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  11. 勝海舟

勝海舟

ジャパンナレッジで閲覧できる『勝海舟』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
勝海舟
かつかいしゅう
一八二三 - 九九
幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男として生まれる。天保九年(一八三八)家督相続。剣術修行に専念し、同十四年ごろ免許皆伝。同じころ西洋兵術の勉強を始め、弘化二年(一八四五)ごろから永井青崖について蘭書を読んだ。嘉永三年(一八五〇)赤坂田町中通に蘭学塾を開き、また諸藩の依頼を受けて鉄砲・大砲を鋳造した。嘉永六年のペリー来航に際して幕府に海防意見書を提出、安政元年(一八五四)に目付海防掛となった大久保忠寛の知遇を得た。安政二年正月、下田取締掛手付として蕃書翻訳勤務を命じられ、続いて七月、海軍伝習のために長崎に派遣された。足かけ五年の伝習によって、知識・技術ともに第一人者となった海舟は、万延元年(一八六〇)日米通商条約批准使節派遣の機会に咸臨丸を指揮して太平洋を横断、アメリカ社会を実地に見た。帰国すると、蕃書調所頭取助・軍艦操練所頭取などを経て、文久二年(一八六二)閏八月、幕政大改革人事の一環として軍艦奉行並に昇進、政事総裁職松平慶永やそのブレーン横井小楠らの雄藩連合による国内統一方針と同じ路線を歩んだ。同三年にかけて幕府要人を乗せて江戸―大坂間を往復、また将軍徳川家茂や姉小路公知に大坂湾の防備体制を見せた。元治元年(一八六四)五月、軍艦奉行・安房守、前年将軍から許可を得ていた神戸海軍操練所を開き、幕臣だけでなく諸藩の学生や坂本竜馬など脱藩志士も教育した。九月、西郷隆盛と会い倒幕の暗示を与える。十一月、軍艦奉行を罷免され寄合。慶応二年(一八六六)五月、軍艦奉行に復任、上坂して第二次長州征伐をめぐる薩摩と幕府側との紛争を調停、また九月には宮島で長州と停戦交渉をした。このころ小栗忠順らの幕府中心の統一国家構想に反対して幕府が政権を投げ出すことによる新国家樹立を構想しているが、新たに将軍となった徳川慶喜は受け入れない。明治元年(一八六八)鳥羽・伏見の戦で敗れた慶喜から後始末を依頼されると、三月、西郷隆盛に内戦の不利を説いて江戸攻防戦阻止に成功した。この年、徳川家の駿府移転に従って移住したが、新政府からしばしば呼び出され、明治二年には外務大丞や兵部大丞を命じられたがいずれも辞した。しかし版籍奉還や廃藩置県については相談にあずかっている。同五年東京へ帰住、五月、海軍大輔。翌六年三月、島津久光呼出しのため鹿児島に赴く。十月征韓論大分裂直後に参議兼海軍卿。八年四月免官、同時に元老院議官に任じられたが固辞し続けて十一月に至り免官となった。これで官途を離れたわけだが、政界の陰の相談役として重要な地位を保ち、また徳川家の後見人格として当主家達や隠居の慶喜、さらに旧幕臣たちの面倒をみた。二十年五月伯爵、二十一年四月枢密顧問官。同三十二年一月十九日死去。七十七歳。東京府荏原郡馬込村(大田区)南千束の洗足池畔における別荘の一角に葬る。法名は大観院殿海舟日安大居士。『開国起原』『吹塵録』など著書・編著書は多く、それぞれ生前に刊行されたが、また昭和四年(一九二九)に『海舟全集』全十巻が完成した。なお、近年『勝海舟全集』二種が編纂され、一種は完結し(全二十一巻別巻二巻)、他の一種は刊行中である。
[参考文献]
松浦玲『勝海舟』(『中公新書』一五八)、石井孝『勝海舟』(『人物叢書』一七一)
(松浦 玲)


日本大百科全書(ニッポニカ)
勝海舟
かつかいしゅう
[1823―1899]

幕末期の開明的な幕臣。文政(ぶんせい)6年1月30日、石高41石余の貧乏旗本勝家に生まれる。通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)、のち安芳(やすよし)と改名。海舟と号し、安房守(あわのかみ)と名のった。勝家は、父小吉(こきち)が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったもの。小吉の生家である旗本男谷(おたに)家も、金貸しを営んでいた小吉の祖父男谷検校(けんぎょう)が、小吉の父のために買ったものであった。しかも父小吉が無役であり、市井(しせい)のなかで無頼の生活を送っていた関係で、周辺には庶民の雰囲気があった。剣は島田虎之助(とらのすけ)(直心影流(じきしんかげりゅう))に学び、その代稽古(だいげいこ)を勤めるほどになったが、島田の勧めで西洋兵学に志した。その勉強ぶりは有名で、入手しにくい蘭書(らんしょ)をその所有者の家に毎夜、半年間通って書写したという。こうして1850年(嘉永3)から自宅で蘭学塾を開くようになり、1855年(安政2)には大久保忠寛(ただひろ)(一翁(いちおう))に推挙されて蕃書(ばんしょ)翻訳所に出仕した。同年さらに海軍伝習生頭役(とうやく)として長崎の海軍伝習所に赴き、オランダ士官より航海術の訓練を受けた。3年後江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准使節の新見正興(しんみまさおき)に随従して、咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断することとなった。
日本人だけの太平洋横断を指揮し、アメリカで近代を見聞してきた海舟が、倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかる。帰国後各職を歴任し、1862年(文久2)軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)として神戸に海軍操練所を設け、幕臣だけでなく、坂本龍馬(りょうま)や龍馬に誘われた志士たちなどを含めて広く人材を集めた。2年後、海舟は免職になり操練所は閉鎖されるが、この間木戸孝允(たかよし)や西郷隆盛(たかもり)らと接触があり、彼らに影響を与えている。ところが1866年(慶応2)敗北した第二次幕長戦争(長州征伐)の跡始末のために登用されるが、フランスと手を組む幕府中心の主戦的な流れから孤立していく。海舟には、幕府よりも日本の国家統一を重視する考え方があったからであろう。戊辰(ぼしん)戦争で江戸が新政府軍に囲まれたとき、主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の西郷隆盛と会談して江戸の無血開城を実現させたことは、こうした海舟の見識の結果であって、日本を外国の干渉から救うことをも意味した。
維新後は、しばらく新政府の誘いを断って静岡(駿府(すんぷ))に退いていたが、1869年(明治2)兵部大丞(ひょうぶだいじょう)に就任してから、海軍大輔(たいふ)、参議兼海軍卿(きょう)を歴任し、のち元老院議官、枢密院顧問官となり、伯爵になっている。旧幕臣で新政府に出仕したのが珍しかったためか、福沢諭吉に「痩我慢(やせがまん)の説」で非難された。しかし余生は、旧幕府の歴史の著述に使っており、『海軍歴史』『陸軍歴史』『吹塵録(すいじんろく)』などが知られている。また海舟の談話筆記である『氷川清話(ひかわせいわ)』と『海舟座談』は、海舟の生い立ちや考え方を知るにはよい材料である。明治32年1月19日没。墓所は、別邸「洗足軒(せんぞくけん)」のあった東京都大田区洗足池畔。
[池田敬正]



世界大百科事典
勝海舟
かつかいしゅう
1823-99(文政6-明治32)

幕末・明治の政治家。下級幕臣勝小吉の長男で通称麟太郎,名は義邦,海舟は号。幼少のころ将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめたが,その死によって微禄御家人の生活に戻り,島田虎之助について剣術をきわめ,ついで島田のすすめで蘭学により西洋兵学を身につけた。蘭学の師は永井青崖。本所に育ったが,蘭学修学の便のため赤坂に移り,1850年(嘉永3)赤坂田町に兵学塾を開いた。ペリー来航後しばしば上書してその識見を幕府有司に知られ,55年(安政2)初頭の海防掛視察団に加わって伊勢および大坂湾一帯の防備体制を調査,ついで同年から長崎ではじまる海軍伝習に幹部学生として派遣された。59年帰府すると軍艦操練所教授方頭取,翌60年(万延1)には咸臨丸を指揮して太平洋を横断,サンフランシスコでアメリカ社会を見てきた。62年(文久2)軍艦奉行並に昇進,軍制改正の議につらなり,また老中らを軍艦で大坂へ運ぶ。63年将軍家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立の許可をもらい,諸藩士や坂本竜馬ら脱藩浪士の教育にあたった。64年(元治1)正規の軍艦奉行に進み安房守を称したが,同年11月浪人庇護をとがめられて免職,翌年3月に神戸操練所も廃止となった。この時期,日本・朝鮮・清国三国同盟の構想をもっていたが,実現の機をつかめなかった。66年(慶応2)幕府の第2次征長戦が難航したため軍艦奉行に復職,安芸の宮島に出張して長州藩との停戦交渉に成功したが,政策決定の主体を雄藩代表らの合議体に移そうとする構想が最後の将軍となる徳川慶喜と対立,江戸に戻って軍艦奉行の日常業務にたずさわるうちに京都の政局は68年鳥羽・伏見の戦まで進む。幕府でなくなった徳川の新体制のもとで海舟は海軍奉行並から陸軍総裁,さらに軍事取扱となって東征軍にたちむかい,江戸総攻撃予定日の前夜,西郷隆盛と会見し,薩摩藩や長州藩が存続するかぎり徳川も藩として生き残る権利があるとの主張を認めさせ,無血開城への道を開いた(江戸開城)。同年,徳川家に従って駿府に移住,69年(明治2)安芳と改名。しばらく東京~静岡間を往復し新旧両政権間の事務引継ぎ,新政権への意見具申につとめたが72年海軍大輔就任とともに東京永住の態勢を固めた。73年の政府大分裂には関係せず,事件後空席を埋めて参議兼海軍卿に進んだが,西郷には深い同情をもち,西郷の真意は征韓論ではないと晩年まで主張し続けた。75年元老院議官に転じたが,同年それも辞任,以後10年余は野にあって,旧幕臣の生活救済につとめ,また逆賊となった西郷の名誉回復に心を配った。87年伯爵,88年枢密顧問官となって,再び活発な意見陳述を開始,清国との敵対や朝鮮への出兵には終始反対,日清戦争に批判的だった。足尾鉱毒問題では廃山のほかはないと言い切っている。87年から《吹塵録》《海軍歴史》《陸軍歴史》《開国起原》など,旧幕時代の記録を編集・刊行した功績も大きい。
[松浦 玲]

[索引語]
勝小吉 勝麟太郎 勝義邦 西郷隆盛 勝安芳
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49. おおいし-まどか【大石円】
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奉行を一時務め、それを最後に退隠、一翁(いちおう)と称した。松平慶永(よしなが)とも親しく、勝海舟(かつかいしゅう)の門下でもあり、外国事情に関心をもつ開明的な ...
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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