幕末期の開明的な幕臣。文政(ぶんせい)6年1月30日、石高41石余の貧乏旗本勝家に生まれる。通称麟太郎(りんたろう)、名は義邦(よしくに)、のち安芳(やすよし)と改名。海舟と号し、安房守(あわのかみ)と名のった。勝家は、父小吉(こきち)が婿養子になる形で同家の旗本株を買ったもの。小吉の生家である旗本男谷(おたに)家も、金貸しを営んでいた小吉の祖父男谷検校(けんぎょう)が、小吉の父のために買ったものであった。しかも父小吉が無役であり、市井(しせい)のなかで無頼の生活を送っていた関係で、周辺には庶民の雰囲気があった。剣は島田虎之助(とらのすけ)(直心影流(じきしんかげりゅう))に学び、その代稽古(だいげいこ)を勤めるほどになったが、島田の勧めで西洋兵学に志した。その勉強ぶりは有名で、入手しにくい蘭書(らんしょ)をその所有者の家に毎夜、半年間通って書写したという。こうして1850年(嘉永3)から自宅で蘭学塾を開くようになり、1855年(安政2)には大久保忠寛(ただひろ)(一翁(いちおう))に推挙されて蕃書(ばんしょ)翻訳所に出仕した。同年さらに海軍伝習生頭役(とうやく)として長崎の海軍伝習所に赴き、オランダ士官より航海術の訓練を受けた。3年後江戸に帰り軍艦操練所教師方頭取となり、1860年(万延1)には日米修好通商条約批准使節の新見正興(しんみまさおき)に随従して、咸臨丸(かんりんまる)で太平洋を横断することとなった。
日本人だけの太平洋横断を指揮し、アメリカで近代を見聞してきた海舟が、倒れかかった幕府で近代海軍を建設する仕事にとりかかる。帰国後各職を歴任し、1862年(文久2)軍艦奉行並(ぶぎょうなみ)として神戸に海軍操練所を設け、幕臣だけでなく、坂本龍馬(りょうま)や龍馬に誘われた志士たちなどを含めて広く人材を集めた。2年後、海舟は免職になり操練所は閉鎖されるが、この間木戸孝允(たかよし)や西郷隆盛(たかもり)らと接触があり、彼らに影響を与えている。ところが1866年(慶応2)敗北した第二次幕長戦争(長州征伐)の跡始末のために登用されるが、フランスと手を組む幕府中心の主戦的な流れから孤立していく。海舟には、幕府よりも日本の国家統一を重視する考え方があったからであろう。戊辰(ぼしん)戦争で江戸が新政府軍に囲まれたとき、主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の西郷隆盛と会談して江戸の無血開城を実現させたことは、こうした海舟の見識の結果であって、日本を外国の干渉から救うことをも意味した。
維新後は、しばらく新政府の誘いを断って静岡(駿府(すんぷ))に退いていたが、1869年(明治2)兵部大丞(ひょうぶだいじょう)に就任してから、海軍大輔(たいふ)、参議兼海軍卿(きょう)を歴任し、のち元老院議官、枢密院顧問官となり、伯爵になっている。旧幕臣で新政府に出仕したのが珍しかったためか、福沢諭吉に「痩我慢(やせがまん)の説」で非難された。しかし余生は、旧幕府の歴史の著述に使っており、『海軍歴史』『陸軍歴史』『吹塵録(すいじんろく)』などが知られている。また海舟の談話筆記である『氷川清話(ひかわせいわ)』と『海舟座談』は、海舟の生い立ちや考え方を知るにはよい材料である。明治32年1月19日没。墓所は、別邸「洗足軒(せんぞくけん)」のあった東京都大田区洗足池畔。
幕末・明治の政治家。下級幕臣勝小吉の長男で通称麟太郎,名は義邦,海舟は号。幼少のころ将軍徳川家斉の孫初之丞の相手をつとめたが,その死によって微禄御家人の生活に戻り,島田虎之助について剣術をきわめ,ついで島田のすすめで蘭学により西洋兵学を身につけた。蘭学の師は永井青崖。本所に育ったが,蘭学修学の便のため赤坂に移り,1850年(嘉永3)赤坂田町に兵学塾を開いた。ペリー来航後しばしば上書してその識見を幕府有司に知られ,55年(安政2)初頭の海防掛視察団に加わって伊勢および大坂湾一帯の防備体制を調査,ついで同年から長崎ではじまる海軍伝習に幹部学生として派遣された。59年帰府すると軍艦操練所教授方頭取,翌60年(万延1)には咸臨丸を指揮して太平洋を横断,サンフランシスコでアメリカ社会を見てきた。62年(文久2)軍艦奉行並に昇進,軍制改正の議につらなり,また老中らを軍艦で大坂へ運ぶ。63年将軍家茂の大坂湾視察を案内して神戸海軍操練所設立の許可をもらい,諸藩士や坂本竜馬ら脱藩浪士の教育にあたった。64年(元治1)正規の軍艦奉行に進み安房守を称したが,同年11月浪人庇護をとがめられて免職,翌年3月に神戸操練所も廃止となった。この時期,日本・朝鮮・清国三国同盟の構想をもっていたが,実現の機をつかめなかった。66年(慶応2)幕府の第2次征長戦が難航したため軍艦奉行に復職,安芸の宮島に出張して長州藩との停戦交渉に成功したが,政策決定の主体を雄藩代表らの合議体に移そうとする構想が最後の将軍となる徳川慶喜と対立,江戸に戻って軍艦奉行の日常業務にたずさわるうちに京都の政局は68年鳥羽・伏見の戦まで進む。幕府でなくなった徳川の新体制のもとで海舟は海軍奉行並から陸軍総裁,さらに軍事取扱となって東征軍にたちむかい,江戸総攻撃予定日の前夜,西郷隆盛と会見し,薩摩藩や長州藩が存続するかぎり徳川も藩として生き残る権利があるとの主張を認めさせ,無血開城への道を開いた(江戸開城)。同年,徳川家に従って駿府に移住,69年(明治2)安芳と改名。しばらく東京~静岡間を往復し新旧両政権間の事務引継ぎ,新政権への意見具申につとめたが72年海軍大輔就任とともに東京永住の態勢を固めた。73年の政府大分裂には関係せず,事件後空席を埋めて参議兼海軍卿に進んだが,西郷には深い同情をもち,西郷の真意は征韓論ではないと晩年まで主張し続けた。75年元老院議官に転じたが,同年それも辞任,以後10年余は野にあって,旧幕臣の生活救済につとめ,また逆賊となった西郷の名誉回復に心を配った。87年伯爵,88年枢密顧問官となって,再び活発な意見陳述を開始,清国との敵対や朝鮮への出兵には終始反対,日清戦争に批判的だった。足尾鉱毒問題では廃山のほかはないと言い切っている。87年から《吹塵録》《海軍歴史》《陸軍歴史》《開国起原》など,旧幕時代の記録を編集・刊行した功績も大きい。
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