奈良時代の僧。父は高志才智(こしのさいち),母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)。高志氏は百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派。行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた(この地はのち和泉国に属した)。682年(天武11)15歳で出家し(飛鳥寺の道昭を師としたと考えられる),瑜伽論(ゆがろん),唯識論(ゆいしきろん)の教義をすぐ理解した。道昭は653年(白雉4)入唐し長安で玄奘(げんじよう)に師事し,同室に住むことを許され大きな影響を受け,経論をたずさえ帰国し,飛鳥寺の東南の禅院で弟子を養成するとともに,民間で井戸,船,橋などを造る社会事業にも努めた。行基は入唐していないが,師の道昭を介し唐やインドの仏教に目をそそぎ,また行基の活動における伝道と社会事業の結合も道昭から学んだ影響である。
702年(大宝2)大宝律令施行によって天皇と貴族が庶民を支配する体制が確立し,庶民は課税軽減,生産向上,宗教的救済を切望した。行基は704年(慶雲1)生家を寺に改め(家原寺(えばらでら)。大阪府堺市),その後都鄙に伝道と社会事業を展開した。彼を慕い集まる庶民はしばしば1000をかぞえ,説法を聞き,また土木技術を修得した行基の指導にしたがい橋や堤を造り,すみやかに完成させた。行基が741年(天平13)までに河内,和泉,摂津,山背(城)国などに造った池15,溝7,堀4,樋3,道1,港2,布施屋(ふせや)(調庸運脚夫や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)9などの農業・交通関係施設の位置と規模が〈天平十三年記〉(《行基年譜》所引)に記される。
《行基年譜》(1175,泉高父宿禰著)には彼が745年ころまでに畿内に開いたいわゆる四十九院の寺の位置と建立年代が記され,これも庶民の信者の寄進や協力で造られた。四十九院は社会事業施設と結合しており,たとえば狭山池院(大阪府大阪狭山市)には狭山池,昆陽(こや)施院(昆陽寺。兵庫県伊丹市)には昆陽池,昆陽布施屋および孤(親のない子)独(子のない親)収容所が対応する。寺では伝道のほか社会事業施設の管理も行われ,伝道と社会事業を結合した活動は隋の三階教(信行が創始者)の影響という。
717年(養老1)政府が行基の伝道を《僧尼令(そうにりよう)》違反として禁圧したのは,彼への社会的信望を忌避したためとも,政府が隋の文帝や唐の高宗による三階教(教団は王権から独立すべきものだと主張)弾圧から刺激されたためともいう。しかし政府は行基の土木技術や,庶民を動員する力量を利用するため,三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で731年伝道禁圧をゆるめ,743年紫香楽(しがらき)での大仏造営詔発布のさい勧進(募財)役に起用し,745年大僧正に任じた。平城還都後,大仏造営は金鐘(こんしゆ)寺(のち東大寺)で再開されたが,行基は749年菅原寺(奈良市)で没。彼が大野寺(大阪府堺市)に造った土塔はインドのストゥーパ(仏塔)に源流をもつ。彼の伝記史料に竹林寺(生駒市)出土の火葬墓誌や家原寺蔵《行基菩薩行状絵伝》(室町時代)などがある。
仏教の民間布教に尽くした行基は,早くから敬慕の対象になり,多くの伝説が伝えられている。《日本霊異記》には,行基が説法の場において,教えを受けに来た女の過去を見抜いたり(中,第三十),髪に猪の油を塗っているのを遠くから指摘し退場させた(中,第二十九)というような話が収められているが,その説話には,行基の布教の姿をほうふつとさせるものがある。また,行基が大僧正になったのをねたんだ智光が地獄に落ちたという話(中,第七)も,平安時代初期の行基信仰の一面を伝えている。それらの説話は,後の説話集に受けつがれていったが,平安時代中期になると,行基は胞衣(えな)にくるまったままで生まれたという《本朝法華験記》《日本往生極楽記》の伝のように,常ならぬ人として強調されるようになった。幼いときから仏法に通じ,さまざまに方便を用いて人々を救うと伝えられる行基の姿には,民間の行基信仰があらわれている。中世に入って,行基への敬慕はさらにひろまり,行基の開創になるという寺,行基の手になる仏像,橋,港などの伝承は,畿内を中心に数多く見られる。そうした中で,行基は,中世の民間の仏教と,仏教が最もさかえた天平時代とをつなぐ人物として重視されるようになった。菩薩号を聖武天皇から授けられたという伝承や,行基が伊勢神宮に参詣して神の示現を得たという《通海参詣記》の記事は,そうした中で生まれたものといえよう。《新勅撰集》は〈のりの月ひさしくもがなとおもへどもさ夜ふけにけりひかりかくしつ〉を,行基の辞世の歌として収め,この歌についての説話は《古今著聞集》に見える。また《玉葉集》に行基菩薩の歌として収められている〈山どりのほろほろとなくこゑきけばちちかとぞおもふ母かとぞおもふ〉という歌は,日本人の自然観をよくあらわしているためか,広く知られている。《行基式目》(1622,良定著)をはじめ,行基に仮託される民間の教訓書の多さ,中世以前に用いられた日本全図の原形が行基によって作られたと伝えられ,行基図と呼ばれていることなど,行基に関する伝承のひろがりを示すものは多い。
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