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  11. 徳川慶喜
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
一八三七 - 一九一三
江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山。父の命によって生後七ヵ月で水戸に送られ、幼時教育を藩地で受け、その後十一歳まで同地で過ごした。斉昭は水戸藩の天保の改革を推進するため、天保十一年正月水戸に帰り、約四年間滞在した。そこでの慶喜に対する教育はかなり厳しかったようである。少年時代の慶喜は聡明で、斉昭も天晴な名将となることを期待した。弘化四年(一八四七)九月一橋家を相続し、十二月元服、従三位左近衛中将に任じ、刑部卿と称し、名を慶喜と改めた。安政二年(一八五五)十二月一条忠香養女延君(美賀子、貞粛院)と結婚、同月参議となった。時に将軍家定の継嗣の議が起り、その候補者として和歌山藩主徳川慶福と慶喜の名が挙げられた。一方安政五年日米修好通商条約調印問題が起り、将軍継嗣問題とからみ合って、政局は複雑な様相を示した。同年四月大老となった彦根藩主井伊直弼は、六月条約調印を断行した。これを聞いて父斉昭、兄の水戸藩主慶篤、福井藩主松平慶永らは不時登城して、大老の条約調印を面責した。慶喜もこれに加わった。翌月将軍家定が没したが、幕府はその喪を秘し、徳川慶福を将軍継嗣と発表、八月慶福は将軍となり、名を家茂と改めた。一方、慶喜は不時登城を譴責され、登城停止となり、翌六年八月隠居・慎を命ぜられた。これは井伊直弼による安政の大獄処断の一つであるが、爾後文久年間(一八六一―六四)尊攘運動が盛んになる約三年間、慶喜は政局外の人となった。万延元年(一八六〇)八月父斉昭が没し、翌月謹慎は解かれたが、依然接客文通は禁ぜられ、文久二年四月ようやくこれも解除された。このころ慶喜登用の勅旨があり、七月慶喜は一橋家を再相続、一躍将軍後見職となり、同じく政事総裁職となった前福井藩主松平慶永とともに、幕府の要職を努めることとなった。十二月将軍上洛の先駆として上京し、翌三年正月はじめて孝明天皇に会った。京都では尊攘運動が最盛期に入っていたが、慶喜は将軍を輔け朝幕間を奔走し、三月賀茂社行幸に、翌月石清水社行幸に供奉した。同月京都を発して江戸に帰ったが、八月十八日の政変で尊攘派が京都から一掃されると、十月海路再び入京し、十二月朝議参予を命ぜられた。翌元治元年(一八六四)三月参予をやめ、禁裏御守衛総督・摂海防禦指揮を命ぜられて一時下坂したが、六月から七月にかけてしばしば参内し、七月十九日の禁門の変に際しては、御所防衛軍を指揮して活躍した。十月水戸藩天狗党の西上にあたり、鎮圧の勅命を受けて近江国海津に出陣した。慶応元年(一八六五)六月から翌二年にかけてしばしば京坂間を往復し、この間慶応元年十月には条約勅許を得ることに成功した。さらに同二年六月将軍に代わって第二次征長の勅許を得たが、たまたま翌七月二十日将軍家茂は大坂城中で病死した。慶喜は八月徳川宗家を相続、ついで十二月五日権大納言・正二位・征夷大将軍に任叙された。同月孝明天皇崩御、翌三年正月国喪で征長軍を解いた。三月兵庫開港を奏請、五月勅許を得た。宗家相続以降、慶喜は政治の刷新に努め、軍備充実をはかり、またフランス公使ロッシュに接近してその意見を徴するなど、その施政には見るべきものがあった。しかし幕府の衰退は掩うべくもなく、ついに土佐藩の建言に基づいて十月十四日大政奉還を上表し、翌日勅許を得た。このことは討幕派の出鼻をくじいたものであり、また慶喜は大政奉還をしても、国政の主導権は依然幕府の手中に温存されると考えていた。しかし十二月九日の「王政復古」の大号令の発布、続く翌明治元年(一八六八)正月三日の鳥羽・伏見の戦の開始によって事態は一変し、慶喜は海路江戸に帰った。一時薩長側と一戦を辞せずと考えたようであるが、恭順専一の態度をとり、二月十二日江戸城から上野寛永寺大慈院に移って、閉居謹慎した。四月死一等を減ぜられ、ついで水戸に移った。閏四月田安亀之助(家達)が徳川宗家の家督をつぎ、駿府(静岡)七十万石を与えられ、七月慶喜は水戸から駿府に移った。同二年九月謹慎を解かれたが、爾後同三十年居を東京に移すまで同地に閑居し、もっぱら趣味の一途に生きた。その子女は、二十一人に及んだ。明治五年従四位に、同十三年正二位に、ついで同二十一年従一位に叙せられた。三十一年はじめて東京皇居に参内、同三十五年公爵を授けられ、さらに同四十一年勲一等旭日大綬章を受けた。大正二年(一九一三)十一月二十二日病没。七十七歳。墓は東京都台東区谷中の徳川家墓地にある。
[参考文献]
渋沢栄一『徳川慶喜公伝』、徳川慶喜公伝編纂所編『昔夢会筆記』、宮内省編『孝明天皇紀』、同編『明治天皇紀』、藤井貞文『宿命の将軍徳川慶喜』、松浦玲『徳川慶喜』(『中公新書』三九七)、小西四郎『徳川慶喜のすべて』、田中惣五郎『最後の将軍徳川慶喜』
(小西 四郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
[1837―1913]

江戸幕府第15代、最後の将軍。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で幼名七郎麿(しちろうまろ)、または昭致(あきむね)。字(あざな)は子邦、刑部卿(ぎょうぶきょう)を名のる。天保(てんぽう)8年9月29日、小石川の江戸藩邸に生まれる。水戸弘道(こうどう)館で学んだのち、1847年(弘化4)一橋(ひとつばし)家を継いで慶喜と改名した。
 ペリー来航後、将軍継嗣(けいし)問題で改革派雄藩の松平慶永(まつだいらよしなが)ら一橋派に推され、南紀派の推す徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))と争ったが、1858年(安政5)4月井伊直弼(いいなおすけ)が突如、大老職に就任したあと、慶福を世子に決定したため敗れた。また勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことに対し、慶喜は、実父徳川斉昭、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して大老を詰責したために、登城を止められ、翌年の安政(あんせい)の大獄で隠居謹慎の処分を受けた。しかし、1860年(万延1)井伊直弼が桜田門外に暗殺されてのち、幕政の宥和(ゆうわ)方針によって謹慎を解かれ、さらに1862年(文久2)勅使大原重徳(おおはらしげとみ)と島津久光(しまづひさみつ)が東下して幕政改革を迫った際に、勅旨により、一橋家の再相続を許され、同時に将軍後見職に任ぜられた。
 かくて事態は一変し、慶喜は、政事総裁職についた松平慶永(よしなが)とともに幕政の頂点にたつことになったが、改革は難航した。1863年、朝廷の攘夷(じょうい)督促に対して自ら開国を説くべく上洛(じょうらく)して朝廷と折衝したが、かえって尊攘派勢力の工作によって攘夷期日を5月と約束させられて江戸に帰った。同年八月十八日の政変により、京都から尊攘派が排除されると再度上洛し、松平容保(まつだいらかたもり)、同慶永、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)とともに、朝議参与を命じられた。しかし、あくまで幕府中心の改革を主張する慶喜は他の参与と対立し、参与会議も失敗に終わる。1864年、慶喜は参与と将軍後見職を辞任して禁裏守衛総督につき、禁門(きんもん)の変に活躍、翌1866年(慶応2)の第二次長州征伐で東軍が敗戦を重ねるうち、家茂(いえもち)が死去したため、12月、第15代将軍職を継いだ。
 フランスと結んで洋式軍制改革を行い、幕府の制度も改革して成果をあげたが、大勢挽回(ばんかい)はならず、1867年10月、討幕の密勅が下ると同時に大政を奉還した。なおも諸藩連合の政治体制のなかで徳川氏の権力を維持することを策したが、12月、討幕派に動かされた朝議が王政復古を宣し、年が明けると鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いにおいて幕府軍は大敗した。慶喜は海路江戸に帰還し、フランス公使ロッシュらの再挙の勧めを拒否して上野寛永寺(かんえいじ)に移り、謹慎の意を表した。江戸開城後は水戸で謹慎し、新政府の命によって徳川宗家の家督を田安亀之助(たやすかめのすけ)(家達(いえさと))に譲り、駿府(すんぷ)に移った。1869年(明治2)謹慎を許され、のち公爵に列した。大正2年11月22日没。
[井上勝生]



世界大百科事典
徳川慶喜
とくがわよしのぶ
1837-1913(天保8-大正2)

江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。この政争は家定の意志と井伊直弼の登場とによって紀州派が勝利し,慶喜は安政の大獄の一環として隠居謹慎の処分を受けた。62年(文久2)島津久光に擁されて東下した勅使大原重徳が慶喜を将軍後見職とするよう要求し,慶喜は一橋家を再相続したうえで64年(元治1)まで家茂の後見職を務めたが,10代後半に達した将軍との仲はうまくいかないことが多かった。64年滞京中に京都朝廷から直接に禁裏守衛総督に任命され,同年の禁門の変では防御側の総指揮をとったが,江戸の幕府主流から見ると目ざわりな存在で,老中が武力で江戸に連れ戻そうとして失敗したこともある。65年(慶応1)に家茂が辞表を書いたときには,その文中で皮肉をこめて後任に慶喜を推薦した。

 66年家茂の死で15代将軍となったが京都を離れることができないまま江戸の幕政改革を指揮して,その手腕には倒幕派を恐怖させるものがあった。しかし67年10月には大政奉還という屈折した作戦をとることを余儀なくされ,12月には王政復古クーデタで大坂城へ退き,68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で敗北して江戸へ戻り,権力を放棄し,謹慎生活に入った。長く静岡で暮らしたが97年東京に帰住し,1902年家達(いえさと)が相続している徳川公爵家とは別に公爵を授けられ,08年には勲一等旭日大綬章を受けた。明治国家が慶喜の大政奉還を評価する歴史解釈をとったことの現れである。
[松浦 玲]

[索引語]
一橋慶喜 将軍継嗣問題 徳川家茂
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17. とくがわよしのぶせいけん【徳川慶喜政権】 : 文久・慶応期
国史大辞典
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18. 会津戦争画像
日本大百科全書
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19. 会津戦争
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1868年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦後,新政府は,会津藩主松平容保(かたもり)を徳川慶喜に次ぐ朝敵とし,奥羽鎮撫総督に沢為量(ためかず),のち九条道孝を任命 ...
20. あおまつばじけん【青松葉事件】
国史大辞典
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21. あかさかひかわちよう【赤坂氷川町】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
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22. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 248ページ
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一時差控えを命ぜられたが、のち 外国奉行、勘定奉行、陸軍奉行、若年寄を歴任。 維新後次郎八と改名、徳川慶喜の水戸退去、謹慎 に随行した。荒井郁之助〔天三五-冗究 ...
23. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 275ページ
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24. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 290ページ
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行わしめた。この改革の眼目とし、海軍拡張のためにアメリカに軍艦建造の注文となったのである(『徳川慶喜公伝』2、東洋文庫95、七〇ページ)。このアメリカに対する軍 ...
25. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 302ページ
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相手に万丈の気焔をはいた。榎本が艦長、沢が副長となって、軍艦奉行矢田堀鴻司令官の下で海上警備に当り、徳川慶喜の大坂敗走の際にその搭乗艦となったo縦横の活躍にもか ...
26. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 308ページ
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    参考文献   一、単行本徳川慶喜公伝 四冊 東洋文庫 昭和四二年四月一四三年一月刊渋沢栄一若干凡社 原本八冊(本伝四冊、資料編三冊、索引一冊) 大正七年 ...
27. 浅野長勲
日本大百科全書
月薩長(さっちょう)2藩と三藩挙兵討幕の盟約を結びながら、土佐藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還を勧告した。また、王政復古になると議定 ...
28. あさのながこと【浅野長勲】
国史大辞典
。広島藩は同年九月薩長二藩と三藩挙兵討幕の盟約を結んだが、高知藩の公議政体論にも共鳴し、将軍徳川慶喜に大政奉還を勧告した。長勲は同年十一月率兵入京し、十二月王政 ...
29. あさの-ながこと【浅野長勲】
日本人名大辞典
安政5年安芸(あき)広島新田藩主浅野家6代。明治2年本藩をつぎ安芸広島藩主浅野家12代。この間将軍徳川慶喜(よしのぶ)に大政奉還をすすめるなど,国事に奔走。維新 ...
30. あさひこしんのうにっき【朝彦親王日記】
国史大辞典
同元年七月十九日の禁門の変に先立つこと四日前に始まり、慶応三年十月十四日の討幕の密勅降下と将軍徳川慶喜の大政奉還奏請という大事件のわずか半月以前に終っているこの ...
31. あつこじょおう【敦子女王】
日本人名大辞典
大正-昭和時代前期の皇族。明治40年5月8日生まれ。伏見宮博恭王(ひろやすおう)の第2王女。母は徳川慶喜(よしのぶ)の9女経子。大正15年伯爵で動物学者の清棲幸 ...
32. 天野八郎
世界大百科事典
や,徳川氏の受けた朝敵の汚名をそそごうと幕臣たちを集め,彰義隊を組織して副頭取となる。前将軍徳川慶喜などの説得にも応ぜず,上野寛永寺を本拠として官軍に抵抗。敗軍 ...
33. アメリカ彦蔵自伝 1 279ページ
東洋文庫
二十五日)あるいは九月二十三日(十酬    月十四日)、将軍家茂が、政事総裁職の    松平慶永、後見職の徳川慶喜らをしたが    えて、浜庭(のちの浜離宮)に ...
34. アメリカ彦蔵自伝 1 291ページ
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伝えられるところによれば、この会談でフランスの海軍司令官は奉行に「いったいミカドが将軍に対し、一橋〔徳川慶喜〕に外国人を国外に追放するように指令せよ、と命じたと ...
35. アメリカ彦蔵自伝 1 294ページ
東洋文庫
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36. アメリカ彦蔵自伝 2 138ページ
東洋文庫
貴下が帝国の福祉を増進するため、陛下に協力するよう要請せよとのご沙汰があった」。 注   ここに掲げられた徳川慶喜の建白は一    八六八年一月の日付になってい ...
37. アメリカ彦蔵自伝 2 285ページ
東洋文庫
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郎、平成17・11前進座劇場《五重塔》ののっそり十兵衛、平成21・5国立劇場《江戸城総攻》の徳川慶喜などを演じる。平成22芸術選奨文部科学大臣賞 口跡よし姿よし ...
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拠馬伽㎜訳著 訳注著編訳著訳著訳訳説述訳著6972幕末外交談12全二巻  妬㎜ 撒一訳瀦76昔夢会筆記〈徳川慶喜公回想談〉搬触保群論校諦79加波山事件〈民権派激 ...
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41. あわおきのかいせん【阿波沖の海戦】
国史大辞典
発射し、勝敗の決しないまま日没に至って戦闘を終了した。この後開陽丸は大坂沖に引き返し、やがて将軍徳川慶喜らを乗せて同月十二日江戸に帰った。また春日丸は、土佐沖を ...
42. 安政の大獄画像
日本大百科全書
雄藩合議制を主張する家門・外様大名の一派は一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)(斉昭の第7子。のちに徳川慶喜)を将軍継嗣にしようとし(一橋派)、他方、幕閣独裁をとろう ...
43. あんどうくぜせいけん【安藤・久世政権】 : 文久・慶応期
国史大辞典
すすめ幕府権力強化を計った。他方では、井伊政権の強圧方針は継承せず、朝廷・雄藩には宥和的な姿勢をとった。徳川慶喜・徳川慶勝・松平慶永・山内豊信等々、一橋派の大名 ...
44. アーネスト・サトウ伝 65ページ
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大君が兵馬を引き連れて京都に進軍するとの姿勢を示すとともにさらに大君の親戚にあたる一橋〔後の徳川慶喜。この時禁裏守衛総督として朝議において勅許を強く主張〕が天皇 ...
45. アーネスト・サトウ伝 73ページ
東洋文庫
重要視されるようになった。つまり条約の天皇による批准を、かねてから積極的に求めてぎたのがこの徳川慶喜なのであった。この局面において彼が将軍の地位に就いたことは日 ...
46. アーネスト・サトウ伝 79ページ
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奏請する将軍徳川慶喜の慶応三年(一八六七年)四月九日付の上奏文(『徳川  慶喜公伝』)〕。 恐怖の襲撃  掛川の一夜 自分より年長であるとともに、父・孝明天皇の ...
47. アーネスト・サトウ伝 92ページ
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れる 一八六八年一月四日京都御所から次のような勅令が出された。  「将軍の退位を了承する」〔徳川慶喜に辞官・納地を命ずる〕この短い言葉を以て天皇の体制が日本帝国 ...
48. アーネスト・サトウ伝 180ページ
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条約にも用いられていることからみて大君として使用される多少の根拠はあるとしている。(19) 諸侯会議 徳川慶喜は一八六六年に将軍に就任すると、諸侯を召集して征長 ...
49. いくしま【幾島】
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50. いけだ-もちまさ【池田茂政】
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1839−1899 幕末の大名。天保(てんぽう)10年10月11日生まれ。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の9男。徳川慶喜(よしのぶ)の弟。池田慶政(よしまさ)の養 ...
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安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三七 - 一九一三 江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山
勝海舟(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男
吉田松陰(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 五九 幕末の思想家、教育者。長門の人。幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す。天保元年(一八三〇)八月四日、父長州藩士杉百合之助常道(家禄二十六石)・母滝の次男として
井伊直弼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八一五 - 六〇 江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)など
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五八 米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち
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