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新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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新版 日本架空伝承人名事典
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)
 平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主あちのおみを祖先とし大和国高市郡に蟠踞ばんきょした倭(東)漢やまとのあや氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も「赤面黄鬚、勇力人に過ぐ、将帥の量あり」といわれた。七八五年(延暦四)従五位下、七八七年近衛少将となり、以後越後守などを兼任していたが、七九一年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。数年にわたる戦闘で功をあげ、七九五年従四位下、翌年陸奥出羽按察使あぜち兼陸奥守、さらに鎮守府将軍を経て、七九七年征夷大将軍に任じられた。八〇一年胆沢いさわを平定し、功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった。八〇二年胆沢城を築城し、鎮守府を多賀城から移し、翌年志波城を築城するなど古代蝦夷経営の成果をあげ、八〇四年再度征夷大将軍に任じられた。しかしその経営は「往還の間、従者限りなし。人馬給し難く、累路費え多し」と田村麻呂の没時の伝にも見えるように、大規模な遠征は多くの問題を残し、八〇五年の徳政の論争によって、平安京造営とともに征夷が中止された。その後の田村麻呂は、中納言、中衛大将、右近衛大将、兵部卿、大納言などに任じられ、正三位まで昇ったが、八一一年粟田別業で没した。五四歳。女の春子は桓武天皇の後宮に入り、葛井親王を生んでいる。
[高橋 富雄]
田村麻呂をめぐる伝承
 田村麻呂が東山で僧延鎮(もと賢心)と会い、力をあわせて観音像を作り、仏殿を建ててこれを安置し清水寺と号したことは『清水寺縁起』(伝藤原明衡作)、『今昔物語集』『扶桑略記』などに見え、中世に入っても多くの書物に散見する。『吾妻鏡』は田谷窟たっこくのいわや(現、達谷窟)について述べる中に「田村麿・利仁等の将軍」が蝦夷征伐のとき、敵主悪路王あくろおう赤頭あかがしらたちがこの窟に柵を構えたとし、のち、田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して、鞍馬に模して多聞天(毘沙門天)像を安置した(文治五年(一一八九)九月二八日条)と伝える。『鞍馬寺縁起』に、藤原利仁が鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を平定した由が見えるから、『吾妻鏡』の記事は田村麻呂伝承が利仁伝承や鞍馬の毘沙門天信仰とも交渉をもっていたことを示している。『元亨釈書』延鎮伝は田村麻呂が清水寺の勝軍地蔵・勝軍毘沙門の加護により奥州の逆賊高丸を討ったとし、『神道集』巻四や『諏方大明神画詞』などは諏訪明神の神徳によって蝦夷の長「悪事あくじの高丸」または「安倍高丸」を平定したとする。『義経記』巻二に「坂上田村丸、これ(兵法一巻之書)を読み、悪事の高丸を取り、藤原利仁これを読みて、赤頭の四郎将軍を取る」と見え、謡曲『田村』は清水観音の加護で鈴鹿山の悪神を退治したとし、同『鈴鹿』は田村麻呂が鈴鹿姫の手引きで赤頭の四郎将軍高丸という鬼神を退治したとする。幸若舞『未来記』に「坂上の利仁九年三月に(兵法三略之巻を)習ひ敵を鎮め給ひけり。さてその後に田村丸十二年三月に習ひ、奈良坂山のかなつむて、鈴鹿の盗人、かかる逆徒を平げ」とあり、御伽草子『田村』や『鈴鹿』ではきわめて複雑な物語となる。すなわち、藤原俊重将軍の子俊助が大蛇と契って生まれた子が俊仁で、俊仁は近江国みなれ川の大蛇や陸奥国たか山の悪路王を退治する。俊仁が陸奥国はつせ郡田村郷で賤女と契って生まれた子が田村丸で、元服していなせ五郎阪上俊宗といい、大和国奈良坂のりやうせんという化生の者を討ち、鈴鹿御前と契り、その手引きで鈴鹿山の鬼神大武丸おおだけまるを退治するという物語である。御伽草子『立烏帽子たてえぼし』は、阪上田村五郎利成が鈴鹿山の化生の女盗立烏帽子の手引きで、その夫阿黒王あぐろおうを退治したとする。『田村』と同工の物語に奥浄瑠璃『三代田村』があり、地名などに地方色が濃く出ている。
 東北地方には延暦・大同年間(七八二‐八一〇)に田村麻呂が創建したと伝える寺社がきわめて多い。なかでも観音堂にそれが多く、神社・毘沙門堂がこれに次いでいるが、それらの縁起はたいてい切畑山の悪路王、大石嶽の大石丸、米木山の大滝丸などの鬼神退治譚を伴っている。これらからすると、この伝承は清水寺や鞍馬の毘沙門天の信仰が東北地方にひろまる過程で、地方の山岳信仰と結びついて形成されていたものと考えられる。日本には祇園武塔天神の悪王子のように悪霊鬼神を若宮・末社などとして神にまつり、本社の大神に祈願して、その力で悪霊鬼神のたたりを防ごうとする風習があり、悪路王伝説にもこのような考えがその背景に隠されていると考えられている。また悪路王のアクは、アコヤ・アコオウ(ともに景清伝説に登場する遊女の名)にも系統を引く語で、本来、神婚譚、神誕生のわざおぎに参与した巫女の名ではなかったかと推定され(柳田国男説)、立烏帽子という名にも巫女の介在を思わせる。いずれにせよ、田村麻呂伝説の発展と展開の背景には村落生活と関連させながら、神の恩寵を説く遊行の宗教者の活動があったものと思われる。また、『日本後紀』などに、田村麻呂は死後、勅命によって立ちながら甲冑兵仗を帯して葬られたと伝え、早くから国家に非常のあるときには鳴動すると考えられていた(『田邑麻呂伝記』など)。その塚は、平安開京にあたって皇城鎮護のために土偶を埋めた東山の将軍塚(『平家物語』など)と混交され、田村麻呂の塚とされる将軍塚は各地にある。この伝承はさえの神的な色彩を有しているが、同音の勝軍地蔵の信仰ともあいまって、その伝承の流布には愛宕聖の活躍や陰陽の徒の力もあずかったものと考えられている。
[山本 吉左右]
宝亀十一年夏の比。坂上田村麿左近将監。この山下の遊猟の事あり。これ産婦のために鹿をもとめて。屠るよしなり。冷水をのそみ林中をたつぬるに。奇恠の水に求あへり。再三飲しめて身心豪潔に成ぬれは。源を尋行に。読経の声あり。忽懺悔の心発して。おくふかくのほり。滝のもとにいたり。又彼孤庵のまへに来て。沙門に対して。種々奇絶の心緒を述。又賢心居士の遺誡不思議のことを語るに。将監いはく。汝形貌まことに凡類にあらす。定て神仙のましはり歟。居士の遺言は薩埵の勅語たらん。おそらくは愚夫微志を抽へしと。ふかく渇仰をなしたち帰り。沙門は庵にいりぬ。
将監都に帰り。蘭室命婦高子に。今日の遊猟の二事。また霊水之体。沙門の所〓語。彼是の妙儀をかたり給へり。命婦のいはく。聞所の事みな権化の所談なり。然に我除病のために殺生のこと甚恐怖あり。其報何をもてか謝せんや。願くは。以〓我宅〓彼聖跡によせ。女身か罪〓を懺悔せん。然則将監賢心とこゝろさしをひとつにして。仏閣造立の営をきそはれけるに。山ふかくして嶮岨。樹林の陰寸尺も平地なし。人力難〓及愁歎せしむる処に。夜中にものゝ声山中に見けり。きしをこほち谷を埋めるかとおほゆ。明朝これをみれは。地平如〓掌にして。仏場をさかへることし。其所にものあり。鹿胎中の子なりけり。知ぬ鹿鹿にあらす。これ薩埵の使たらん。然は彼鹿の頭をとゝめ。蔵庫におさめて。いまに霊物とす。
清水寺縁起
時しも頃ハ如月の〓〓 鈴鹿の山に参らん 吾ハ是坂上田村麿是則将軍と云る者なり 扨も勢州鈴鹿山に鬼人籠り上下往来の人に災を成す由君聞召急き退治せよとの宣旨承り候間是今思ひ立伊勢の国鈴鹿山へと急候
佐陀神能和田本田村
大悲の矢五百本ほど懸直なり
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):32‐20
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
「懸直」は掛値。謡曲『田村』に「千手観音の……千の御手毎に、大悲の弓には智恵の矢をはめて、一度はなせば千の矢先」とあるが、弓を射るには二本の手が必要、「千の矢先」は掛値で、本当はその半分だろうとのキョクリ。
鈴鹿山味方の旗はもちおもり
編者/評者:編者未詳
出典:『柳多留拾遺』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):3‐17
刊行/開き:1796~97(寛政8~9)(刊)
同じく『田村』に「不思議やな、味方の軍兵の旗の上に、千手観音の、光を放つて」とあるによる滑稽。


国史大辞典
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
七五八 - 八一一
平安時代初期の武将。天平宝字二年(七五八)に生まれる。苅田麻呂の子。宝亀十一年(七八〇)近衛将監。正史初見は延暦四年(七八五)十一月のことで、このとき正六位上から従五位下叙位。同六年、近衛将監従五位下で内匠助兼任、ついで近衛少将、越後守を兼ねる。光仁朝以来の蝦夷征討が強化されていく過程にあたり、同十年正月、田村麻呂は百済王俊哲とともに軍士・兵器点検のため東海道に派遣された。七月、大伴弟麻呂が征夷大使に、田村麻呂は副使の一人に任命された。翌年、従五位上。同十二年二月征討のため東下、同十三年六月「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」(『日本紀略』、原漢文)と伝わり斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲馬八十五疋、焼却した村落七十五ヵ処の戦果をあげた。征夷使は翌年正月平安京に凱旋、田村麻呂は功により従四位上。のち、近衛少将のまま木工頭を兼任。同十五年正月、陸奥出羽按察使兼陸奥守、十月には鎮守将軍をも兼ね、同十六年十一月、征夷大将軍となる。同十七年閏五月従四位上、同十八年五月近衛権中将を兼ねる。同十九年十一月、諸国に配せる夷俘の調査に従事。同二十年二月十四日、田村麻呂は桓武天皇より節刀を賜わり四万の軍勢を率いて東下、九月二十七日遠く閉伊村まで夷賊を討伏し、十月二十八日帰京し節刀を天皇に返上、翌月征夷の功により従三位(勲二等もか)。十二月近衛中将。同二十一年、陸奥国胆沢城造営に派遣される(鎮守府は多賀城よりここに移る)。度者(僧侶)一人を賜わった。四月、蝦夷の首長大墓公阿弖利為・盤具公母礼とが同族五百余人を率いて田村麻呂に降伏、二人は田村麻呂に伴われて七月十日平安京に入る。首長らは田村麻呂の「此の度は願に任せて返し入れ其の賊類を招かん」(『日本紀略』、原漢文)との意見にもかかわらず、八月河内国杜山で処刑された。同二十二年、造志波城使として陸奥へ下るが、その際彩帛五十疋・綿三百屯などを賜わった。七月、刑部卿。同二十三年正月、再び征夷大将軍に任ぜられ造西大寺長官を兼ねた。八月、和泉・摂津両国に行宮地設定のため派遣さる。同二十四年六月、坂上氏として初の参議、蝦夷征討はこの年の暮に中止とされた。翌年三月桓武天皇崩御。その際、田村麻呂は殿中にあって天皇の側近に侍し、悲しみのあまり起つことを知らぬ安殿皇太子を助け殿を下り、皇太子に皇位の印と剣とを奉った。のち中納言・中衛大将。大同二年(八〇七)右近衛大将、侍従、兵部卿を経て同四年正三位。弘仁元年(八一〇)九月大納言。翌二年五月二十三日、平安京郊外粟田別業で没した。五十四歳。山城国宇治郡栗栖村に葬られたという。贈従二位。田村麻呂は、生前、京都に清水寺を建立した。娘の春子は桓武天皇の後宮に入り葛井親王と春日内親王を生んだという。→蝦夷(えぞ),→坂上氏(さかのうえうじ)
[参考文献]
『田邑麻呂伝記』、高橋崇『坂上田村麻呂』(『人物叢書』二五)、亀田隆之『坂上田村麻呂』
(高橋 崇)


日本大百科全書(ニッポニカ)
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
[758―811]

平安初期に活躍した武将。苅田麻呂(かりたまろ)の子。桓武(かんむ)天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷(えぞ)征討において、武将としての器量を大いに発揮して活躍したことで有名。近衛府(このえふ)の少将であった791年(延暦10)征東副使となったのを契機に大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもとで蝦夷討伐に功をたて、796年には陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、陸奥守(むつのかみ)を兼任し、ついで鎮守府(ちんじゅふ)将軍をも兼ね、翌年には征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて赴き、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢(いさわ)の地を攻略し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀(たが)城から移した。ついで803年にはさらに北進して志波(しわ)城をつくり、蝦夷地経略に多大の功績を残した。これらの功によって805年に参議となって公卿(くぎょう)の仲間入りをし、その後、中納言(ちゅうなごん)を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至った。この間、810年(弘仁1)に起こった薬子(くすこ)の変では嵯峨(さが)天皇の命で、東国への脱出を企てた平城(へいぜい)上皇らを大和(やまと)国(奈良県)添上(そうのかみ)郡で食い止め、武功をあげた。翌弘仁(こうにん)2年5月23日に薨去(こうきょ)。姉妹又子、娘の春子が桓武天皇の後宮に入って、それぞれ高津(たかつ)内親王および葛井(ふじい)親王を生んでいる。京都東山の清水寺(きよみずでら)は田村麻呂の創建と伝える。
[朧谷 寿]



世界大百科事典
坂上田村麻呂
さかのうえのたむらまろ
758-811(天平宝字2-弘仁2)

平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきよ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で,武術に秀でていた。田村麻呂も〈赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり〉といわれた。785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。数年にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた。801年胆沢(いさわ)を平定し,功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった。802年胆沢城を築城し,鎮守府を多賀城から移し,翌年志波城を築城するなど古代蝦夷経営の成果をあげ,804年再度征夷大将軍に任じられた。しかしその経営は〈往還の間,従者限りなし。人馬給し難く,累路費え多し〉と田村麻呂の没時の伝にも見えるように,大規模な遠征は多くの問題を残し,805年の徳政の論争によって,平安京造営とともに征夷が中止された。その後の田村麻呂は,中納言,中衛大将,右近衛大将,兵部卿,大納言などに任じられ,正三位まで昇ったが,811年粟田別業で没した。54歳。女の春子は桓武天皇の後宮に入り,葛井親王を生んでいる。
[高橋 富雄]

田村麻呂をめぐる伝承

田村麻呂が東山で僧延鎮(もと賢心)と会い,力をあわせて観音像を作り,仏殿を建ててこれを安置し清水寺と号したことは《清水寺縁起》(伝藤原明衡作),《今昔物語集》,《扶桑略記》などに見え,中世に入っても多くの書物に散見する。《吾妻鏡》は田谷窟(たつこくのいわや)(現,達谷窟)について述べる中に〈田村麿・利仁等の将軍〉が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天(毘沙門天)像を安置した(文治5年(1189)9月28日条)と伝える。《鞍馬寺縁起》に藤原利仁が鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を平定した由が見えるから,《吾妻鏡》の記事は田村麻呂伝承が利仁伝承や鞍馬の毘沙門天信仰とも交渉をもっていたことを示している。《元亨釈書》延鎮伝は田村麻呂が清水寺の勝軍地蔵・勝軍毘沙門の加護により奥州の逆賊高丸を討ったとし,《神道集》巻四や《諏方大明神画詞》などは諏訪明神の神徳によって蝦夷の長〈悪事(あくじ)の高丸〉または〈安倍高丸〉を平定したとする。《義経記》巻二に〈坂上田村丸,これ(兵法一巻之書)を読み,悪事の高丸を取り,藤原利仁これを読みて,赤頭の四郎将軍を取る〉と見え,謡曲《田村》は清水観音の加護で鈴鹿山の悪神を退治したとし,同《鈴鹿》は田村麻呂が鈴鹿姫の手引きで赤頭の四郎将軍高丸という鬼神を退治したとする。幸若舞《未来記》に〈坂上の利仁九年三月に(兵法三略之巻を)習ひ敵を鎮め給ひけり。さてその後に田村丸十二年三月に習ひ,奈良坂山のかなつむて,鈴鹿の盗人,かかる逆徒を平げ〉とあり,御伽草子《田村》や《鈴鹿》ではきわめて複雑な物語となる。すなわち,藤原俊重将軍の子俊助が大蛇と契って生まれた子が俊仁で,俊仁は近江国みなれ川の大蛇や陸奥国たか山の悪路王を退治する。俊仁が陸奥国はつせ郡田村郷で賤女と契って生まれた子が田村丸で,元服していなせ五郎阪上俊宗といい,大和国奈良坂のりやうせんという化生の者を討ち,鈴鹿御前と契り,その手引きで鈴鹿山の鬼神大武丸(おおだけまる)を退治するという物語である。御伽草子《立烏帽子(たてえぼし)》は,阪上田村五郎利成が鈴鹿山の化生の女盗立烏帽子の手引きで,その夫阿黒王(あぐろおう)を退治したとする。《田村》と同工の物語に奥浄瑠璃《三代田村》があり,地名などに地方色が濃く出ている。

 東北地方には延暦・大同年間(782-810)に田村麻呂が創建したと伝える寺社がきわめて多い。なかでも観音堂にそれが多く,神社・毘沙門堂がこれに次いでいるが,それらの縁起はたいてい切畑山の悪路王,大石嶽の大石丸,米木山の大滝丸などの鬼神退治譚を伴っている。これらからすると,この伝承は清水寺や鞍馬の毘沙門天の信仰が東北地方にひろまる過程で,地方の山岳信仰と結びついて形成されていたものと考えられる。日本には祇園武塔天神の悪王子のように悪霊鬼神を若宮・末社などとして神にまつり,本社の大神に祈願して,その力で悪霊鬼神のたたりを防ごうとする風習があり,悪路王伝説にもこのような考えがその背景に隠されていると考えられている。また悪路王のアクは,アコヤ・アコオウ(ともに景清伝説に登場する遊女の名)にも系統を引く語で,本来,神婚譚,神誕生のわざおぎに参与した巫女の名ではなかったかと推定され(柳田国男説),立烏帽子という名にも巫女の介在を思わせる。いずれにせよ,田村麻呂伝説の発展と展開の背景には村落生活と関連させながら,神の恩寵を説く遊行の宗教者の活動があったものと思われる。また,《日本後紀》などに,田村麻呂は死後,勅命によって立ちながら甲冑兵仗を帯して葬られたと伝え,早くから国家に非常のあるときには鳴動すると考えられていた(《田邑麻呂伝記》など)。その塚は,平安開京にあたって皇城鎮護のために土偶を埋めた東山の将軍塚(《平家物語》など)と混交され,田村麻呂の塚とされる将軍塚は各地にある。この伝承は賽(さい)の神的な色彩を有しているが,同音の勝軍地蔵の信仰ともあいまって,その伝承の流布には愛宕聖の活躍や陰陽の徒の力もあずかったものと考えられている。
[山本 吉左右]

[索引語]
清水寺(京都) 田谷窟 達谷窟 悪路王 藤原利仁 田村 鈴鹿 立烏帽子(たてえぼし) 田村麻呂伝説 将軍塚(日本)
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日本歴史地名大系
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19. あくろおう【悪路王】
日本人名大辞典
窟(達谷窟)(たつこくのいわや)を拠点とする。延暦(えんりゃく)20年(801)征夷大将軍坂上田村麻呂とたたかい,敗れたという。阿弖流為(あてるい)が伝説化され ...
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日本歴史地名大系
れた後三年の役の清原武衡・家衡を混同して伝える。勝軍山甲台の呼称について「雪の出羽路」に、坂上田村麻呂が、この地で兜を脱いで塚に籠め、その上に一宇の堂を造営した ...
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日本歴史地名大系
寺宝として開基の小岩重光が奉納という無銘の槍一筋がある。宿の天台宗観音寺は延暦一五年(七九六)開創とも、坂上田村麻呂が延暦年中に創建したとも伝えるが不詳。古くは ...
22. あじがふくろ【味ヶ袋】宮城県:加美郡/小野田町
日本歴史地名大系
馬四三、神社は薬莱山にある村鎮守の山王権現社など五社で、権現社は延暦年間(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が、日吉二十一社のうち山王権現・八幡大神・白山権現の三社( ...
23. あたご‐じんじゃ【愛宕神社】
日本国語大辞典
〔二〕秋田県湯沢市愛宕山にある神社。旧県社。祭神は火産霊神(ほむすびのかみ)。延暦二〇年(八〇一)坂上田村麻呂がまつったと伝える。〔三〕山形県天童市北目城山にあ ...
24. あたごじんじゃ【愛宕神社】岩手県:江刺市/横瀬村
日本歴史地名大系
幕内集落の南方一キロにそびえる愛宕山上に鎮座。祭神軻遇突智火神。愛宕山と通称する。延暦年中(七八二―八〇六)坂上田村麻呂が達谷(現西磐井郡平泉町)で悪路王・赤頭 ...
25. 阿弖流為
日本大百科全書
対象とする朝廷の征夷軍の侵攻に対し、強力な抵抗戦を指導して多大の損害を与えた。しかし、征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)による胆沢攻略戦の成功に伴 ...
26. あてるい【阿弖流為】
日本人名大辞典
年征東大使紀古佐美(きの-こさみ)の軍におおきな打撃をあたえる。21年征夷(せいい)大将軍坂上田村麻呂(さかのうえの-たむらまろ)に降伏し,河内(かわち)(大阪 ...
27. あてるい【阿弖流為】
日本架空伝承人名事典
坂上田村麻呂の征夷軍と戦い続けた蝦夷(えみし)の首長。平安時代初期、朝廷は何度となく大軍勢を遠征させて、大規模な陸奥国の蝦夷征討戦を行った。しかし、蝦夷たちの抵 ...
28. あみだじ【阿弥陀寺】京都市:右京区/越畑村地図
日本歴史地名大系
[現]右京区嵯峨越畑南ノ町 越畑村の中央付近にあり、曹洞宗。寺伝によれば当村に土着した坂上田村麻呂の子孫田村準玄が、天禄元年(九七〇)に開基。当村の開闢について ...
29. あめのしらはじんじゃ【天志良波神社】茨城県:常陸太田市/白羽村
日本歴史地名大系
る。「延喜式」神名帳に久慈郡七座の一として「天之志良波神社」とみえる。延暦一四年(七九五)坂上田村麻呂が東征の折に創建ともいう。当社所蔵の棟札に、天文一三年(一 ...
30. アラバキロックフェス[イミダス編 文化・スポーツ]
イミダス 2018
」にちなんで付けられた。荒吐族の最も有名な人物が「アテルイ」で、時の大和朝廷の征夷大将軍・坂上田村麻呂と戦った勇士として語り伝えられている。平和と自分たちの地を ...
31. あらやまちむら【新屋町村】青森県:南津軽郡/尾上町
日本歴史地名大系
神・綿津見神を祭神とし、大同年間(八〇六―八一〇)坂上田村麻呂が建立したと伝えられる(南津軽郡是)。相殿に稲荷神・保食神・八幡神が祀られる(新撰陸奥国誌) ...
32. ありたましもむら【有玉下村】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区
日本歴史地名大系
代まで残っていたという(遠江国風土記伝)。また有玉の地名には坂上田村麻呂と大蛇の異類婚姻譚が伝わる。延暦四年(七八五)坂上田村麻呂が大蛇が変身した女との間に子俊 ...
33. ありたまじんじゃ【有玉神社】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区/有玉下村
日本歴史地名大系
祭神は天照意保比留売貴命など二二神。近世には八幡社と称した。古くは有玉社と称していたといい、社殿は坂上田村麻呂の異類婚姻譚に登場する大蛇が残した潮干珠が沈み陸化 ...
34. あわたごう【粟田郷】京都市:山城国(京都市域)郡郷/愛宕郡
日本歴史地名大系
入京する時に通ってもいる(「吾妻鏡」寛元四年七月二八日条)。別業も平安時代初期からみられ、坂上田村麻呂は粟田別業で死去しているし(「日本後紀」弘仁二年五月二三日 ...
35. あんらくじ【安楽寺】埼玉県:比企郡/吉見町/御所村地図
日本歴史地名大系
岩殿山光明院と号し、本尊は聖観音。当寺観音堂(吉見観音)は坂東三十三所の一一番札所。寺伝によれば開基は坂上田村麻呂。この開基伝承は別として、当寺僧観秀が著した吉 ...
36. いいどいむら【飯土井村】宮城県:宮城郡/利府町
日本歴史地名大系
される次の伝説がある。この地に九門(「安永風土記」では宮門)長者が住み、その召使悪玉御前は坂上田村麻呂と契って千熊丸を産み、やがて千熊丸が上京して田村麻呂と対面 ...
37. いくたまじんじゃ【生魂神社】青森県:南津軽郡/田舎館村/田舎館村
日本歴史地名大系
集落西方中辻にあり、祭神生島神・足島神、旧郷社。もとは大日堂で、縁起によれば大同二年(八〇七)坂上田村麻呂の建立、最初大根子、その後大曲の烏巻に移り、最後に田舎 ...
38. いけぐろむら【池黒村】山形県:南陽市
日本歴史地名大系
両者ともに曾我の碑とよばれていた。毎年旧五月二七日・二八日の曾我の日に供養されている。字上平の皇大神社は坂上田村麻呂が天照大神などを祀ったと伝え、応徳三年(一〇 ...
39. いさわぐん【胆沢郡】
国史大辞典
生」というようにみえている。そのため、同二十一年に坂上田村麻呂が胆沢城を今の水沢市佐倉河の地に築いて開拓の基地とし、同二十三年には鎮守府を多賀城から胆沢城に移し ...
40. いさわぐん【胆沢郡】岩手県
日本歴史地名大系
延暦八年には征東将軍紀古佐美軍の派遣があったが、「巣伏村」で大敗、その後同一三年に大伴弟麻呂、同二〇年に坂上田村麻呂が征夷大将軍となって北上作戦が行われた。胆沢 ...
41. 胆沢城
日本大百科全書
すでに四半世紀を閲(けみ)していた。801年(延暦20)の胆沢蝦夷との戦いに、最後の勝利を得た坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、翌802年、造胆沢城使と ...
42. 胆沢城
世界大百科事典
対象としたいわゆる蝦夷征討がくりかえされた。ようやく801年(延暦20)にいたって,初の征夷大将軍坂上田村麻呂が長年にわたる蝦夷の反乱を制圧したとされている。そ ...
43. いさわじょうあと【胆沢城跡】岩手県:水沢市/八幡村
日本歴史地名大系
(同書六月三日条)。その後同一三年に大伴弟麻呂が征夷大将軍となって戦勝をあげ、同二〇年には坂上田村麻呂が征夷大将軍・陸奥出羽按察使・陸奥守・鎮守府将軍を兼ねて作 ...
44. 胆沢城
日本史年表
802年〈延暦21 壬午〉 1・9 坂上田村麻呂に陸奥国 胆沢城 を築造させ、のち 鎮守府 を移す(紀略)。 1054年〈天喜2 甲午〉 この年 源頼義、 胆 ...
45. いざわ‐じょう[いざはジャウ]【胆沢城】
日本国語大辞典
岩手県水沢市にあった古代の城柵。延暦二一年(八〇二)、蝦夷征伐の拠点として坂上田村麻呂が築き、ついで多賀城にあった鎮守府を移す。平安中期に機能を低下させたが、前 ...
46. いしなざか【石名坂】宮城県:仙台市/仙台城下
日本歴史地名大系
」などの文字がみえ、前述石名の追善となんらかの関係があるものとされる。本尊正観音菩薩は往古坂上田村麻呂の妻妾堊玉の護持仏であったと伝え(残月台本荒萩)、堊玉観音 ...
47. いしのまきし【石巻市】宮城県
日本歴史地名大系
六人真野連」の賜姓記録などとの関連から注目される。延暦一三年(七九四)坂上田村麻呂は湊牧山に籠る豪族の妻魔鬼女を倒し、聖観音像を本尊とする魔鬼山寺を創建したと伝 ...
48. いし‐ぶみ【石文・碑】
日本国語大辞典
(イシブミ)」【二】(碑)平安時代、歌枕として著名であった奥州の「つぼのいしぶみ(壺碑)」。もと、坂上田村麻呂が奥州七戸壺村に建てたと伝える。*堀河百首〔110 ...
49. いじじょう【伊治城】
国史大辞典
相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後の民九千人を遷置するなど、伊治城の強化がなされ、坂上田村麻呂の征討事業成功の有力な伏線となった。廃城の時期は明らか ...
50. 伊治呰麻呂
世界大百科事典
揚げた。その後の呰麻呂の消息は不明であるが,朝廷は鎮定に苦慮し,その後蝦夷経営が強化され,坂上田村麻呂の登場を見る。→蝦夷高橋 富雄 道嶋大楯 紀広純 ...
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