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  11. 岩倉具視
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
岩倉具視
いわくらともみ
一八二五 - 八三
幕末・明治時代前期の政治家。小字周丸(かねまる)、号ははじめ華竜、のち対岳。文政八年(一八二五)九月十五日、前権中納言堀河康親の第二子として京都の堀河邸で生まれた。母は勧修寺経逸の女淑子。伏原宣明に学びその斡旋によって、天保九年(一八三八)岩倉具慶の嗣となり、具視と名のった。岩倉家は村上源氏で久我家の支流であり、遠祖具起が江戸時代初期に岩倉を称した。嘉永六年(一八五三)、関白鷹司政通の門に入り朝廷改革の意見を政通に述べた。その引きで安政元年(一八五四)、孝明天皇の侍従となり、ついで近習となって、天皇側近に仕えこれが政治への接近となった。同五年、日米修好通商条約調印の勅許奏請のため老中堀田正睦が上京すると勅許阻止をはかって中山忠能以下公家八十八人の列参を画策して堀田を窮地に追いこんだ。このとき「神州万歳堅策」を内奏した。ついで和宮降嫁問題がおこると、公武合体による朝権回復の策として孝明天皇を動かしてそれを推進した。文久元年(一八六一)、和宮に従って江戸に下り、将軍徳川家茂自筆の誓詞を獲得して帰った。二年、島津久光が入京し公武合体運動に乗り出し、江戸に勅使派遣を要請すると、鹿児島藩の意向をいれた対幕府「三事策」をまとめて同藩を支持し、これから鹿児島藩と結びつくようになった。しかし、和宮降嫁推進が尊攘派の糾弾するところとなってこの年八月、同志とともに辞官落飾を命ぜられ、名を友山と改め、洛北岩倉村に幽居、慶応三年(一八六七)まで追放の身となった。この間、政局は文久三年八月十八日の政変、翌元治元年(一八六四)の禁門の変についで長州征伐へと情勢が急転した。岩倉村には非蔵人松尾相永をはじめ香川敬三・井上石見らが出入りして情報を伝えた。持論の王政復古による国内統一を推進するために「叢裡鳴虫」「全国合同策」「済時策」などの政治意見書を起草し、朝廷・鹿児島藩の同志へ贈った。慶応二年、将軍徳川家茂が急死すると徳川慶喜の将軍就任を阻止して一挙に王政復古を実現せしめようとはかり、同志の中御門経之を動かして有志公家の列参建議を行わしめて、朝廷改革・列藩召集を天皇に上奏せしめた。しかし、これが慶喜側の運動で成功おぼつかなしとみると、方針を転じて鹿児島藩に働きかけたがこれも低迷する間に慶喜の将軍宣下、孝明天皇の崩御によって情勢が一転してしまった。慶応三年三月、入洛を許された。長州処分と兵庫開港勅許問題をめぐって慶喜と島津久光が衝突し、これをきっかけに鹿児島藩は萩藩と連合の下に討幕に向かい、高知藩はこれを牽制すべく大政奉還運動を始め、ついに薩長討幕派の圧力でこの年十二月九日、王政復古の政変となった。この際、岩倉は中御門経之・中山忠能・正親町三条(嵯峨)実愛らの王政復古派の公家とともに参画し、大久保利通と実現の手順を謀議、また玉松操を用いて王政復古の新政構想の立案にあたらしめた。王政復古挙行の夜の小御所会議では慶喜擁護論を説く高知藩の山内容堂を押えて慶喜処分を決した。岩倉はこの日、新政府の参与、ついで議定となった。明治元年(一八六八)、鳥羽・伏見の戦の後、三条実美とともに、副総裁、さらに議定兼輔相となるなど以後終始、新政府の中心人物となった。新政開始にあたって特に朝廷改革に力を注いだ。同二年、東京に移る。七月官制改革で大納言となり、復古功臣賞典として永世禄五千石を受ける。三年、民部省御用掛、年末に勅命で鹿児島・山口に赴く。四年、廃藩置県後の改革で外務卿となり、ついで右大臣となる。この改革で旧公家では三条実美と二人が政府の枢位にとどまり、しかもその中心として重きをなした。十一月、特命全権大使として欧米各国に赴き条約改正の予備交渉を行い、六年帰朝すると征韓論争で政府が分裂、三条太政大臣の病中その代理となり、非征韓派の大久保利通一派を支持した。七年、赤坂喰違で土佐士族武市熊吉らに襲わる。華族会館創設にあたりこれを指導し、皇室の藩屏として華族の同族的結集をはかり、ついで同館内に部長局が設けられると督部長となり、華族仲間の総監督となる。八年、大阪会議の結果、元老院が設けられ、翌九年から国憲編纂が始まると、立憲政体は日本の固有の国体に変更をきたすと反対の意向を示して、次第に保守的態度をとるようになった。九年、天皇の奥羽巡幸に扈従、西南戦争後、自由民権運動が高揚するとその抑圧に苦慮し、対策として諸参議の憲法意見を徴したほか、士族擁護のための士族授産の議などの意見を提出した。十四年、参議大隈重信のイギリス風の憲法意見をきっかけに太政官大書記官井上毅がプロシア風の欽定憲法構想を提出するとこれを採用して政府の憲法制定方針を確定し、同時に参議伊藤博文を起草者に指名した。ついで、十年後の国会開設の勅諭、大隈参議追放の明治十四年の政変を推進した。その後も府県会中止の建議、皇室財産の確立策に力をいれ、宮内省の国史編纂の主宰にあたり、また華族財産保護のための第十五銀行創設、同じく華族の事業として日本鉄道会社の設立をはかるなど皇室擁護のために執念を燃やした。しかしこれより先、胃癌を病み、明治十六年七月二十日病没。五十九歳。墓は東京都品川区南品川の海晏寺にある。贈太政大臣、のち贈正一位。華族令の制定により嗣子具定は公爵に列する。
[参考文献]
『岩倉具視関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、『岩倉贈太政大臣集』、宮内省編『岩倉公実記』、徳富猪一郎『岩倉具視公』
(大久保 利謙)


日本大百科全書(ニッポニカ)
岩倉具視
いわくらともみ
[1825―1883]

幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親(ほりかわやすちか)の次子として文政(ぶんせい)8年9月15日京都に生まれ、岩倉具慶(ともやす)の養嗣子(ようしし)となった。幼名を周丸(かねまる)、号を対岳と称した。1853年(嘉永6)歌道を通じて関白鷹司政通(たかつかさまさみち)に接し、翌年孝明(こうめい)天皇の侍従となる。1858年(安政5)幕府の老中堀田正睦(ほったまさよし)が日米修好通商条約の勅許を奏請したことに対して、同志の公卿とともに、条約一件を朝廷が幕府に委任することに反対して、大原重徳(おおはらしげとみ)らと提携、「神州萬歳堅策」を起草、内奏し、攘夷(じょうい)のための武備充実を主張した。1860年(万延1)桜田門外の変で大老井伊直弼(いいなおすけ)が殺害されたのち、幕府が公武合体策を進め、皇女和宮(かずのみや)の降嫁を実現すると、朝廷側にあって対幕交渉の実力者の立場にあった岩倉は、それに協力する態度をとった。そのためもあって、尊攘派の志士たちは岩倉を佐幕派公卿として排撃し、「四奸」の一人として朝廷にその処罰を奏請した。そうした圧力により、岩倉は辞官、剃髪(ていはつ)して、名を友山と改め、その知行地(ちぎょうち)であった京都・洛北(らくほく)の岩倉村に身を潜めることを余儀なくされた。その間にも、岩倉は尊攘運動の動きに注目し、1866年(慶応2)「叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)」「全国合同策」などの意見書を起草、朝廷を中心に国権の統一を主張した。さらにその翌年には、かねて志を通じていた討幕派諸藩の下士層と策略を進めて、薩長(さっちょう)2藩に討幕の密勅を下賜させることに成功、王政復古の実現に貢献した。
 明治新政府の成立とともに、参与、議定(ぎじょう)から副総裁兼海陸軍事務総督、会計事務総督、ついで大納言となり、永世禄(えいせいろく)として5000石を授けられた。さらに版籍奉還、廃藩置県にも奔走し、1871年(明治4)には右大臣に昇任した。また同年、条約改正交渉と米欧視察のため、特命全権大使として使節団を引率して外国を巡回し、1873年に帰国した。その直後、西郷隆盛(さいごうたかもり)らが主張した征韓論に対して、岩倉は大久保利通(おおくぼとしみち)らと組んでそれを退けた。そのため、1874年東京の赤坂喰違(あかさかくいちがい)において征韓派の不平士族たちに襲われた。
 その後、自由民権運動の高揚に対して、岩倉は天皇を中心に明治国家の基礎を固める方針を採用し、それを推進するために、順次、措置を講じた。まず1878年宮内省内規取調局総裁に就任し、1881年には井上毅(いのうえこわし)に命じて「大綱領」を起草させた。そこには後の帝国憲法の枠組みが示されていた。また岩倉は皇室財産の拡充、日本鉄道会社の設立にも関与するなど、三条実美や大久保利通らと協力、最高の実権者の一人、絶対主義政府の専制支配者として行動した。明治16年7月20日、59歳で没。国葬。没後贈正一位、太政大臣(だじょうだいじん)。
[石塚裕道]



世界大百科事典
岩倉具視
いわくらともみ
1825-83(文政8-明治16)

明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1838年(天保9)従五位下から61年(文久1)正四位下へ。この間,侍従,右近衛権少将を経て,62年,左近衛権中将。58年(安政5)には,幕府の要求する日米修好通商条約の勅許に88人の公家の〈列参(集団行動)〉で反対し,また,公武合体をとなえて和宮降嫁を推進,尊攘派からは久我建通,千種有文,富小路敬直らとともに〈四奸〉の一人としてねらわれた。62年,辞官落飾,法名は友山,京都の岩倉村に潜居した。この幽居中にも朝権の確立をめざした〈叢裡鳴虫〉や朝廷中心の国権一元化構想を示した〈全国合同策〉などを草し,また,廷臣や薩摩藩士らと画策して倒幕運動を進めた。66年(慶応2)末の孝明天皇の急死では,毒殺説が流布し,岩倉に疑惑がかけられた。翌年,明治天皇のもとで勅勘が許され,〈王政復古〉クーデタで参与となり,以後,新政府において,議定,副総裁,権大納言,大納言,右大臣など,中枢に位置した。この間,69年(明治2)には正二位に叙せられ,永世禄5000石を下賜されている。71年,特命全権大使として木戸孝允,大久保利通,伊藤博文らとともに米欧に出かけて12ヵ国を回覧,アメリカではグラント大統領に謁し,ドイツではビスマルクやモルトケと会見したりした(岩倉使節団)。帰国後,73年のいわゆる征韓論に対しては,大久保,木戸らと反対し,明治6年10月の政変の結果,大久保政権が実現した。74年,赤坂喰違坂で征韓論支持者に襲われ,76年には従一位となり,また,勲一等に叙せられ,旭日大綬章を授けられている。この年,華族会館長に推任され,以後77年第十五銀行(華族銀行),81年日本鉄道会社をおこして華族のために尽力するとともに,士族授産にも努力した。政体確立をめざした岩倉は,外遊,士族反乱,対朝鮮・台湾問題,〈漸次国家立憲ノ政体〉樹立の詔勅などの過程で,天皇制の制度的確立を念頭におき,自由民権運動とはまっこうから対抗した。78年から82年にかけての彼の相つぐ意見書は,いかに皇室の基礎を固め,その藩屛を強化するかに腐心していることを示している。そして,懐刀としての太政官大書記官井上毅を駆使して明治憲法の基本構想をつくり,明治14年の政変後,政局の主導権を握った伊藤博文をドイツに派遣,明治憲法起草の準備にあたらせたが,83年病死した。国葬,翌年正一位を追贈された。岩倉の病状をみとったドイツ人ベルツは,岩倉を評して〈全身ただこれ鉄の意志〉と述べた。この〈鉄の意志〉は,幕末以来岩倉がつねにクーデタないし政変の推進者または協力者であったことに示されており,それはまた彼が権謀術数の政治家であったことを物語っている。
[田中 彰]

[索引語]
四奸 叢裡鳴虫 全国合同策 井上毅 ベルツ,E.von
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検索コンテンツ
1. 岩倉具視画像
日本大百科全書
幕末・明治前期の政治家。公卿(くぎょう)として三条実美(さんじょうさねとみ)とともに明治政府の最高指導者の位置にあった。前権中納言(ごんちゅうなごん)堀河康親( ...
2. 岩倉具視[百科マルチメディア]画像
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3. 岩倉具視
世界大百科事典
1825-83(文政8-明治16) 明治維新期における公卿出身の政治家。権中納言堀河康親の次男。養父は岩倉具慶(ともやす)。幼名は周丸(かねまる),号は対岳。1 ...
4. いわくら‐ともみ【岩倉具視】
日本国語大辞典
公卿。政治家。京都の人。号は対岳。堀河康親(やすちか)の子。岩倉具慶(ともやす)の養子。公武合体を唱え、和宮(かずのみや)降嫁を策して、四奸の一人とされ、文久二 ...
5. いわくらともみ【岩倉具視】
国史大辞典
華族令の制定により嗣子具定は公爵に列する。 [参考文献]『岩倉具視関係文書』(『日本史籍協会叢書』)、『岩倉贈太政大臣集』、宮内省編『岩倉公実記』、徳富猪一郎『 ...
6. 岩倉具視
日本史年表
) 朝廷、 岩倉具視 ら公武合体派公卿を蟄居処分とし、辞官・落飾を請願させる(維新史料綱要)。 1871年〈明治4 辛未〉 10・8( 11・20 ) 欧米各国 ...
7. いわくら-ともみ【岩倉具視】画像
日本人名大辞典
1825−1883 幕末-明治時代の政治家。文政8年9月15日生まれ。堀河康親の次男。岩倉具慶(ともやす)の養子。嘉永(かえい)7年孝明天皇の侍従。公武合体をと ...
8. 岩倉具視[文献目録]
日本人物文献目録
適律』深谷博治『岩倉具視』大久保利謙『岩倉具視』時野谷勝『岩倉具視を想う 1‐2 明治憲法制定前史』藤井新一『岩倉具視』森谷秀亮『岩倉具視 その思想と行動』中島 ...
9. いわくらともみかんけいもんじょ【岩倉具視関係文書】
国史大辞典
日本史籍協会編、八冊(昭和二年―十年刊、昭和四十三―四十四年再刊)。岩倉具視旧蔵文書は、その地位から幕末明治初期の中央政局史研究の基礎史料である。岩倉の没後そ ...
10. いわくらともみけんぽういけんしょ【岩倉具視憲法意見書】
国史大辞典
明治十四年(一八八一)七月右大臣岩倉具視の提出した憲法意見書。憲法大綱領ともいう。同二十二年に制定された大日本帝国憲法の起草方針と基本的性格を示したものとして ...
11. いわくらともみゆうせいきゅうたく【岩倉具視幽棲旧宅】京都市:左京区/岩倉村地図
日本歴史地名大系
[現]左京区岩倉上蔵町 岩倉実相院の門前近くに位置。維新の元勲と称された岩倉具視が、その主張する公武合体論が敗れて文久二年(一八六二)より五年間、幽棲した屋敷。 ...
12. 青木周蔵自伝 34ページ
東洋文庫
仮令半年又一年間の学期を延長するも、規定の試験に応ずるの心算なりき。是れ(明治四年)恰も日本政府が岩倉具視公を正使となし、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚 ...
13. 青木周蔵自伝 36ページ
東洋文庫
述べると共に、各国の制度・法律、理財・会計、教育の三分野について視察・ 研究を命じた。使節団は岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸・大久保・伊藤・山口の大 物 ...
14. 青木周蔵自伝 38ページ
東洋文庫
     第四回 木戸孝允副使との宗教論 其の後、大使〔岩倉具視遣欧使節〕の一行米国を発して倫敦に到著したる時〔明治五年七月十三日〕に方り、木戸〔孝允〕副使より ...
15. 青木周蔵自伝 118ページ
東洋文庫
廟堂に於て欧米諸国に大使を派遣し、彼国の実況を視察せしむるの議起り、遂に其年十月八日、外務卿岩倉具視を右大臣に任じ、特命全権大使として欧米に派遣し、締盟各国を訪 ...
16. 青木周蔵自伝 351ページ
東洋文庫
従来の近代政治史研究、近代の人物研究は、主にトップリーダー側の史料によって書かれて来た。『伊藤博文秘録』、『岩倉具視関係文書』、『大久保利通日記』、『木戸孝允日 ...
17. 青木周蔵自伝 354ページ
東洋文庫
一 政府要人、とくに長州系要人への工作で、太政大臣三条実美、右大臣岩倉具視はじめ、長州出身の木一尺井上、伊藤、山県、桂太郎などに、ベルリンから書翰で、或いは帰国 ...
18. 青木周蔵自伝 360ページ
東洋文庫
伊藤博文ら憲法調査の ためベルリン到着・七月二十七日、予議会終る・七月、壬午の変おこる・七月、岩倉具視麗去・フランス、日本へ清への共同攻撃を 提案・十二月、甲申 ...
19. 赤坂喰違の変
日本大百科全書
1874年(明治7)1月14日、右大臣岩倉具視(ともみ)が征韓派の不平士族に襲撃された事件。前年10月、征韓論争によって明治政府内部が分裂した結果、敗退した征韓 ...
20. あかさかくいちがいのへん【赤坂〓違の変】
国史大辞典
明治七年(一八七四)一月十四日夜、東京赤坂喰違見附で右大臣岩倉具視が襲撃され、負傷した事件。前年十月二十四日、征韓論が破裂し、征韓派の参議西郷隆盛・板垣退助ら ...
21. 赤坂喰違の変
日本史年表
1874年〈明治7 甲戌〉 1・14 右大臣 岩倉具視 、高知県士族武市熊吉らに襲われ負傷( 赤坂喰違の変 、7月9日、犯人斬罪)。  ...
22. 赤松則良半生談 幕末オランダ留学の記録 259ページ
東洋文庫
ついで慶応三年(一八宅)向山 隼人正の副使として渡仏。維新後は外務少丞をへ て一等書記官に進み、明治四年岩倉具視一行の欧 州派遣に随行、同七年台湾事件に際しては ...
23. あさかそすい【安積疏水】福島県:郡山市
日本歴史地名大系
大にしたという(安積疏水誌)。一〇月一日開成山大神宮社前で安積疏水完工式典が行われた。右大臣岩倉具視・宮内卿徳大寺実則・大蔵卿松方正義・農商務卿西郷従道をはじめ ...
24. 浅野長勲
日本大百科全書
ょう)として小御所(こごしょ)会議に出席、山内豊信(やまうちとよしげ)の慶喜擁護論にくみして岩倉具視(ともみ)に説得される。1869年(明治2)広島藩主、ついで ...
25. あさのながこと【浅野長勲】
国史大辞典
入京し、十二月王政復古となると、議定に任じて小御所会議に出席、山内豊信の慶喜擁護論に与したが岩倉具視に説得された。明治元年(一八六八)正月鳥羽・伏見の戦後、議定 ...
26. あねがこうじきんとも【姉小路公知】
国史大辞典
次第に志士からも嘱目され、文久二年(一八六二)八月実美ら十二人と連署して、和宮降嫁に尽力した久我建通・岩倉具視らを弾劾した。九月には実美を正使、公知を副使とする ...
27. アメリカ彦蔵自伝 2 33ページ
東洋文庫
〔千種有文〕この三人はミカドの台閣の最高位にあった。京都市中より永久に追放さる。岩倉、前中将   〔岩倉具視〕富小路、中務大輔  〔富小路敬直〕藤井、式部永久に ...
28. アメリカ彦蔵自伝 2 34ページ
東洋文庫
として、いわゆる「四妊二嬢」を名ざした。それは、次の人びとである。  久我建道  内大臣  岩倉具視  左近衛中将  千種有文  左近衛権少将  富小路敬直 中 ...
29. アメリカ彦蔵自伝 2 130ページ
東洋文庫
土佐藩の構想も、また然りである。    しかし倒幕派の運動はすさまじくつづ   けられた。そして岩倉具視と薩摩藩の代   表(大久保利通、西郷隆盛ら)は、ひそ  ...
30. アメリカ彦蔵自伝 2 170ページ
東洋文庫
が末ながく続くよう、照国大明神に納めること を命ずる。   一八七〇年、明治三年十二月注   岩倉具視を通じて島津久光に賜わった   勅語の原文(読みくだし)は ...
31. アメリカ彦蔵自伝 2 205ページ
東洋文庫
も、かの地で全幅の厚情を寄せられることは期待しがたい、と主張したのであった。 注   右大臣岩倉具視を大使とする全権団 ...
32. アメリカ彦蔵自伝 2 209ページ
東洋文庫
た。                岩倉具視の遭難 一八七四年一月。芝の増上寺の壮麗な伽藍が焼失した。 一月十四日には第二国務長官の岩倉〔右大臣たる岩倉具視〕が ...
33. アメリカ彦蔵自伝 2 287ページ
東洋文庫
委嘱された。 ・     〈一九一     二i O明年一月より太陽暦を採用。   〈葬◇一月、岩倉具視が薩摩に派遣せられた。                △ ...
34. アメリカ彦蔵自伝 2 288ページ
東洋文庫
0東京にて大蔵省への勤務をつづけて           いる。  一八七四  一.西 ○右大臣岩倉具視の遭難。     全9  〔明治七〕       一一.一 ...
35. アーネスト・サトウ 神道論 164ページ
東洋文庫
岩倉具視の腹心)や矢野の意を具視が受け入れたもの。維新後は神祇省事務局判事、内国事務権判事を経て文部省修史館御用係などを歴任して明治初期の文教行政や神道国教化政 ...
36. アーネスト・サトウ伝 186ページ
東洋文庫
佐賀出身で長崎でフルペッキから英学を教えられた大隈重信は、イギリス式の議会政治の導入に熱心であったが、岩倉具視、伊藤博文らは欧米回覧に当ってプ・イセン・ドイツが ...
37. いいだたけさと【飯田武郷】画像
国史大辞典
慶応二年(一八六六)に家督を長男武夫に譲り、権田直助・落合直亮らと共に江戸薩摩屋敷と連絡をとったり、上洛して岩倉具視に献策するなど、東西に奔走した。王政復古後、 ...
38. イギリス画像
日本大百科全書
整えるのに大きな貢献をした。 明治時代の日英関係の劈頭(へきとう)を飾ったのは、岩倉使節団の派遣であった。正使岩倉具視(いわくらともみ)をはじめ木戸孝允(きどた ...
39. イギリスこうししゅうげきじけん【イギリス公使襲撃事件】
国史大辞典
大いに驚いた新政府は、外国事務局督晃親王を知恩院に派遣してパークスを慰問し、副総裁三条実美・同岩倉具視も連署してこれに謝した。かくて三月三日パークスは諸藩兵厳戒 ...
40. 一世一元の制
日本大百科全書
(みん)・清(しん)朝においてみられたものである。日本では1868年(明治1)明治維新に際し岩倉具視(ともみ)の主張に基づき、行政官布告第1号によって一世一元の ...
41. いっせいいちげんのせい【一世一元の制】
国史大辞典
行われた。由来天皇が登祚したのちの改元は、即位の翌年に行われる慣例であったが、この時にあたり岩倉具視は、従来幕府が年号採択の実権を持ち、朝廷はただ古例によって儀 ...
42. 伊藤博文
世界大百科事典
現した。大蔵少輔に転じ民部少輔を兼任,鉄道建設や貨幣制度の改革を推進した。さらに71年には遣外大使岩倉具視の副使となって米欧に出張(岩倉使節団),その間に同行し ...
43. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
同六年帰朝後、政府の征韓論争に直面した彼は、終始内治の整備・近代化優先の立場において非征韓を主張し、岩倉具視・木戸・大久保らを援けて奔走画策した。この論争による ...
44. いとうひろぶみもんじょ【伊藤博文文書】
国史大辞典
なおこの『秘書類纂』は、昭和八年(一九三三)―十一年、二十四冊として刊行された。(三)諸家の来翰は、皇族・岩倉具視・三条実美・木戸孝允・大久保利通らの重要人物の ...
45. いのうえ-いわみ【井上石見】
日本人名大辞典
。藤井良節の弟。薩摩(さつま)鹿児島藩士。鹿児島諏訪神社の神職の子。万延元年上京。兄とともに岩倉具視(ともみ)ら討幕派の公家と藩との連絡をはかる。慶応4年新政府 ...
46. いのうえかおるもんじょ【井上馨文書】
国史大辞典
文書は井上馨宛の来翰三千五百通、関係書類千三百点余からなる幕末・明治・大正期の政治史料である。書翰は三条実美・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・伊藤博文・山県有朋 ...
47. 井上毅画像
日本大百科全書
1873年に帰国するや、盛んに政府首脳部に対して献策し、しだいに大久保利通(おおくぼとしみち)、岩倉具視(いわくらともみ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)らの信任を ...
48. 井上毅
世界大百科事典
司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年 ...
49. いのうえこわし【井上毅】画像
国史大辞典
翌年兼地方官会議御用掛、ついで兼内務大書記官となる。このころ、伊藤博文のために「教育議」を起草した。これから、岩倉具視・伊藤らの命で各種の意見書の起案をするよう ...
50. いのうえ-こわし【井上毅】画像
日本人名大辞典
れ。司法省につとめ,明治5年渡欧して司法制度をまなぶ。大久保利通に登用されて頭角をあらわし,岩倉具視(ともみ)の側近として明治十四年の政変を画策。19年から伊藤 ...
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岩倉具視と同じ日本史上の人物カテゴリの記事
真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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