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行基

ジャパンナレッジで閲覧できる『行基』の新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典
行基
ぎょうき
668‐749(天智7‐天平勝宝1)
奈良時代の僧。父は高志才智こしのさいち、母は蜂田古爾比売はちたのこにひめ。高志氏は百済系渡来人の書(文)ふみ氏の分派。行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた(この地はのち和泉国に属した)。六八二年(天武一一)一五歳で出家し(飛鳥寺の道昭を師としたと考えられる)、瑜伽論ゆがろん唯識論ゆいしきろんの教義をすぐ理解した。道昭は六五三年(白雉四)入唐し長安で玄奘げんじょうに師事し、同室に住むことを許され大きな影響を受け、経論をたずさえ帰国し、飛鳥寺の東南の禅院で弟子を養成するとともに、民間で井戸、船、橋などを造る社会事業にも努めた。行基は入唐していないが、師の道昭を介し唐やインドの仏教に目をそそぎ、また行基の活動における伝道と社会事業の結合も道昭から学んだ影響である。
七〇二年(大宝二)大宝律令施行によって天皇と貴族が庶民を支配する体制が確立し、庶民は課税軽減、生産向上、宗教的救済を切望した。行基は七〇四年(慶雲一)生家を寺に改め(家原寺えばらのでら。大阪府堺市)、その後都鄙に伝道と社会事業を展開した。彼を慕い集まる庶民はしばしば一〇〇〇をかぞえ、説法を聞き、また土木技術を修得した行基の指導にしたがい橋や堤を造り、すみやかに完成させた。行基が七四一年(天平一三)までに河内、和泉、摂津、山背(城)国などに造った池一五、溝七、堀四、樋三、道一、港二、布施屋ふせや(調庸運脚夫や役民えきみんを宿泊させ食糧を与える)九などの農業・交通関係施設の位置と規模が「天平十三年記」(『行基年譜』所引)に記される。
『行基年譜』(一一七五、泉高父宿禰著)には彼が七四五年ころまでに畿内に開いたいわゆる四十九院の寺の位置と建立年代が記され、これも庶民の信者の寄進や協力で造られた。四十九院は社会事業施設と結合しており、たとえば狭山池院(大阪府大阪狭山市)には狭山池、昆陽こや施院(昆陽寺。兵庫県伊丹市)には昆陽池、昆陽布施屋および孤(親のない子)独(子のない親)収容所が対応する。寺では伝道のほか社会事業施設の管理も行われ、伝道と社会事業を結合した活動は隋の三階教(信行が創始者)の影響という。
七一七年(養老一)政府が行基の伝道を『僧尼令そうにりょう』違反として禁圧したのは、彼への社会的信望を忌避したためとも、政府が隋の文帝や唐の高宗による三階教(教団は王権から独立すべきものだと主張)弾圧から刺激されたためともいう。しかし政府は行基の土木技術や、庶民を動員する力量を利用するため、三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で七三一年伝道禁圧をゆるめ、七四三年紫香楽しがらきでの大仏造営詔発布のさい勧進(募財)役に起用し、七四五年大僧正に任じた。平城還都後、大仏造営は金鐘こんしゅ寺(のち東大寺)で再開されたが、行基は七四九年菅原寺(奈良市)で没。彼が大野寺(大阪府堺市)に造った土塔はインドのストゥーパ(仏塔)に源流をもつ。彼の伝記史料に竹林寺(奈良県生駒市)出土の火葬墓誌や家原寺蔵『行基菩薩行状絵伝』(室町時代)などがある。
[井上 薫]
行基信仰と伝承
仏教の民間布教に尽くした行基は、早くから敬慕の対象になり、多くの伝説が伝えられている。『日本霊異記』には、行基が説法の場において、教えを受けに来た女の過去を見抜いたり(中、第三十)、髪に猪の油を塗っているのを遠くから指摘し退場させた(中、第二十九)というような話が収められているが、その説話には、行基の布教の姿をほうふつとさせるものがある。また、行基が大僧正になったのをねたんだ智光が地獄に落ちたという話(中、第七)も、平安時代初期の行基信仰の一面を伝えている。それらの説話は、後の説話集に受けつがれていったが、平安時代中期になると、行基は胞衣えなにくるまったままで生まれたという『本朝法華験記』『日本往生極楽記』の伝のように、常ならぬ人として強調されるようになった。幼いときから仏法に通じ、さまざまに方便を用いて人々を救うと伝えられる行基の姿には、民間の行基信仰があらわれている。中世に入って、行基への敬慕はさらにひろまり、行基の開創になるという寺、行基の手になる仏像、橋、港などの伝承は、畿内を中心に数多く見られる。そうした中で、行基は、中世の民間の仏教と、仏教が最もさかえた天平時代とをつなぐ人物として重視されるようになった。菩薩号を聖武天皇から授けらけたという伝承や、行基が伊勢神宮に参詣して神の示現を得たという『通海参詣記』の記事は、そうした中で生まれたものといえよう。『新勅撰集』は「のりの月ひさしくもがなとおもへどもさ夜ふけにけりひかりかくしつ」を、行基の辞世の歌として収め、この歌についての説話は『古今著聞集』に見える。また『玉葉集』に行基菩薩の歌として収められている「山どりのほろほろとなくこゑきけばちちかとぞおもふ母かとぞおもふ」という歌は、日本人の自然観をよくあらわしているためか、広く知られている。『行基式目』(一六二二、良定著)をはじめ、行基に仮託される民間の教訓書の多さ、中世以前に用いられた日本全図の原形が行基によって作られたと伝えられ、行基図と呼ばれていることなど、行基に関する伝承のひろがりを示すものは多い。
[大隅 和雄]
故京ふるさとの元興寺の村に、法会をかざまうけ、行基大徳を請け奉り、七日法を説く。是に道俗、皆つどひて法を聞く。聴衆の中に、一の女人有り。髪に猪の油を塗り、中に居て法を聞く。大徳見て、嘖めて言はく「我、甚だ臭きかな。彼の頭に血をかがふれる女を、遠く引き棄てよ」といふ。女大きに恥ぢ、出でまかりき。凡夫の肉眼には、是れ油の色なれども、聖人の明眼には、けにししの血を視る。日本の国に於いては、是れ化身の聖なり。隠身の聖なり。
日本霊異記中巻第二十九「行基大徳、天眼を放ち、女人の頭に猪の油を塗れるを視て、呵嘖する縁」
天皇、東大寺ヲ作給テ供養シ給ハムスルニ、講師ニハ、行基菩薩ヲ定テ、宣旨ヲ給ニ、行基ハ。其事ニタヘス侍リ。外国ヨリ大師来給ヘシ。ソレナムツカウマツルヘキ。ト奏スレハ、供養セムトスルホトニ成テ、摂津国ノ難波ノ津ニ、大師ノムカヘトテユク。即、オホヤケニ申給テ、百僧ヲヒキヰタリ。(僧ノ)次ニ行基ハ第百ニアタリ給ヘリ。治部玄蕃雅楽司等ヲ船ニノリクハヘテ、音楽ヲ調トヽノヘテユキ向ニ、難波ノ津ニイタリテミレハ、人モナシ。行基、閼伽一具ヲソナヘテ、ソノムカヘニイタシヤル。花ヲモリ、香ヲタキテ、潮ノ上ニウカフ。ミタレチルコトナシ。ハルカニ西ノ海ニウカヒ行ヌ。シハラクアリテ、小船ニノリテ、波羅門僧正、名ハ菩提トイフ僧、来レリ。閼伽、又、コノ舟ノ前ニウカヒテ、ミタレスシテ帰来レリ。菩提ハ、南天竺ヨリ、東大寺供養ノ日ニアハムトテ、南海ヨリ来レリ。舟ヨリ浜ニヨセテ、ヲリテ、タカヒニ手ヲトリ、喜ヱメリ。行基菩薩、先、読哥曰。
霊山ノ尺迦ノミマヘニ契テシ 真如クチセスアヒミツルカナ
波羅門僧正、返哥曰。
〓羅衛ニトモニ契シカヒアリテ 文殊ノ御〓アヒミツルカナ
トイヒテ、トモニ宮コニノホリ給ヌ。爰ニ知ヌ。行基ハ是、文殊ナリケリト。
三宝絵巻中
昔、行基菩薩、向有馬温泉之間、武庫郡内、有一病者、臥山中。行基、問云。汝、依何患、方如斯哉。病者、答云。為療病痾、欲赴温泉、筋力尩羸、難達。飲食既絶、漸及数日。願、聖人、忝施恵慈、助我身命。於是、行基、与粮止病者。々々云。自、非鮮魚者、不能以食矣。因茲、行基、至長州浜、求得魚肉、令与病者。々々云。調其味、宛其膳、仍和塩梅、欲勧病者、聖人先試其気味、以食魚肉。行基、嘗之試之、美也。予赴食之、宜補病飢、乍臥地上、食干懐中。病者、又云。身煩瘡、求湯之効験。汝、実為聖人者、舐我膚、扶此病。其躰如焼爛、其香多臭穢。云然而、慈悲至深、相忍舐之者、其崩膚、則、紫磨金色也。望其形貌、亦薬師如来也。其時、仏告曰。我是、温泉之行者也。為試聖人之慈愛、仮現病者形躰。言訖而去、忽然無跡。行基、当其時、成誓願、之建立堂舎、安薬師、必示勝地、崇其跡。温泉山住僧薬能、伝聞往事、粗記大概矣
弘仁十年八月七日
旧記云。
参詣之人、奉幣之後、念観音宝号、誦楽師真言、強不専持斎、不憚肉食云。是、慈悲広大療病基也。凡、此温泉詣人、現世得除病延齢之益、来生証阿耨菩提之果者、洗垢穢之身、新受金色之膚、且所示之相、是也。
天慶八年 月 日
温泉山住僧薬能記


国史大辞典
行基
ぎょうき
六六八 - 七四九
奈良時代の僧。父は高志才智、母は蜂田古爾比売。高(古)志氏は中国系の王仁の後裔西文(かわちのふみ、書)氏の分派で、蜂田氏も中国系氏族。行基は天智天皇七年(六六八)河内国大鳥郡蜂田郷(のち和泉国、大阪府堺市)の母方の家に生まれ、天武天皇十一年(六八二)出家し、『瑜伽師地論』『成唯識論』をすぐ了解した。慶雲元年(七〇四)生家を清め家原寺とし、布教と開発を展開し、「化を慕ひ追従する者はややもすれば千を以て数ふ、(中略)弟子らを率ゐてもろもろの要害の処に橋を造り陂を築く、(中略)時人は号して行基菩薩と曰ふ」とある(原漢文、『続日本紀』)。彼の布教に対し養老元年(七一七)の詔は「妄りに罪福を説き、朋党を合はせ構へ、(中略)余物を乞ひ、詐つて聖道を称し、百姓を妖惑す」(同)といい、僧尼令違反とし布教を禁圧した。『行基年譜』に当年の造寺がみえないのはそのためであるが、翌二年からまた造寺が記される。天平二年(七三〇)大鳥郡の知識(信者集団)経『瑜伽師地論』書写に彼の弟子優婆塞練信を中心に大領日下部首麻呂と男女七百九人が参加し、日下部郷では行基が神亀元年(七二四)清浄尼院、天平九年鶴田池院を建てており、鶴田池築造もこのころで、かつ隣の大鳥郷では神鳳寺や布施屋を設けており、知識は造寺写経や農業・交通関係施設づくりに協力し、郡司をつかむと『続日本紀』にいう千人ぐらいの知識を集めるのは困難でなかった。天平三年の詔で彼の弟子優婆塞・優婆夷の一部に出家を許したのはまえの禁圧に比し大きな変化で、政府は天平四年前後の狭山下池築造に彼の技術や農民を組織する力量を利用したらしく、豪族の墾田開発や民間仏教形成の要望を抑えきれなかった。彼は四十余の寺を五畿内に建て、年別では天平三年の八寺が最も多い。「天平十三年辛巳記」(『行基年譜』所収)には彼が河内・和泉・摂津・山背で築造・修理した池十五・溝六・堀四・樋三・道一・橋六・船息二・布施屋九の所在と規模が記され、伝道と結びついた大規模な土木事業展開は三階教の影響かといわれる。菩薩と呼ばれ、社会的信望を集めた彼は天平十五年大仏造営の勧進に起用され、十七年大僧正に任ぜられ、十九年河内の河俣人麻呂による銭千貫寄進などは行基勧進の効果であるが、行基は大仏鋳造中の天平勝宝元年(七四九)二月二日菅原寺(奈良市)で入滅し(八十二歳)、墓は竹林寺(奈良県生駒市)にある。彼が営んだ大野寺(堺市)の土塔は土盛りの仏塔で、久米田池(大阪府岸和田市)の現貯水面積は約十九万坪である。最澄は『顕戒論』に大乗寺の例に行基のいわゆる四十九院をあげている。行基研究の史(資)料では、「天平十三年辛巳記」は菅原寺牒にあたるといわれ、「行基墓誌」(「大僧上舎利瓶記」)や「大野寺土塔人名瓦」とともに価値が高く、ほかに『続日本紀』『日本霊異記』『扶桑略記』『行基菩薩伝』『行基年譜』『行基菩薩行状絵伝』などがあり、彼が営んだ寺や農業・交通関係施設の遺跡の一部は発掘・調査されている。→行基年譜(ぎょうきねんぷ),→行基菩薩伝(ぎょうきぼさつでん),→四十九院(しじゅうくいん)
[参考文献]
北山茂夫『万葉の世紀』、二葉憲香『古代仏教思想史研究』、井上薫『行基』(『人物叢書』二四)、同「南都六宗と民間仏教」(『アジア仏教史』一二所収)、岡田隆夫「和泉国大鳥郷における開発と展開」(宝月圭吾先生還暦記念会編『日本社会経済史研究』古代中世編所収)、井上光貞「行基年譜、特に天平十三年記の研究」(『日本古代思想史の研究』所収)、石母田正「国家と行基と人民」(『日本古代国家論』一所収)、井上薫「行基の開発と伝道」(『日本史の研究』七三)

行基墓誌

嘉禎元年(一二三五)八月二十五日大和国平群郡有里村(奈良県生駒市)の竹林寺行基墓から発掘された金銅製円筒形の舎利(行基遺骨)容器の残欠。奈良国立博物館所蔵。縦一〇センチ、横六・七センチ、厚さ〇・六センチの不正三角形(内側に〇・三センチの反り)を呈し、幅約二・一~二・二センチの縦罫の行間に刻された銘は四行にわたる十八字であるが、発掘時の注進状に添えられた「大僧上舎利瓶記」(唐招提寺蔵、後掲の印は墓誌残欠所見の字)によれば全文は十七行三百九字(一行二十字)から成り、行基の死の直後に弟子真成が記したもので、大鳥郡を「河内国」(のち和泉国に含まれる)とすることや「天平廿一年」(七四九、この年は二度改元され、天平感宝元年、天平勝宝元年となる)とすることなど書法は厳密で、行基の法諱・家系・出家年代・享年などは『続日本紀』の伝記を補う。墓では銀製骨蔵瓶を在銘金銅製円筒に入れ、さらに銅筒に納め、八角石筒内に安置していた。
[参考文献]
内務省編『奈良県に於ける指定史蹟』一(『史蹟調査報告』三)、梅原末治「行基舎利瓶記に見えたるその姓氏と享年に就いて」(『日本考古学論攷』所収)、藤沢一夫「墳墓と墓誌」(『日本考古学講座』六所収)
(井上 薫)


日本大百科全書(ニッポニカ)
行基
ぎょうき
[668―749]

奈良時代、社会事業に尽力した法相(ほっそう)宗の僧。父は百済(くだら)から渡来した王仁(わに)の子孫にあたる高志(こし)氏。和泉(いずみ)国(大阪府)の母の家(家原(えばら)寺の寺)に生まれ、15歳で出家。師は法相宗初伝の道昭(どうしょう)、その他の説がある。のち薬師寺の僧となり、土木技術の知識を学び、各地に橋を架け、堤を築き、池や溝を掘り、道をつけ、樋(ひ)を渡し、船息(ふなやど)をつくった。また当時、税として納められた諸国の産物を都へ運ぶ運脚夫は帰国の途中餓死する者が多かったので、彼らを収容し救うための施設として布施屋(ふせや)を9か所つくったと伝える。また、行基は各地を周遊したが、とどまった所に道場が建てられ、その数49院あったともいう。民衆への伝道にも努め、彼を慕って従う者1000名にも及び、行基菩薩(ぼさつ)と称された。717年(養老1)の詔(みことのり)では、行基とその徒が、町でみだりに罪福を説き、多くの人が仕事を放棄して集団をなして食物を乞(こ)い、仏教と国法とに違反している、と叱責(しっせき)されているが、のちに政府は、高齢の追随者には出家を認めるなど融和策をとった。さらに聖武(しょうむ)天皇の大仏造営に際しては、絶大な民衆への影響力により、大仏造営費の勧進(かんじん)に起用された。745年(天平17)78歳で大僧正に任ぜられ、仏教界における最高の地位を占めた。僧正は以前からあったが、行基が大僧正の初めである。大仏完成の3年前、天平(てんぴょう)21年2月2日、菅原寺(すがわらでら)で82歳で没した。
[田村晃祐]2017年6月20日



世界大百科事典
行基
ぎょうき
668-749(天智7-天平勝宝1)

奈良時代の僧。父は高志才智(こしのさいち),母は蜂田古爾比売(はちたのこにひめ)。高志氏は百済系渡来人の書(文)(ふみ)氏の分派。行基は河内国(大阪府)大鳥郡の母方の家で生まれた(この地はのち和泉国に属した)。682年(天武11)15歳で出家し(飛鳥寺の道昭を師としたと考えられる),瑜伽論(ゆがろん),唯識論(ゆいしきろん)の教義をすぐ理解した。道昭は653年(白雉4)入唐し長安で玄奘(げんじよう)に師事し,同室に住むことを許され大きな影響を受け,経論をたずさえ帰国し,飛鳥寺の東南の禅院で弟子を養成するとともに,民間で井戸,船,橋などを造る社会事業にも努めた。行基は入唐していないが,師の道昭を介し唐やインドの仏教に目をそそぎ,また行基の活動における伝道と社会事業の結合も道昭から学んだ影響である。

702年(大宝2)大宝律令施行によって天皇と貴族が庶民を支配する体制が確立し,庶民は課税軽減,生産向上,宗教的救済を切望した。行基は704年(慶雲1)生家を寺に改め(家原寺(えばらでら)。大阪府堺市),その後都鄙に伝道と社会事業を展開した。彼を慕い集まる庶民はしばしば1000をかぞえ,説法を聞き,また土木技術を修得した行基の指導にしたがい橋や堤を造り,すみやかに完成させた。行基が741年(天平13)までに河内,和泉,摂津,山背(城)国などに造った池15,溝7,堀4,樋3,道1,港2,布施屋(ふせや)(調庸運脚夫や役民(えきみん)を宿泊させ食料を与える)9などの農業・交通関係施設の位置と規模が〈天平十三年記〉(《行基年譜》所引)に記される。

《行基年譜》(1175,泉高父宿禰著)には彼が745年ころまでに畿内に開いたいわゆる四十九院の寺の位置と建立年代が記され,これも庶民の信者の寄進や協力で造られた。四十九院は社会事業施設と結合しており,たとえば狭山池院(大阪府大阪狭山市)には狭山池,昆陽(こや)施院(昆陽寺。兵庫県伊丹市)には昆陽池,昆陽布施屋および孤(親のない子)独(子のない親)収容所が対応する。寺では伝道のほか社会事業施設の管理も行われ,伝道と社会事業を結合した活動は隋の三階教(信行が創始者)の影響という。

717年(養老1)政府が行基の伝道を《僧尼令(そうにりよう)》違反として禁圧したのは,彼への社会的信望を忌避したためとも,政府が隋の文帝や唐の高宗による三階教(教団は王権から独立すべきものだと主張)弾圧から刺激されたためともいう。しかし政府は行基の土木技術や,庶民を動員する力量を利用するため,三世一身法や墾田永年私財法発布の過程で731年伝道禁圧をゆるめ,743年紫香楽(しがらき)での大仏造営詔発布のさい勧進(募財)役に起用し,745年大僧正に任じた。平城還都後,大仏造営は金鐘(こんしゆ)寺(のち東大寺)で再開されたが,行基は749年菅原寺(奈良市)で没。彼が大野寺(大阪府堺市)に造った土塔はインドのストゥーパ(仏塔)に源流をもつ。彼の伝記史料に竹林寺(生駒市)出土の火葬墓誌や家原寺蔵《行基菩薩行状絵伝》(室町時代)などがある。
[井上 薫]

行基信仰と伝承

仏教の民間布教に尽くした行基は,早くから敬慕の対象になり,多くの伝説が伝えられている。《日本霊異記》には,行基が説法の場において,教えを受けに来た女の過去を見抜いたり(中,第三十),髪に猪の油を塗っているのを遠くから指摘し退場させた(中,第二十九)というような話が収められているが,その説話には,行基の布教の姿をほうふつとさせるものがある。また,行基が大僧正になったのをねたんだ智光が地獄に落ちたという話(中,第七)も,平安時代初期の行基信仰の一面を伝えている。それらの説話は,後の説話集に受けつがれていったが,平安時代中期になると,行基は胞衣(えな)にくるまったままで生まれたという《本朝法華験記》《日本往生極楽記》の伝のように,常ならぬ人として強調されるようになった。幼いときから仏法に通じ,さまざまに方便を用いて人々を救うと伝えられる行基の姿には,民間の行基信仰があらわれている。中世に入って,行基への敬慕はさらにひろまり,行基の開創になるという寺,行基の手になる仏像,橋,港などの伝承は,畿内を中心に数多く見られる。そうした中で,行基は,中世の民間の仏教と,仏教が最もさかえた天平時代とをつなぐ人物として重視されるようになった。菩薩号を聖武天皇から授けられたという伝承や,行基が伊勢神宮に参詣して神の示現を得たという《通海参詣記》の記事は,そうした中で生まれたものといえよう。《新勅撰集》は〈のりの月ひさしくもがなとおもへどもさ夜ふけにけりひかりかくしつ〉を,行基の辞世の歌として収め,この歌についての説話は《古今著聞集》に見える。また《玉葉集》に行基菩薩の歌として収められている〈山どりのほろほろとなくこゑきけばちちかとぞおもふ母かとぞおもふ〉という歌は,日本人の自然観をよくあらわしているためか,広く知られている。《行基式目》(1622,良定著)をはじめ,行基に仮託される民間の教訓書の多さ,中世以前に用いられた日本全図の原形が行基によって作られたと伝えられ,行基図と呼ばれていることなど,行基に関する伝承のひろがりを示すものは多い。
[大隅 和雄]

[索引語]
行基年譜 四十九院 行基菩薩行状絵伝 行基式目
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19. ぎょうきねんぷ【行基年譜】
国史大辞典
)「天平十三年辛巳記」は、政府が行基を起用するとき菅原寺から出させた牒で、行基造営の農業・交通施設を一括して記し、「延暦廿四年(八〇五)三月十九日菅原(寺)別当&nbsnbsp;...
20. ぎょうき‐ぶき[ギャウキ‥]【行基葺】
日本国語大辞典
〔名〕本瓦葺き屋根の葺き方の一つ。円瓦の一端を他の端より細くし、上の瓦の太い方で下の瓦の細い方を覆うように順々に重ねて葺いたもの。法隆寺金堂内の玉虫厨子宮殿や奈 ...
21. ぎょうき‐ぼさつ[ギャウキ‥]【行基菩薩】
日本国語大辞典
(「ぎょうぎぼさつ」とも)「ぎょうき(行基)」に同じ。ギョーキボサツ〓[ボ] ...
22. ぎょうきぼさつでん【行基菩〓伝】
国史大辞典
一冊。著者不詳。行基の生年、生地、父母、家系、出家、研学、修行、造寺、農業・交通関係施設の造営、聖武天皇との関係、大僧正補任、入滅、葬送などを編年体で記す。神 ...
23. ぎょうきぼし【行基墓誌】 : 行基
国史大辞典
行基墓誌 嘉禎元年(一二三五)八月二十五日大和国平群郡有里村(奈良県生駒市)の竹林寺行基墓から発掘された金銅製円筒形の舎利(行基遺骨)容器の残欠。奈良国立博 ...
24. ぎょうき‐まいり[ギャウキまゐり]【行基参】
日本国語大辞典
三日)に行なう、開山者行基の忌日の法会に参詣すること。《季・春》*俳諧・誹諧通俗志〔1716〕時令・二月「行基参 二日こや」*俳諧・手挑灯〔1745〕中「二月〈 ...
25. 行基焼
世界大百科事典
→須恵器 ...
26. 行基燒(ぎょうきやき)
古事類苑
産業部 洋巻 第1巻 732ページ ...
27. ぎょうき‐やき[ギャウキ‥]【行基焼】
日本国語大辞典
もの。天平年間、行基が創始したと伝えるが根拠はない。はにもの(土器)に対するすえもの(陶器)の俗称として用いられてきた。*俳諧・続明烏〔1776〕夏「いく世経て ...
28. ぎょうぎじ【行基寺】岐阜県:海津郡/南濃町/上野河戸村
日本歴史地名大系
[現]南濃町上野河戸 上野河戸集落の西にある浄土宗寺院。行基の開創と伝えるが、現在の寺は高須町(現海津町)の円心寺の性誉が、行基開基の古刹で延元三年(一三三八) ...
29. 行基式目(著作ID:154621)
新日本古典籍データベース
ぎょうきしきもく 仏教  ...
30. 行基大僧正記(著作ID:154643)
新日本古典籍データベース
ぎょうきだいそうじょうき 伝記  ...
31. 行基菩薩起文遺戒状(著作ID:998890)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつきもんゆいかいじょう 行基(ぎょうき) 文書 奈良時代 ...
32. 行基菩薩御遺骨出現記(著作ID:154654)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつごいこつしゅつげんき 大和国生馬山行基菩薩御遺骨出現事 杲宝(ごうほう) 伝記 正平七 ...
33. 行基菩薩舎利瓶記(著作ID:154665)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつしゃりびょうき 行基大僧正舎利記 真成(しんじょう) 記録  ...
34. 行基菩薩草創記(著作ID:154676)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつそうそうき 行基菩薩行状記 本良(ほんりょう) 伝記 寛保三刊 ...
35. 行基菩薩伝(著作ID:154687)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつでん 伝記  ...
36. 行基菩薩秘文(著作ID:2347913)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつひもん 仏教  ...
37. 行基菩薩遺誡(著作ID:154698)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつゆいかい 行基遺誡 行基(ぎょうき) 仏教 奈良時代 ...
38. 行基菩薩和讃(著作ID:4379294)
新日本古典籍データベース
ぎょうきぼさつわさん 真言  ...
39. ぎょうきず【行基図】
国史大辞典
⇒日本図(にほんず)  ...
40. ぎょうきぶき【行基葺】
国史大辞典
⇒本瓦葺(ほんがわらぶき)  ...
41. ひこう‐きち[ヒカウ‥]【飛行基地】
日本国語大辞典
〔名〕航空隊の飛行機発着の根拠地。*国民歌謡・空の勇士〔1939〕〈大槻一郎〉「悠悠還る飛行基地(ヒカウキチ)」ヒコーキチ ...
42. 中国視窓 チャイナウオッチ 金利のさらなる自由化 現行基準廃止も視野に=神宮健
週刊エコノミスト 2018-19
中国で、市場メカニズムによる金利形成を進める動きが加速している。 中国の金利自由化は、1990年代後半の短期金融市場金利の自由化に始まり、貸出金利の下限撤廃( ...
43. あおづむら【青津村】愛知県:渥美郡/田原町
日本歴史地名大系
同一五年市場・漆田の二ヵ村とともに分立し神戸村を称した。片セに真言宗の松本寺がある。神亀四年(七二七)行基菩薩の開基と伝える。四間四方の本堂は宝永三年(一七〇六 ...
44. あか【閼伽】
日本国語大辞典
水」(2)仏前に供える水を入れる器。あかの具。*観智院本三宝絵〔984〕中「行基閼伽一具をそなへてそのむかへにいだしやる」*本朝無題詩〔1162~64頃〕八・春 ...
45. あかいけむら【赤池村】徳島県:那賀郡/那賀川町
日本歴史地名大系
前掲神社帳にはほかに山神・諏訪・天神を記す。真言宗大覚寺派西光寺は神亀年間(七二四―七二九)に行基が北原で開基したと伝え、康安二年(貞治元年、一三六二)九月二四 ...
46. あか‐いちぐ【閼伽一具】
仏教語大辞典
入れる閼伽桶、その他、仏などに供養するために必要な関連の品々一そろいのこと。 往生極楽記 行基行基加百僧末、以閼伽一具、焼香盛花、泛於海上」  ...
47. あかおしぶたれこおりべじんじゃ【赤尾渋垂郡辺神社】静岡県:袋井市/赤尾村
日本歴史地名大系
楽寺となり、学頭大乗院・僧坊善養坊があったという。長楽寺由来記(平田家文書)によると、長楽寺は行基が開創、東に白山権現社、西に二重の宝塔が建ち、三〇余の僧坊があ ...
48. あかまがせき【赤間関】山口県:下関市
日本歴史地名大系
長門国赤間稲置等家 加差甫良之也美」とみえ、古くから「赤間」はこの地をさすものとされる。また行基の作といわれる「日本国図」にも当地の名がある。源俊頼の「散木奇 ...
49. あかやむら【赤屋村】島根県:能義郡/伯太町
日本歴史地名大系
九年(一五六六)に山上山下に建並んだ堂宇も焼失したが(赤屋村史)、「雲陽誌」には「薬師堂、本尊行基の作、医王寺といふ、三間四面の草堂なり」と記されている。安永三 ...
50. あかるむら【赤留村】福島県:大沼郡/会津高田町
日本歴史地名大系
「草建の始を知らず」とあるが、「異本塔寺長帳」によれば、長承二年(一一三三)に「会津赤留村不動堂建立行基ノ作也」と記される。 ...
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