戦国大名。初め甲斐(かい)国、のちには信濃(しなの)・駿河(するが)と、上野(こうずけ)・飛騨(ひだ)・美濃(みの)・遠江(とおとうみ)・三河の一部を領有する大大名となる。父は信虎(のぶとら)。母は大井信達(のぶなり)の娘。幼名を太郎、勝千代といい、元服して晴信(はるのぶ)と称した。官位は大膳大夫(だいぜんだゆう)、信濃守(しなののかみ)に任ぜられ、1559年(永禄2)に出家して信玄と号し、法性院(ほうしょういん)、徳栄軒(とくえいけん)とも称した。
1541年(天文10)に、暴政を振るって家臣団から見放された父信虎を駿河の今川義元(よしもと)のところへ追放し、家臣の支持を得て当主となった。家督相続の直後から信濃への侵入を開始し、諏訪(すわ)氏、小笠原(おがさわら)氏、村上氏などの信濃の諸大名を制圧し、領国の拡大を図った。そのため南下策をとっていた長尾景虎(ながおかげとら)(上杉謙信(けんしん))と対立することになり、1553年に両者は初めて北信濃で衝突する。その間信玄は領国内の制度の整備にも力を入れ、1547年には「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい)」を制定している。敗走した村上・小笠原氏らは越後(えちご)の長尾景虎に助力を求め、謙信は以後連年にわたって信濃へ出兵し信玄と対決した。これが著名な川中島(かわなかじま)の戦いで、1564年(永禄7)までのおもな対戦だけでも五度に及んだ。とりわけ1561年の対戦は有名で、真偽は不詳であるが、乱戦のなかで信玄と謙信との一騎討ちが行われたという俗説が残されている。謙信との対決でも優位を保った信玄は、その後、隣国の北条氏康(うじやす)、今川義元との婚姻による三者の同盟関係を梃子(てこ)に、西上野(こうずけ)に侵入し、北関東の領有をねらった。ここでも謙信と対決することになり、信玄は小田原北条氏と連携して謙信の南下を阻止した。同時にこのころから飛騨・美濃へも侵入し、金刺(かなざし)・遠山氏などの旧族を滅ぼして領国化した。1567年に長男義信(よしのぶ)を反逆罪で刑死させると、その妻(今川義元の娘)を今川氏真(うじざね)のもとへ返し、今川氏との同盟関係を絶った。信玄は翌年の暮に駿河侵攻の兵をおこし、1569年4月には氏真を追放して駿河を領有した。同時に遠江へは徳川家康が侵入し、今川氏は滅亡する。この事件を契機として、それまで同盟関係にあった北条氏と敵対することになり、信玄は北条氏と駿東(すんとう)郡・伊豆などで激しい戦いを繰り返した。1569年10月には、北条氏の本拠地である小田原城を包囲し、ついで相州(そうしゅう)三増(みませ)峠の戦いでも勝利を収めて、北条氏政と興津(おきつ)に対陣、伊豆に進攻した。しかし1571年(元亀2)には北条氏康の遺言によって和議を結んだ。信玄は北条氏との対決の過程で、関東の諸大名とも同盟関係を結び、常陸(ひたち)の佐竹(さたけ)氏、安房(あわ)の里見(さとみ)氏らに接近している。
北条氏との和議の成立後は、信玄の目標ははっきりと上洛(じょうらく)のための西上(さいじょう)作戦に向けられ、1572年に入ると、遠江・三河への出兵が相次ぎ、徳川家康とその背後にいた織田信長との対決が始まった。同年10月には、信玄自ら大軍をもって甲府を出発し、西上作戦を開始した。12月には家康の居城である浜松に近づき、三方(みかた)ヶ原で家康・信長の連合軍を打ち破った。その後進んで三河へ侵入し、徳川方の諸城を相次いで攻め落とした。しかし、翌1573年4月、三河野田城(愛知県新城(しんしろ)市豊島(とよしま)本城)を包囲中の陣中で病床に伏し、いったん甲府へ帰陣する途中の信濃伊那谷(いなだに)の駒場(こまんば)(長野県下伊那郡阿智(あち)村駒場(こまば))で4月12日、53歳をもって病死した。信玄の死は信玄の遺言どおりその子勝頼(かつより)によって3年間隠された。1576年(天正4)4月に本葬が営まれ、恵林寺(えりんじ)(山梨県甲州市)が墓所と定められた。法名は恵林寺殿機山玄公大居士。その後、勝頼によって高野山(こうやさん)へも分骨が行われ、その際、信玄の画像や遺品などが奉納されている。信玄の跡目は四男の勝頼が継ぐことになった。
信玄の政策として特徴的なことは、早くから領国内の交通路を整備し伝馬制度を確立させたことや、治山・治水に力を入れて信玄堤(づつみ)などを築いたことである。また占領地に旧城主や重臣を配置して支城領を形成していったこと、さらには、領国内の農民支配のための検地の実施や人返し法、商人・職人などを甲府へ集めて城下町を建設したことなどがあげられる。現在、高野山成慶院(せいけいいん)に残っている信玄の画像があるが、晩年の信玄は僧体で、恰幅(かっぷく)豊かな姿に描かれている。和歌や詩文の才もあり、戦国大名としては、文武両道を備えた名将であったと思われる。
戦国期の武将。初め甲斐国の大名で,のちに信濃,駿河と上野,飛驒,美濃,三河,遠江の一部を領有する戦国大名となる。父は信虎。幼名を太郎,勝千代といい,元服して晴信と称し,官途は大膳大夫,信濃守に任ぜられた。1559年(永禄2)に出家して信玄と号し,法性院ともいう。武田氏は清和源氏の一族で,鎌倉初期には信義が甲斐国守護に任ぜられ,以後歴代が守護職をつぎ,信玄は守護としては17代目である。1541年(天文10)に,父信虎を駿河の今川義元の所へ追い,当主となる。家督相続の直後から信濃への侵攻を開始し,諏訪氏,小笠原氏,村上氏などの信濃の諸大名を制圧し,53年にはほぼ信濃を領有した。一方,敗走した村上義清は越後の長尾景虎(上杉謙信)に援助を求め,長尾氏は信濃へ出兵し信玄と対決する。これが著名な川中島の戦の発端であり,64年(永禄7)までのおもな対戦だけでも5度におよぶ。その後,信玄は西上野へ侵入し,北関東の領有をねらった。両者の対決は北関東に拡大し,ここでも信玄は優位にたち,66年には西上野を領有した。同時にこのころから飛驒へも侵入し,金刺氏などの旧族を滅ぼして領有した。
この間,隣国の駿河の今川氏,相模の後北条氏とは同盟関係を保ち,婚姻関係を結んでいた。信玄は長男の義信に今川義元の娘を妻として迎えていたが,67年に義信が反逆罪で刑死すると,その妻を今川氏真のもとへ帰し,駿河との同盟関係を絶った。そして翌年の暮れには駿河侵攻の兵を起こし,69年4月には今川氏真を追って駿河を領有してしまった。同時に遠江へは徳川家康が侵攻し,今川氏は滅亡する。この事件をきっかけに,それまで同盟関係にあった後北条氏と敵対し,これ以後両者の争いは,71年(元亀2)に北条氏康が没して,その遺言で和睦するまで,おもに駿河駿東郡,伊豆などで激烈な戦いをくりかえした。とくに1569年10月には,信玄が後北条氏の本拠である小田原城を包囲しており,著名な三増峠の戦でも勝利を収めている。後北条氏と対決する過程では,関東の諸大名とも同盟関係を結び,常陸の佐竹氏,安房の里見氏らに接近している。
後北条氏との和議が成立した後は,信玄の目標ははっきりと上洛に向けられ,72年に入ると,遠江,三河への出兵があいつぎ,徳川家康およびその背後にいた織田信長と対決するに至った。同年の10月には,信玄みずから大軍を率いて,西上作戦のための出陣をしている。12月には家康の居城である浜松に近づき,三方原で家康・信長連合軍を打ち破り(三方原の戦),その後,進んで三河へ侵攻し,徳川氏の諸城を攻め落とした。しかし翌年4月,三河野田城包囲の陣中で病床に伏し,いったん甲府へ帰陣する途中の信濃駒場で53歳をもって病死する。死後その子武田勝頼によって喪は3年間隠され,76年(天正4)4月に本葬が営まれ,塩山の恵林寺が墓所と定められた。
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