平安初期に活躍した武将。苅田麻呂(かりたまろ)の子。桓武(かんむ)天皇の二大事業の一つとして活発に行われた蝦夷(えぞ)征討において、武将としての器量を大いに発揮して活躍したことで有名。近衛府(このえふ)の少将であった791年(延暦10)征東副使となったのを契機に大使大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)のもとで蝦夷討伐に功をたて、796年には陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)、陸奥守(むつのかみ)を兼任し、ついで鎮守府(ちんじゅふ)将軍をも兼ね、翌年には征夷(せいい)大将軍に任ぜられた。801年(延暦20)の第三次蝦夷征討に際しては節刀を受けて赴き、4万の軍を率いて攻め、まず胆沢(いさわ)の地を攻略し、翌年胆沢城を築いて鎮守府を多賀(たが)城から移した。ついで803年にはさらに北進して志波(しわ)城をつくり、蝦夷地経略に多大の功績を残した。これらの功によって805年に参議となって公卿(くぎょう)の仲間入りをし、その後、中納言(ちゅうなごん)を経て正三位大納言(右近衛大将)にまで至った。この間、810年(弘仁1)に起こった薬子(くすこ)の変では嵯峨(さが)天皇の命で、東国への脱出を企てた平城(へいぜい)上皇らを大和(やまと)国(奈良県)添上(そうのかみ)郡で食い止め、武功をあげた。翌弘仁(こうにん)2年5月23日に薨去(こうきょ)。姉妹又子、娘の春子が桓武天皇の後宮に入って、それぞれ高津(たかつ)内親王および葛井(ふじい)親王を生んでいる。京都東山の清水寺(きよみずでら)は田村麻呂の創建と伝える。
平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきよ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で,武術に秀でていた。田村麻呂も〈赤面黄鬚,勇力人に過ぐ,将帥の量あり〉といわれた。785年(延暦4)従五位下,787年近衛少将となり,以後越後守などを兼任していたが,791年に征東副使の一人として蝦夷との戦いに加わった。数年にわたる戦闘で功をあげ,795年従四位下,翌年陸奥出羽按察使(あぜち)兼陸奥守,さらに鎮守府将軍を経て,797年征夷大将軍に任じられた。801年胆沢(いさわ)を平定し,功により従三位勲二等に叙され近衛中将となった。802年胆沢城を築城し,鎮守府を多賀城から移し,翌年志波城を築城するなど古代蝦夷経営の成果をあげ,804年再度征夷大将軍に任じられた。しかしその経営は〈往還の間,従者限りなし。人馬給し難く,累路費え多し〉と田村麻呂の没時の伝にも見えるように,大規模な遠征は多くの問題を残し,805年の徳政の論争によって,平安京造営とともに征夷が中止された。その後の田村麻呂は,中納言,中衛大将,右近衛大将,兵部卿,大納言などに任じられ,正三位まで昇ったが,811年粟田別業で没した。54歳。女の春子は桓武天皇の後宮に入り,葛井親王を生んでいる。
田村麻呂が東山で僧延鎮(もと賢心)と会い,力をあわせて観音像を作り,仏殿を建ててこれを安置し清水寺と号したことは《清水寺縁起》(伝藤原明衡作),《今昔物語集》,《扶桑略記》などに見え,中世に入っても多くの書物に散見する。《吾妻鏡》は田谷窟(たつこくのいわや)(現,達谷窟)について述べる中に〈田村麿・利仁等の将軍〉が蝦夷征伐のとき,敵主悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)たちがこの窟に柵を構えたとし,のち,田村麻呂が窟前に堂を建て西光寺と号して,鞍馬に模して多聞天(毘沙門天)像を安置した(文治5年(1189)9月28日条)と伝える。《鞍馬寺縁起》に藤原利仁が鞍馬の毘沙門天の加護で下野国の群盗を平定した由が見えるから,《吾妻鏡》の記事は田村麻呂伝承が利仁伝承や鞍馬の毘沙門天信仰とも交渉をもっていたことを示している。《元亨釈書》延鎮伝は田村麻呂が清水寺の勝軍地蔵・勝軍毘沙門の加護により奥州の逆賊高丸を討ったとし,《神道集》巻四や《諏方大明神画詞》などは諏訪明神の神徳によって蝦夷の長〈悪事(あくじ)の高丸〉または〈安倍高丸〉を平定したとする。《義経記》巻二に〈坂上田村丸,これ(兵法一巻之書)を読み,悪事の高丸を取り,藤原利仁これを読みて,赤頭の四郎将軍を取る〉と見え,謡曲《田村》は清水観音の加護で鈴鹿山の悪神を退治したとし,同《鈴鹿》は田村麻呂が鈴鹿姫の手引きで赤頭の四郎将軍高丸という鬼神を退治したとする。幸若舞《未来記》に〈坂上の利仁九年三月に(兵法三略之巻を)習ひ敵を鎮め給ひけり。さてその後に田村丸十二年三月に習ひ,奈良坂山のかなつむて,鈴鹿の盗人,かかる逆徒を平げ〉とあり,御伽草子《田村》や《鈴鹿》ではきわめて複雑な物語となる。すなわち,藤原俊重将軍の子俊助が大蛇と契って生まれた子が俊仁で,俊仁は近江国みなれ川の大蛇や陸奥国たか山の悪路王を退治する。俊仁が陸奥国はつせ郡田村郷で賤女と契って生まれた子が田村丸で,元服していなせ五郎阪上俊宗といい,大和国奈良坂のりやうせんという化生の者を討ち,鈴鹿御前と契り,その手引きで鈴鹿山の鬼神大武丸(おおだけまる)を退治するという物語である。御伽草子《立烏帽子(たてえぼし)》は,阪上田村五郎利成が鈴鹿山の化生の女盗立烏帽子の手引きで,その夫阿黒王(あぐろおう)を退治したとする。《田村》と同工の物語に奥浄瑠璃《三代田村》があり,地名などに地方色が濃く出ている。
東北地方には延暦・大同年間(782-810)に田村麻呂が創建したと伝える寺社がきわめて多い。なかでも観音堂にそれが多く,神社・毘沙門堂がこれに次いでいるが,それらの縁起はたいてい切畑山の悪路王,大石嶽の大石丸,米木山の大滝丸などの鬼神退治譚を伴っている。これらからすると,この伝承は清水寺や鞍馬の毘沙門天の信仰が東北地方にひろまる過程で,地方の山岳信仰と結びついて形成されていたものと考えられる。日本には祇園武塔天神の悪王子のように悪霊鬼神を若宮・末社などとして神にまつり,本社の大神に祈願して,その力で悪霊鬼神のたたりを防ごうとする風習があり,悪路王伝説にもこのような考えがその背景に隠されていると考えられている。また悪路王のアクは,アコヤ・アコオウ(ともに景清伝説に登場する遊女の名)にも系統を引く語で,本来,神婚譚,神誕生のわざおぎに参与した巫女の名ではなかったかと推定され(柳田国男説),立烏帽子という名にも巫女の介在を思わせる。いずれにせよ,田村麻呂伝説の発展と展開の背景には村落生活と関連させながら,神の恩寵を説く遊行の宗教者の活動があったものと思われる。また,《日本後紀》などに,田村麻呂は死後,勅命によって立ちながら甲冑兵仗を帯して葬られたと伝え,早くから国家に非常のあるときには鳴動すると考えられていた(《田邑麻呂伝記》など)。その塚は,平安開京にあたって皇城鎮護のために土偶を埋めた東山の将軍塚(《平家物語》など)と混交され,田村麻呂の塚とされる将軍塚は各地にある。この伝承は賽(さい)の神的な色彩を有しているが,同音の勝軍地蔵の信仰ともあいまって,その伝承の流布には愛宕聖の活躍や陰陽の徒の力もあずかったものと考えられている。
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