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  11. 木戸孝允
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
木戸孝允
きどたかよし
一八三三 - 七七
明治維新の指導的政治家、萩藩士。通称は小五郎、のち貫治と改め、また準一郎と称す。新堀松輔とも変名。号は松菊・木圭・広寒・猫堂・老梅書屋・竿鈴(干令)。天保四年(一八三三)六月二十六日藩医和田昌景の次男として萩に生まれた。八歳の時、家禄百五十石の桂九郎兵衛孝古の養子となり、その死後家督をついだ(末期養子のため九十石に減禄)。嘉永二年(一八四九)吉田松陰の松下村塾に入門、同五年自費で江戸遊学、剣客斎藤弥九郎の道場に入り塾頭となった。安政五年(一八五八)十一月帰藩、翌年十一月江戸藩邸の学校有備館の用掛となったが(万延元年(一八六〇)四月舎長となる)、この時期海防への関心から他藩士との間の反幕的政治活動に入った。以後文久年間(一八六一―六四)には、藩直目付長井雅楽の航海遠略説にもとづく公武合体策に反対して、周布政之助・久坂玄瑞・高杉晋作らとむすんで、尊王攘夷運動の指導者となった。しかし勝海舟・坂本竜馬・横井小楠らと親交をもち、開明的な外交論・富国強兵論をもっていたことと、江戸・京都で他藩との折衝にあたっていたことのため、彼の企図は主として、薩州・土州・越前など雄藩との協調の維持、自藩の孤立化の防止におかれ、尊攘激派の活動方針に必ずしも全面的には同調していなかった。文久三年八月十八日の政変で、長州藩が京都から退けられてのちも、京にとどまって藩の雪冤につとめ、九月帰藩、ついで翌元治元年(一八六四)四月京都留守居となって、真木和泉・来島又兵衛ら激派の京都進攻策を中止させることに奔走したが成功せず、七月の禁門の変となった。禁門の変後は、広江孝助と変名して但馬出石に潜伏したが、慶応元年(一八六五)四月、倒幕派同志のすすめで帰藩、第一回長州征伐後の保守派藩庁の改革につとめ、五月政事堂用掛および国政方用談役心得となって、藩政の中枢に参画した。九月幕府の処罰要求を顧慮する藩命によって木戸貫治と改名した。このころ坂本竜馬の斡旋によって武器購入のため薩州藩との提携策をすすめ、翌二年正月京都薩州藩邸で、薩州藩士小松帯刀・西郷吉之助(隆盛)と会し、両藩提携を協約した(薩長連合密約)。そして第二回長州征伐後の十一月長州藩を代表して鹿児島に行き、藩主島津忠義、その父久光と会い、ついで翌年九月・十月相ついで長州を訪問した大久保一蔵(利通)・西郷吉之助と倒幕出兵の協力策を協議した。王政復古後の明治元年(一八六八)正月、出京し太政官の徴士となって総裁局顧問となり、二月には外国事務掛を兼任し、閏四月には参与に任ぜられ、新政府の実権をにぎる一人となった。三月の五箇条の誓文草案の起草に関係したが、「旧来の陋習を破り」との開国和親の方針を明らかにする条項を加え、また天皇が諸侯と誓いあう形式の原案を、天皇が公卿・諸侯・百官を率い神前に誓うことに改めたのは、彼の発意にもとづいていた。木戸の政治活動の最大の貢献は領主制の解体と統一国家建設の必要をいち早く主張し、その実現のため積極的に活動したことにあった。同元年二月以来たびたび版籍奉還の議を三条実美・岩倉具視に建言し、整理さるべき武士層の不満をそらし国論を富強に統一するための征韓の実行を建策した。翌年六月の版籍奉還は、木戸の先導のもとに、大久保と土州藩の板垣退助、肥前藩の大隈重信の参与実力者の御膳だてにもとづくものであり、同四年七月の廃藩置県の断行も、彼と西郷・大久保・井上馨らの密議にもとづき、薩長土三藩から徴した親兵一万の兵力を背景に行なったことであった。この間二年七月官制改正により待詔院学士(のち出仕)となり、三年六月参議に任ぜられ、大隈・井上・伊藤博文をはじめとする大蔵・外務・民部各省の開明派官僚の首領と目され、西郷・大久保らの薩州派とおのずから対立した。廃藩置県ののち、岩倉具視の欧米巡回使節団には、大久保とならんで全権副使として加わり、六年七月帰国するや、内治優先を主張して、岩倉・大久保・伊藤とともに西郷・板垣らの征韓論に反対して、征韓派四参議を辞職せしめ、ついで翌年四月の岩倉・大久保らの台湾出兵(征台の役)策にも反対して参議を辞し、宮内省出仕の閑職についた。彼は民力休養と統一国家強化のための立憲制採用を主張し、八年二月大阪会議で立憲制の漸次的採用の線で大久保と合意し、三月板垣とともに参議に復職、六月第一回地方長官会議の議長となったが、大久保独裁の強化される政府の施政に不満をもち、翌九年三月参議を辞任して内閣顧問となった。六月東北・北海道巡幸に随行し、八月宮内省出仕を拝命、翌年五月二十六日西南戦争の最中、行在所のおかれた京都で病のため死去した。四十五歳。贈正二位。同三十四年さらに従一位追贈。遺言により京都東山霊山に葬られた。木戸は大久保・西郷とともに維新の三傑と称された。終始長州藩および明治政府の主流派として活動したが、廃藩置県以後は、政治の指導力を次第に失い、卓抜な識見も評論家的立場にとどまった観があった。
[参考文献]
木戸公伝記編纂所編『松菊木戸公伝』、大江志乃夫『木戸孝允』(『中公新書』一六九)
(遠山 茂樹)


日本大百科全書(ニッポニカ)
木戸孝允
きどたかよし
[1833―1877]

幕末・維新期の政治家。旧長州藩士。大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)と並ぶ「維新三傑」の一人。天保(てんぽう)4年6月26日、同藩士和田家に出生。7歳で桂(かつら)九郎兵衛家の嗣子(しし)となり、通称を小五郎と称したが、1865年(慶応1)藩主から木戸姓をもらい、貫治、準一郎と改め、松菊と号した。1849年(嘉永2)吉田松陰(よしだしょういん)の門弟となり、その後、江戸に留学、また江川太郎左衛門から洋式砲術を学んだ。1858年(安政5)以降、安政(あんせい)の大獄後の状況のなかで、自藩をはじめ、薩摩(さつま)、水戸、越前(えちぜん)諸藩の尊攘(そんじょう)派の志士と広く交わり、尊王攘夷(じょうい)運動に奔走した。1864年(元治1)禁門(きんもん)の変(蛤御門(はまぐりごもん)の変)で薩摩藩などと戦って長州藩が敗走したのち、高杉晋作(たかすぎしんさく)らの長州藩討幕派が同藩の実権を掌握すると帰藩し、諸藩と折衝する過程で、1866年薩長同盟を締結することに成功。以後、討幕派の一代表として活躍した。
 幕府倒壊による明治維新の実現後、政府官僚として太政官(だじょうかん)に出仕、参与、総裁局顧問などを務め、由利公正(ゆりきみまさ)や福岡孝弟(ふくおかたかちか)らと「五か条の誓文(せいもん)」の起草に参加した。さらに1870年(明治3)には参議に昇進し、版籍奉還、ついで廃藩置県を通じて、統一政権の成立に指導的役割を果たした。また1871年には、特命全権大使岩倉具視(いわくらともみ)が率いる米欧遣外使節団に大久保利通、伊藤博文(いとうひろぶみ)らと加わり、外国の政治、経済、軍事などの諸制度や施設を視察した。1873年帰国後、岩倉、大久保らとともに、西郷隆盛らが主張する征韓論に反対して彼らを退け、下野させた。しかし、この直後に成立した大久保の独裁政権には批判的立場を示し、政府の支配体制の枠内で啓蒙(けいもう)官僚として行動した。1874年の台湾出兵に反対して一時参議を辞任したこともあったが、翌年の大阪会議では大久保らの政府主流派に妥協して、再度、参議に復帰した。その後は地方官会議議長に就任し、また内閣顧問に転任したこともあったが、このころから、病気を得て要職から退き、西南戦争の最中、明治10年5月26日京都で死去した。
 明治国家の成立の過程で、最初の絶対主義政権の形態をとった岩倉―大久保体制内部にあって、木戸の意識と行動はその開明的立場を代表する側面を示していたが、状況を展望する政治的資質においては明晰(めいせき)な大久保の能力に劣っていた。
[石塚裕道]



世界大百科事典
木戸孝允
きどたかよし
1833-77(天保4-明治10)

幕末・明治初期の政治家。大久保利通,西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される。長州藩出身。初め桂小五郎のち木戸貫治ついで準一郎,孝允と改名,号は松菊。1849年(嘉永2)吉田松陰の門下となり,52年江戸に出て斎藤弥九郎の塾で修業。やがて尊王攘夷運動に参加し,60年(万延1)井伊大老暗殺直後に水戸藩士西丸帯刀(たてわき)らと丙辰丸盟約を結んだ。尊王攘夷運動の隆盛期に長州藩を代表して諸藩人士と接触,ひろく知られるようになった。64年(元治1)禁門の変で長州藩が敗退すると但馬に潜伏したが,藩論が対幕抗戦に転換したので帰藩し,以後藩政の指導にあたった。66年(慶応2)第2次幕長戦争に際し,京都薩摩藩邸において,薩摩藩士小松帯刀,西郷隆盛とのあいだに薩長同盟を結び反幕体制を固めた。

 68年(明治1)王政復古後,明治新政府の徴士・参与,総裁局顧問,外国事務掛兼任。五ヵ条の誓文の作成に関与,69年の版籍奉還実現に中心的役割をはたした。しかし,大久保利通と対立,待詔院出仕の閑職に移されたので不満をいだき,また戊辰戦争後の国内の不穏な情勢を外にそらす目的もあって征韓論を主張した。清国朝鮮派遣使節に任命されたが,70年早々に国元で旧兵士の脱隊騒動が勃発したので,渡航を中止して帰藩,鎮圧にあたった。70年参議,71年の廃藩置県では漸進論をとったが,急進論の西郷,大久保に協力した。同年特命全権大使岩倉具視一行に全権副使として参加しアメリカ,ヨーロッパ諸国を巡遊したが条約改正に失敗し,大久保副使との衝突もあって,一行と別行動をとり73年帰国。留守政府の革新政策に反発し,また汚職を追及されて失脚寸前に追いこまれた長州派の山県有朋,井上馨らを救うために,大久保とよりをもどし,西郷や江藤新平の追放に成功した(明治6年の政変)。74年文部卿兼任,しかし大久保との対立が再燃し,大久保,西郷従道らの台湾出兵強行に反対して辞任,宮内省出仕となった。75年伊藤博文の仲介で大久保と大阪会議を行い,専制政治の緩和と民権の拡大のために元老院,大審院,地方官会議の設置を条件に政府に帰属,漸次立憲制樹立の路線をつくった。参議政体取調委員,地方官会議議長につく。76年病のため参議を退き内閣顧問。士族の地位と生活の維持に心をくだき,秩禄処分の緩和を説いた。77年の西南戦争中は京都の行在所で事変処理に関与したが,5月に病没した。
[毛利 敏彦]

[索引語]
維新の三傑 桂小五郎 木戸松菊 木戸準一郎 松菊 丙辰丸盟約 明治6年10月の政変 大阪会議
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1. 木戸孝允画像
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幕末・維新期の政治家。旧長州藩士。大久保利通(おおくぼとしみち)、西郷隆盛(さいごうたかもり)と並ぶ「維新三傑」の一人。天保(てんぽう)4年6月26日、同藩士和 ...
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3. 木戸孝允
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1833-77(天保4-明治10) 幕末・明治初期の政治家。大久保利通,西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される。長州藩出身。初め桂小五郎のち木戸貫治ついで準一 ...
4. きど‐たかよし【木戸孝允】
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政治家。本姓、和田。桂小五郎、木戸貫治、さらに準一郎と改名。号、松菊。孝允は「こういん」とも。長州藩(山口県)出身。吉田松陰に師事。幕末、薩長連合を結び、倒幕、 ...
5. きどたかよし【木戸孝允】画像
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卓抜な識見も評論家的立場にとどまった観があった。 [参考文献]木戸公伝記編纂所編『松菊木戸公伝』、大江志乃夫『木戸孝允』(『中公新書』一六九) (遠山 茂樹)  ...
6. 木戸孝允
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1874年〈明治7 甲戌〉 4・18 参議兼文部卿 木戸孝允 、台湾出兵に不満をもち辞表提出(5月13日、免官)。 1877年〈明治10 丁丑〉 5・26 没 ...
7. きど-たかよし【木戸孝允】画像
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1833−1877 幕末-明治時代の政治家。天保(てんぽう)4年6月26日生まれ。長門(ながと)(山口県)萩(はぎ)藩医和田昌景の次男。桂(かつら)孝古の養子。 ...
8. 木戸孝允[文献目録]
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9. 桂小五郎[文献目録]
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10. きど-こういん【木戸孝允】
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11. きどたかよしきゅうたく【木戸孝允旧宅】山口県:萩市/萩城下/呉服町弐丁目
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12. 木戸孝允蔵書印[図版]画像
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13. きどたかよしにっき【木戸孝允日記】
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15. きどたかよしもんじょ【木戸孝允文書】
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16. 木戸孝允建白書(著作ID:4400888)
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17. 木戸家文書/木戸孝允宛書状(著作ID:4400636)
新日本古典籍データベース
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18. あおきしゅうぞう【青木周蔵】
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19. 青木周蔵自伝 28ページ
東洋文庫
四 長州藩出身。松下村塾に学び、のち尊王攘夷運動に参加、薩長軍事同盟には木戸孝允と共に尽 力した。明治三年八月、大山巌らと普仏戦争観戦のため渡欧。そのまま、ドイ ...
20. 青木周蔵自伝 34ページ
東洋文庫
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21. 青木周蔵自伝 38ページ
東洋文庫
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22. 青木周蔵自伝 45ページ
東洋文庫
     第五回木戸孝允に欧米憲法と地方自治の沿革を講述 木戸翁〔孝允〕は、前述の如く宗教問題に関し深く疑惑を抱くと同時に、米国到著以来其の屡ζ耳にせし「コンス ...
23. 青木周蔵自伝 66ページ
東洋文庫
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24. 青木周蔵自伝 69ページ
東洋文庫
     第八回 秩禄処分意見 前述の如く、翁〔木戸孝允〕と予とは其の後屡ζ書翰の往復を為し、彼の西南の役に関しても両者意見を交換する所ありたり。其の他、翁より ...
25. 青木周蔵自伝 72ページ
東洋文庫
公は弥二郎をして其情由をマイエットに告げしめ草按   を中止せしむ」(『松菊木戸公伝』) 四 『木戸孝允日記』明治九年十二月十六日の条に「昨日、青木周蔵独逸より ...
26. 青木周蔵自伝 348ページ
東洋文庫
ている。これは青木の個性の強烈さを自ら語っているともいえる。青木の口の悪いのは定評であるが、木戸孝允 ...
27. 青木周蔵自伝 351ページ
東洋文庫
主にトップリーダー側の史料によって書かれて来た。『伊藤博文秘録』、『岩倉具視関係文書』、『大久保利通日記』、『木戸孝允日記』などの史料が存在する為でもある。 だ ...
28. 青木周蔵自伝 358ページ
東洋文庫
、長門国厚狭郡小埴生村に、父三浦玄仲、母友子の長男(のちの青木周蔵)として生れる。幼名団七・木戸孝允十二歳、井上馨十歳、山県 有朋七歳、伊藤博文四歳、陸奥宗光  ...
29. 青木周蔵自伝 359ページ
東洋文庫
七(一八七四)  九(一八七六)二九三〇三一三三一月、ドイツ北部連邦留学生総代となる七月十五日、ロンドンへ木戸孝允を訪ねるこのころ、「大日本政規」起章する一月十 ...
30. 青木周蔵自伝 360ページ
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三八三九・寺島宗則の条約改正交渉失敗三月二十七日、エリサベットと結婚・二月、西南戦争・五月、木戸孝允薨去一月三十一日、オランダ公使兼勤・五月、大久保利通暗殺・「 ...
31. あかまじんぐう【赤間神宮】
国史大辞典
弔わしめられた。これが起源で、以後皇室の崇敬をうけ、明治維新ののち、御影堂を改めて天皇社と称したが、木戸孝允らの計らいで明治八年(一八七五)十月官幣中社とし、地 ...
32. あけほの
日本大百科全書
明治初期の日刊紙。1871年(明治4)5月、木戸孝允(たかよし)の意を受けて同じ長州藩の山縣篤蔵が発行した『新聞雑誌』が、後続の日刊新聞に押されて不振になってき ...
33. あまるめしていあと【余目氏邸跡】岩手県:水沢市/水沢城下/大手小路
日本歴史地名大系
を補佐して忠誠を披瀝している(水沢市史)。明治九年(一八七六)明治天皇の東北巡幸には内閣参議木戸孝允、同一四年には左大臣有栖川宮熾仁親王が当邸に宿泊している。同 ...
34. アメリカ彦蔵自伝 2 114ページ
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約するものである。                   (署名)           木戸準一郎〔木戸孝允〕           林宇一〔伊藤の変名〕 ...
35. アメリカ彦蔵自伝 2 164ページ
東洋文庫
しかし四年に及ぶ探索にもか    かわらず、ついに犯人は発見できなかっ    た。当時、殺害の元兇は木戸孝允、との    評判も高かった。 横浜の新聞の報ずると ...
36. アメリカ彦蔵自伝 2 206ページ
東洋文庫
(副使は木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら)が、アメリカおよびヨーロッパに向かって出発したのは、 一八七一年十二月のことであった。そして一行は各国において、さきの ...
37. アメリカ彦蔵自伝 2 211ページ
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明治政府に出仕して要職(大蔵少輔)に上ったが、大久保利通の施策に反対して七四年一月に辞職している。この時期は木戸孝允と結んで、なお平和の手段をもって大久保の失脚 ...
38. アメリカ彦蔵自伝 2 270ページ
東洋文庫
初めて主張   したのは、そのころ兵庫県知事であった   伊藤その人であった。元年正月、伊藤は   木戸孝允に対して意見を開陳し、その三   ヵ月後には「国是の ...
39. いがのくに【伊賀国】三重県
日本歴史地名大系
恐れて、ついに蜂起したのである。事件の首謀者二八人が入牢、それも名目だけの軟禁状態で、一月後に参議木戸孝允のとりなしで無罪釈放されたという。〔戸数・人口〕戸数は ...
40. イギリス画像
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頭(へきとう)を飾ったのは、岩倉使節団の派遣であった。正使岩倉具視(いわくらともみ)をはじめ木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文な ...
41. 池田屋事件
日本大百科全書
同志古高俊太郎(こたかしゅんたろう)が捕らえられたことに対する善後策をたてるためであったが、木戸孝允(たかよし)(桂小五郎)が参加しながらも、集会に早すぎたとい ...
42. いけだやじけん【池田屋事件】
国史大辞典
。そのため尊攘派勢力は、京都に潜入し勢力回復の機会をねらうようになった。当時京都には、萩藩の木戸孝允・入江九一らが潜伏していたが、久坂玄瑞や来島又兵衛もひそかに ...
43. いしい-かんじ【石井寛次】
日本人名大辞典
めの常備軍編制の人選からもれ,諸隊士約1800人とともに武装して決起。藩庁などにせまったが,木戸孝允(たかよし)らの藩軍に鎮圧される(山口藩諸隊の脱隊騒動)。明 ...
44. いしん の 三傑(さんけつ)
日本国語大辞典
明治維新の元勲、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允の三人をいう。*東京日日新聞‐明治二一年〔1888〕六月二三日「維新の三傑と尊ばれたる方々にて、西郷翁は其終を全く ...
45. いたがきたいすけ【板垣退助】
国史大辞典
千石を受けた。翌三年藩大参事として大いに藩政改革を行い、ついで薩の西郷隆盛・大久保利通、長の木戸孝允らと廃藩置県計画を議し、高知藩兵を親兵として上京させ、事が成 ...
46. 伊藤博文画像
日本大百科全書
みち)の信任を得ることになった。1873年帰国後の政局で大問題となった征韓論争には、大久保、木戸孝允(きどたかよし)を支持して征韓派を退け、その直後の政府改造で ...
47. 伊藤博文
世界大百科事典
事,兵庫県知事を歴任,翌69年には陸奥宗光らとともに中央集権化構想を含む政治改革案を建白し,木戸孝允の下で開明派官僚として頭角を現した。大蔵少輔に転じ民部少輔を ...
48. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
だ藩士来原良蔵から深い薫陶を受け、同年萩に帰るや吉田松陰の松下村塾に学んだ。その後高杉晋作・木戸孝允・久坂玄瑞らの影響下に京都・江戸・長崎などに往来し、文久二年 ...
49. いとうひろぶみもんじょ【伊藤博文文書】
国史大辞典
昭和八年(一九三三)―十一年、二十四冊として刊行された。(三)諸家の来翰は、皇族・岩倉具視・三条実美・木戸孝允・大久保利通らの重要人物のものは巻子仕立てとなって ...
50. 井上馨画像
日本大百科全書
のち同藩士志道(しじ)家の嗣子(しし)となり名も聞多(もんた)と改名、その後ふたたび生家に戻った。幕末期には木戸孝允(きどたかよし)、高杉晋作(たかすぎしんさく ...
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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