランダ医書『ターヘル=アナトミア』を入手。明和八年(一七七一)三月四日、前野良沢・中川淳庵らと小塚原の刑場で死刑囚の屍体の解剖を見分、『ターヘル=アナトミア』(正しくは、ドイツの解剖学者クルムスJohan Adam Kulmusが著わし、オランダのディクテンGerardus Dictenの蘭訳したOntleedkundige Tafelen『解剖学表』のアムステルダム一七三四年版)の正確なることを知り、同志と翻訳を決意、翌日着手。四ヵ年の会読の努力を経て、安永三年(一七七四)『解体新書』五巻(図一巻・図説四巻)を完成、刊行の推進力となった。この挙は、江戸における、専門学者の手になる、本格的蘭医書翻訳事業の嚆矢であって、日本の医学史上に及ぼした影響すこぶる大きく、その後の蘭学発達に果たした功績は大きい。翻訳・刊行の苦心の様子は玄白晩年の懐想録『蘭学事始』に活写されている。主家への勤務、患者診療、患家往診の間、学塾天真楼を経営、大槻玄沢・杉田伯元・宇田川玄真ら多数の門人の育成に努め、蘭書の蒐集に意を注いで門人の利用に供するなど、蘭学の発展に貢献した。前記訳著のほか、奥州一関藩医建部清庵との往復書翰集『和蘭医事問答』をはじめ、『解体約図』『狂医之言』『形影夜話』『養生七不可』などにおいて医学を論じ、『乱心二十四条』『後見草』『玉味噌』『野叟独語』『犬解嘲』『耄耋独語』などの著述を通じて政治・社会問題を論評した。「病論会」なる研究会を会員のまわり持ち会場で定期的に開催、医学研鑽に努めた様子が『〓斎日録』に窺える。阪昌周に連歌を学び、詩・歌・俳諧をものし、宋紫石・石川大浪ら江戸の洋風画家と交わって画技も高かったことは、極彩色の大幅「百鶴の図」をはじめとして、戯画などに窺える。蘭方医学の本質を求めて、心の問答を展開した相手、建部清庵の第五子を養子に迎え、伯元と改称させて家塾の経営を継がせた。実子立卿には西洋流眼科をもって別家・独立させた。その子孫には、成卿・玄端ら有能な蘭方医・蘭学者が輩出、活躍している。文化十四年(一八一七)四月十七日、病没。八十五歳。芝の天徳寺の塔頭、栄閑院(通称猿寺、東京都港区虎ノ門三丁目)に葬られる。九幸院仁誉義真玄白居士という。墓は東京都史蹟に指定。
[参考文献]
片桐一男『杉田玄白』(『人物叢書』一五八)
(片桐 一男)


世界大百科事典
杉田玄白
すぎたげんぱく
1733-1817(享保18-文化14)

江戸中期の蘭方医。若狭国小浜藩医杉田玄甫(甫仙)の子として江戸牛込の小浜藩邸で生まれた。名は翼(たすく),字は子鳳(しほう),号は鷧斎(いさい)といい,晩年には九幸翁とも号した。堂号を小詩仙堂,天真楼といった。官医西玄哲にオランダ流外科を学んだが,その水準にあきたらず,同藩の僚友小杉玄適が京都の山脇東洋に学んで江戸に帰り,東洋の人体解剖や京都の古医方派の動向を伝えたのに刺激され,家業とする外科領域で新しい道を開く志を立てた(22歳)。こうして,中国の外科書を総ざらいし病門を整理して納得できる治法を集め,それに玄白が見聞した日本の経験的薬方や治法を加えて《瘍家大成》の編述を企てた。その過程で実験にもとづく実証的なオランダ医学の水準を知り,同僚の中川淳庵や中津藩医の前野良沢らとともに,江戸参府のオランダ人一行の宿舎長崎屋に蘭館医や通詞たちを訪ね,治療の実技を見学したり外科の原書を借り受けてその精巧な図版を筆写したりして見聞をひろめた。さらにクルムスJ.Kulmusの解剖書(いわゆる《ターヘル・アナトミア》)を入手し,それに引き続いて千住骨ヶ原(小塚原)で刑死体の解剖を実見する機会をもって,オランダの解剖書の正確なことを確認した。明和8年(1771)3月4日,玄白39歳のときである。その感動のさめやらぬ翌5日,同志が集まってその原書の翻訳を決意し,前野良沢を盟主として翻訳作業を開始して,3年後の安永3年(1774)8月《解体新書》として刊行した。これが近代的意味での外国語の原書を翻訳する方法や方針を明示して行った最初の翻訳書となった。玄白は後進の蘭学者を多数育成して蘭学興隆の基礎を固め,門弟・同志らによって外国書の翻訳が相次ぎ,これによって西洋の学問の摂取が本格化した。85歳の長寿を保った玄白は,そのさまを回顧録《蘭学事始(らんがくことはじめ)》にまとめたが,玄白自身の思想の進展を示すものとして《狂医之言》《形影夜話》《和蘭医事問答》等があり,政局批判の書として《後見草(のちみぐさ)》《野叟独語(やそうどくご)》等がある。
[宗田 一]

[索引語]
杉田翼 小杉玄適 ターヘル・アナトミア 解体新書 蘭学事始(らんがくことはじめ)
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25. 医学史
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35. うえのむら【上野村】福井県:小浜市
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いい、若狭国内では二〇余ヵ寺ある。庵は明治一六年(一八八三)に奥田縄へ移築されたが、跡地には杉田玄白の父甫仙による永福般若蔵建造の石碑が残る。 ...
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槐園(かいえん)・東海と号す。幼時より性格は温柔寡言、孝経などを精読、25歳のとき、西学説に感服して学び始め、杉田玄白(げんぱく)、前野良沢(りょうたく)、桂川 ...
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役者に似た色白のやさ男であったので,世人は東海夫人とあだ名した。宇田川家蘭学初代として,前野良沢,杉田玄白らと同時代にあって活躍し,ゴルテルJ.de Gorte ...
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43. 江戸参府紀行 274ページ
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による)。高野長英 一八〇四-五〇。奥州伊達家の支藩、水沢藩の医家に育ち、漢学を祖父、蘭学を杉田玄白門下の養父玄斎に学ぶ。 一八二〇(文政三)年江戸に出て杉田伯 ...
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奥州一関の医官建部清庵由正(一七一一-一七八二)という未知の人から、その門人某を介して一通の長い手紙が杉田玄白のもとに届けられた。それは主としてオランダ流外科に ...
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48. 江戸参府紀行 329ページ
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奥守家来松平越中守家来松平越後守家来酒井修理大夫家来奥平九八郎家来大槻玄沢森島甫斎宇田川玄随杉田玄白前野良沢右私蛮書同学之者に御座候何れも蛮書之内年来 ...
49. 江戸参府紀行 338ページ
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を得て、同社より本年(一九九四)出版されるはずである。 ツユンベリーが来日した一七七五年は、杉田玄白訳、中川淳庵校、石川玄常参、桂川甫周閲『解体新書』が出版され ...
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