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  11. 武田信玄

武田信玄

ジャパンナレッジで閲覧できる『武田信玄』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
武田信玄
たけだしんげん
一五二一 - 七三
戦国時代の武将。はじめ甲斐国から起り、のちに信濃、駿河、西上野、飛騨、東美濃、遠江・三河の一部に及ぶ地域を支配した。父は信虎で母は大井氏であった。大永元年(一五二一)十一月三日、駿河の今川氏親の臣であった福島正成勢が甲斐へ侵攻し、信虎と飯田河原(甲府市)で対戦している最中に、戦乱をさけて居館であった躑躅ヶ崎館の北方にあたる積翠寺で誕生した。幼名を太郎、勝千代といい、元服して晴信と称した。官途は大膳大夫、信濃守に任ぜられ、永禄二年(一五五九)二月、出家して信玄と号し、法性院、徳栄軒とも称した。甲斐武田氏は、清和源氏の一流で、鎌倉時代初期に信義が甲斐国守護となり、以後、歴代が守護職を継承し、信玄は十七代目であった。天文十年(一五四一)六月、父信虎を縁戚関係にあった駿河の今川義元のもとへ追放し、そのクーデターによって当主となった。この背景には、信虎がその政権末期に独断専行し、家臣団の遊離を招き、かつ長男であった晴信を廃して、次男の信繁を取りたてる動きがあったからである。家督相続の直後から信虎による信濃侵攻策を継承し、翌天文十一年には、妹婿であった諏訪頼重を攻めてこれを滅ぼし、ついでその一族であった高遠頼継も滅ぼし、同十三年には伊那郡に侵攻して箕輪城を攻略した。さらに佐久郡から小県郡へ侵攻し、葛尾城の村上義清を攻め、十七年二月には小県郡上田原で対戦して敗北するが、直ちに反撃に出て、七月には小笠原長時と村上義清の連合軍を、筑摩郡塩尻峠で打ち破った。十九年九月には村上義清を砥石城に攻め、その後も継続して小県・更級郡に侵攻し、同二十二年には、村上・小笠原氏を越後へ敗走させた。敗走した村上義清らは、越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、その援助によって旧領の回復を試みた。同年八月、景虎は信濃へ出陣し、更級郡川中島ではじめて信玄と対陣した。これ以後、両者は連年にわたって北信濃で対決し、永禄七年までに主な対戦だけでも五度にわたって川中島で対決している。こうした北進策とともに、南信濃への進攻策も並行して行い、弘治元年(一五五五)には木曾郡に木曾義昌を攻めて降服させている。これによって北信を除く信濃をほぼ制圧し、ついでその周辺地であった西上野・東美濃・飛騨への侵攻を開始する。永禄四年四月、武田勢は碓氷峠を越えて西上野を侵略し、同六年には岩櫃城を攻略し、ついで倉賀野城を攻めている。これによって長尾景虎との攻防は北信から西上野地域に移り、北信も武田領となった。翌七年七月には木曾郡から飛騨を攻め、同九年九月には、西上野の反武田勢力の拠点であった箕輪城を攻落させている。この間、隣国の駿河今川氏、小田原北条氏とは婚姻関係を結んで三国同盟を保っていた。北関東では北条氏康と連携して上杉景虎(謙信)と対決をつづけていた。しかし、この時期に、長男義信の離反事件が起り、家臣団に動揺が起っていた。永禄八年義信の謀反が発覚し、義信は幽閉され、関係した重臣層が処断された。嗣子を欠くことになった信玄は、直ちに高遠城主であった四郎勝頼に織田信長の養女を妻として迎え、体制の立て直しを計った。同十年には、義信に切腹を命じ、動揺した家臣団からは大挙して起請文を提出させた(『生島足島神社文書』)。義信が刑死すると、その妻を今川氏真のもとへ帰し、駿河との同盟関係を絶った。そして翌十一年末には駿河へ侵攻し、氏真を掛川へ追った。氏真は援を北条氏に求め、氏康が駿河に出兵して信玄と対戦した。これによって三国同盟は解消され、以後、北条氏との抗争が激化していった。駿府を占領した信玄は、翌十二年四月、駿河薩〓山の戦で北条氏政に敗れ、一旦駿河から撤退する。その後、作戦をかえて、十月、西上野から武蔵を経て北条氏の本拠小田原城を包囲し、その遠征の帰路には相州三増峠で北条軍を敗り、その年の十二月には再度駿河に出兵し、駿府を再占領した。徳川家康も遠江に進出し、これによって今川氏は滅亡し、信玄による駿河支配が始められた。北条氏との対戦はその後も駿東郡や伊豆でつづけられたが、元亀二年(一五七一)末に、北条氏康が病死するに及んで、その遺言によって両者の和睦がなり、信玄は再び西進策をとり、上洛作戦を展開させていった。翌三年に入ると、相ついで遠江・三河に出兵し、徳川家康およびその背後にいて畿内を掌握しつつあった織田信長と対決するに至った。十月には大軍をもってみずから出陣し、西上の途についた。十二月には家康の居城である浜松に近づき、遠江の三方原で徳川・織田の連合軍を破っている。進んで三河へ入り野田城を攻め、その一方で積極的な外交作戦によって越前朝倉氏、近江浅井氏、本願寺勢力に働きかけて織田信長の包囲網を作っていった。しかし野田城を包囲中の天正元年(一五七三)四月、陣中で病を発し、一旦甲府へ帰陣する途中、同月十二日信濃伊那郡駒場で五十三歳をもって病死した。その死は嗣子勝頼によって三ヵ年間秘喪が行われ、同四年四月に本葬が営まれ、塩山の恵林寺が墓所と定められた。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。信玄の治政三十三年間にはこうした対外侵略を支えた政策として領国支配にいくつかの特徴的なものがみられる。まず、領国の法体系として、天文十六年(一五四七)六月には『甲州法度之次第』が定められ、分国法として父信虎期の総括をするとともに、その後の施政方針を明らかにしている。ついで永禄元年には、弟信繁に命じて家訓を制定し、家臣団の忠誠を換起させている。その家臣団編成は、親族衆・譜代家老衆・他国衆・譜代国衆・直臣衆の五類型からなり、最上層の親族衆・譜代家老衆は、征服地も含めた支城領に城代として配置されており、また家臣団の中核をなす譜代国衆・直臣衆は、奉行・代官として実務を分担し、それぞれ侍大将として配下に寄親寄子制にもとづく寄子・被官を抱えて、全体として武田軍団を編成していた。信玄はこうした家臣団各層を配して村落支配を強化し、一方では直轄領も要所に配置して財政的基盤を固めた。知行地・直轄領・寺社領ともに局地的ではあるが検地や棟別調査を実施し、在地の直接掌握に努めた。城下町である甲府には商人・職人を集住させ、各種の特権を与えて領国の経済活動に奉仕させた。交通制度も早くから整備し、伝馬宿駅制は占領地にも及んでいた。このほか、信玄堤と俗称される治水政策や新田開発、甲州金、甲州枡と称される度量衡の統一や金山の開発など、信玄の創始といわれる施策は多い。家督直後の天文十年十月には、家印として竜朱印を定め、以後、数回の改刻を重ねて領国支配文書に多用した。他に伝馬朱印も創始して交通制度を整備している。こうした信玄の諸政策は、天正十年三月、嗣子勝頼が織田・徳川連合軍の甲州征伐によって滅亡した後も、多く武田遺制として在地で温存された。
[参考文献]
『大日本史料』一〇ノ一五 天正元年四月十二日条、奥野高広『武田信玄』(『人物叢書』一九)、磯貝正義『武田信玄』
(柴辻 俊六)


世界大百科事典
武田信玄
たけだしんげん
1521-73(大永1-天正1)

戦国期の武将。初め甲斐国の大名で,のちに信濃,駿河と上野,飛驒,美濃,三河,遠江の一部を領有する戦国大名となる。父は信虎。幼名を太郎,勝千代といい,元服して晴信と称し,官途は大膳大夫,信濃守に任ぜられた。1559年(永禄2)に出家して信玄と号し,法性院ともいう。武田氏は清和源氏の一族で,鎌倉初期には信義が甲斐国守護に任ぜられ,以後歴代が守護職をつぎ,信玄は守護としては17代目である。1541年(天文10)に,父信虎を駿河の今川義元の所へ追い,当主となる。家督相続の直後から信濃への侵攻を開始し,諏訪氏,小笠原氏,村上氏などの信濃の諸大名を制圧し,53年にはほぼ信濃を領有した。一方,敗走した村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)に援助を求め,長尾氏は信濃へ出兵し信玄と対決する。これが著名な川中島の戦の発端であり,64年(永禄7)までのおもな対戦だけでも5度におよぶ。その後,信玄は西上野へ侵入し,北関東の領有をねらった。両者の対決は北関東に拡大し,ここでも信玄は優位にたち,66年には西上野を領有した。同時にこのころから飛驒へも侵入し,金刺氏などの旧族を滅ぼして領有した。

この間,隣国の駿河の今川氏,相模の後北条氏とは同盟関係を保ち,婚姻関係を結んでいた。信玄は長男の義信に今川義元の娘を妻として迎えていたが,67年に義信が反逆罪で刑死すると,その妻を今川氏真のもとへ帰し,駿河との同盟関係を絶った。そして翌年の暮れには駿河侵攻の兵を起こし,69年4月には今川氏真を追って駿河を領有してしまった。同時に遠江へは徳川家康が侵攻し,今川氏は滅亡する。この事件をきっかけに,それまで同盟関係にあった後北条氏と敵対し,これ以後両者の争いは,71年(元亀2)に北条氏康が没して,その遺言で和睦するまで,おもに駿河駿東郡,伊豆などで激烈な戦いをくりかえした。とくに1569年10月には,信玄が後北条氏の本拠である小田原城を包囲しており,著名な三増峠の戦でも勝利を収めている。後北条氏と対決する過程では,関東の諸大名とも同盟関係を結び,常陸の佐竹氏,安房の里見氏らに接近している。

後北条氏との和議が成立した後は,信玄の目標ははっきりと上洛に向けられ,72年に入ると,遠江,三河への出兵があいつぎ,徳川家康およびその背後にいた織田信長と対決するに至った。同年の10月には,信玄みずから大軍を率いて,西上作戦のための出陣をしている。12月には家康の居城である浜松に近づき,三方原で家康・信長連合軍を打ち破り(三方原の戦),その後,進んで三河へ侵攻し,徳川氏の諸城を攻め落とした。しかし翌年4月,三河野田城包囲の陣中で病床に伏し,いったん甲府へ帰陣する途中の信濃駒場で53歳をもって病死する。死後その子武田勝頼によって喪は3年間隠され,76年(天正4)4月に本葬が営まれ,塩山の恵林寺が墓所と定められた。
[柴辻 俊六]

[索引語]
今川氏 後北条氏
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アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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