NHK大河ドラマ「光る君へ」特集
ジャパンナレッジは約1900冊以上の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書」サービスです。
➞ジャパンナレッジについて詳しく見る
  1. トップページ
  2. >
  3. カテゴリ一覧
  4. >
  5. 歴史
  6. >
  7. 歴史上の人物
  8. >
  9. 日本史上の人物
  10. >
  11. 徳川慶喜

徳川慶喜

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川慶喜』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
一八三七 - 一九一三
江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山。父の命によって生後七ヵ月で水戸に送られ、幼時教育を藩地で受け、その後十一歳まで同地で過ごした。斉昭は水戸藩の天保の改革を推進するため、天保十一年正月水戸に帰り、約四年間滞在した。そこでの慶喜に対する教育はかなり厳しかったようである。少年時代の慶喜は聡明で、斉昭も天晴な名将となることを期待した。弘化四年(一八四七)九月一橋家を相続し、十二月元服、従三位左近衛中将に任じ、刑部卿と称し、名を慶喜と改めた。安政二年(一八五五)十二月一条忠香養女延君(美賀子、貞粛院)と結婚、同月参議となった。時に将軍家定の継嗣の議が起り、その候補者として和歌山藩主徳川慶福と慶喜の名が挙げられた。一方安政五年日米修好通商条約調印問題が起り、将軍継嗣問題とからみ合って、政局は複雑な様相を示した。同年四月大老となった彦根藩主井伊直弼は、六月条約調印を断行した。これを聞いて父斉昭、兄の水戸藩主慶篤、福井藩主松平慶永らは不時登城して、大老の条約調印を面責した。慶喜もこれに加わった。翌月将軍家定が没したが、幕府はその喪を秘し、徳川慶福を将軍継嗣と発表、八月慶福は将軍となり、名を家茂と改めた。一方、慶喜は不時登城を譴責され、登城停止となり、翌六年八月隠居・慎を命ぜられた。これは井伊直弼による安政の大獄処断の一つであるが、爾後文久年間(一八六一―六四)尊攘運動が盛んになる約三年間、慶喜は政局外の人となった。万延元年(一八六〇)八月父斉昭が没し、翌月謹慎は解かれたが、依然接客文通は禁ぜられ、文久二年四月ようやくこれも解除された。このころ慶喜登用の勅旨があり、七月慶喜は一橋家を再相続、一躍将軍後見職となり、同じく政事総裁職となった前福井藩主松平慶永とともに、幕府の要職を努めることとなった。十二月将軍上洛の先駆として上京し、翌三年正月はじめて孝明天皇に会った。京都では尊攘運動が最盛期に入っていたが、慶喜は将軍を輔け朝幕間を奔走し、三月賀茂社行幸に、翌月石清水社行幸に供奉した。同月京都を発して江戸に帰ったが、八月十八日の政変で尊攘派が京都から一掃されると、十月海路再び入京し、十二月朝議参予を命ぜられた。翌元治元年(一八六四)三月参予をやめ、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を命ぜられて一時下坂したが、六月から七月にかけてしばしば参内し、七月十九日の禁門の変に際しては、御所防衛軍を指揮して活躍した。十月水戸藩天狗党の西上にあたり、鎮圧の勅命を受けて近江国海津に出陣した。慶応元年(一八六五)六月から翌二年にかけてしばしば京坂間を往復し、この間慶応元年十月には条約勅許を得ることに成功した。さらに同二年六月将軍に代わって第二次征長の勅許を得たが、たまたま翌七月二十日将軍家茂は大坂城中で病死した。慶喜は八月徳川宗家を相続、ついで十二月五日権大納言・正二位・征夷大将軍に任叙された。同月孝明天皇崩御、翌三年正月国喪で征長軍を解いた。三月兵庫開港を奏請、五月勅許を得た。宗家相続以降、慶喜は政治の刷新に努め、軍備充実をはかり、またフランス公使ロッシュに接近してその意見を徴するなど、その施政には見るべきものがあった。しかし幕府の衰退は掩うべくもなく、ついに土佐藩の建言に基づいて十月十四日大政奉還を上表し、翌日勅許を得た。このことは討幕派の出鼻をくじいたものであり、また慶喜は大政奉還をしても、国政の主導権は依然幕府の手中に温存されると考えていた。しかし十二月九日の「王政復古」の大号令の発布、続く翌明治元年(一八六八)正月三日の鳥羽・伏見の戦の開始によって事態は一変し、慶喜は海路江戸に帰った。一時薩長側と一戦を辞せずと考えたようであるが、恭順専一の態度をとり、二月十二日江戸城から上野寛永寺大慈院に移って、閉居謹慎した。四月死一等を減ぜられ、ついで水戸に移った。閏四月田安亀之助(家達)が徳川宗家の家督をつぎ、駿府(静岡)七十万石を与えられ、七月慶喜は水戸から駿府に移った。同二年九月謹慎を解かれたが、爾後同三十年居を東京に移すまで同地に閑居し、もっぱら趣味の一途に生きた。その子女は、二十一人に及んだ。明治五年従四位に、同十三年正二位に、ついで同二十一年従一位に叙せられた。三十一年はじめて東京皇居に参内、同三十五年公爵を授けられ、さらに同四十一年勲一等旭日大綬章を受けた。大正二年(一九一三)十一月二十二日病没。七十七歳。墓は東京都台東区谷中の徳川家墓地にある。
[参考文献]
渋沢栄一『徳川慶喜公伝』、徳川慶喜公伝編纂所編『昔夢会筆記』、宮内省編『孝明天皇紀』、同編『明治天皇紀』、藤井貞文『宿命の将軍徳川慶喜』、松浦玲『徳川慶喜』(『中公新書』三九七)、小西四郎『徳川慶喜のすべて』、田中惣五郎『最後の将軍徳川慶喜』
(小西 四郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
[1837―1913]

江戸幕府第15代、最後の将軍。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で幼名七郎麿(しちろうまろ)、または昭致(あきむね)。字(あざな)は子邦、刑部卿(ぎょうぶきょう)を名のる。天保(てんぽう)8年9月29日、小石川の江戸藩邸に生まれる。水戸弘道(こうどう)館で学んだのち、1847年(弘化4)一橋(ひとつばし)家を継いで慶喜と改名した。
ペリー来航後、将軍継嗣(けいし)問題で改革派雄藩の松平慶永(まつだいらよしなが)ら一橋派に推され、南紀派の推す徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))と争ったが、1858年(安政5)4月井伊直弼(いいなおすけ)が突如、大老職に就任したあと、慶福を世子に決定したため敗れた。また勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことに対し、慶喜は、実父徳川斉昭、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して大老を詰責したために、登城を止められ、翌年の安政(あんせい)の大獄で隠居謹慎の処分を受けた。しかし、1860年(万延1)井伊直弼が桜田門外に暗殺されてのち、幕政の宥和(ゆうわ)方針によって謹慎を解かれ、さらに1862年(文久2)勅使大原重徳(おおはらしげとみ)と島津久光(しまづひさみつ)が東下して幕政改革を迫った際に、勅旨により、一橋家の再相続を許され、同時に将軍後見職に任ぜられた。
かくて事態は一変し、慶喜は、政事総裁職についた松平慶永(よしなが)とともに幕政の頂点にたつことになったが、改革は難航した。1863年、朝廷の攘夷(じょうい)督促に対して自ら開国を説くべく上洛(じょうらく)して朝廷と折衝したが、かえって尊攘派勢力の工作によって攘夷期日を5月と約束させられて江戸に帰った。同年八月十八日の政変により、京都から尊攘派が排除されると再度上洛し、松平容保(まつだいらかたもり)、同慶永、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)とともに、朝議参与を命じられた。しかし、あくまで幕府中心の改革を主張する慶喜は他の参与と対立し、参与会議も失敗に終わる。1864年、慶喜は参与と将軍後見職を辞任して禁裏守衛総督につき、禁門(きんもん)の変に活躍、翌1866年(慶応2)の第二次長州征伐で東軍が敗戦を重ねるうち、家茂(いえもち)が死去したため、12月、第15代将軍職を継いだ。
フランスと結んで洋式軍制改革を行い、幕府の制度も改革して成果をあげたが、大勢挽回(ばんかい)はならず、1867年10月、討幕の密勅が下ると同時に大政を奉還した。なおも諸藩連合の政治体制のなかで徳川氏の権力を維持することを策したが、12月、討幕派に動かされた朝議が王政復古を宣し、年が明けると鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いにおいて幕府軍は大敗した。慶喜は海路江戸に帰還し、フランス公使ロッシュらの再挙の勧めを拒否して上野寛永寺(かんえいじ)に移り、謹慎の意を表した。江戸開城後は水戸で謹慎し、新政府の命によって徳川宗家の家督を田安亀之助(たやすかめのすけ)(家達(いえさと))に譲り、駿府(すんぷ)に移った。1869年(明治2)謹慎を許され、のち公爵に列した。大正2年11月22日没。
[井上勝生]



世界大百科事典
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
1837-1913(天保8-大正2)

江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。この政争は家定の意志と井伊直弼の登場とによって紀州派が勝利し,慶喜は安政の大獄の一環として隠居謹慎の処分を受けた。62年(文久2)島津久光に擁されて東下した勅使大原重徳が慶喜を将軍後見職とするよう要求し,慶喜は一橋家を再相続したうえで64年(元治1)まで家茂の後見職を務めたが,10代後半に達した将軍との仲はうまくいかないことが多かった。64年滞京中に京都朝廷から直接に禁裏守衛総督に任命され,同年の禁門の変では防御側の総指揮をとったが,江戸の幕府主流から見ると目ざわりな存在で,老中が武力で江戸に連れ戻そうとして失敗したこともある。65年(慶応1)に家茂が辞表を書いたときには,その文中で皮肉をこめて後任に慶喜を推薦した。

66年家茂の死で15代将軍となったが京都を離れることができないまま江戸の幕政改革を指揮して,その手腕には倒幕派を恐怖させるものがあった。しかし67年10月には大政奉還という屈折した作戦をとることを余儀なくされ,12月には王政復古クーデタで大坂城へ退き,68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で敗北して江戸へ戻り,権力を放棄し,謹慎生活に入った。長く静岡で暮らしたが97年東京に帰住し,1902年家達(いえさと)が相続している徳川公爵家とは別に公爵を授けられ,08年には勲一等旭日大綬章を受けた。明治国家が慶喜の大政奉還を評価する歴史解釈をとったことの現れである。
[松浦 玲]

[索引語]
一橋慶喜 将軍継嗣問題 徳川家茂
上記は、日本最大級のオンライン辞書・事典・叢書サービス「ジャパンナレッジ」のサンプル記事です。

ジャパンナレッジは、自分だけの専用図書館。
すべての辞書・事典・叢書が一括検索できるので、調査時間が大幅に短縮され、なおかつ充実した検索機能により、紙の辞書ではたどり着けなかった思わぬ発見も。
パソコン・タブレット・スマホからご利用できます。


徳川慶喜の関連キーワードで検索すると・・・
検索ヒット数 577
※検索結果は本ページの作成時点のものであり、実際の検索結果とは異なる場合があります
検索コンテンツ
1. 徳川慶喜画像
日本大百科全書
江戸幕府第15代、最後の将軍。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で幼名七郎麿(しちろうまろ)、または昭致(あきむね)。字(あざな)は子邦、刑部卿(ぎょうぶきょ ...
2. 徳川慶喜[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵 ...
3. 徳川慶喜
世界大百科事典
1837-1913(天保8-大正2) 江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年 ...
4. とくがわ‐よしのぶ【徳川慶喜】
日本国語大辞典
江戸幕府第一五代将軍。水戸藩主斉昭の七男。幼名七郎麿、諱昭致。弘化四年(一八四七)一橋家を継ぐ。将軍継嗣問題で家茂と争って敗れた。文久二年(一八六二)将軍後見職 ...
5. とくがわよしのぶ【徳川慶喜】画像
国史大辞典
[参考文献]渋沢栄一『徳川慶喜公伝』、徳川慶喜公伝編纂所編『昔夢会筆記』、宮内省編『孝明天皇紀』、同編『明治天皇紀』、藤井貞文『宿命の将軍徳川慶喜』、松浦玲『 ...
6. 德川慶喜(とくがわよしのぶ)
古事類苑
官位部 洋巻 第3巻 30ページ ...
7. とくがわ-よしのぶ【徳川慶喜】画像
日本人名大辞典
1837−1913 江戸幕府15代将軍。在職1867*-68*。天保(てんぽう)8年9月29日生まれ。常陸(ひたち)水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の7男。母は徳川 ...
8. 徳川慶喜[文献目録]
日本人物文献目録
辞退』森谷秀亮『徳川慶喜』渡辺轍『徳川慶喜公』嶋田三郎『徳川慶喜公』萩野由之『徳川慶喜公の御直話に就ての談話』藤井甚太郎『徳川慶喜公の政権奉還に就いて』井野辺茂 ...
9. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談
東洋文庫
最後の将軍徳川慶喜は,毀誉褒貶にかこまれてその実体が捉えがたい。本書は私家版として25部だけひそかに刷られ,以後公刊されることのなかった稀覯本。読書人垂涎の書で ...
10. 徳川慶喜印[図版]画像
国史大辞典
(c)Yoshikawa kobunkan Inc.  ...
11. 『徳川慶喜公伝』
日本史年表
1918年〈大正7 戊午〉 この年 渋沢栄一 『徳川慶喜公伝』 刊。  ...
12. とくがわよしのぶこうでん【徳川慶喜公伝】
国史大辞典
江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の伝記。全八巻。著者渋沢栄一。大正七年(一九一八)刊。渋沢が慶喜の雪寃を考え私費を投じて編纂したもの。明治二十六年(一八九三)ころか ...
13. 徳川慶喜公伝 3
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完 ...
14. 徳川慶喜公伝 4
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完 ...
15. 徳川慶喜公伝 1
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完 ...
16. 徳川慶喜公伝 2
東洋文庫
幕末・維新期の通史として最高水準にあるといわれる本書は,財界の大御所渋沢栄一が旧主の汚名をそそぐため明治26年に企画したもの。以後25年におよぶ歳月を費やして完 ...
17. とくがわよしのぶせいけん【徳川慶喜政権】 : 文久・慶応期
国史大辞典
徳川慶喜政権〕 徳川慶喜は、朝廷の管理を強化して、天皇の権威の独占をはかった。フランスとの提携をふかめ、また、広範な幕政改革に着手した。慶応幕政改革である。 ...
18. 会津戦争画像
日本大百科全書
戊辰(ぼしん)戦争のなかの一戦争。1868年正月の鳥羽伏見(とばふしみ)の戦いののち、維新政府は徳川慶喜(よしのぶ)、会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主松平 ...
19. 会津戦争
世界大百科事典
1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命 ...
20. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
で公武合体策の推進力として期待された。同年十二月、慶勝は朝命により畿内の警衛を命ぜられ、将軍徳川慶喜の大政奉還上奏後も、福井藩主松平慶永とともに慶喜の自発的な辞 ...
21. あかさかひかわちよう【赤坂氷川町】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
兵庫(現兵庫県神戸市兵庫区)に出張、薩長などの他藩士と交流し、閉門にもなりながら献策もして江戸開城談判、徳川慶喜助命に成功するなど生涯でもっとも活躍した時代を送 ...
22. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 248ページ
東洋文庫
一時差控えを命ぜられたが、のち 外国奉行、勘定奉行、陸軍奉行、若年寄を歴任。 維新後次郎八と改名、徳川慶喜の水戸退去、謹慎 に随行した。荒井郁之助〔天三五-冗究 ...
23. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 275ページ
東洋文庫
首尾を果たす。慶応四年 毛歳 一月、パリの栗本公使より、前年十月明治元年 将軍徳川慶喜大政奉還の報を受け、帰 (天六八) 国を決意する。  ...
24. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 290ページ
東洋文庫
行わしめた。この改革の眼目とし、海軍拡張のためにアメリカに軍艦建造の注文となったのである(『徳川慶喜公伝』2、東洋文庫95、七〇ページ)。このアメリカに対する軍 ...
25. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 302ページ
東洋文庫
相手に万丈の気焔をはいた。榎本が艦長、沢が副長となって、軍艦奉行矢田堀鴻司令官の下で海上警備に当り、徳川慶喜の大坂敗走の際にその搭乗艦となったo縦横の活躍にもか ...
26. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 308ページ
東洋文庫
参考文献 一、単行本徳川慶喜公伝 四冊 東洋文庫 昭和四二年四月一四三年一月刊渋沢栄一若干凡社 原本八冊(本伝四冊、資料編三冊、索引一冊) 大正七年 ...
27. 浅野長勲
日本大百科全書
月薩長(さっちょう)2藩と三藩挙兵討幕の盟約を結びながら、土佐藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を勧告した。また、王政復古になると議定 ...
28. あさのながこと【浅野長勲】
国史大辞典
。広島藩は同年九月薩長二藩と三藩挙兵討幕の盟約を結んだが、高知藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告した。長勲は同年十一月率兵入京し、十二月王政 ...
29. あさの-ながこと【浅野長勲】
日本人名大辞典
安政5年安芸(あき)広島新田藩主浅野家6代。明治2年本藩をつぎ安芸広島藩主浅野家12代。この間将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還をすすめるなど,国事に奔走。維新 ...
30. あさひこしんのうにっき【朝彦親王日記】
国史大辞典
同元年七月十九日の禁門の変に先立つこと四日前に始まり、慶応三年十月十四日の討幕の密勅降下と将軍徳川慶喜の大政奉還奏請という大事件のわずか半月以前に終っているこの ...
31. あつこじょおう【敦子女王】
日本人名大辞典
大正-昭和時代前期の皇族。明治40年5月8日生まれ。伏見宮博恭王(ひろやすおう)の第2王女。母は徳川慶喜(よしのぶ)の9女経子。大正15年伯爵で動物学者の清棲幸 ...
32. 天野八郎
世界大百科事典
や,徳川氏の受けた朝敵の汚名をそそごうと幕臣たちを集め,彰義隊を組織して副頭取となる。前将軍徳川慶喜などの説得にも応ぜず,上野寛永寺を本拠として官軍に抵抗。敗軍 ...
33. アメリカ彦蔵自伝 1 279ページ
東洋文庫
二十五日)あるいは九月二十三日(十酬 月十四日)、将軍家茂が、政事総裁職の 松平慶永、後見職の徳川慶喜らをしたが えて、浜庭(のちの浜離宮)に ...
34. アメリカ彦蔵自伝 1 291ページ
東洋文庫
伝えられるところによれば、この会談でフランスの海軍司令官は奉行に「いったいミカドが将軍に対し、一橋〔徳川慶喜〕に外国人を国外に追放するように指令せよ、と命じたと ...
35. アメリカ彦蔵自伝 1 294ページ
東洋文庫
戦争に巻き込む危険に直面するよりも、賠償を支払うようにとの沙汰をうけたものと推測した。 注 将軍後見職の徳川慶喜は、すでに六月 二十三日(旧五月八日) ...
36. アメリカ彦蔵自伝 2 138ページ
東洋文庫
貴下が帝国の福祉を増進するため、陛下に協力するよう要請せよとのご沙汰があった」。 注 ここに掲げられた徳川慶喜の建白は一 八六八年一月の日付になってい ...
37. アメリカ彦蔵自伝 2 285ページ
東洋文庫
政復古のクーデタi(一・三)。◇鳥羽・伏見の合戦 (一・老)。◇徳川慶喜は二月に江戸に帰り、以後は謹慎。江戸の開城は五月三日。 ◇維 ...
38. あらしけいし【嵐圭史】[付録]
歌舞伎事典
郎、平成17・11前進座劇場《五重塔》ののっそり十兵衛、平成21・5国立劇場《江戸城総攻》の徳川慶喜などを演じる。平成22芸術選奨文部科学大臣賞 口跡よし姿よし ...
39. アラビアン・ナイト 2 5ページ
東洋文庫
拠馬伽㎜訳著 訳注著編訳著訳著訳訳説述訳著6972幕末外交談12全二巻 妬㎜ 撒一訳瀦76昔夢会筆記〈徳川慶喜公回想談〉搬触保群論校諦79加波山事件〈民権派激 ...
40. ありすがわのみやひ-さだこ【有栖川宮妃貞子】
日本人名大辞典
)親王の妃。嘉永(かえい)3年10月27日生まれ。徳川斉昭(なりあき)の11女。慶応3年将軍徳川慶喜(よしのぶ)の養女となり,明治3年熾仁親王と結婚。和歌を小池 ...
41. あわおきのかいせん【阿波沖の海戦】
国史大辞典
発射し、勝敗の決しないまま日没に至って戦闘を終了した。この後開陽丸は大坂沖に引き返し、やがて将軍徳川慶喜らを乗せて同月十二日江戸に帰った。また春日丸は、土佐沖を ...
42. 安政の大獄画像
日本大百科全書
雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(斉昭の第7子。のちに徳川慶喜)を将軍継嗣にしようとし(一橋派)、他方、幕閣独裁をとろう ...
43. あんどうくぜせいけん【安藤・久世政権】 : 文久・慶応期
国史大辞典
すすめ幕府権力強化を計った。他方では、井伊政権の強圧方針は継承せず、朝廷・雄藩には宥和的な姿勢をとった。徳川慶喜・徳川慶勝・松平慶永・山内豊信等々、一橋派の大名 ...
44. アーネスト・サトウ伝 65ページ
東洋文庫
大君が兵馬を引き連れて京都に進軍するとの姿勢を示すとともにさらに大君の親戚にあたる一橋〔後の徳川慶喜。この時禁裏守衛総督として朝議において勅許を強く主張〕が天皇 ...
45. アーネスト・サトウ伝 73ページ
東洋文庫
重要視されるようになった。つまり条約の天皇による批准を、かねてから積極的に求めてぎたのがこの徳川慶喜なのであった。この局面において彼が将軍の地位に就いたことは日 ...
46. アーネスト・サトウ伝 79ページ
東洋文庫
奏請する将軍徳川慶喜の慶応三年(一八六七年)四月九日付の上奏文(『徳川 慶喜公伝』)〕。 恐怖の襲撃 掛川の一夜 自分より年長であるとともに、父・孝明天皇の ...
47. アーネスト・サトウ伝 92ページ
東洋文庫
れる 一八六八年一月四日京都御所から次のような勅令が出された。 「将軍の退位を了承する」〔徳川慶喜に辞官・納地を命ずる〕この短い言葉を以て天皇の体制が日本帝国 ...
48. アーネスト・サトウ伝 180ページ
東洋文庫
条約にも用いられていることからみて大君として使用される多少の根拠はあるとしている。(19) 諸侯会議 徳川慶喜は一八六六年に将軍に就任すると、諸侯を召集して征長 ...
49. いくしま【幾島】
日本人名大辞典
が将軍徳川家定と結婚したさい将軍夫人付老女として江戸城大奥にはいる。将軍継嗣問題がおきたとき徳川慶喜(よしのぶ)を擁立する西郷隆盛と天璋院との間を斡旋(あっせん ...
50. いけだ-もちまさ【池田茂政】
日本人名大辞典
1839−1899 幕末の大名。天保(てんぽう)10年10月11日生まれ。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の9男。徳川慶喜(よしのぶ)の弟。池田慶政(よしまさ)の養 ...
「徳川慶喜」の情報だけではなく、「徳川慶喜」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶

徳川慶喜と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
日本史上の人物と同じカテゴリの記事をもっと見る


「徳川慶喜」は人物に関連のある記事です。
その他の人物に関連する記事
ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
人物に関連する記事をもっと見る


ジャパンナレッジは約1900冊以上(総額850万円)の膨大な辞書・事典などが使い放題の「日本最大級のインターネット辞書・事典・叢書サイト」です。日本国内のみならず、海外の有名大学から図書館まで、多くの機関で利用されています。
ジャパンナレッジの利用料金や収録辞事典について詳しく見る▶