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  11. 北条早雲

北条早雲

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条早雲』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
北条早雲
ほうじょうそううん
一四三二 - 一五一九
戦国時代の武将。小田原北条氏の初代。早雲は庵号で、また北条を称したことはなく、一般に言い古されているこの呼称は、俗称というほかない。正しくは、伊勢を氏とし、新九郎を通称としている。入道してからは、「早雲庵宗瑞」あるいは「宗瑞」とみずから記している。実名は長氏とされ、また氏茂などを伝えているが、いずれも確証はなく不明である。永正十六年(一五一九)に八十八歳で没したと伝えているから、逆算すると永享四年(一四三二)の生まれとなる。その出自については、諸説紛紛としているが、(一)田中義成に代表される伊勢国の関氏一族出身説、(二)京都の伊勢氏出身説(渡辺世祐らが支持)、(三)備中国の伊勢氏説(藤井駿提唱)、の三説が主要なものである。『北条五代記』『北条盛衰記』などに記している山城国宇治・大和国在原は、住国について述べているにすぎない。現在では、(一)の関氏一族出身説は、その証拠とされた宗瑞自身の書状の解釈の相違から否定的となり、また(三)説と(二)説の折衷説が小和田哲男によって提出されている。(二)の京都の伊勢氏出身説は、杉山博・奥野高広・今谷明らにより補強されて定説化しつつある。しかしその父母を確定するまでには至っていない。早雲が明確に歴史上に登場するのは、文明八年(一四七六)のことである。この年二月、駿河の守護今川義忠は塩買坂(しょうがいざか、静岡県小笠郡小笠町大字高橋)で戦没したが、家督相続をめぐる今川家の内紛に、早雲は竜王丸(氏親)支持の側に立って、小鹿範満支援のため扇谷上杉定正から派遣されてきた太田道灌と出会い、この両者が中心となって調停を成功させ内紛を一応収拾したときである。この年、早雲・道灌ともに四十五歳であった。早雲の駿河下向の年次については、長禄元年(一四五七)説など四説ほどあるが、文明元年説が最も可能性が高く、また今川義忠の室となっていた妹(北川殿)をたよって駿河に来て、石脇城(静岡県焼津市)を居城としていたと推測される。文明十年代に上洛し、その十四年から十七年に至る四年間のある時期に、京都紫野の大徳寺で春浦宗煕に従い禅修行を積んでいる。幕府に出入りしたのもこの時期とされる。範満の支援者であった道灌が謀殺された翌長享元年(一四八七)、早雲は範満を駿府の館に攻めて自害させ、竜王丸を駿府に移して名実ともに今川家の家督とした。この功績により、駿河の富士下方十二郷を与えられ、興国寺城(静岡県沼津市根古屋)城主となる。延徳三年(一四九一)堀越御所足利政知没後の紛糾した伊豆国に攻め入り、政知の子茶々丸を討って平定し、韮山(静岡県田方郡韮山町)に城を築いて居城とし、伊豆の経営にあたった。早雲の伊豆進攻の年次については、明応二年(一四九三)説もある。同四年九月、相模の小田原城(神奈川県小田原市城山)を攻め、大森藤頼を追ってこれを奪い、関東進出の第一歩を印した。小田原城攻略に関しては、早雲が藤頼に故意に接近し、ついに鹿狩りを口実として急襲したように伝えているのは事実でなかろう。その背景には、扇谷上杉定正没後の関東情勢の変化が大きく関係していたとみるべきであろう。早雲の伊豆・相模への進出は、抗争する定正と山内上杉顕定を利用しての行動とみられるが、小田原城攻略の翌年、早雲は相模で顕定の大反撃をうけ、弟の弥次郎を失っている。永正元年九月、早雲は今川氏親とともに扇谷上杉朝良を援助して、顕定と武蔵の立川原(東京都立川市)で戦い大勝した。また同年、京都の医者陳定治を小田原に招いて透頂香の製造販売を行わせるなどして、城下の整備を図っている。同三年時点で、すでに検地の実施と新基準の貫高の採用が確認され、新しい領国支配体制の基礎固めを行なっている。同三年と同五年の二回にわたり、氏親の援軍として三河に出陣しているが、同七年ごろからは相模の征服を開始し、同九年八月には岡崎城(神奈川県平塚市・同伊勢原市)に三浦義同を攻めて、住吉城(神奈川県逗子市)に敗走させ、その十三日にはじめて鎌倉に入っている。早雲は「枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ」と詠じたと伝え、荒廃した鎌倉の再興を誓っていることが知られる。同じ九年に玉縄城(神奈川県鎌倉市)を築き、翌十年には義同の反撃を退け、さらに新井城(神奈川県三浦市)に追い込め、十三年七月、ついに義同・義意父子を討って三浦氏を滅亡させ、相模を征服した。十五年には家督を氏綱に譲ったとみられるが、翌十六年八月十五日に伊豆の韮山城で没。八十八歳。箱根湯本の早雲寺(神奈川県足柄下郡箱根町)に葬る。法名は、早雲寺殿天岳宗瑞。早雲は死没直前の十六年四月二十八日、箱根領別当勘忍分などの地を菊寿丸(長綱)に与えたが、その文書の紙背に、印文「纓」の黒印を継目印として用いている。家訓といわれるものに『早雲寺殿廿一箇条』があり、また家法として『伊勢宗瑞十七箇条』の存在が指摘されている。平生『太平記』を愛読していた一面をもち、また「針をも蔵に積むべきほどの人」という批評のとおり、倹約家でありながら経済思想のすぐれた人物であったといえる。→早雲寺殿廿一箇条(そううんじでんにじゅういっかじょう)
[参考文献]
『大日本史料』九ノ九 永正十六年八月十五日条、田中義成『足利時代史』、渡辺世祐『室町時代史』、杉山博『北条早雲』、小和田哲男『後北条氏研究』、今谷明『言継卿記』(『日記・記録による日本歴史叢書』古代・中世編二三)、藤井駿「北条早雲と備中国荏原荘」(『吉備地方史の研究』所収)、奥野高広「伊勢宗瑞の素生」(『武蔵野』五七ノ二)
(佐脇 栄智)


日本大百科全書(ニッポニカ)
北条早雲
ほうじょうそううん
[1432―1519]

関東の戦国大名、北条氏(後(ご)北条氏)初代。伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)ともいう。入道して早雲庵宗瑞(あんそうずい)と号す。一介の素浪人説が流布し、美濃(みの)の斎藤道三(どうさん)と並んで、下剋上(げこくじょう)の時代を代表する人物とされるが、室町幕府政所(まんどころ)執事伊勢氏の一族であることはほぼ確実である。1483年(文明15)幕府申次衆(もうしつぎしゅう)となった伊勢新九郎盛時をその前身とみる有力な説があり、単なる素浪人ではない。初め足利義視(あしかがよしみ)に仕えて67年(応仁1)の伊勢下向に従ったが、妹が今川義忠(よしただ)の室となっていた縁を頼って駿河(するが)に下る。76年義忠戦死後の家督争いを調停して、妹北川殿の生んだ竜王丸(氏親(うじちか))をたて、その功によって富士下方12郷(静岡県富士市)を与えられ興国寺(こうこくじ)城(沼津市)に入る。当時関東では古河公方(こがくぼう)の力が衰え、山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)両上杉氏の争いを軸に諸勢力の分裂と抗争が相次いでいた。早雲はすでに伊豆の土豪らとよしみを通じていて、そうした状況を把握しており、まず伊豆に討って出て関東侵出の足掛りをつくろうとした。
1491年(延徳3)堀越(ほりこし)公方足利茶々丸(ちゃちゃまる)を討って韮山(にらやま)城(静岡県伊豆の国市)に移り自立、伊豆国を制圧した。ついで95年(明応4)扇谷上杉氏の重臣大森藤頼(ふじより)の小田原城(神奈川県小田原市)を攻略して相模(さがみ)に進んだ。『北条記』によれば、早雲はあるとき、ねずみが2本の大杉を食い倒してのち虎(とら)になった夢をみ、ねずみを子(ね)年生まれの早雲に、2本の大杉を山内と扇谷の両上杉氏になぞらえて、めでたい夢と喜んだという。早雲は両上杉氏、古河公方、武田氏などと、相模、武蔵(むさし)、甲斐(かい)に戦い、手痛い敗北も経験しながら東に向かう。1512年(永正9)相模守護家の三浦氏を岡崎城(神奈川県平塚市)に攻めてこれを追い、鎌倉に入った。鎌倉の北西に玉縄(たまなわ)城を築いて三浦、江戸、さらには関東制圧の拠点とし、16年新井(あらい)城(同三浦市)に三浦氏を滅ぼし、相模一国を従えた。
早雲は太田道灌(どうかん)と同じ年に生まれたが、30年余りも長生きして北条氏発展の基礎をつくり、永正(えいしょう)16年に88歳で死去、箱根湯本の早雲寺に葬られた。「早雲寺殿廿一箇条(にじゅういっかじょう)」はその生涯の生活信条を記した早雲の家訓といわれている。仏神を信じよ、早寝早起きをせよ、すこしの隙にも書を読むようになど、基本的な心得が細かに述べられている。早雲寺にある画像は経略に優れた戦国武将の風貌(ふうぼう)をよく伝えている。
[池上裕子]



世界大百科事典
北条早雲
ほうじょうそううん
1432-1519(永享4-永正16)

戦国時代の武将。後北条氏初代。早雲は庵号で,また彼は北条を称したことはなく,一般にいいふるされている呼称は俗称。正しくは伊勢新九郎で,入道して早雲庵宗瑞あるいは宗瑞とみずから記している。実名は長氏とされ,また氏茂などを伝えているが,いずれも確証はない。生国も伊勢,備中,京都などの諸説があるが,京都の伊勢氏とみるのが最も適切であろう。彼の駿河下向は1469年(文明1)とみられ,駿河守護今川義忠の室であった妹をたよって今川氏に身を寄せ,石脇城を居城としたと推測される。76年の義忠戦没後の今川家内紛では,竜王丸(氏親)支持の側に立ったが,このとき範満支援のため扇谷上杉定正から派遣されてきた太田道灌と出会い,両者の調停によって内紛は一応収拾され,これより彼は歴史に登場することになる。早雲,道灌ともに45歳であった。道灌が謀殺された翌87年(長享1),早雲は範満を駿府の館に攻めて自害させ,竜王丸を駿府に移し名実ともに今川家の家督とした。この功績により,駿河の富士下方12郷を与えられ,興国寺城主となる。91年(延徳3)堀越御所足利政知没後の紛糾した伊豆に攻め入り,政知の子茶々丸を討って平定し,韮山に城を築いて居城とし,伊豆の経営に当たった。95年(明応4)9月相模の小田原城を攻め,大森藤頼を追ってこれを奪い,関東進出の第一歩をしるした。この早雲の伊豆,相模への進出は,扇谷上杉定正や山内上杉顕定を利用しての行動とみられるが,小田原城攻略の翌年,早雲は相模で顕定から大反撃されて,弟の弥次郎を失っている。

1504年(永正1)早雲は今川氏親とともに,扇谷上杉朝良を助けて顕定と武蔵の立川原で戦い勝利をおさめた。同年京都の医者陳定治を小田原に招いて透頂香(外郎(ういろう))の製造販売を行わせるなど,城下の整備を図っている。06年にはすでに検地の実施と新基準の貫高の採用が確認され,新しい領国支配体制の基礎固めを行っている。06年と08年の2回にわたり,氏親の援軍として三河に出陣したが,10年ごろからは相模の征服を開始し,12年には岡崎城に三浦義同(よしあつ)を攻めて住吉城に敗走させ,その8月13日に鎌倉へ入った。彼は〈枯るる樹にまた花の木を植ゑそへてもとの都になしてこそみめ〉と詠じたと伝えられ,荒廃した鎌倉の再興を誓ったことが知られる。同じ12年玉縄城を築き,翌13年には義同の反撃を退けて新井城に追い込め,16年の7月ついに義同・義意父子を討って三浦氏を滅亡させ,相模を征服した。18年に家督を氏綱に譲ったとみられる。翌年8月15日,伊豆の韮山城で没し,相模箱根の早雲寺に葬られる。法名は早雲寺殿天岳宗瑞。家訓といわれるものに《早雲寺殿廿一箇条》があり,家法《伊勢宗瑞十七箇条》の存在が指摘されている。平生《太平記》を愛読していた一面をもち,また倹約家として知られていた。
[佐脇 栄智]

[索引語]
伊勢新九郎 太田道灌
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1. 北条早雲
日本大百科全書
関東の戦国大名、北条氏(後(ご)北条氏)初代。伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)ともいう。入道して早雲庵宗瑞(あんそうずい)と号す。一介の素浪人説が流布し ...
2. 北条早雲
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1432-1519(永享4-永正16) 戦国時代の武将。後北条氏初代。早雲は庵号で,また彼は北条を称したことはなく,一般にいいふるされている呼称は俗称。正しくは ...
3. ほうじょう‐そううん【北条早雲】
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戦国時代の武将。後北条氏の祖。伊勢新九郎長氏と称したのち、出家して宗瑞と号す。はじめ今川義忠を頼って駿河に滞在、義忠の死後内紛を平定して興国寺城主、次いで伊豆韮 ...
4. ほうじょうそううん【北条早雲】画像
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5. ほうじょう-そううん【北条早雲】
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1432−1519 室町-戦国時代の武将。永享4年生まれ。駿河(するが)(静岡県)の今川氏の食客となり,延徳3年堀越公方(くぼう)足利茶々丸を攻めて伊豆(いず) ...
6. ほうじょうそううん【北条早雲】
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10. 北条早雲印[図版]画像
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12. 早雲寺殿廿一箇条(著作ID:1063043)
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そううんじどのにじゅういっかじょう 北条早雲二十一ケ条 教訓  ...
13. あしかがたかもと【足利高基】画像
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16. あしかが‐ちゃちゃまる【足利茶々丸】
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19. あしかがまさうじ【足利政氏】画像
国史大辞典
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23. あしがらしもぐん【足柄下郡】
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相模 新井城 で滅ぼす(鎌倉九代後記)。 1516年〈永正13 丙子〉 7・11 伊勢宗瑞(北条早雲),三浦義同・義意父子を相模 新井城 で滅ぼす(秋田藩採集文 ...
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日本歴史地名大系
合戦に勝って三浦氏の主となった義同はその後子の義意を当城に置いた。永正九年(一五一二)から同一三年にかけて北条早雲が攻城し、兵粮つきた義同・義意父子は討死(北条 ...
29. いこなひめのみことじんじゃ【伊古奈比〓命神社】静岡県:下田市/白浜村
日本歴史地名大系
ほかに白浜村・岡方村、嶺村・逆川村(現河津町)にも社領があったと伝える。延徳三年(一四九一)には北条早雲が参詣し一一貫二〇〇文を寄進したという。慶長三年(一五九 ...
30. 石垣山
日本大百科全書
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32. いしばしむら【石橋村】神奈川県:小田原市地図
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33. いしわきむら【石脇村】静岡県:焼津市
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足利義詮にも同様の事例がみえ、さらに室町時代に入ると足利義満・同満兼らの社領寄進があり、戦国時代には北条早雲およびその子氏綱も社領を寄せたが、特に氏綱は天文十年 ...
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日本歴史地名大系
によると毎年四月に鎌倉公方が走湯権現へ代官を派遣している。明応一〇年(一五〇一)三月二八日、北条早雲は上千葉郷(現小田原市)内の地の替地として田牛村(現下田市) ...
36. 伊豆の国(市)画像
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北条時政(ときまさ)の建立した願成就院(がんじょうじゅいん)などがある。また、戦国時代の武将北条早雲の築いた韮山城、幕末に江川英龍(ひでたつ)(太郎左衛門)が建 ...
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湧出する。狩野川沿いの守山には北条時政の墓がある願成就院(がんじようじゆいん),町域中心部に北条早雲の伊豆の拠点であった韮山城跡,江戸時代に幕府代官を務めた江川 ...
38. 伊豆国画像
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1457年(長禄1)足利政知(あしかがまさとも)(将軍義政(よしまさ)の弟)の堀越御所の開設(伊豆の国市)、北条早雲(そううん)の堀越御所の討滅と韮山城築城など ...
39. 伊豆国
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できず韮山堀越(ほりごえ)に落ち着き堀越公方と称した。91年(延徳3)沼津興国寺城主であった北条早雲は堀越公方を倒し,たちまち伊豆国を奪い韮山城を根拠地とし,の ...
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河公方を圧倒するほどにまで成長せず、今川氏の食客から身を起し興国寺城主となっていた伊勢長氏(北条早雲)によって滅ぼされた。長氏は韮山に移って伊豆一円の支配と征服 ...
41. いずのくに【伊豆国】静岡県
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たが、軍事的拠点にはなり得なかったため、のち北条早雲がここを占領しても御所には拠らず、近くに韮山城を築いたと考えられている(静岡県史)。なお北条早雲の実名につい ...
42. いずみむら【和泉村】千葉県:印西市地図
日本歴史地名大系
家文書)。鎮守は鳥見神社。天台宗泉倉寺は縁起によれば永正四年(一五〇七)龍腹寺(現本埜村)が北条早雲の焼打ちを受けて炎上した折、その中坊先蔵寺が逃れて現在地へ建 ...
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『貞丈雑記』『安斎随筆』などを著わした江戸時代の故実家伊勢貞丈はその子孫である。後北条氏の祖である伊勢宗瑞(北条早雲)の系譜について、母は伊勢貞国女(『小田原北 ...
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49. いせ-そううん【伊勢早雲】
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一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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