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  11. 徳川家光

徳川家光

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川家光』の国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
徳川家光
とくがわいえみつ
一六〇四 - 五一
江戸幕府第三代将軍。一六二三―五一在職。二代将軍秀忠の次男。慶長九年(一六〇四)七月十七日生まれる。母は秀忠正室浅井氏(お江、崇源院)。兄長丸早世により、実質長男として祖父家康の幼名竹千代を与えられた。元和六年(一六二〇)九月元服、家光と名のる。同九年七月二十七日京都において父の譲りを受け、三代将軍となる。慶安四年(一六五一)四月二十日死去。四十八歳。法号を大猷院といい、下野国日光山に葬る。幼時、母は弟国松(徳川忠長)を偏愛し、父秀忠もその影響をうけたので、乳母春日局をはじめ竹千代付きの者は、国松が将軍を継ぐのではないかと懸念したが、祖父家康によって竹千代の世継ぎの地位は確定した。そこで家光は終生父をこえて祖父家康を敬愛し、信仰した。彼は晩年しばしば夢中に家康を見、それを狩野探幽に命じて画かせた「夢想の画像」が日光輪王寺にある。彼の家康崇拝の念の最大の結晶は、寛永十一年(一六三四)―十三年の日光東照宮大造営である。その経費五十六万八千両余はすべて幕府自身の支出で、この造営期間中には石燈籠一基すら諸大名から献納させなかった。慶安四年、彼は死後も家康に仕えるべく、遺骸を日光山の天海の堂の傍に葬るよう遺言し、それに従って建てられたのが大猷廟である。彼は元和九年に将軍を継ぐが、その後も重要な政務はほとんど父秀忠と西ノ丸の老中とで処理せられ、彼は依然将軍世子のごとき存在であった。したがって寛永九年正月二十四日秀忠が死去すると、さながら将軍代替りのような様相を呈した。この年七月、さきに紫衣事件によって配流されていた大徳寺の沢庵宗彭らを赦免し、また諸国に巡見使を派遣した。翌々年には五万石以上の大名に領知の判物・朱印状を給付した。このころから幕府の支配体制は安定期に入った。同十一年家光は三十万の大部隊を率いて京都にのぼり、朝廷を威圧するとともに、御料地の増進をはじめ、公家・住民に椀飯振舞をして、これで朝幕関係は安定状態に入った。幕藩関係においても、秀忠死去の年にこそ、かつて家光と将軍継嗣を争う立場にあった弟忠長と、豊臣氏に縁故深い加藤清正の子忠広の家とが改易に処せられるという、政略的大名処分があったが、その後は処罰の件数も激減し、諸大名に対する幕府の態度も、口実を設けてこれを圧迫することから、むしろその支配体制の確立を助長する方向へと大きく変化した。寛永十年の軍役令改訂においても、幕府の方針は軍事力の負担の比重を外様の大藩におき、もはや幕府と外様大名との間に矛盾は存在しないとの認識に立っている。政治機構の制度化、法令の整備もこの時期に一段と進んだ。同十一―十二年には老中以下主要役人の職務内容や分担が成文化され、江戸幕府職制の特色である複数役人による月番交替制と重要事項の合議制も確立した。訴訟規則や評定所の勤務規則も設けられた。それら一連の法制整備の総括は、寛永十二年の『武家諸法度』の大改訂である。鎖国政策もこの時期に最終段階へと進展し、寛永十年海外在住日本人の帰国禁止、同十二年日本船の海外渡航禁止、同十六年ポルトガル船来航禁止、同十八年オランダ商館の長崎出島移築となって、鎖国体制が完成した。このように寛永九年に始まる将軍家光の親政期は、家康の覇業の完成期と評価すべきである。しかし家光はこの時期に幕政の主導的存在であったとは認め難い。彼は幼少から病気がちであったが、同十四年は年初から全く公務の場へ出ず、翌年三月に至った。この年は十月に島原・天草の乱が勃発したのをはじめ、全国的に天候不順で、風水害も生じ、治安も悪化し、五―六年後の大飢饉へと連続してゆく。つまり支配階級内部の関係は安定したが、階級間の矛盾が天候不順を契機として噴出したのである。この幕藩体制成立期の危機を将軍不在のまま乗り切ったのは、松平信綱・堀田正盛・阿部忠秋ら閣老協議体制であった。家光の親政期に入って直ちに成立した閣老協議制を頂点とする幕府の行政機構が、この危機を突破し、さらに慶安四年家光の死後も、十一歳の幼将軍家綱を頂いて、安定した幕政を施行することを可能としたのである。家光という人物は、気性も活発で、狩猟や武芸を好んだが、将軍としては、整備されてきた幕府政治機構の頂点にのせられた存在で、父祖のようにその主導力を幕政に発揮する余地は乏しかった。むしろその個性はきびしい傅育を通じて抑えられていった。彼が老臣の諫言をよくきいて行動を改めたという、名君としての数々の逸話が、彼の意思や行動の自由が制約されてゆく状態を物語っている。彼の大病も、窮屈な秩序の枠の中に押し込められてゆく苛立ちから来る神経症のようなものだったかと察せられる。家光が心からうちとけられたのは、慈母のごとく慕った春日局と、少年のころから信任していた酒井忠勝と、彼が赦免してから親しく接し、その人徳にひかされた沢庵宗彭であり、それに何にもまして祖父家康が心の支えになっていたと思われる。→寛永・慶安期(かんえい・けいあんき)
[参考文献]
『徳川実紀』二・三、広野三郎『徳川家光公伝』、辻達也「寛永期の幕府政治に関する若干の考察」(『横浜市立大学論叢』人文科学系列二四ノ二・三合併号)
(辻 達也)


世界大百科事典
徳川家光
とくがわいえみつ
1604-51(慶長9-慶安4)

江戸幕府3代将軍。2代将軍秀忠の次男(長男長丸は早死)。母は浅井長政の三女江与(えよ)(逵子(みちこ),崇源院)。幼名竹千代。法号大猷院。誕生とともに稲葉重通の養女福子(のちの春日局(かすがのつぼね))が乳母となる。永井直貞・松平信綱・稲葉正勝(春日局の子),おくれて阿部忠秋らが小姓に召された。幼時,両親の愛情は弟国千代(忠長)にそそがれていたが,祖父家康が嫡庶の序にしたがい世子と定めさせたと伝えている。1615年(元和1)家康と秀忠は竹千代の守役として酒井忠世・土井利勝・青山忠俊を任命,輔翼させた。20年元服,従二位権大納言となる。この前後,かぶきの風俗が流行し,家光もこれを好んで衣装・髪・化粧に凝り,合せ鏡をしたり,市中を微行して辻斬のうわさをたてられたり,躍り(おどり)にうちこんだりしたが,忠俊の強い諫言もあって改まった。23年父とともに上洛して将軍宣下を受け,正二位内大臣,26年(寛永3)再度上洛,後水尾天皇の二条城行幸を迎え,従一位左大臣。29年には勅許紫衣(しえ)停止の幕命に背いた大徳寺の沢庵らを流刑にし(紫衣事件),朝廷に対する幕府の優位を確定し,34年の上洛を最後に幕末まで歴代将軍の上洛はなく,将軍宣下は勅使を江戸城に迎えて行うようになった。

32年秀忠が死去した後は大御所と将軍の二元政治が解消され,家光のもとで一元化された将軍政治が行われることになった。このことは,征夷大将軍という朝廷官職が,太閤や大御所といった〈天下人〉の権力を吸収し,固有の機構をもった独立の〈将軍権力〉として権能を発動し始めたことを意味する。家光が諸大名に対し〈余は生まれながらの将軍である〉と言ったと伝えられるのは,この意味において正しく,家光の政治はそれを完成させるところに向けられた。32年の熊本城主加藤忠広や弟忠長(駿河大納言)の改易は,将軍権力の強化集中を進め,旗本諸士法度の制定は,直臣団の統制をはかったものといえる。老中・若年寄・三奉行(寺社・町・勘定)のほか,大目付・巡見使等の職務と権限を定め,評定所(ひようじようしよ)の構成と機能をととのえた。35年武家諸法度を改訂し,諸大名に参勤交代を義務づけ,譜代・外様を問わず大名の格を万石以上と規定するとともに,将軍家の近習(きんじゆう)・物頭(ものがしら)を大名と同列として幕府政治の基礎を固めた。対外的には,長崎の直接掌握を果たした33年から36年にかけて貿易統制とキリシタン禁令を強化し,ついに日本人の海外往来を禁止,39年にはポルトガル船の来航を止め,41年長崎出島にオランダ商館を移して鎖国体制を完成した。37年の島原の乱はこれに大きな影響を及ぼしたが,同時に対百姓戦略の上でも全領主階級結集の必要を痛感させ,飢饉対策や,44年(正保1)の諸国郷村高帳(郷帳)・国絵図の作成,49年(慶安2)の慶安御触書などへと展開し,幕藩体制を国家的な統治体制として確立させた。死後,日光山に葬られる。夫人は鷹司信房の娘,中の丸と称した。
[朝尾 直弘]

[索引語]
大猷院 征夷大将軍 徳川忠長 武家諸法度
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12. 徳川家光印[図版]画像
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15. 徳川家光書状写(著作ID:324232)
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17. あいづぐん【会津郡】福島県:陸奥国
日本歴史地名大系
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18. 会津藩画像
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19. 会津藩
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20. あおやま‐ただとし【青山忠俊】
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21. あおやまただとし【青山忠俊】
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天正六年(一五七八)二月十日、遠江浜松に生まれる。幼少から徳川秀忠に近侍し、慶長十二年(一六〇七)徳川家光の傅となる。同十六年五千石加増されて譜代大名となり、同 ...
22. あおやま-ただとし【青山忠俊】
日本人名大辞典
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23. あおやまはちまんぐう【青山八幡宮】静岡県:藤枝市/八幡村
日本歴史地名大系
同九年八月の志太郡山西八幡社領水帳(同文書)が残る。寛永一八年(一六四一)には徳川家光から八幡郷一七〇石五斗が寄進されている(「徳川家光判物」同文書)。なお一七 ...
24. あおやま-むねとし【青山宗俊】
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25. あおやむら【青谷村】静岡県:天竜市
日本歴史地名大系
文化七年には一日一千人を超す参拝者があったという(「内山真竜日記」内山家蔵)。投老寺は慶長六年僧順慶が開創、徳川家光から朱印地七石三斗を安堵されたという(貞享三 ...
26. あかいわむら【赤岩村】群馬県:邑楽郡/千代田町
日本歴史地名大系
領がなくなり、山崎氏を含む七給となり、家数一八七。鎮守は八幡宮、寺院には慶安二年(一六四九)徳川家光より寺領一五石三斗余の朱印が与えられた曹洞宗安楽寺がある。 ...
27. あかぎじんじゃ【赤城神社】群馬県:勢多郡/宮城村/三夜沢村
日本歴史地名大系
を約し、武運長久、子孫繁栄を祈願して五〇貫文の神領を寄進(奈良原文書)。慶安二年(一六四九)徳川家光は朱印状を下付して五〇石の神領を先規に任せて寄付、以後歴代将 ...
28. あかぬまむら【赤沼村】埼玉県:春日部市地図
日本歴史地名大系
〇)の墨書銘があるという(武蔵史料銘記集)。慶安元年(一六四八)徳川家光から朱印三石が薬師堂領として宛行われており(「徳川家光朱印状」常楽寺文書)、同堂を中心に ...
29. あかみむら【赤見村】栃木県:佐野市
日本歴史地名大系
という。臨済宗妙心寺派満願寺は天正一一年(一五八三)の創立と伝えられ、慶安二年(一六四九)に徳川家光より朱印地一〇石余を受けている(「満願寺領朱印状」県立文書館 ...
30. あきづきはん【秋月藩】
国史大辞典
越し、七月長興入部。同二年江戸参府を本藩家老中から差しとめられたが、ひそかに上り、翌三年将軍徳川家光に謁し、従五位下甲斐守に任ぜられ、十一年八月将軍家光から五万 ...
31. あきづきはん【秋月藩】 : 秋月藩/(一)
国史大辞典
越し、七月長興入部。同二年江戸参府を本藩家老中から差しとめられたが、ひそかに上り、翌三年将軍徳川家光に謁し、従五位下甲斐守に任ぜられ、十一年八月将軍家光から五万 ...
32. あきづきはんじんやあと【秋月藩陣屋跡】福岡県:甘木市/秋月町
日本歴史地名大系
前小倉藩細川氏の援助で江戸に上ったと伝えられる。同三年長興は将軍秀忠に謁し、同一一年には将軍徳川家光から五万石の朱印状を得ている。以降、秋月藩と福岡藩とは断絶状 ...
33. あきのくに【安芸国】広島県
日本歴史地名大系
た。しかし寛永九年(一六三二)幕府の命で支藩の三次藩を分知したあと、同一一年八月に与えられた徳川家光領知判物(「広島県史」所収)によると、広島藩は安芸国八郡二六 ...
34. あきはさん【秋葉山】静岡県:周智郡/春野町/領家村
日本歴史地名大系
当山はこれ以後可睡斎の支配するところとなった(「酒井忠世外七名連署状」同文書)。同一九年六月一六日、将軍徳川家光は朱印状(「秋葉寺書上」東京大学史料編纂所蔵)を ...
35. あこうじむら【阿幸地村】静岡県:富士宮市
日本歴史地名大系
大宮浅間社(富士山本宮浅間大社)大宮司領として、阿幸地村高二一〇石余とみえる。寛永一八年(一六四一)の徳川家光社領寄付朱印状写(同文書)などによれば、阿幸地村の ...
36. あさいながまさ【浅井長政】画像
国史大辞典
文禄三年(一五九四)二十一回忌にあたり茶々は菩提寺養源院を京都に建立、寛永九年(一六三二)外孫徳川家光の奏請により、従二位権中納言が追贈された。法号は養源院天英 ...
37. あさがやむら【阿佐ヶ谷村】東京都:杉並区地図
日本歴史地名大系
して正木棟別麦八俵を四月二八日限りに上納することを命じている。寛永一二年(一六三五)三代将軍徳川家光が山王社(現千代田区日枝神社)に当村一八七石余などを寄進した ...
38. あさくさきたきよしまちよう【浅草北清島町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
寺地と法然上人源空の名にちなんだ源空寺の号を与え、寺が建立された。二代将軍徳川秀忠・三代将軍徳川家光も円誉を重んじ、銅鐘を寄進している。明暦の大火によって焼失し ...
39. 浅草神社画像
日本大百科全書
従い、土師氏系の専当坊(せんとうぼう)が神職を継ぎ、今日に至る。現社殿は1649年(慶安2)徳川家光(いえみつ)の建立した国の重要文化財。5月中旬に行われる例祭 ...
40. あざぶろつぽんぎちよう【麻布六本木町】東京都:港区/旧麻布区地区地図
日本歴史地名大系
ら存在した(沿革図書)。寛永三年(一六二六)二代将軍徳川秀忠夫人お江(お江与・逵子、崇源院、徳川家光生母)が没し、芝増上寺から西方の当地で火葬された。三回忌後の ...
41. あたけまる【安宅丸】画像
国史大辞典
寛永九年(一六三二)徳川家光が向井将監に命じて新造させた巨大な軍船形式の御座船。同十一年伊豆の伊東で完成し、同十二年六月二日品川沖で家光が試乗、以来深川に繋留 ...
42. あたごじんじゃ【愛宕神社】山梨県:甲府市/甲府城下/愛宕町
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された(「徳川家奉行連署証文写」同書)。九石余の愛宕山権現領については寛永一九年(一六四二)徳川家光以後朱印地として歴代徳川将軍の朱印状が与えられた(同書)。寛 ...
43. あたみむら【熱海村】静岡県:熱海市
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よると田三七町六反余・畑一三町八反余、新田畑四町五反余、ほかに畑一町二反(寛永元年に三代将軍徳川家光の湯治宿御用に建てられた御殿跡)。貞享四年の家数覚(前掲手控 ...
44. あちじんじゃ【阿智神社】長野県:下伊那郡/阿智村/昼神村
日本歴史地名大系
奥宮の祭神は思兼命・表春命二神であるが、明治以前は大山咋命・建御名方命・誉田別命を合祀していた。徳川家光が昼神の山王権現に社領一〇石を寄進した朱印状が残っている ...
45. あなはちまん‐じんじゃ【穴八幡神社】
日本国語大辞典
東京都新宿区西早稲田にある神社。旧村社。祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。慶安元年(一六四八)徳川家光が建立、幕府の祈願所となる。江戸八所八幡の一つ。牛込鎮守 ...
46. あふちじんじゃ【安布知神社】長野県:下伊那郡/阿智村/駒場村
日本歴史地名大系
奉祀し新羅明神と称したとある。天正元年(一五七三)、領主小笠原信貴が社殿を造営し、慶安二年(一六四九)徳川家光は新羅明神の名において、朱印地一〇石を寄進。明治五 ...
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48. あべしげつぐ【阿部重次】
国史大辞典
慶安元年(一六四八)七月父の遺領摂津国の三万石をつぎ、合わせて九万九千石余となる。同四年四月二十日将軍徳川家光の死に殉じた。五十四歳。江戸東叡山の寛永寺現竜院に ...
49. 阿部忠秋
世界大百科事典
1602-75(慶長7-延宝3) 江戸前期の譜代大名。老中。武蔵忍藩主。徳川家光の小姓,小姓組番頭となり,1624年(寛永1)遺領を継ぐ。33年松平信綱らととも ...
50. あべただあき【阿部忠秋】
国史大辞典
武蔵国忍藩主。幼名小平次。慶長七年(一六〇二)忠吉の長子として生まる。母は松平康高の女。同十五年九歳で徳川家光の小性となる。元和九年(一六二三)御小性組番頭とな ...
「徳川家光」の情報だけではなく、「徳川家光」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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