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  11. 毛利元就
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
毛利元就
もうりもとなり
一四九七 - 一五七一
戦国時代の武将。中国地方の大名。毛利弘元の次男で母は福原広俊の娘。明応六年(一四九七)三月十四日安芸国吉田の郡山城(広島県高田郡吉田町)で出生(母の実家福原城とも)。幼名は松寿丸、のち少輔次郎。同九年家督を長男興元に譲って隠退した父に伴われ郡山城西北方の多治比猿掛城に移る。五歳で母、十歳で父と死別し、兄は大内義興に随伴して京都に出陣し、孤立無援の境遇で苦労する。十五歳で元服して元就と称す。永正十三年(一五一六)兄が死没し甥幸松丸(二歳)が家を継ぎ、元就は毛利氏の庶家多治比殿となる。翌年山県郡有田城外(広島県山県郡千代田町)において安芸守護家の武田元繁を討ち初陣の武名をあげる。大永三年(一五二三)幸松丸が死没したので、元就が一族老臣に迎えられ同年八月十日郡山城に入って宗家を相続する。この時期の毛利氏は安芸国吉田盆地の本領のほかに同国西条盆地と備後国世羅台地に新所領を持ってはいたが、まだ芸備両国に三十余家あった国人領主(国衆)の一家にすぎなかった。毛利家中においても宗家は庶子家や近隣の小領主を家臣化してはいたが、その関係は惣領家を中心とする同盟者の地位を脱しておらず、強固な主従制的絶対支配にはほど遠かった。当時出雲の尼子経久の勢力が芸備両国に南下しており、毛利氏もその麾下に入っていたが、元就はその相続の際尼子方が裏面でかれを排除しようと策動したことを憎んで、大永五年から尼子氏と断ち大内氏の麾下に入る。以後尼子方の高橋・武田氏を滅ぼす一方、大内氏の権勢を背景に宍戸・熊谷・天野・平賀氏など近隣の国衆と姻戚や同盟関係などによって横の結びつきの強化につとめる。天文九年(一五四〇)九月から翌年正月にかけて尼子晴久率いる三万の大軍に郡山城が包囲されるが、大内氏からの援軍を得てこれを撃退してから元就の武名は中央にまで知られる。官職は治部少輔、右馬頭(天文二年)、陸奥守(永禄三年(一五六〇))。夫人(法号妙玖(みょうきゅう))に死別した翌年の天文十五年に家を長男隆元に譲り隠居するが、実権は手放さず陰にあって自由に手腕を振るうことになる。天文十一・十二年大内義隆の遠征に従軍しその敗退によって苦難をなめる。以後義隆は軍事をかえりみなくなったため、芸備両国の経営が元就の裁量に任されることが多くなる。このときかれは有力国衆の小早川氏と吉川氏に三男隆景と次男元春を養子に入れて家を継がせ、毛利氏の両翼を固める。天文十三年隆景を竹原小早川氏に養子に入れたときは大内氏の再三の勧めによったが、同十九年にはその惣領家沼田小早川氏に失明していたとはいえ当主繁平がいたのに、これを廃しその妹と隆景をめあわせ家を継がせる。吉川氏では当主興経と宿老の対立を利用し当主を隠退させ元春に相続させるが、同十九年には元春を吉川氏の本拠に入部させ興経父子を殺害している。このとき両氏には毛利氏家臣を送り込んでいる。この強引な処置は前年大内義隆に謁するため山口に赴いたかれが、陶氏らのクーデターの進行を知り、大内氏に頼れなくなったことを自覚したためとみられる。同十九年には毛利氏内部においても上意を無視し横暴が目に余る井上一族を誅戮している。その罪状は行事・政務への召集に応ぜず、軍役・普譜役などを勤めず、社寺・同僚の所領を横奪し、また無理に喧嘩を吹き掛けるというものである。この事件の直後家臣二百三十八名は起請文を提出し、毛利氏の公儀(公権力の執行者)としての家中支配権を承認しその命令は忠実に実行することを誓う。ここに家臣は独立性を失い毛利氏の軍事動員権・行政命令権・警察裁判権のもとに服することを余儀なくされた。この時期に毛利公儀の行政執行のため五奉行を頂点とする奉行衆が組織され、さらに軍法書も作成し軍事統制も強化されて毛利氏の戦国大名としての態勢が整った。天文二十年八月の大内義隆に対する陶隆房(晴賢)のクーデターに元就は最初陶氏に味方し、佐東河(太田川)下流域を占領し広島湾頭において直属水軍の河の内警固衆育成に努める。また政権奪取後の多忙な晴賢に代わって芸備国衆の大半を動員して南下の尼子勢を打破し、芸備国衆の盟主として独立の立場を強化した。これに対し晴賢は元就が陥した旗返城(広島県三次市)に腹心の部下を入れて元就を牽制し、さらに天文二十二年十月石見津和野の吉見正頼が反晴賢の兵を挙げると、その討伐のため元就にも出動を強く求めた。元就は天文二十三年五月十二日晴賢と断交し一挙に厳島まで占領し広島湾海域の要塞化につとめる。弘治元年(一五五五)九月二十一日陶方本隊二万余が元就の謀略で誘引された形で厳島に上陸した。これに対し同年九月晦日の夜から翌十月一日にかけて毛利勢四千弱が襲撃して陶軍を全滅させる。厳島の戦は海上戦でもあって毛利方は河の内・小早川警固衆のほか三島(能島・来島・因島)村上海賊衆も味方につけて陶方水軍を打破し、陶勢の退路を断った。元就は弘治三年四月に大内義長を長府(山口県下関市)に追いつめて滅ぼし防長両国を比較的短期間に支配下に収めた。その勝因は土一揆の激しい反抗はあったものの、豊後の大友義鎮と大内氏遺領分割の密約を結び、豊筑両国を大友氏に任せるかわりに防長には義鎮が弟の義長を援助干渉しないよう封じたためである。毛利氏は芸・備・防・長とすでに兵を進めている石見を加えた五ヵ国の大守となったが、敵対勢力の山陰の尼子氏、九州の大友氏と両面で接することになり、瀬戸内海の伊予海賊衆の去就も不安定であった。内部では毛利家中衆は給地の増加を望む欲ばかりで大領国の経営を任せる人材がいなかったし、国衆はまだ統制に十分服していなかった。この情勢下の弘治三年十一月二十五日付で元就は三子宛の教訓状を出した。これは三子に協力の必要を教えた倫理的要素もあったが、むしろ「毛利両川体制」の形成を宣言した政治的性格の強いものであった。元就は隆元の意向も汲んで、他家を継いではいるが吉川元春・小早川隆景に毛利家運営に参画させようとしたもので、両人は隆元没後輝元時代になっても毛利氏を支え元春は山陰、隆景は山陽内海地域の管理・統轄にあたる体制がつくられた。元就は将軍足利義輝仲介による尼子氏との講和は拒否して永禄五年七月出雲に大挙出陣するが、大友氏との講和は同六年三月に受け入れる。周防出張中の隆元は出雲へ転戦途中急死するので、元就は孫輝元の後見をすることになる。同九年十一月尼子氏を降伏させ、同十一年五月には河野氏を援けて伊予を制し、同年六月には北九州に大挙出兵し自身も本営を長府に進める。ところが永禄十二年六月に尼子牢人衆の出雲侵入、同年十月大内輝弘の大友水軍援助による周防上陸、能島村上氏の離反、備前浦上氏の反抗などいずれも大友氏と連携策動したものであった。元就は九州から撤退を断行しその包囲網打破を実行するが、それが完了しないうちに元亀二年(一五七一)六月十四日病没する。七十五歳。墓は吉田町の郡山洞春寺跡。法名は日頼洞春大居士。
[参考文献]
『大日本史料』一〇ノ六 元亀二年六月十四日条、『寛政重修諸家譜』六一六、三卿伝編纂所編『毛利元就卿伝』
(河合 正治)


日本大百科全書(ニッポニカ)
毛利元就
もうりもとなり
[1497―1571]

戦国時代の武将。安芸(あき)国高田(たかた)郡吉田郡山(よしだこおりやま)城(広島県安芸高田市吉田町)主、毛利弘元(ひろもと)の二男。のちに父が兄興元(おきもと)に郡山城を譲って多治比猿掛(たじひさるがけ)城(安芸高田市吉田町)に隠退した際、それに従った。興元とその子幸松丸(こうまつまる)が相次いで早世したため、1523年(大永3)重臣に推されて家督を継ぎ、郡山城に入った。大内・尼子(あまご)両勢力の対立する状況のもとで、安芸における大内方の中心として活動し、40年(天文9)には尼子晴久(はるひさ)の率いる大軍に城を囲まれたが、よくこれを撃退した。以後、内にあっては、50年の重臣井上氏一族誅伐(ちゅうばつ)を契機に家中支配権を確立し、外に向かっては、51年に陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆(よしたか)を弑(しい)したのに乗じ安芸・備後(びんご)に支配を広げ、続いて55年(弘治1)の厳島(いつくしま)の戦いで陶氏を滅ぼし周防(すおう)・長門(ながと)を手中に収めた。さらに66年(永禄9)には出雲(いずも)富田(とだ)城(島根県安来(やすぎ)市)の尼子義久(よしひさ)を降伏させ、68年には大友氏攻撃の軍をおこすなど、諸方面に支配の手を伸ばし、その領域は西は長門から東は備中(びっちゅう)・因幡(いなば)まで10か国に及んだという。死後、嫡孫輝元(てるもと)がその跡を継いだ。
 元就がもっとも腐心したのは、広大な領国の統治策である。毛利氏が国人(こくじん)領主出身であり、その版図が急激に拡大したものであったため、そこには支配の統一的原則がなかったからである。とりわけ、もともと毛利氏と対等の関係にあった国衆(くにしゅう)とよばれる有力家臣の存在は、その困難をいっそう大きくした。そこで元就は、征服地の検地などを通じた知行(ちぎょう)制の整備、在地小領主層の家臣への取り立てによる軍事力基盤・在地支配体制の強化、官僚制機構を通じた行政支配の充実などを図った。なかでも特徴的なのは、子供の多いことを利した、養子・婚姻による有力家臣との縁組政策である。その中核が、吉川(きっかわ)家の養子となった二男元春(もとはる)、小早川(こばやかわ)家の養子となった三男隆景(たかかげ)の「毛利両川(りょうせん)」である。彼らは有力家臣家の当主として、また毛利氏一族として、本宗家をよく支えた。
 元就は、その経歴ゆえか、性格が非常に細心・慎重で、子供たちにも盛んに訓戒を与えていた。配慮は微細に及び、親・兄が酒のために早世したことから自身は下戸となり、孫の輝元にも飲酒がすぎぬよう戒めた書状が残っているほどである。とりわけ有名なのは、養家に目を向けがちな元春・隆景に、毛利家をおろそかにしてはならぬとして嫡子隆元(たかもと)への協力を諭した書状で、これが、矢は1本では簡単に折れるが、3本束ねれば折れにくいことを示して、三兄弟の結束を説いたという、かの3本の矢の逸話の源となったとも考えられる。
[池 享]



世界大百科事典
毛利元就
もうりもとなり
1497-1571(明応6-元亀2)

戦国時代の武将。少輔次郎,右馬頭,陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元,甥幸松丸の相次ぐ早世により,1523年(大永3)安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ,郡山城主となる。25年以降出雲の尼子氏と絶って周防大内氏に属し,40年(天文9)には尼子晴久の大軍に郡山城を包囲されたが,籠城戦の末に翌年これを撃退した。引き続き従軍した大内義隆の出雲遠征では敗退したが,大内氏の援助のもとに芸備両国の経略を進めた。安芸守護職を伝える武田氏を銀山(かなやま)城に滅ぼしたほか,安芸の有力国人で石見口を押さえる大朝の吉川(きつかわ)家を次男元春に,同じく瀬戸内に臨む竹原・沼田の両小早川家を三男隆景に相次いで相続させ,芸備国人層の主導的地位を占めた。また50年には老臣井上元兼一族の誅伐を断行して,家中に対する絶対権を確立し権力基盤を整えた。翌年に起きた陶晴賢(すえはるかた)が大内義隆を倒した反乱には,一時静観の態度をとったが,55年(弘治1)厳島の戦で陶軍に大勝し晴賢を自刃させた。その後防長に侵攻し,57年晴賢の擁立した大内義長を滅ぼして防長2国を征服した。引き続き石見経略を進め,大森銀山をめぐって尼子氏と対立し,他方豊前でも大友義鎮と戦った。その後出雲に侵攻して富田月山城を包囲し,66年(永禄9)これを陥れ尼子義久を降伏させた。この間,1563年には嫡子隆元を失ったが,孫の輝元に家督を継がせて後見するとともに,吉川元春,小早川隆景の両川にも宗家を支えさせた。国人領主から一代にして中国地方一帯を支配する戦国大名に成長した元就は,計略に優れた知将であり,その細心さは57年隆元ら3子に結束を説いた教訓状にうかがうことができる。晩年の69年には,大友氏の支援をうけた大内輝弘が周防に,山中鹿介幸盛に擁立された尼子勝久が出雲に相次いで侵入したが,輝元らの平定戦を見守りながら郡山城に病没した。
[加藤 益幹]

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1. 毛利元就画像
日本大百科全書
戦国時代の武将。安芸(あき)国高田(たかた)郡吉田郡山(よしだこおりやま)城(広島県安芸高田市吉田町)主、毛利弘元(ひろもと)の二男。のちに父が兄興元(おきもと ...
2. 毛利元就[百科マルチメディア]画像
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毛利元就画像 煕春龍喜賛」 東京大学史料編纂所所蔵模写(部分) ©東京大学史料編纂所 ...
3. 毛利元就
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1497-1571(明応6-元亀2) 戦国時代の武将。少輔次郎,右馬頭,陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元,甥幸松丸の相次ぐ早世により,1523年(大永3)安芸 ...
4. もうり‐もとなり【毛利元就】
日本国語大辞典
戦国大名。毛利氏はもと安芸国吉田荘地頭。天文九年(一五四〇)、大内・尼子両氏の対立に、大内義隆に属して尼子晴久を破った。また二男元春を吉川氏に、三男隆景を小早川 ...
5. もうりもとなり【毛利元就】画像
国史大辞典
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6. 毛利元就
日本史年表
1523年〈大永3 癸未③〉 7・25 毛利元就 ,一族老臣に擁立され家督継承(毛利家文書)。 1537年〈天文6 丁酉〉 3・7 毛利元就,尼子経久方の安芸 ...
7. もうり-もとなり【毛利元就】
日本人名大辞典
1497−1571 戦国時代の武将。明応6年3月14日生まれ。毛利弘元の次男。大永(たいえい)3年(1523)家督をつぎ,安芸(あき)(広島県)郡山城主となる。 ...
8. もうりもとなり【毛利元就】
日本架空伝承人名事典
戦国時代の武将。少輔次郎、右馬頭、陸奥守を称する。弘元の次男。兄興元、甥幸松丸の相次ぐ早世により、一五二三年(大永三)安芸高田郡吉田の国人領主として家督を継ぎ、 ...
9. 毛利元就[文献目録]
日本人物文献目録
第四編』松井広吉(編)『毛利元就』一戸桜外『毛利元就卿』瀬川秀雄『元就公と厳島』瀬川秀雄『毛利元就と教育』水無瀬徳太郎, 小都勇二『郷土史談毛利元就』小都勇二『 ...
10. 毛利元就〓訓書 (見出し語:毛利元就)
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11. 毛利元就獻即位費 (見出し語:毛利元就)
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12. 毛利元就被許菊桐御紋 (見出し語:毛利元就)
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13. 祀毛利元就於豐榮神社 (見出し語:毛利元就)
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©Shogakukan ...
15. 毛利元就花押[図版]画像
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16. もうりもとなりのはか【毛利元就墓】広島県:高田郡/吉田町/吉田村/洞春寺跡
日本歴史地名大系
洞春寺跡にある。県指定史跡。元就は元亀二年六月一四日死去し、初七日の法要を営んだのち、現在火葬場跡として残る所で荼毘に付された。この墓所について「祐長老答国司広 ...
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18. 毛利元就一代記(著作ID:4407509)
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20. 毛利元就追善連歌千句(著作ID:1755551)
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21. 毛利元就伝(著作ID:1755562)
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22. 春霞集(著作ID:227098)
新日本古典籍データベース
大江元就公独詠集 大江元就集 大江元就連歌 贈従三位元就卿詠草 陸奥守大江元就朝臣詠草 毛利元就御詠草 元就詠草 元就句集 毛利元就(もうりもとなり) 和歌 連 ...
23. 春霞集序(著作ID:4370434)
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24. 春霞集跋(著作ID:4363164)
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25. あいおうむら【相合村】広島県:高田郡/吉田町
日本歴史地名大系
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26. あいかごう【秋鹿郷】島根県:松江市/旧秋鹿郡地区/秋鹿村
日本歴史地名大系
以後の土屋氏の動向は不明。戦国期の年月日未詳の二宮俊実覚書(吉川家文書)によると、永禄六年(一五六三)に毛利元就は「相賀」に至り、二月から八月までこの地に陣を布 ...
27. あい‐かまえて[あひかまへて]【相構】
日本国語大辞典
『我返らむ時に、相構て供養し奉らむと』」*毛利家文書‐(天文一九年カ)〔1550か〕一〇月二三日・毛利元就書状(大日本古文書二・五七六)「相かまへて相かまへて、 ...
28. あいものしょうじまち【相物小路町】山口県:山口市/山口町
日本歴史地名大系
経好同前に可被相勤之由候条、為人足仕、魚物小路事被預遺之由候、弥御馳走肝要候」とみえるが、これは毛利元就が大内氏の滅亡後山口高嶺城を守備していた市川経好とともに ...
29. あおがけやまじょうあと【青掛山城跡】広島県:庄原市/峰村
日本歴史地名大系
大永三年(一五二三)七月二五日の福原広俊外十四名連署状(毛利家文書)によると、赤川十郎左衛門就秀は毛利元就の本家相続を要請する重臣一五名のうちに加わっている。ま ...
30. 青木周蔵自伝 55ページ
東洋文庫
る木戸翁は、聞き了て落涙数行、予は足下の説に賛成すと云へり。 注  一 弘治元年(一五五五)毛利元就は厳島の戦いで、陶晴賢を破り、周防・長門二国を領有した。   ...
31. あおやまじょうあと【青山城跡】広島県:高田郡/吉田町/吉田村
日本歴史地名大系
三〇ヵ所以上の平壇が残る。「高田郡村々覚書」に「青光井古城山、高三丁・横四丁、是は雲州尼子晴久公陣所、毛利元就公と合戦之時在城也」とあり、天文九年(一五四〇)尼 ...
32. あかえごう・あかえのしょう【赤江郷・赤江庄】島根県:安来市
日本歴史地名大系
一二月一九日「毛利元就・同輝元連署充行状」同書)が、それぞれ宇山久信と富田(毛利)元秋に与えられた。しかし元亀元年(一五七〇)富田元秋が赤江地域の一括支配を強く ...
33. あかし【明石】広島県:佐伯郡/廿日市町/宮内村
日本歴史地名大系
宮内の西端にあたり、明石峠を経て峠(現佐伯町)に至る。地名は天文二三年(一五五四)六月一一日付の毛利元就同隆元連署状(熊谷家文書)に「於 ...
34. あかなのしょう【赤穴庄】島根県:飯石郡/赤来町
日本歴史地名大系
戦死し、永禄五年(一五六二)閏六月一二日には毛利氏に降伏して赤穴五〇〇貫を安堵されている(「毛利元就・隆元連署書下」同書)。なお天正一九年(一五九一)九月二五日 ...
35. あかまじんぐうもんじょ【赤間神宮文書】
国史大辞典
書以下、応永十六年(一四〇九)守護大内家奉行人奉書案に至る六通、第四巻は弘治二年(一五五六)毛利元就安堵状以下、年未詳毛利輝元書状に至る十二通、第五巻は年未詳毛 ...
36. あがりむら【上里村】広島県:三次市
日本歴史地名大系
り、諸人これを上里御役所とよんだのが村名となったとある。天文四年(一五三五)井上新六に与えた毛利元就感状(「閥閲録」所収内藤新右衛門家文書)に「今度三吉面上里固 ...
37. あきぐん【安芸郡】
国史大辞典
安北郡には守護武田氏、地頭熊谷氏など関東御家人勢力が強かった。戦国時代には全般に大内氏治下に入り、やがて毛利元就によって統一された。毛利輝元の築いた広島城は安南 ...
38. あきぐん【安芸郡】 : 安芸郡/(一)
国史大辞典
安北郡には守護武田氏、地頭熊谷氏など関東御家人勢力が強かった。戦国時代には全般に大内氏治下に入り、やがて毛利元就によって統一された。毛利輝元の築いた広島城は安南 ...
39. 安芸高田(市)画像
日本大百科全書
毛利(もうり)氏と尼子(あまご)氏の争乱の地となった。安芸高田市の前身である高田郡6町域は、戦国時代に毛利元就(もとなり)が吉田郡山(こおりやま)城主となって統 ...
40. 安芸高田[市]
世界大百科事典
シイタケ栽培が行われ,工業団地も造成されている。郡山城跡(史)など毛利氏に関わる史跡が多く,毛利元就はじめ一門の墓所もある。臨済宗の大寺で,元就が京より観世太夫 ...
41. あきたけだし【安芸武田氏】 : 武田氏/(二)
国史大辞典
この系統の光和・信実が安芸国守護として分郡支配を継承していく。しかし永正十四年十月、元繁が有田合戦で毛利元就に敗れて戦死後は衰退していき、大内・毛利・尼子氏らの ...
42. 安芸国画像
日本大百科全書
)氏らが入って、守護武田、今川、山名、大内各氏の支配のもとで在地領主制を展開する。戦国末期、毛利元就(もとなり)が出て1555年(弘治1)巌島で陶晴賢(すえはる ...
43. 安芸国
世界大百科事典
の勢力は衰え,その間に毛利氏が勢力を拡大した。51年陶隆房が義隆打倒の際佐西郡を占領すると,毛利元就は佐東郡の全域を掌中におさめ熊谷・天野をはじめ多くの国衆を従 ...
44. あきのくに【安芸国】画像
国史大辞典
吉田荘から成長した毛利氏ははじめに尼子氏、のちに大内氏に加わった。しかし、やがて大内家臣陶晴賢の謀叛に乗じて毛利元就は安芸を統一し、ついで厳島合戦で晴賢を討死さ ...
45. あさくみごう【朝酌郷】島根県:松江市/旧島根郡地区/朝酌村
日本歴史地名大系
が知られる。永禄七年(一五六四)一一月一八日毛利元就は安芸厳島神社に寄進した朝酌三〇〇貫のうち五〇貫の地を児玉肥前守に預けると伝えており(「毛利元就預ケ状」閥閲 ...
46. あさぐん【厚狭郡】山口県
日本歴史地名大系
吉田宰判区域の厚狭郡を下厚狭郡と記している。郡内のおもな給領主としては、厚狭・舟木市・逢坂に毛利元就の子元康から始まる厚狭毛利氏、津布田村などに貞享四年(一六八 ...
47. あさはら-すけろく【麻原助六】
日本人名大辞典
?−? 戦国-織豊時代の武士。毛利元就(もとなり)の臣。永禄(えいろく)13年(1570)元就の子小早川隆景(たかかげ)が尼子勝久の城を包囲したとき,尼子方の横 ...
48. あさひやまじんじゃ【旭山神社】広島県:広島市/西区/己斐村
日本歴史地名大系
勧請し当所産土神と仰き尊み奉」という。また弘治元年(一五五五)の厳島合戦に際し、郡山(現高田郡吉田町)を発した毛利元就が出陣の途次、一〇月一日未明に当社で戦勝祈 ...
49. あさもうりけはぎやしきながや【厚狭毛利家萩屋敷長屋】山口県:萩市/萩城下/堀内
日本歴史地名大系
[現]萩市大字堀内 厚狭毛利氏は毛利元就の五男元秋を祖とする一門で、厚狭(現厚狭郡山陽町)に知行地(八千三〇〇石余)をもっていた。萩の屋敷は、萩城三の丸の大手門 ...
50. 足利義昭画像
日本大百科全書
10月征夷(せいい)大将軍、参議、左近衛権中将(さこんえごんのちゅうじょう)となる。1569年毛利元就(もうりもとなり)と大友宗麟(おおともそうりん)、上杉輝虎 ...
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毛利元就と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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