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徳川吉宗

ジャパンナレッジで閲覧できる『徳川吉宗』の改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

世界大百科事典
徳川吉宗
とくがわよしむね
1684-1751(貞享1-宝暦1)

江戸幕府8代将軍。紀州2代藩主徳川光貞の四男。幼名源六。初名頼方。1697年(元禄10)越前国丹生郡3万石を与えられた。1705年(宝永2)兄が相次いで死去したので紀州藩主を相続,吉宗と改名。藩政改革に努め,倹約励行,士風振粛,財政健全化などの諸政策には,後の幕政改革の原型とみなしうるものがある。16年(享保1)4月7代将軍家継の死去により,老中らに推されて将軍となる。その後在職30年間の施政を〈享保改革〉と通称する。まず彼は間部詮房(まなべあきふさ),新井白石ら前代の側近を幕政の中枢から退け,老中以下譜代の伝統的勢力を尊重する態度を示して幕府内の人心を統一し,諸方面からよせられた政治刷新の期待を背景に,将軍の幕政主導権を確立した。従前の将軍と対蹠的な彼の活発な行動は幕臣の耳目を一新し,また彼が就任直後〈御庭番〉という密偵を創置し,あるいは21年目安箱を設けて将軍への直訴を制度化するなど,情報収集に努めたことは将軍の権威強化に効果があった。さらに彼は大岡忠相を江戸の町奉行に登用したのをはじめ,財政・民政上の能吏を抜擢(ばつてき)して改革遂行の手足としたが,23年の足高(たしだか)の制定は人材登用を容易にする手段であった。改革の施策の重点は財政改革にあった。まず吉宗は厳しい緊縮政策を施行したが,とくに貨幣の改良・統一(正徳・享保金銀)による通貨量の急速な収縮策と,商人・職人の同業組合の統制力を利用しての消費抑制策とは新政策であった。22年には老中水野忠之を財政専任とし,本格的財政再建に着手し,諸大名に領地1万石につき100石の上米(あげまい)を出させて当面の急をしのぎつつ,新田開発,検見法の改革,年貢率引上げ,定免制施行などにより年貢増徴をはかり,かなりの成果をあげた。ところがその矛盾が不況,米価下落,農民の年貢減免要求などの形で表面化し,32年には瀬戸内海沿岸を中心に大飢饉が発生し(享保の飢饉),翌年1月には江戸ではじめて〈打毀(うちこわし)〉が起こった。そこで36年(元文1)通貨を悪鋳(元文金銀),増発して不況を緩和し,翌年老中松平乗邑(のりさと)を財政専任に,神尾春央(かんおはるひで)を勘定奉行に登用して再び財政強化をはかり,その後しばらく安定した状態となった。吉宗は司法制度にも関心をよせ,裁判の公正化・迅速化や残酷な刑罰の改廃をはかり,42年(寛保2)の《公事方御定書》その他法典の編纂をはじめて公的に行わせた。吉宗はまた和漢の法制の研究や古典・古文書の収集など実用的・実証的学問に興味を示し,とくにオランダ人を通じてヨーロッパの学術知識の吸収をはかり,1720年には漢訳洋書の輸入制限を緩和した。さらに庶民教育を通じて社会秩序の維持をはかり,21年には教科書として《六諭衍義(りくゆえんぎ)大意》を刊行させている。町奉行大岡忠相を通じて,防火,救貧,風俗取締り,物価統制など江戸の市政改革に努めたことも見逃せない事跡である。45年(延享2)彼は将軍を長子家重に譲り,51年6月20日死去した。法号を有徳院といい,墓は上野寛永寺にある。
[辻 達也]

[索引語]
享保改革 水野忠之 打毀 公事方御定書 有徳院
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検索ヒット数 869
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検索コンテンツ
1. 徳川吉宗画像
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2. 徳川吉宗
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3. とくがわ‐よしむね【徳川吉宗】
日本国語大辞典
江戸幕府第八代将軍。紀伊家徳川光貞の四男。幼名源六、のち新之助。紀州家五代藩主から享保元年(一七一六)将軍となる。貨幣改鋳、学問奨励をなし、財政面では新田開発、 ...
4. とくがわよしむね【徳川吉宗】画像
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5. とくがわ-よしむね【徳川吉宗】
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6. 徳川吉宗[文献目録]
日本人物文献目録
本百傑伝 第一〇編』松井広吉(編)『徳川吉宗』草野正義『徳川吉宗』池田俊彦『吉宗と儒学』平野彦次郎『徳川吉宗』辻達也『徳川吉宗と田沼意次』津田秀夫『徳川吉宗公伝 ...
7. 徳川吉宗・徳川頼方
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将軍宣下(実紀)。 1721年〈享保6 辛丑⑦〉 2・28 徳川吉宗 、オランダ商館長を接見(実紀)。 1721年〈享保6 辛丑⑦〉 9・15 徳川吉宗 、荻生 ...
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9. 德川吉宗儉約 (見出し語:德川吉宗)
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10. 德川吉宗勤學 (見出し語:德川吉宗)
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11. 德川吉宗善放鷹 (見出し語:德川吉宗)
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12. 德川吉宗度量 (見出し語:德川吉宗)
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13. 德川吉宗求下民意見 (見出し語:德川吉宗)
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14. 德川吉宗爲征夷大將軍 (見出し語:德川吉宗)
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官位部 洋巻 第3巻 22ページ ...
15. 德川吉宗試小性之智愚 (見出し語:德川吉宗)
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16. 德川吉宗誡家臣 (見出し語:德川吉宗)
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人部 洋巻 第2巻 159ページ ...
17. 德川吉宗重禮義 (見出し語:德川吉宗)
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18. 徳川吉宗印[図版]画像
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19. 徳川吉宗花押[図版]画像
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20. 徳川吉宗日光参詣道中供建(著作ID:3575926)
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21. 大御所様御由緒御事跡(著作ID:117088)
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22. 仰高録(著作ID:22377)
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23. 相対死
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)などによって、情死、心中の語が美化され、当時の男女がこれを賛美する傾向さえ生じた。8代将軍徳川吉宗(よしむね)は退廃的な風潮を是正するため、享保(きょうほう) ...
24. あいたいすましれい【相対済し令】
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四月・十一月の年二回にするということにした。この制度は、相対済し令を出そうとする評定所側の要請を将軍徳川吉宗が拒否した結果の妥協案である。吉宗は延享二年(一七四 ...
25. あおい-しんご【葵新吾】
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26. あおいしんご【葵新吾】
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川口松太郎の小説『新吾十番勝負』の主人公。一七〇四年(宝永一)一二月生まれ。父は松平頼方(よりまさ)(のちの徳川吉宗)、母は側室お長(お鯉の方)。父を頼方に斬ら ...
27. 青木昆陽
日本大百科全書
3―1785)の上申により、大岡越前守忠相(おおおかえちぜんのかみただすけ)を通じ、8代将軍徳川吉宗(とくがわよしむね)に推挙され、書物方として各地を巡り、旧記 ...
28. 青木昆陽
世界大百科事典
救荒用の作物として甘藷(サツマイモ)に注目,35年に《蕃藷(ばんしよ)考》を著して幕府に上書したところ,将軍徳川吉宗にとりあげられ,甘藷栽培の普及に大きな貢献を ...
29. あおき‐こんよう【青木昆陽】
日本国語大辞典
「蕃薯考(ばんしょこう)」を著わして救荒作物としての甘藷の栽培、普及に努め、甘藷先生と呼ばれた。徳川吉宗の意を受けて蘭学を研究し、「和蘭話訳」などの多数の著書が ...
30. あおきこんよう【青木昆陽】
国史大辞典
直(千蔭の父)が町奉行大岡忠相(越前守)にかれを推挙したところから忠相の知遇を得、やがて将軍徳川吉宗が『蕃薯考』をもって世用に役立つとして嘉納したため、享保二十 ...
31. あかおむら【赤尾村】埼玉県:坂戸市地図
日本歴史地名大系
かりでなく、当村内御林の杉木もあった(安永二年「御林杉木筏川下積」同文書)。享保一三年の将軍徳川吉宗日光社参にあたり、当村からは人足七人と馬方二人が動員された( ...
32. あかさかひかわちよう【赤坂氷川町】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
尺(文政町方書上)。北部低地が幕府植木溜や火除地となったこともあるが、享保一四年(一七二九)徳川吉宗が赤坂古呂故が岡(現赤坂四丁目)の氷川明神を移し、氷川門前・ ...
33. あかさかひとつぎちよう【赤坂一ッ木町】東京都:港区/旧赤坂区地区地図
日本歴史地名大系
祖は中島氏、寛永年中から太郎兵衛が当町に居住、権八まで八代。氷川明神旅所は同地にあった明神を徳川吉宗が移転した跡地なので付近を宮下という(前掲書上)。旅所を弁天 ...
34. あきもと-たかふさ【秋元喬房】
日本人名大辞典
武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主秋元家2代となる。奏者番をつとめ,享保(きょうほう)13年将軍徳川吉宗の日光社参にしたがった。元文3年9月5日死去。56歳。初 ...
35. あげち【上知】
国史大辞典
過失による没収という刑罰的意味をもつ場合が多かったが、行政上の必要によるものもあり、享保の改革に際して八代将軍徳川吉宗が企てた上知、北方警備のため寛政・安政の両 ...
36. 上米
日本大百科全書
また藩主が家臣に対して課した献上米。享保(きょうほう)の改革の一施策として、1722年(享保7)8代将軍徳川吉宗(よしむね)が諸大名に課した例が有名である。これ ...
37. あさい-ともまさ【浅井奉政】
日本人名大辞典
1697−1734 江戸時代中期の武士。元禄(げんろく)10年生まれ。幕臣。みずから編集した書物を将軍徳川吉宗に献上し,享保(きょうほう)15年養父浅井政朗とお ...
38. あさひなぐん【朝夷郡】
国史大辞典
が来漁、鰯を中心とする漁業が盛大となり、五大力船や押送船で江戸に運送された。北辺の嶺岡山地は徳川吉宗により幕府直営の牧が開かれた。現在は海水浴場・観光地・フラワ ...
39. 足利学校
日本史年表
戊申〉 4・30 幕府、 足利学校 を再建(実紀)。 1728年〈享保13 戊申〉 4・18 徳川吉宗、 足利学校 の蔵書を点検させる(実紀)。 1730年〈享 ...
40. 飛鳥山画像
日本大百科全書
祀(まつ)ったのが地名の由来。江戸時代、上野、向島(むこうじま)と並ぶサクラの名所(サクラは将軍徳川吉宗(よしむね)の寄進)であった。眺望もよく江戸市民に親しま ...
41. あすかやま【飛鳥山】画像
国史大辞典
中世の領主豊島氏が紀州新宮の飛鳥明神を山上に祀ったため、この名が起ったという。江戸時代紀州出身の八代将軍徳川吉宗は王子の地が王子権現もあって紀州にゆかりのある所 ...
42. あすかやま【飛鳥山】東京都:北区/王子村地図
日本歴史地名大系
識されるようになった。飛鳥山は現在も桜の名所として広く知られるが、この出発点となったのは将軍徳川吉宗による享保改革の初期であった。まず享保五年(一七二〇)九月、 ...
43. あたみおんせん【熱海温泉】静岡県:熱海市/熱海村
日本歴史地名大系
している(「紀藩無名書」など)。寛文年間に将軍御用の御汲湯が始まったといわれ、大湯が江戸に運ばれた。八代将軍徳川吉宗の時には汲湯が大々的に行われ、享保一一年(一 ...
44. 穴八幡宮[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
阿弥陀如来(あみだにょらい)像を発見して以来、「穴八幡宮」とよばれるようになったという。8代将軍徳川吉宗(よしむね)が奉納したという流鏑馬(やぶさめ)は、10月 ...
45. あべおかむら【阿部岡村】栃木県:芳賀郡/二宮町
日本歴史地名大系
七一石余、幕府領。寛文二年(一六六二)旗本曲淵領となり幕末に至る。享保一三年(一七二八)将軍徳川吉宗の日光社参の際には日光街道徳次郎宿(現宇都宮市)の代助郷を勤 ...
46. 安倍川餅
世界大百科事典
8-52)にはじまるともいうが確証はない。しかし,東海道をたびたび往来したことのある8代将軍徳川吉宗はよく知っており,当時の御賄頭(おまかないがしら)の古郡孫太 ...
47. 雨画像
日本大百科全書
日本では18世紀初めの享保(きょうほう)年間(1716~1736)に、江戸幕府第8代将軍の徳川吉宗(よしむね)が、江戸、駿府(すんぷ)、長崎などで雨量を計測さ ...
48. 新井白石
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参府中のオランダ商館長に西洋事情を尋ねる(実紀)。 1716年〈享保元(6・22) 丙申②〉 5・16 徳川吉宗、 間部詮房 ・ 本多忠良 ・ 新井白石 らを解 ...
49. あらい-はくせき【新井白石】
日本人名大辞典
ふさ)とともに将軍を補佐し,通貨改良,貿易制限,司法改革などをすすめて幕政の改善につとめた。徳川吉宗が8代将軍になると,政治上の地位をうしない,晩年は著述に専念 ...
50. あらいむら【新井村】群馬県:太田市
日本歴史地名大系
帳では能勢・中根領の二給で家数三七。享保一三年(一七二八)の御用触継帳(岩崎文書)によれば、徳川吉宗の日光社参に際し日光街道古河宿(現茨城県古河市)の加助郷を、 ...
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