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  11. 陸奥宗光

陸奥宗光

ジャパンナレッジで閲覧できる『陸奥宗光』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
陸奥宗光
むつむねみつ
一八四四 - 九七
明治時代の政治家で第二次伊藤内閣の外務大臣。伯爵。父は和歌山藩士伊達藤二郎宗広、母は同じく和歌山藩士渥美源五郎の長女政子。その第六子として、弘化元年(一八四四)七月七日誕生。幼名牛麿。父宗広は家禄八百石、藩の重職を歴任したが、宗光九歳のとき政争により失脚。一家流離の憂き目にあう。十五歳にして江戸に出て苦学。父は赦免の後、脱藩、一家は京都に移り、宗光もまた京都に来て、勤皇運動に従事、坂本竜馬と知り合う。土佐藩士を称し、神戸の海軍所で勝海舟の教えを受ける。慶応元年(一八六五)、竜馬に従い鹿児島・長崎に遊ぶ。このころ、薩摩藩士を称し、伊達陽之助・陸奥小次郎などと称する。三年、海援隊に入る。四年末、大坂に赴き英国公使パークスに面会、その結果を岩倉具視に報じ、明治元年(一八六八)正月、外国事務局御用掛となる。陸奥陽之助としてはじめて任官。その後、大阪府権判事・兵庫県知事などを歴任したが、三年、和歌山藩欧州執事として渡欧、翌四年和歌山藩庁出仕、廃藩置県を迎える。同年、出京の命を受け、神奈川県知事となり、五年、外務大丞を兼ね、六年には前年の地租改正の主張を認められ、大隈重信の推挙で大蔵少輔心得に昇進。ときに征韓論で政府分裂、征韓論には与しなかったが、下野して活動するのを得策とし、七年一月、「日本人」を草し薩長有司の専制を痛難、辞任した。翌年、元老院議官となったが、十年、西南戦争が起ると、土佐立志社の大江卓らの政府転覆計画に連累、翌十一年、免官、国事犯として五年の禁獄に処せられ、山形・宮城の監獄に入る。獄中では、ベンサムの著作の翻訳などにうちこみ、十六年、出獄。伊藤博文らの勧めもあり、十七年から英・墺などに学ぶ。十九年帰国、外務省に入り、弁理公使・特命全権公使を経て、二十一年、駐米公使に転出、在任中、はじめての対等条約であるメキシコとの条約に調印。二十三年帰国、同年五月、第一次山県内閣の農商務大臣に就任、七月には第一回衆議院議員総選挙に和歌山県第一区から出馬、当選。閣僚中、唯一の衆議院議員となる。翌年五月、第一次松方内閣にも農商務大臣として留任、九月には衆議院議員を辞職。二十五年三月、総選挙における松方内閣の激しい選挙干渉を論難して辞任、枢密顧問官となる。しかし、同年八月、元勲総出の第二次伊藤内閣に迎えられ外務大臣の要職に就き、伊藤と協力しながら外交に腕を振るった。防穀令事件・千島艦事件の処理にあたるとともに、最大の懸案である条約改正をめざし、二十六年七月、対等条約改正案および交渉方針を閣議に提出、まずイギリスとの交渉に着手、議会の対外強硬論には真向から反対した。二十七年四月、正式の交渉をイギリスと始めるころ、朝鮮に甲午農民戦争(東学党の乱)が激化、六月、清国の朝鮮出兵に対抗して日本も出兵、対清強硬政策をつぎつぎと展開、七月、日英改正条約に調印するとともに、日清戦争の開戦にふみきり、講和・三国干渉をも処理した。この外務大臣中の事績を称して、世に「陸奥外交」という。日清戦争中の激務から持病の肺患が悪化、二十八年六月、賜暇を得て大磯で療養、『蹇蹇録』の著述に没頭。翌年五月、外相辞任。ハワイに療養、帰国後、竹越与三郎をして雑誌『世界之日本』を発行させ、それに寄稿を続けた。藩閥が幅をきかせた明治の政界にあって、非藩閥出身の陸奥はしばしば不遇をかこったが、才気と機略に富み、伊藤らの信頼を得て栄進、晩年には首相の座をもめざしたが、宿痾のため三十年八月二十四日、東京西ケ原の自邸で死去。五十四歳。浅草海禅寺で葬儀、大阪夕陽岡陸奥家墓所に埋葬された。昭和二十八年(一九五三)大阪より鎌倉寿福寺に移葬。明治四十年、外務省正面に銅像が竣成、第二次世界大戦中、供出のため撤去されたが、昭和四十一年、外務省構内に再建された。→蹇蹇録(けんけんろく),→陸奥外交(むつがいこう)
[参考文献]
陸奥広吉編『伯爵陸奥宗光遺稿』、萩原延壽編『陸奥宗光』(『日本の名著』三五)、阪崎斌『陸奥宗光』、渡辺幾治郎『陸奥宗光伝』、陸奥宗光伯七十周年記念会編『陸奥宗光伯―小伝・年譜・付録文集―』、萩原延壽「陸奥宗光」(『現代日本思想大系』一〇所収)、同「陸奥宗光」(『毎日新聞』昭和四十二年六月十二日―同四十三年十二月二十八日)
(中塚 明)


日本大百科全書(ニッポニカ)
陸奥宗光
むつむねみつ
[1844―1897]

明治時代の外交官、政治家。天保(てんぽう)15年7月7日、和歌山藩士伊達宗広(千広)(だてむねひろ(ちひろ))の六男として生まれる。宗広が藩内の政争で失脚したため江戸に出て苦学、安井息軒(そくけん)などに師事。やがて尊王攘夷(じょうい)運動に身を投じて坂本龍馬(りょうま)を知り、1863年(文久3)ともに勝海舟(かつかいしゅう)の神戸海軍操練所に入った。同所が閉鎖されると龍馬に従って長崎で亀山(かめやま)社中を結成、海運・商業に従事、このころに陸奥陽之助(ようのすけ)と称した。1867年(慶応3)には龍馬の下で海援隊に入って活躍した。明治維新とともに外国事務局御用掛に登用され、兵庫県知事などを経て和歌山藩の藩政改革を担当。渡欧後、政府に復帰して神奈川県知事となり、1872年(明治5)には租税権頭(ごんのかみ)に任じられて地租改正を建議した。1875年元老院議官となる。1877年の西南戦争に呼応した土佐立志社の挙兵計画に加担し、1878年に拘引され、免官、下獄した。1882年出獄後外遊、1888年駐米公使となり、メキシコとの間の最初の対等条約締結に成功した。第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣に農商務大臣として入閣、最初の議会で政党工作に努め、続く松方正義(まつかたまさよし)内閣にも留任したが、選挙干渉問題をめぐる政府の責任を追及して辞任した。枢密顧問官を経て第二次伊藤博文(ひろぶみ)内閣の外務大臣となり、イギリスとの間で条約改正交渉を進め、対外硬派による反対を抑えて1894年7月日英通商航海条約の調印にこぎ着け、治外法権の撤廃に成功した。さらに朝鮮で東学党の乱(甲午(こうご)農民戦争)が起こるとただちに出兵を決定、8月日清(にっしん)戦争に突入した。1895年伊藤首相とともに全権として講和条約に調印したが、三国干渉を受け、遼東(りょうとう)半島の還付を決断した。戦争中から持病の肺結核が進行し、1896年5月外務大臣を辞任した。この間1895年に伯爵となる。その後、竹越与三郎(たけごしよさぶろう)に雑誌『世界之日本』を編集させ、匿名で寄稿したが、明治30年8月24日没した。回顧録に『蹇蹇録(けんけんろく)』がある。
[宇野俊一]



世界大百科事典
陸奥宗光
むつむねみつ
1844-97(弘化1-明治30)

明治の政治家,外交官。和歌山藩士伊達宗広の第6子として出生。宗広は和歌山藩大番頭格を務め,千広と号して《大勢三転考》を著す。宗光の幼名牛麿,江戸遊学ののち脱藩,陸奥陽之助と称し坂本竜馬のひきいる海援隊の一員として活躍。維新後政府に出仕,外国事務局御用掛から兵庫県知事,神奈川県知事をへて租税頭,大蔵少輔心得となるが,薩長の専制を憤って辞任,1875年元老院議官となる。78年立志社の政府転覆計画に荷担したとして投獄され,獄中にベンサムの《道徳および立法の諸原理》を《利学正宗》として翻訳。83年特赦により出獄すると外遊してL.vonシュタインに国家学を学び,帰国後外務省に出仕。88年駐米公使となりメキシコとの対等条約(日墨通商修好条約)とアメリカとの新条約調印を果たした。90年1月帰朝して第1次山県有朋内閣に入閣して農商務大臣となり,第1回総選挙(1890)に和歌山第1区から立候補し当選した。91年5月成立した松方正義内閣に留任し,内閣規約を提案,みずから政務部長となったが薩摩派との衝突で辞任した。11月後藤象二郎や大江卓,岡崎邦輔の協力をえて日刊新聞《寸鉄》を発刊して薩摩閥を攻撃し,みずからの列する松方内閣を批判,92年3月辞職して枢密顧問官となる。92年第2次伊藤博文内閣が成立すると迎えられて外務大臣となり,長年の懸案であった対等条約実現を期す。千島艦事件をめぐる領事裁判問題,防穀令事件をめぐる朝鮮との賠償交渉,議会における条約励行建議案にみられる排外気運の高揚などのなかでイギリスに新条約案を提示,条約改正会談を開始した。94年5月,朝鮮国に甲午農民戦争がはじまると清国の出兵に対抗して派兵し,7月16日日英通商航海条約の調印に成功した。一方,朝鮮では積極政策を展開し,23日朝鮮王宮占拠による親日政権の樹立,25日豊島沖海戦により日清戦争を開始した。この開戦外交はイギリスとの協調を維持しつつ,対清強硬路線をすすめる川上操六参謀次長の戦略と気脈を通じたもので〈陸奥外交〉の名を生んだ。日清戦争後薩摩派を中心とする膨張主義とそれに賛同した世論の圧力で下関条約で遼東半島を割取し,三国干渉を招いた。軍に制約された日清戦争の外交を詳記した《蹇蹇録(けんけんろく)》を持疾の肺患とたたかいつつ95年末脱稿したが,長く公刊を許されなかった。なお,試験採用による職業外交官の制度が確立したのは陸奥の外相時代である。
[藤村 道生]

[索引語]
伊達宗広 陸奥陽之助
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5. むつむねみつ【陸奥宗光】
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1844−1897 明治時代の外交官。天保(てんぽう)15年7月7日生まれ。伊達宗広(むねひろ)の6男。坂本竜馬の海援隊に参加。維新後新政府につとめたが,明治1 ...
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19. あしおどうざんあと【足尾銅山跡】栃木県:上都賀郡/足尾町/足尾村
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旧態に戻り、しかも、自由党と政府との間には微妙な関係が形成されることとなった。この間他方では陸奥宗光外相によって条約改正の作業が進捗しつつあった。この条約改正問 ...
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明治~大正時代の政党政治家。和歌山藩出身。従兄(いとこ)の陸奥宗光(むつむねみつ)を頼って大蔵省に出仕、内務、司法省に転じ、1878年(明治11)新宮(しんぐう ...
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41. 岡本柳之助
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42. おだじゅんいちろう【織田純一郎】
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の経営する『朝日新聞』その他の新聞主筆として活動した。この人の得意時代であったらしい。その後陸奥宗光の『寸鉄』、板垣退助らの『社会新報』主筆をつとめ、その間農商 ...
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帰国後の明治11年翻訳したリットンの「欧州奇事花柳春話」がベストセラーとなる。18年大阪朝日新聞の主筆。のち陸奥宗光の「寸鉄」,板垣退助らの「社会新報」の主筆を ...
44. 海援隊
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),村役人(菅野覚兵衛),饅頭屋(近藤長次郎)など多様であり,出身地も土佐中心であるが紀州(陸奥宗光)など他藩出身もみられた。そして最終的には土佐藩の海軍力とな ...
45. 海軍操練所
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免職されたため、65年(元治2)3月廃止。坂本龍馬(りょうま)(土佐)、横井左平太(熊本)、陸奥宗光(むつむねみつ)(紀州)らがここに学んだ。(2)明治初年の海 ...
46. かとうたかあき【加藤高明】
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同十四年東京大学法学部を首席で卒業し、直ちに三菱本社に入った。同十六年より二年間イギリスに遊学、この間陸奥宗光の知遇を得た。帰国後三菱本社副支配人を経て十八年日 ...
47. かのう-そうしち【加納宗七】
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1827−1887 明治時代の実業家,地域開発者。文政10年6月23日生まれ。紀伊(きい)和歌山の人。陸奥宗光らの尊攘(そんじょう)運動にくわわる。慶応3年神戸 ...
48. 加波山事件 民権派激挙の記録 309ページ
東洋文庫
(平野義太郎氏説)二十六年(一八九三)十月、大日本協会を起こし、条約改正阻止の運動を展開、外相陸奥宗光の翻意を求めた。この結果、同年第五議会は荒れに荒れ、十二月 ...
49. 皮/革画像
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明治維新後,軍隊の洋式化が進み,多量の革製品が必要となった。最初の近代なめし技術の導入は,1869年(明治2)陸奥宗光によって,ドイツより技術者を招いて和歌山に ...
50. 関税自主権
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国民の願望と期待を背負って列強と交渉を試みた。政府はやがて法権回復に絞って交渉し、94年(明治27)外相陸奥宗光(むつむねみつ)は改正条約を締結、治外法権廃止、 ...
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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