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  11. 斎藤道三
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
斎藤道三
さいとうどうさん
 - 一五五六
美濃国の戦国大名。油売商人から身をおこしたと称せられている。幼名峰丸。生涯に数回改名している。生誕は明応三年(一四九四)といわれているが、永正元年(一五〇四)五月生まれとの説もある。一般に広く伝えられているところによれば、先祖は代々北面の武士で、父は松波左近将監基宗といい、故あって牢人となり山城国乙訓郡西岡に居住していた。峰丸は美男子で聡明であったという。十一歳の春京都の法華宗の名刹妙覚寺に入り法蓮房といったが、やがて還俗して庄五郎(一説には庄九郎)と称し、西岡に帰って燈油問屋奈良屋又兵衛の娘を妻とし、山崎屋を号し油商人となった。妙覚寺にいたときのおとうと弟子日護房は、美濃国厚見郡今泉の鷲林山常在寺(岐阜市梶川町)住職となり日運上人と号していた。庄五郎は燈油を行商するうちに美濃国にも足をはこばせていたが、昔の誼をもって日運上人の推挙により美濃守護土岐氏の老臣長井長弘に仕えることとなった。武士となった庄五郎は長弘の家臣西村氏の遺蹟をついで西村勘九郎正利と名乗った。長弘は勘九郎の才能と武技にほれこみ、守護土岐政房の長男である革手城主政頼(盛頼)とその舎弟の鷺山城主頼芸に目通りさせたが、政頼は「大事をひきおこす曲者である」と近づけなかったのに対して、頼芸はその諸芸に通じているところに感嘆し勘九郎を寵愛したという。土岐家では家督相続の争いののち、政頼が惣領職をつぎ美濃国守護となったが、頼芸にとり入った勘九郎は、政頼を追放し、家督相続に敗れた頼芸を守護職につかせることを画策した。極秘のうちに戦備をととのえ、大永七年(一五二七)八月、五千五百の軍勢を率いて革手城に夜討ちをかけた。不意をつかれた政頼は越前国の朝倉孝景をたよって逃亡し、頼芸は兄に代わって土岐家惣領職につき美濃国守護となった。この戦功によって勘九郎はますます頼芸の信任を得たが、国の政事は土岐家代々の執権である長井長弘らによって行われていたので、次に長弘を除くことを考え、享禄三年(一五三〇)正月政務怠慢と不行跡を理由に長弘夫妻を殺害し、長井氏を乗取り、長井新九郎規秀と改名し稲葉山城を居館としたという。しかし長井氏を称したのは、一説では天文二年(一五三三)のことで、長弘が越前の政頼と内通したので上意討にしたともいわれている。長弘を討ったとき、長井・斎藤一族の反撃をうけて、新九郎は首を刎ねられんばかりになったが、日運上人のはからいで、長井・斎藤一族と和解が成立し難をまぬかれたという。また、このとき近江国守護佐々木修理大夫義秀も調停にのりだしたので、後日義秀から秀の一字をもらって新九郎秀竜と名乗ったともいわれているが、確実な史料には秀竜の文字はみられない。つづいて天文七年守護代斎藤利隆(あるいは良利ともいわれている)が没したとき、その家督を継ぎ斎藤新九郎利政と称した。同年九月の鷲見藤兵衛尉宛書状には「斎藤新九郎利政」とあり、同八年十二月美江寺の禁制には斎藤左近大夫を称している。美濃の名家である長井・斎藤を乗取った利政は勢力を拡大することはできたが、対立する者も多くあり、同九年から十年にかけては、頼芸の舎弟や斎藤・長井の一族などとの争いが絶えなかった。天文十一年利政は一挙に美濃国を奪わんとして、兵を集めて頼芸の居館大桑城を攻撃した。その軍勢は数千とも一万ともいわれている。頼芸は衆寡敵せず尾張国の織田信秀をたよって逃げおちていった。天文十三年越前に走った政頼と、尾張に逃げた頼芸は連絡をとりつつ、朝倉氏・織田氏の後楯を得て美濃に侵攻し、政頼は革手城に、頼芸は揖斐北方城に入った。その後両軍の戦いは続いたが、天文十六年十一月十七日政頼は病死し、頼芸は戦いに破れて越前にのがれた。ここに斎藤利政による美濃の支配は一応成り、同十七年には信秀と和睦し、娘濃姫を信秀の次子信長に嫁した。そして剃髪して道三と号し、嫡子左京大夫義竜に稲葉山井ノ口城を譲り、みずからは鷺山城に隠居した。晩年は義竜と不和になり、弘治二年(一五五六)四月二十日、道三は長良川畔において義竜の軍に破れて風雲の生涯をとじた。義竜は一説によれば頼芸の落胤ともいわれている。しかしこのような道三の素性と異なった記事を伝える古文書がある。それは『春日力氏所蔵文書』(もと『春日倬一郎氏所蔵文書』)の永禄三年(一五六〇)七月近江守護六角承禎(義賢)条書写で、家臣の平井定武・蒲生定秀等々に宛てたものである。文書は前闕であるが料紙三枚にわたる大部なものである。文中美濃の土岐・斎藤氏に関する記述の要点は、(一)土岐氏と六角氏は縁者である。(二)斎藤義竜の祖父新左衛門尉(道三の父)は京都妙覚寺の僧侶であったが、西村を名乗り、次第に勢力を得て長井氏と同姓となった。(三)義竜の父左近大夫(道三)は諸職を奪い、斎藤を名乗り、美濃を掌握した。(四)しかし義竜と父道三とは義絶となり、義竜は親の頸をとった等々である。永禄三年は道三の死去から四年後のことでその記述内容はかなり信憑性の高いもののように思われる。道三の父にあたる長井新左衛門尉と同姓同名のものが当時の古文書のなかにみえている。すなわちその一つは『筒井寛聖氏所蔵文書』の大永六年六月東大寺定使下向注文で、東大寺定使の美濃下向に際し長井新左衛門尉は油煙十挺、長井藤左衛門尉長弘は油煙五挺を負担している。また『秋田藩採集古文書』所収の大永八年(享禄元)二月十九日室町幕府奉行人奉書案によれば、佐竹氏知行分美濃国東山口が長井新左衛門尉なるものに押領されたとみえている。これらの「長井新左衛門尉」をすべて同一人物であるとすれば、道三の父は当時美濃国において長井長弘らとともに活躍していたということになる。この六角承禎条書を信用するとすれば、道三の「国盗り物語」は、実は道三一代ではなくて父子二代にわたる物語となり、その物語としての興味はうすらぐかも知れないが、可能性としてはこの方が高いのではないかと思われる。道三の文書の初見は、天文二年十一月二十六日長井景弘・長井規秀連署状であり、現在のところ松波庄五郎・西村勘九郎という署名の文書はみられない。初見文書に連署している景弘は長井長弘の子息と想定されている。道三は長井氏を乗取り長弘の遺児に相続を許さなかったといわれているが、この景弘と規秀の連署状をみると、必ずしもそうではなかったように思われる。また、道三は前述のように享禄三年正月か天文二年に長弘を殺害したといわれているが、享禄三年三月に長井長弘らの連署禁制が池田郡の竜徳寺に出されており(『竜徳寺文書』)、享禄三年説は誤りであろう。道三の文書として最も知られているのは、京都の妙覚寺所蔵の遺言状であろう。これは文化十四年(一八一七)に大坂の織田弥助なるものが妙覚寺に寄進したものである。しかし『備藩国臣古証文』によると岡山藩士斎藤佐左衛門なる者も道三遺言状を所持していたことが知られる。また、現在大阪城天守閣にも道三の花押のある遺言状が架蔵されているとのことである。とすると複数の遺言状があることになるが、これをどのように理解したらよいのであろうか。さらに一般的には遺言状があらわれてくるのは弘治年間よりもう少し時代が降るのではないかといわれており、道三遺言状については今後十分研究してみる必要があるのではないかと思われる。
[参考文献]
『岐阜県史』史料編古代・中世一・四、『岐阜市史』史料編古代・中世、稲村三郎『岐阜城と斎藤道三および織田信長』、村瀬茂七『斎藤道三と稲葉山城史』、桑田忠親『斎藤道三』、阿部愿「斎藤道三家系略考」(『史学雑誌』一六ノ五・七)、福田栄次郎「斎藤道三」(『歴史と人物』一一六)
(福田 栄次郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
斎藤道三
さいとうどうさん
[?―1556]

戦国大名。初め長井規秀(のりひで)、のち斎藤利政(としまさ)、晩年入道して道三と号す。北条早雲(そううん)などとともに戦国の梟雄(きょうゆう)といわれ、典型的な下剋上(げこくじょう)の体現者とされる。俗説によれば、山城(やましろ)(京都府)西ヶ岡の松波基宗(まつなみもとむね)の子で、日蓮(にちれん)宗京都妙覚(みょうかく)寺の学僧であったが、還俗(げんぞく)して油商奈良屋に入婿(いりむこ)、山崎屋庄五郎と改名してたびたび美濃(みの)(岐阜県)へ行商にくるうち、学僧時代の同僚で長井長弘の弟常在寺日護(じょうざいじにちご)の推挙で長弘に仕官、西村氏の名跡を継いで西村勘九郎と名のった。やがて、兄政頼(まさより)との守護職相続争いに敗れて失意の土岐頼芸(ときよりのり)に近づき、政頼を追って頼芸を守護とし、さらに長弘を暗殺、長井氏の名跡、ついで守護代斎藤氏の名跡をも冒し、1542年(天文11)には頼芸までも追放して自ら美濃の国主となったと伝える。
 この俗説には混同があり、その前半部分は道三の父の事績で、道三の国盗(くにと)りの過程は、実際には道三とその父の2代にわたったことが明らかにされている。妙覚寺学僧で還俗して西村を称したのは実は道三の父新左衛門尉(しんざえもんのじょう)であり、新左衛門尉は守護土岐氏の有力家臣長井氏に出仕してしだいに台頭、長井氏を称し長井氏惣領(そうりょう)と並ぶ実力者に成長する。新左衛門尉は1533年(天文2)死去するが、その子長井規秀(道三)の確実な初見も33年で、同年もしくは34年、道三は長井氏惣領を討ち、35~36年、時の守護土岐二郎(実名未詳)を追放して頼芸を守護とする。37年ごろ守護代斎藤氏の名跡を継いだらしく、斎藤利政と名のり美濃の実権を握ると、やがて52年頼芸をも追放するが、子の義龍(よしたつ)と不和になり、56年(弘治2)4月長良(ながら)川畔に戦って敗死した。織田信長、飛騨(ひだ)の三木自綱(よりつな)はその女婿。
[谷口研語]



世界大百科事典
斎藤道三
さいとうどうさん
?-1556(弘治2)

戦国時代の武将。藤原規秀,長井新九郎規秀(のりひで),斎藤左近大夫利政などと名のる。道三は法名。父長井新左衛門尉は,京都の妙覚寺の僧で,還俗して美濃守護土岐氏の家臣長井弥二郎に仕え,西村と名のり土岐家中の混乱に乗じ土岐氏の三奉行の一人にまで出世した。道三は父の死により1533年(天文2)家督をつぎ,翌年長井氏の惣領長井藤左衛門尉景弘を倒した。さらに35年土岐頼芸(よりのり)をかついで,美濃守護土岐次郎頼武追放のクーデタに成功し,美濃国土岐家の実権をにぎった。しかし,国内の土岐・斎藤一族の反抗,それと結ぶ隣国の朝倉・織田氏の国内侵入により国内は混乱をつづけた。52年守護土岐頼芸を追放し,名実ともに美濃国を手中にしたが,2年後みずからも隠退した。56年(弘治2)家督を譲った子義竜と対立し,長良川の合戦に敗れ戦死した。現在岐阜市常在寺にその画像,長良川の河畔にその墓がある。
[勝俣 鎮夫]

[索引語]
藤原規秀 長井新九郎規秀 斎藤利政 長井新左衛門尉 土岐氏 土岐頼芸 斎藤義竜
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10. 斎藤道三記(著作ID:200248)
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11. あいばじょうあと【相羽城跡】岐阜県:揖斐郡/大野町/相羽村
日本歴史地名大系
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12. あおき[あをき]【青木】
日本国語大辞典
新田義貞に属した青木氏を、その一族とする説がある。〔二〕近世の摂津国麻田藩主。初代の重直は美濃に住し、土岐氏・斎藤道三・織田信長、ついで豊臣秀吉に仕え、摂津国豊 ...
13. あおきし【青木氏】画像
国史大辞典
(石田 祐一) (二)摂津国麻田藩主  青木氏は戦国時代末美濃にあり、青木重直が土岐頼芸・斎藤道三・織田信長に仕え、豊臣秀吉の時、摂津国豊島郡・兎原郡で千七百 ...
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日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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17. あけちし【明智氏】
国史大辞典
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18. あずちのしゅうろん【安土宗論】
国史大辞典
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19. あとべむら【跡部村】岐阜県:武儀郡/武芸川町
日本歴史地名大系
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20. あねがこうじよりつな【姉小路自綱】
国史大辞典
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21. いこやまじょうあと【祐向山城跡】岐阜県:本巣郡/本巣町/法林寺村
日本歴史地名大系
弘安(一二七八―八八)頃の人と推定される。戦国時代には土岐氏守護代斎藤氏の臣長井利安が居城、のち斎藤道三も一時拠ったという(「美濃国諸旧記」ほか)。道三の孫斎藤 ...
22. 稲葉一鉄
日本大百科全書
進攻を迎撃し、父と5人の兄が戦死したあと、還俗(げんぞく)して家を継ぐ。土岐(とき)氏に続き斎藤道三(どうさん)に仕えたが、その子龍興(たつおき)と対立。織田信 ...
23. いなば-いってつ【稲葉一鉄】
日本人名大辞典
と兄5人が戦死したため還俗(げんぞく)して家をつぎ,美濃(みの)(岐阜県)曾根(そね)城主。斎藤道三(どうさん)らにつかえ,安藤守就(もりなり)・氏家卜全(うじ ...
24. いなばぐん【稲葉郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
明治三〇年(一八九七)の郡制施行に伴い厚見郡・各務郡全域と方県郡の大部分が合併して成立。県南部に位置し、郡名は斎藤道三の居城があり、郡の中央に位置した稲葉山(金 ...
25. いなばじんじゃ【伊奈波神社】岐阜県:岐阜市/岐阜町/善光寺大門
日本歴史地名大系
みえない。中世には美濃国三宮と称したという(美濃国第三宮因幡社本縁起)。天文八年(一五三九)斎藤道三が稲葉山城を築城するとき椿原から現在地に移され、永禄一〇年( ...
26. いなば‐やま【稲葉山】
日本国語大辞典
〔一〕岐阜市の長良川南岸にある金華山の別名。戦国時代、斎藤道三が稲葉山城を構え、のち織田信長が攻略し、岐阜城と改めた。標高三二九メートル。破鏡山。*俳諧・如行子 ...
27. 稲葉山城画像
日本大百科全書
美濃(みの)守護土岐(とき)氏の時代には守護代の斎藤氏が代々居城した。 1534年(天文3)斎藤道三(どうさん)によって戦国の城として再興され、義龍(よしたつ) ...
28. いのくち【井ノ口】岐阜県:岐阜市
日本歴史地名大系
同二三年二月二二日、斎藤道三は「井之口道場」へ仏餉料として新田の内「火田壱反歩」を寄進し(斎藤道三寄進状写)、同年三月五日には「井口道場」が寄合所であることを認 ...
29. いのこ-たかなり【猪子高就】
日本人名大辞典
?−1582 戦国-織豊時代の武将。斎藤道三(どうさん)につかえたが,永禄(えいろく)ごろ織田信長の家臣となり,近習として軍の検使をつとめた。本能寺の変のとき織 ...
30. いびぐん【揖斐郡】岐阜県
日本歴史地名大系
戦後頼忠が美濃守護となった。頼忠の子頼益以後、土岐氏は本拠地を厚見郡に移し、頼芸の時その家臣斎藤道三により滅亡した。揖斐城(現揖斐川町)城主揖斐光親は守護家の五 ...
31. いびじょうあと【揖斐城跡】岐阜県:揖斐郡/揖斐川町/三輪村
日本歴史地名大系
詮頼・友雄・基春・基信と続くが、基信のあとには守護土岐政房の子光親を養子として入れた。天文一六年(一五四七)斎藤道三の攻撃にあい落城、光親は逃れた。織田信長が美 ...
32. いびはん【揖斐藩】
国史大辞典
美濃国揖斐(岐阜県揖斐郡揖斐川町)を藩庁とした藩。藩主西尾氏。外様。西尾光教は斎藤道三に仕え、のち織田信長・豊臣秀吉に随って二万石を領し、関ヶ原の戦には東軍に ...
33. いわどむら【岩戸村】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
ったという(「諸書記」小林文書)。なお豪族物部氏は物部神社(式内社)を当地に祀ったと伝える。斎藤道三が天文八年(一五三九)伊奈波神社を遷したとき当地の物部神社も ...
34. うじいえぼくぜん【氏家卜全】画像
国史大辞典
はじめ安八郡楽田城(大垣市)にいたが、永禄二年(一五五九)より大垣牛屋城に移る。土岐頼芸に仕え、土岐氏滅亡後は斎藤道三・義竜・竜興に仕え、安藤道〓 ...
35. えちぜんのくに【越前国】福井県
日本歴史地名大系
、朝倉氏の出兵は提携関係にあった若狭の武田氏、近江の浅井氏らへの支援や、内紛の続く美濃へは反斎藤道三方支援、あるいは将軍義尚・義晴の要請に応じたものなどである。 ...
36. おおがじょうあと【大桑城跡】岐阜県:山県郡/高富町/大桑村
日本歴史地名大系
頼芸は大桑に城を築いて移ったと記される。城下には侍屋敷のほか町屋敷がつくられたという。大桑城の土岐氏は斎藤道三により攻略され、滅亡した。「美濃国諸旧記」によれば ...
37. おおくわ‐じょう[おほくはジャウ]【大桑城】
日本国語大辞典
った山城。美濃国の守護、土岐頼芸(よりなり)が居城としたと伝えるが、天文一六年(一五四七)、斎藤道三に攻められて落城し、廃城となる。おおがじょう。オークワジョー ...
38. おおのぐん【大野郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
光俊の子孫からは郡家・小弾正・屋井などの家が分れた。饗庭一族は室町時代には土岐守護家に属し、戦国時代に斎藤道三と争って滅びた。また土岐頼清の次男頼康は、揖斐庄を ...
39. 織田信長画像
日本大百科全書
幼名は吉法師(きちほうし)。1546年(天文15)元服して三郎信長。翌年三河へ初陣、ついで美濃(みの)斎藤道三(さいとうどうさん)の娘と結婚、1551年信秀の死 ...
40. おだ‐のぶなが【織田信長】
日本国語大辞典
戦国大名。幼名吉法師または三郎。信秀の子。美濃の斎藤道三(どうさん)の娘と結婚。永祿三年(一五六〇)今川義元を桶狭間(おけはざま)に破り、斎藤氏をも滅ぼして勢力 ...
41. 織田信長[文献目録]
日本人物文献目録
イス(著), 村上直次郎(訳)『信長の安土経営』コエリヨ(著), 村上直次郎(訳)『岐阜城と斎藤道三および織田信長』稲村三郎(著刊)『織田信長』桑田忠親『落城私 ...
42. 織田信秀
日本大百科全書
1542年(天文11)駿河(するが)の今川義元(よしもと)と小豆坂(あずきざか)で戦い、さらに美濃(みの)の斎藤道三(どうさん)と戦い、両勢力の尾張進出の阻止を ...
43. 織田信秀
世界大百科事典
に1534年熱田の北の古渡に城を築く。42年今川氏と三河小豆坂に戦って勝ち,48年には美濃の斎藤道三の女濃姫を子信長にめとって和議を結ぶなど,その勢力は隣国にま ...
44. おだのぶひで【織田信秀】画像
国史大辞典
支配下におさめた今川氏の軍と岡崎郊外の小豆坂に戦い、これを破って西三河を席捲。同年九月および十六年に美濃に斎藤道三を攻め、稲葉城下まで迫って敗れ、弟与次郎以下多 ...
45. おだ-のぶひで【織田信秀】
日本人名大辞典
氏豊を那古野(なごや)城から追放するなど,尾張で勢力をふるう。16年美濃(みの)(岐阜県)の斎藤道三に敗れ,道三の娘濃姫を信長と結婚させ和議をむすんだ。天文20 ...
46. 伽婢子 2 251ページ
東洋文庫
平定して本流となった。 信長は幼名吉法師、上総介、弾正忠。贈従一位・ 太政大臣。信秀の嫡子。妻は斎藤道三の女濃姫。 永禄三年今川義元を桶狭間に討ち(五ノ2)、同 ...
47. 伽婢子 2 258ページ
東洋文庫
遂に妻としたというもの。詩は本書に 載るとおりで、人口に膾炙され劇化されたという。斎藤(ニノー)斎藤道三を指す。斎藤氏は代々美 濃の守護土岐氏の守護代として稲葉 ...
48. 伽婢子 2 274ページ
東洋文庫
騎を率い て山名方に与力し功あったという(『寛政重修諸 家譜』)。なお土岐氏は=代頼芸の代に斎藤道三 に追われて実質滅亡。成頼は明応六年没。?1一 四九七。飛加 ...
49. おわりのくに【尾張国】愛知県
日本歴史地名大系
。この頃、三河では松平氏が台頭し、美濃では斎藤道三が稲葉山城にあって美濃一国を領有していた。このため織田信秀は両勢力との対決を余儀なくされ、斎藤道三とは、美濃の ...
50. 女大学集 79ページ
東洋文庫
信行はいつわり病なることを知り、玄蕃同道にて出勤すべき旨おおせありければ、七郎左衛門はにげ出て斎藤道三のもとに隠れおれり。勝はこのことをきき、かなしみにたえかね ...
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真田幸村(真田信繁)(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代の武将。本名信繁。昌幸の次男。1586年(天正14)豊臣秀吉の臣となり、94年(文禄3)豊臣信繁の名で従五位下左衛門佐に叙任した。妻は秀吉の奉行大谷吉継の女。のち父昌幸、兄信之とともに徳川家康に臣従したが、関ヶ原の戦いには
徳川家康(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
江戸幕府初代将軍(在職1603~1605)。三河(愛知県東部)の小大名の家に生まれ、幼年時代は隣国駿河(静岡県)の大名今川氏の人質となって苦労したが、桶狭間の戦いののち今川氏から独立し、織田信長と同盟して駿河・遠江(とおとうみ)(静岡県)・三河3か国に所領を拡大した
坂本竜馬(坂本龍馬)(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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