山の戦で北条氏政に敗れ、一旦駿河から撤退する。その後、作戦をかえて、十月、西上野から武蔵を経て北条氏の本拠小田原城を包囲し、その遠征の帰路には相州三増峠で北条軍を敗り、その年の十二月には再度駿河に出兵し、駿府を再占領した。徳川家康も遠江に進出し、これによって今川氏は滅亡し、信玄による駿河支配が始められた。北条氏との対戦はその後も駿東郡や伊豆でつづけられたが、元亀二年(一五七一)末に、北条氏康が病死するに及んで、その遺言によって両者の和睦がなり、信玄は再び西進策をとり、上洛作戦を展開させていった。翌三年に入ると、相ついで遠江・三河に出兵し、徳川家康およびその背後にいて畿内を掌握しつつあった織田信長と対決するに至った。十月には大軍をもってみずから出陣し、西上の途についた。十二月には家康の居城である浜松に近づき、遠江の三方原で徳川・織田の連合軍を破っている。進んで三河へ入り野田城を攻め、その一方で積極的な外交作戦によって越前朝倉氏、近江浅井氏、本願寺勢力に働きかけて織田信長の包囲網を作っていった。しかし野田城を包囲中の天正元年(一五七三)四月、陣中で病を発し、一旦甲府へ帰陣する途中、同月十二日信濃伊那郡駒場で五十三歳をもって病死した。その死は嗣子勝頼によって三ヵ年間秘喪が行われ、同四年四月に本葬が営まれ、塩山の恵林寺が墓所と定められた。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。信玄の治政三十三年間にはこうした対外侵略を支えた政策として領国支配にいくつかの特徴的なものがみられる。まず、領国の法体系として、天文十六年(一五四七)六月には『甲州法度之次第』が定められ、分国法として父信虎期の総括をするとともに、その後の施政方針を明らかにしている。ついで永禄元年には、弟信繁に命じて家訓を制定し、家臣団の忠誠を換起させている。その家臣団編成は、親族衆・譜代家老衆・他国衆・譜代国衆・直臣衆の五類型からなり、最上層の親族衆・譜代家老衆は、征服地も含めた支城領に城代として配置されており、また家臣団の中核をなす譜代国衆・直臣衆は、奉行・代官として実務を分担し、それぞれ侍大将として配下に寄親寄子制にもとづく寄子・被官を抱えて、全体として武田軍団を編成していた。信玄はこうした家臣団各層を配して村落支配を強化し、一方では直轄領も要所に配置して財政的基盤を固めた。知行地・直轄領・寺社領ともに局地的ではあるが検地や棟別調査を実施し、在地の直接掌握に努めた。城下町である甲府には商人・職人を集住させ、各種の特権を与えて領国の経済活動に奉仕させた。交通制度も早くから整備し、伝馬宿駅制は占領地にも及んでいた。このほか、信玄堤と俗称される治水政策や新田開発、甲州金、甲州枡と称される度量衡の統一や金山の開発など、信玄の創始といわれる施策は多い。家督直後の天文十年十月には、家印として竜朱印を定め、以後、数回の改刻を重ねて領国支配文書に多用した。他に伝馬朱印も創始して交通制度を整備している。こうした信玄の諸政策は、天正十年三月、嗣子勝頼が織田・徳川連合軍の甲州征伐によって滅亡した後も、多く武田遺制として在地で温存された。戦国期の武将。初め甲斐国の大名で,のちに信濃,駿河と上野,飛驒,美濃,三河,遠江の一部を領有する戦国大名となる。父は信虎。幼名を太郎,勝千代といい,元服して晴信と称し,官途は大膳大夫,信濃守に任ぜられた。1559年(永禄2)に出家して信玄と号し,法性院ともいう。武田氏は清和源氏の一族で,鎌倉初期には信義が甲斐国守護に任ぜられ,以後歴代が守護職をつぎ,信玄は守護としては17代目である。1541年(天文10)に,父信虎を駿河の今川義元の所へ追い,当主となる。家督相続の直後から信濃への侵攻を開始し,諏訪氏,小笠原氏,村上氏などの信濃の諸大名を制圧し,53年にはほぼ信濃を領有した。一方,敗走した村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)に援助を求め,長尾氏は信濃へ出兵し信玄と対決する。これが著名な川中島の戦の発端であり,64年(永禄7)までのおもな対戦だけでも5度におよぶ。その後,信玄は西上野へ侵入し,北関東の領有をねらった。両者の対決は北関東に拡大し,ここでも信玄は優位にたち,66年には西上野を領有した。同時にこのころから飛驒へも侵入し,金刺氏などの旧族を滅ぼして領有した。
この間,隣国の駿河の今川氏,相模の後北条氏とは同盟関係を保ち,婚姻関係を結んでいた。信玄は長男の義信に今川義元の娘を妻として迎えていたが,67年に義信が反逆罪で刑死すると,その妻を今川氏真のもとへ帰し,駿河との同盟関係を絶った。そして翌年の暮れには駿河侵攻の兵を起こし,69年4月には今川氏真を追って駿河を領有してしまった。同時に遠江へは徳川家康が侵攻し,今川氏は滅亡する。この事件をきっかけに,それまで同盟関係にあった後北条氏と敵対し,これ以後両者の争いは,71年(元亀2)に北条氏康が没して,その遺言で和睦するまで,おもに駿河駿東郡,伊豆などで激烈な戦いをくりかえした。とくに1569年10月には,信玄が後北条氏の本拠である小田原城を包囲しており,著名な三増峠の戦でも勝利を収めている。後北条氏と対決する過程では,関東の諸大名とも同盟関係を結び,常陸の佐竹氏,安房の里見氏らに接近している。
後北条氏との和議が成立した後は,信玄の目標ははっきりと上洛に向けられ,72年に入ると,遠江,三河への出兵があいつぎ,徳川家康およびその背後にいた織田信長と対決するに至った。同年の10月には,信玄みずから大軍を率いて,西上作戦のための出陣をしている。12月には家康の居城である浜松に近づき,三方原で家康・信長連合軍を打ち破り(三方原の戦),その後,進んで三河へ侵攻し,徳川氏の諸城を攻め落とした。しかし翌年4月,三河野田城包囲の陣中で病床に伏し,いったん甲府へ帰陣する途中の信濃駒場で53歳をもって病死する。死後その子武田勝頼によって喪は3年間隠され,76年(天正4)4月に本葬が営まれ,塩山の恵林寺が墓所と定められた。
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