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  11. 水野忠邦

水野忠邦

ジャパンナレッジで閲覧できる『水野忠邦』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
水野忠邦
みずのただくに
一七九四 - 一八五一
江戸時代後期の老中で、天保の改革の指導者。遠江国浜松藩主。通称は於菟五郎、松軒・菊園と号する。寛政六年(一七九四)六月二十三日江戸に生まれる。肥前国唐津藩主水野忠光の次男。母は側室中川氏、名は恂(中川氏から大住氏の養女となる)。兄芳丸の死去により世子となる。文化四年(一八〇七)元服し、従五位下式部少輔に叙任せられた。九年八月、父忠光隠居のあとをうけて十九歳で唐津六万石を襲封し、和泉守となる。すぐに藩政改革の断行を宣言し、祖父忠鼎以来の改革を強力に推進しようとした。同時に幕府の要職に就くことを狙い、十二年十一月に幕閣への登竜門とされた奏者番となったが、唐津藩主は長崎警固役を課されていて、幕閣の一員となることができないので、転封して昇進するため盛んに運動を行なった。十四年九月念願の寺社奉行加役となり、左近将監に転じ、その翌日に浜松に所替となった。だが、内高が二十万石とされる唐津から内高と表高がさしてかわらない浜松への所替には、藩士の反対が強かったという。文政八年(一八二五)五月にみずから「青雲の要路」と称した大坂城代に昇進し、ついで九年十一月に京都所司代・侍従となり、十一年十月についに西ノ丸老中に昇任した。天保五年(一八三四)に本丸老中に転じ、八年三月には勝手掛、そして十年十二月には老中首座となり、幕政の最高責任者となった。忠邦は「内憂外患」の危機を認識していたと考えられるが、大御所徳川家斉在世中は「西丸御政事」と称されたように、家斉とその側近勢力が幕政の実権を掌握しており、幕政改革に着手することができなかった。しかし、十二年閏正月に家斉が死去しその葬儀などの一連の儀式を終えるや、実権を掌握した将軍徳川家慶の厚い信任のもとで、ただちに御側御用取次水野忠篤・若年寄林忠英・小納戸頭取美濃部茂矩のいわゆる「三佞人」をはじめとする家斉側近勢力を処分し、他方で改革派を結集しつつ、五月十五日に天保の改革を宣言した。約二年余にわたり、「内憂外患」の危機に対応した幕政改革を断行し、幕藩体制の強化をはかったが、空前ともいえる苛酷な都市改革や年貢増徴に対する民衆の反発、上知令に対する大名・旗本らの抵抗、幕府財政危機の進行などから幕府内部で孤立し、十四年閏九月ついに罷免され、事実上改革政治は終了した。その後、翌弘化元年(一八四四)六月に老中に再任され首座となったが、かつてのような威権はなく、その上持病もあって欠勤がちのため、弘化二年二月に辞職した。九月には、在職中の政治責任を厳しく問われて領知二万石と居屋敷の没収、隠居・謹慎を命じられ、さらに十一月には、家督を嗣いだ子の忠精が、懲罰として出羽国山形への所替を命じられた。忠邦は、多方面にわたり才気を示したが、水戸藩主徳川斉昭の命をうけた藤田東湖が屋敷に赴いて十三ヵ条の伺いを一度に述べると、その順序通りに誤りなく指示を与え、その明敏さに東湖・斉昭も感服したという逸話が有名である。なお、緊張すると吃る癖があり、失態を演じることを恐れていたといわれる。忠邦の教養としては、侍講として塩谷宕陰(とういん)を招くなど儒学を重視したが、所司代として京都にいたことなどから、特に蹴鞠・国学・和歌・雅楽などの公家文化に対する傾倒ぶりが特徴としてあげられる。光格天皇が笙の名器「鳴〓」を忠邦に与えるように遺命したことなど、それをよく物語っている。幕府から蟄居謹慎を命じられた後は、おもに渋谷の下屋敷に住んだが、失意のうちに嘉永四年(一八五一)二月十日(公表は十六日)に五十八歳で没した。なお蟄居謹慎が幕府から赦免されたのは、二月十五日のことである。下総国結城山川(茨城県結城市山川新宿)の万松寺(現在は廃寺)に葬られた。法名は英烈院忠亮孝文大居士。室は酒井忠進の女。→天保の改革(てんぽうのかいかく)
[参考文献]
北島正元『水野忠邦』(『人物叢書』一五四)、角田音吉『水野越前守』、『結城市史』
(藤田 覚)


日本大百科全書(ニッポニカ)
水野忠邦
みずのただくに
[1794―1851]

天保(てんぽう)の改革を主導した老中で浜松藩主。唐津(からつ)藩主水野忠光と側室恂(じゅん)との間に、江戸同藩上屋敷にて生まれる。幼名を於菟五郎(おとごろう)と称した。1805年(文化2)、忠邦と称し、幕府より正式に忠光の世子として許可され、07年初の将軍御目見(おめみえ)。12年、19歳にして和泉守(いずみのかみ)を称し、表高6万石(内高25万石)の唐津藩第11代藩主となる。22歳にして奏者番(そうじゃばん)を拝命し、17年には、財政的な不利も顧みず、譜代(ふだい)大名の昇進に有利な浜松藩6万石への転封を実現させた。この年、寺社奉行(ぶぎょう)を兼務し、以後は25年(文政8)大坂城代、翌年京都所司代(しょしだい)に就任して、越前守(えちぜんのかみ)を名のった。28年、35歳で家慶(いえよし)付の西ノ丸老中に昇進し、34年(天保5)ついに本丸老中に就任した。
天保(てんぽう)年間(1830~44)の中ごろには、三河加茂一揆(かもいっき)、郡内(ぐんない)騒動、佐渡一国騒動、そして大塩の乱という兵乱の危機にまで高まった「内憂」と、欧米列強の「外患」に対処せざるをえなくなっていた。1837年第12代将軍に家慶がつき、39年忠邦は老中首座となり、1万石加増となって、幕閣の頂点を極めた。翌年にはアヘン戦争の結果も伝えられ、41年隠然たる力をもち続けていた大御所家斉(いえなり)の死を契機に、家斉派の粛清と改革派の結集が図られた。同年5月15日、天保の改革の上意が発せられた。忠邦は、書道、絵、雅楽、和歌、古典研究などに通じていたが、平素はつねに綿(めん)服を着用するというように質素倹約に彼自身が努め、儒教的禁欲主義の理念をもって、士風の振興から庶民の生活・風俗統制まで強圧的に行っていった。さらに、株仲間の解散、幕領検地、上知(あげち)令など幕藩制の屋台骨にかかわる政策を断行しようとした。
しかし、忠邦は、江戸庶民から「人面獣心、古今の悪玉」とまでいわれ、政策には幕閣内部からも反発が出て、挫折(ざせつ)に追い込まれていった。1843年閏(うるう)9月の上知令撤回を機に、同月13日老中罷免となった。この日、忠邦の役宅は、江戸市民数千人による投石にみまわれたのである。44年(弘化1)老中復職、しかし8か月にして、持病悪化を理由に再辞職。翌年9月、役務中の不正を理由に、加増地1万石と本高のうち1万石および居屋敷・家作ともに没収、嫡子金五郎(忠精(ただきよ))が11月に出羽(でわ)山形5万石へ転封と発令された。翌年の転封には、浜松で打毀(うちこわし)が起き、転封完了には領民が祝うことすらあったという。44年にはすでに農兵隊の組織化などが行われた、忠邦による浜松藩の軍事改革も領民の不満を蓄積させていたのであった。忠邦は山形には同行できず、49年(嘉永2)、病状悪化を理由に、荏原(えばら)郡中渋谷(なかしぶや)村の下屋敷から三田(みた)への転居を認められ、嘉永(かえい)4年2月10日病死した。数え年58歳。下総(しもうさ)山川(茨城県結城(ゆうき)市)万松(ばんしょう)寺に葬られる。
[浅見 隆]



世界大百科事典
水野忠邦
みずのただくに
1794-1851(寛政6-嘉永4)

江戸後期の大名。天保改革の指導者。肥前の唐津藩主水野忠光の庶子として生まれた。1812年(文化9)唐津6万石を襲封すると,すぐに藩政改革の断行を宣言し,藩主親裁の姿勢をとった。15年奏者番に任命され,幕閣への登竜門に立った忠邦は,17年減収をおそれた家臣の猛反対を退けて唐津から遠州浜松へ転封し,同時に寺社奉行を兼ねた。それより大坂城代,所司代を歴任し,28年(文政11)西丸老中,34年(天保5)水野忠成のあとをおそって本丸老中に昇進,次いで勝手掛老中を経て39年老中首座に進み,幕政の最高責任者となった。

忠邦の栄達は,その才幹を愛した水野忠成や将軍家斉らの推挙によったため,その在世中は改革に手を下すことができなかったが,家斉が41年閏正月に死んだ直後から改革派を結集し,将軍家慶の名をもって幕政改革に着手した。改革は多方面にわたり空前のきびしさで進行したが,その中でとくに株仲間解散令と上知令(あげちれい)が改革の新しい側面を代表している。前者は新しい産業統制,後者は領主的土地所有の再編,強化を意図した政策であり,ともに幕府を絶対主義に傾斜させる客観的意義を担っていた。しかし反対勢力の攻撃により,忠邦は幕閣を追われ,改革はわずか2年余で終結した。忠邦はその後,ふたたび老中首座に返り咲いたが,まもなく辞職し,天保改革の政治責任を問われて減封,羽州山形への転封などの処罰を受けた。
[北島 正元]

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5. 水野忠邦
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23. あべまさひろ【阿部正弘】
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日本歴史地名大系
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31. 井上氏
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42. 江川太郎左衛門
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迫,百姓一揆の頻発,外に異国船来航と内憂外患をかかえる幕府の解体期にあたり,改革派幕吏として水野忠邦の天保改革に参画した。代官役所の綱紀を粛正し,百姓一揆を鎮圧 ...
43. えがわたろうざえもん【江川太郎左衛門】
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44. 江川英龍画像
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演練に尽力したため、ふたたび鳥居らと対立、秋帆の捕縛に及んだ。1843年鉄炮方となるも、老中水野忠邦(ただくに)の失脚により罷免。以後、農兵論を主張し、海防策の ...
45. えちごのくにしいやはんしゅ【越後国椎谷藩主】 : 堀氏/(2)
国史大辞典
命じられた。その後、直起以下三代の藩主はそれぞれ三河国西尾藩主松平乗佑、岡山藩主池田治政、老中水野忠邦の弟水野忠光家から迎えられた。代々、菊間詰。明治十年(一八 ...
46. えづれようすい【江連用水】茨城県:結城郡
日本歴史地名大系
は結束を強め、生命・財産を賭して再興をなしとげる決意を固めて起請文を認めた。同年五月には老中水野忠邦への直訴を試みている。一〇月に中居指・本宗道の両組合二八ヵ村 ...
47. 江戸三座画像
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森田座には河原崎座がそれぞれ控櫓と定められた。 1841年(天保12)中村、市村両座の火災を機に、水野忠邦(ただくに)の緊縮政策により、翌年から翌々年にかけ三座 ...
48. 江戸参府紀行 288ページ
東洋文庫
時の将軍家斉の四男。母は押田敏勝の女楽子。一八三七(天保八)年四月、 =一代将軍となる。将軍となってからは老中水野忠邦を信任し、い ...
49. 江戸参府紀行 2ページ
東洋文庫
11,97,108,117,132,155 254小倉藩主 84御城代(水野忠邦) 238コマキ→熊吉小森肥後介 158,2 ...
50. 江戸時代(年表)
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2月 大塩平八郎の乱。6月 生田万、柏崎陣屋襲撃。モリソン号事件1839(天保10)12月 水野忠邦、老中首座となる(天保の改革開始)。蛮社の獄1841(天保1 ...
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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