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  11. 足利義政
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
足利義政
あしかがよしまさ
一四三五 - 九〇
室町幕府第八代将軍。一四四九―七三在職。六代将軍義教の子で七代将軍義勝の同母弟。永享七年(一四三五)正月二日誕生。幼名三春。嘉吉三年(一四四三)七月義勝の死後、八歳で家督を嗣ぎ文安三年(一四四六)十二月十三日後花園天皇から名を義成(よししげ)と賜わり、同月十五日従五位上に叙す。文安五年十二月二十六日左馬頭。宝徳元年(一四四九)四月十六日元服。同月二十九日征夷大将軍、同日判始。同年八月二十七日参議、左近衛中将、従四位下に叙任。享徳二年(一四五三)六月十三日義政と改名、寛正元年(一四六〇)八月二十七日左大臣に昇進し、同五年十一月二十八日三宮に准ぜられた。彼は当初管領畠山持国らの補佐のもとに政治に励もうとしたが、生来意志弱く、みずからが強力守護大名らの傀儡にすぎぬことを知り、かつ側室大館氏(今参局)・妻日野富子とその兄日野勝光・近臣伊勢貞親らに控制されて不如意であったため政治に嫌気がさし、幕府財政の窮乏や寛正の大飢饉などの災禍をも顧みず、盛んに土木を興し、社寺詣で・遊山・酒宴などの栄華風流の生活に耽溺した。そしてさらに自由な生活を享受しようとして隠居の志をもち、二十九歳の寛正五年に弟の浄土寺義尋を還俗させて義視と改名させ、彼を後嗣と定めた。ところがその翌年に妻富子が実子義尚を生み、これを家督に立てようと画策し、これが折から激化しつつあった細川勝元と山名宗全(持豊)の勢力争いと結びつき、ついに応仁の乱が勃発するに至った。義政は将軍としての統制力も責任感も乏しく大乱の推移を傍観するだけで、乱中の文明五年(一四七三)十二月、将軍職を義尚に譲り風流の生活に逃避した。そして同十五年かねての願望を達して京都の東山に山荘を構築してこれに移り、東山殿と称された。ついで同十七年月翁周鏡を戒師とし禅宗の儀によって剃髪得度し、山荘内に阿弥陀堂を建てて東求堂と名づけ、さらに二層の観音殿、世にいう銀閣を造建した。なお延徳元年(一四八九)、将軍義尚が江州征伐の陣中において病没したので、義政は再び政務をみたが、翌二年正月七日さびしく五十六年の生涯を終った。法号を慈照院喜山道慶といい太政大臣を追贈された。墓は京都市上京区の相国寺にある。義政時代の室町幕府はすでに鬱積する矛盾のため崩壊にひんしていたのであり、義政個人の力ではその頽勢挽回はいかんともしがたかったのではあるが、それにしても応仁の乱の勃発とその傍観、土一揆の要求に押されての徳政令の発布、幕府財政の窮乏と民衆の窮状を無視しての奢侈生活、またその費用拈出のための対明卑屈外交など、義政の政治は失政の連続であった。しかし彼が生来文化を愛好し文化人や芸能人を重んじ、趣味風流の生活を送り、加えて折から前代以来の禅宗に付随した文化が成熟し、大陸の文物が流入したため、乱世にもかかわらず、この時代には独自の性格をもつ文化、世にいう東山文化が栄えた。すなわち義政が禅僧を外交・文化の顧問として重用し、その文化的教養を高く評価したことも一因として作用して、五山文学が栄え宋学が流行し、東山山荘その他を造営したことが刺激となって、建築技術が進歩し書院造が発生し、ことに彼が庭園に執心し河原者善阿弥らを寵用し自由に手腕をふるわせたので造庭術が大いに進歩した。またそれらの殿館の襖や屏風に小栗宗湛・狩野正信らをして描かせたので、宋元風水墨画を中心とした新画風が勃興し、他方、猿楽の能を愛好して音阿弥を保護し、京都糺河原の勧進猿楽などをみずから見物したので、前代以来興隆しつつあった能楽がいよいよ隆盛になった。彼はまた書画骨董を愛し能阿弥らをして書院飾りを工夫させ、これが機縁となって生け花がおこり、かつ唐様で貴族的で芸術鑑賞を中心にした書院の茶が成立し、村田珠光がわび茶を創始する上の重要な階梯となった。なお彼は禅儀によって出家し禅僧と交わり禅宗文化に関心をよせたが、東山山荘の中核である東求堂が阿弥陀堂であったことが示すように、彼の宗教生活の実体は浄土教に大きく傾斜したものであった。この事実は彼の将軍としての生活が公家的なものであったこととともに、東山文化の性格を考察する上に看過してならないことである。→応仁・文明の乱(おうにん・ぶんめいのらん),→東山文化(ひがしやまぶんか),→日野富子(ひのとみこ)
[参考文献]
森末義彰『東山時代とその文化』、外山英策『室町時代庭園史』、芳賀幸四郎『東山文化』(『塙選書』二〇)、同「足利義政の宗教生活と世界観」(『東山文化の研究』所収)、同「将軍義政と河原者善阿弥」(同所収)
(芳賀 幸四郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)
足利義政
あしかがよしまさ
[1436―1490]

室町幕府第8代将軍。義教(よしのり)の子。永享(えいきょう)8年正月2日生まれ。1443年(嘉吉3)7月21日兄の義勝(よしかつ)が死去したことにより後嗣(こうし)となる。最初義成(よししげ)と称して1449年(宝徳1)4月元服、4月29日征夷(せいい)大将軍を宣下(せんげ)される。1453年(享徳2)6月13日義政と改名。極官は従(じゅ)一位、左大臣、准三宮(じゅさんぐう)。贈太政大臣(だいじょうだいじん)。1473年(文明5)12月将軍職を子義尚(よしひさ)に譲り隠居。義政は8歳で家督を継いだが、幕府の主導権は畠山持国(はたけやまもちくに)、細川勝元(かつもと)、山名持豊(やまなもちとよ)らの宿老が握り、嘉吉(かきつ)の乱(1441)以来の危機的な状況を乗り切ろうとする宿老中心の政治体制であった。義政時代の初期には奉公衆の充実を図るため将軍直轄軍を整備するなど、将軍権力の強化に意を注いだ。しかし、この期における政治的、社会的矛盾の激化は幕府支配体制の根本を揺さぶり始めていた。中央政界では幕府権力を支える守護家内部に内紛が噴出し、家督をめぐる抗争が続発し始める。この内紛は管領(かんれい)家である畠山、斯波(しば)の両家にも及び、重大な情勢となっていく。そもそもこのような争いは領国内の国人(こくじん)が領国内における自己の主導権を確立しようとして起こすことが多く、地方においても国人相互の対立があらわになり、自立的動きをみせ始めてきていることを示している。また各地に民衆が徳政を求めて蜂起(ほうき)し、徳政一揆(いっき)が頻発していた。さらに1459年(長禄3)以後、寛正(かんしょう)の大飢饉(ききん)とよばれる飢饉が起こり、疫病と飢餓が蔓延(まんえん)していた。中央、地方の区別なく政治的社会的混乱が深まりつつあるとき、義政はこのような状況をも顧みず、猿楽(さるがく)、遊山、酒宴などの遊興に身をゆだね、そのためにあらゆる機会をつかんで収奪を強行した。このような情勢のなかで分裂は将軍家にも現れた。義政は1464年(寛正5)弟の浄土寺門跡義尋(ぎじん)を義視(よしみ)と名のらせ後嗣としたのであるが、翌1465年夫人の日野富子が義尚(よしひさ)を産んだため、富子と義視との間に争いが起こり、細川勝元と山名宗全(そうぜん)の幕府内部における勢力争いと結び付き、さらに斯波、畠山の内紛も加わって、幕府を二分する応仁(おうにん)の乱が勃発(ぼっぱつ)したのである。乱の最中、義政は将軍職を義尚に譲り逃避の風流生活に入った。京都の東山(ひがしやま)に山荘を造営し、義満の金閣に擬した銀閣を建て、1483年(文明15)ここに移り住んだ。この時期、禅宗の影響を強く受けた水墨画、茶、連歌、能、いけ花など、高い価値をもった文化が開花した。この文化を一般に東山文化とよんでいる。延徳(えんとく)2年正月7日没。法号は慈照院道慶喜山(じしょういんどうけいきざん)。
[伊藤喜良]



世界大百科事典
足利義政
あしかがよしまさ
1436-90(永享8-延徳2)

室町幕府8代将軍。1449-73年(宝徳1-文明5)在職。6代将軍義教の子,7代将軍義勝の同母弟。母は日野重光の女重子。1441年(嘉吉1)いわゆる嘉吉の乱で義教が横死し,ついで43年義勝も夭死したため家督を継ぐ。46年(文安3)後花園天皇から義成(よししげ)と命名される。49年15歳で元服,征夷大将軍となる。53年(享徳2)義政と改名。60年(寛正1)左大臣,64年准三宮となる。征夷大将軍就任のとき判始の儀式を行ったが,実際に御判御教書を発給するのは1455年ころからである。しかし実権を握り庶政をみたのは管領や山名氏など有力大名と政所執事伊勢氏であった。57年ころよりは伊勢氏の支持によって将軍勢力が強まり,伊勢貞親主導による守護大名抑制政策が行われたが,その過程で畠山・斯波家内の相続争いが利用され,応仁・文明の乱の一因となった。義政は政治力がなく,頼みの伊勢貞親が66年(文正1)大名らの反発により失脚すると,政治収拾は困難となり応仁の乱に突入した。これより先1464年(寛正5)義政は僧籍にあった弟義尋を還俗させて義視と改名,継嗣に定めたが,翌年室日野富子に実子義尚が生まれたことから継嗣争いが起こったことと,幕閣における細川勝元と山名持豊(宗全)の対立とが,67年(応仁1)の大乱を決定的にした。山名持豊は義視をむかえて,義政・勝元と対抗した。京都での戦乱は77年(文明9)一応収まったが,戦乱はしだいに地方に広がり全国的規模となった。この間義政は1473年12月子義尚に将軍職を譲り,83年京都東山に山荘を営んでここに移り住み,東山殿と称された。85年月翁周鏡を戒師として剃髪,89年(延徳1)山荘内にいわゆる銀閣を建てた。同年近江に六角氏征伐のため出陣していた子義尚に先立たれ,政務をみることとなったが,後を追うように翌年1月7日没した。法号は慈照院喜山道慶。義政は,晴天の日には快笑するが,曇雨の日はふきげんであったと伝えられるように,おそらく精神病の気があり,また意志薄弱で移り気であったらしい。このため政治的混迷を深めたが,他方,その現実逃避の性向から,晩年政治を遠ざかって宗教や芸術に没頭したため,わび・さびを特色とする東山文化が栄える因をなした。
[百瀬 今朝雄]

[索引語]
足利義成 伊勢貞親 東山殿
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室町幕府第八代将軍。義教の子。初名義成(よししげ)。文安六年(一四四九)四月、嘉吉三年(一四四三)義勝の早世以後空位であった将軍職を継承した。宝徳二年(一四五〇 ...
6. あしかがよしまさ【足利義政】画像
国史大辞典
時代とその文化』、外山英策『室町時代庭園史』、芳賀幸四郎『東山文化』(『塙選書』二〇)、同「足利義政の宗教生活と世界観」(『東山文化の研究』所収)、同「将軍義政 ...
7. あしかが-よしまさ【足利義政】
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1435−1490 室町幕府8代将軍。在職1449-74*。永享7年1月2日生まれ。足利義教(よしのり)の子。母は日野重子(しげこ)。文安6年将軍職につくが,畠 ...
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9. 足利義政營別業於東山 (見出し語:足利義政)
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10. 足利義政好茶 (見出し語:足利義政)
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11. 足利義政定茶式 (見出し語:足利義政)
古事類苑
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12. 足利義政得度 (見出し語:足利義政)
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24. あかつかごう【赤塚郷】東京都:板橋区
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関東管領上杉氏や太田道灌の計らいによって赤塚郷に入部することになる(寛正元年四月一九日「足利義政御判御教書写」・同三年四月二三日「足利義政御内書案」御内書案など ...
25. あかまつまさのり【赤松政則】画像
国史大辞典
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26. あかみむら【赤見村】栃木県:佐野市
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27. あきまちむら【秋町村】広島県:三次市
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28. あきもりきょうき【在盛〓記】
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このうち文明十三年は在盛死後の年である。全体を通じて陰陽家としての日時勘文の全文が多く掲げられ、それも足利義政のためのものが多くて、その動静を知るのによい史料で ...
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30. 朝倉孝景画像
日本大百科全書
当初西軍斯波義廉(よしかど)に従い、東軍の斯波義敏(よしとし)を攻めるなど西軍の猛将として活躍したが、将軍足利義政(あしかがよしまさ)、管領(かんれい)細川勝元 ...
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義敏が守護となった。敏景はこの義敏の一字をもらったとされるのである。ところが堀江石見守に擁せられた義敏は、将軍足利義政の支持する甲斐常治・朝倉孝景と対立した。長 ...
32. あさくらたかかげ【朝倉孝景】 : 朝倉孝景/(一)
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33. あさごえのしょう【浅越庄】岡山県:岡山市/旧西大寺市地区
日本歴史地名大系
金剛院領として安堵、しかし応仁・文明の乱で不知行地と化し、文明一〇年(一四七八)五月二八日の足利義政御教書(同文書)で同院へ返付されている。同一二年一二月五日の ...
34. あさごのしょう【朝来庄】兵庫県:朝来郡/山東町
日本歴史地名大系
などとともに安堵され、次いで応永三二年八月二八日に足利義持、長禄三年(一四五九)六月二一日に足利義政からも安堵されている。明応八年(一四九九)一一月一九日の久下 ...
35. あさじむら【浅地村】富山県:小矢部市
日本歴史地名大系
射水郡小泉城(現大門町)城主桃井播磨守の病悩祈願に際しての霊験により、社領として一五貫文の山林地を寄進された。足利義政も祈願所とし、太刀一振を寄進。天正年間(一 ...
36. あさばのしょう【浅羽庄】静岡県:磐田郡/浅羽町
日本歴史地名大系
蔭山貞広請文」同文書)が代官職を請負っている。また前掲文明一四年の請文によると、今御所領から足利義政と日野富子の間に生れた南御所の所領となっていたことがわかる。 ...
37. あしかが-まさとも【足利政知】
日本人名大辞典
1435−1491 室町時代の武将。永享7年生まれ。足利義教(よしのり)の3男。足利義政(よしまさ)の弟。出家して京都天竜寺香厳院にいたが,長禄(ちょうろく)元 ...
38. 足利義材・足利義尹・足利義稙
日本史年表
,美濃より上洛(宣胤卿記)。 1489年〈延徳元(8・21) 己酉〉 10・22 足利義視・義材,足利義政と対面(蔭凉軒)。 1490年〈延徳2 庚戌⑧〉 1・ ...
39. あしかがよしずみ【足利義澄】画像
国史大辞典
文明十二年(一四八〇)十二月十五日、足利政知の第二子として伊豆に生まる。母は武者小路隆光の女。同十七年十二月足利義政は義澄を天竜寺香厳院の後嗣と定めた。長享元年 ...
40. あしかがよしたね【足利義稙】画像
国史大辞典
文正元年(一四六六)七月三十日(一説二十九日)美濃太郎邑に誕生。父は足利義視。母は裏松政光女。足利義政の没後その室日野富子に擁立され、延徳二年(一四九〇)七月五 ...
41. 足利義尚画像
日本大百科全書
まま就位したが、その治世の前半は、生母日野富子、外戚(がいせき)日野勝光(かつみつ)、大御所足利義政らが実権を握り、傀儡(かいらい)的存在であった。1483年( ...
42. あしかが-よしひさ【足利義尚】
日本人名大辞典
1465−1489 室町幕府9代将軍。在職1474*-89。寛正(かんしょう)6年11月23日生まれ。足利義政の長男。母は日野富子。8代将軍義政が後継を弟義視( ...
43. 足利義尚・足利義熙
日本史年表
義政夫妻・義尚,赤松政則第に御成(蜷川親元日記)。 1482年〈文明14 壬寅⑦〉 7・13 足利義政 ,義尚に政務を執らせる(雑事記)。 1484年〈文明16 ...
44. あすかいまさちか【飛鳥井雅親】
国史大辞典
私邸和歌所と資料は焼失し撰修の業は中絶した。乱を近江柏木郷に避けたので柏木殿と呼ばれた。将軍足利義政や義尚の歌鞠師範で、また三条西実隆や姉小路基綱などの公家や、 ...
45. あすかいりゅう【飛鳥井流】
国史大辞典
はじめとして三十人の名を掲げている。公卿・武家・僧侶・連歌師など広い層に迎えられたらしく、ことに足利義政や細川幽斎が、この流の名手として高名であったことは面白い ...
46. あそうごう【麻生郷】大阪府:貝塚市
日本歴史地名大系
同九年四月一〇日条)。文明一六年七月一三日、幕府は畠山成清に対して麻生郷知行を命じており(「足利義政御判御教書案」蜷川家古文書)、麻生郷は当時幕府御料所であった ...
47. あそうのしよう【麻生庄】福岡県:北九州市(旧筑前域)
日本歴史地名大系
考えられる。康正元年(一四五五)には弘家から弘国への伝領が安堵されているが(同年一一月一九日足利義政袖判御教書)、応仁・文明の乱で麻生上総入道(弘家)が大内政弘 ...
48. あつたじんぐう【熱田神宮】愛知県:名古屋市/熱田区/宮宿
日本歴史地名大系
「来国俊」の銘と正和五年(一三一六)一一月の年紀がある。古神宝類 長禄二年の遷宮にあたり、将軍足利義政が奉納したといわれるもので、男神の御衣三領、女神の御衣二領 ...
49. あべやま【安部山】静岡県:静岡市/旧安倍郡地区
日本歴史地名大系
方策を記している。同年七月二〇日条・二二日条には、当地を守護今川範忠に預けることを命じる将軍足利義政御判御教書のことが記されている。のち狩野氏は安倍山の奥から遠 ...
50. あまみ【奄美】鹿児島県:総論
日本歴史地名大系
勝利したという(「李朝実録」成宗二四年六月条)。すでに文正元年(一四六六)琉球使節が室町将軍足利義政に謁見しており(「親基日記」同年七月二八日条)、天順二年(一 ...
「足利義政」の情報だけではなく、「足利義政」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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連歌(小学館 全文全訳古語辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
〔名詞〕短歌の上の句(五七五)と下の句(七七)とを、二人が応答してよむ詩歌の一種。平安時代に発生し、はじめは、二人の唱和で一首とする「短連歌」であったが、中世以降、二人以上(時には一人)で、五七五と七七の句を交互に長く続ける「長連歌」
俳諧集(新編 日本古典文学全集)
俳諧集(扉) 哥いづれの巻(貞徳翁独吟百韻自註)(扉) 作品解説・作者解説 哥いづれ小町おどりや伊勢踊 紅梅やの巻(紅梅千句)(扉) 作品解説・作者解説 梅 第一 蚊柱はの巻(蚊柱百句)(扉) 作品解説・作者解説 そもそもいきとしいけるもの
吉田茂(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八五 - 一九五四 大正・昭和時代の内務官僚、政治家。明治十八年(一八八五)九月二日大分県北海部郡臼杵町(臼杵市)に生まれる。父は銀行員。父の転勤により上京。同四十四年東京帝国大学法科大学独法科卒業。内務省に入り地方官を経て神社局第二課長、同第一課長を歴任
マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八八〇 - 一九六四 アメリカ合衆国軍人、日本占領連合国最高司令官(昭和二十年(一九四五)―二十六年)。一八八〇年一月二十六日アーカンソー州リトル=ロックに生まれる。父親アーサー=マッカーサーは陸軍中将。一九〇三年陸軍士官学校卒業後
山本五十六(日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
[1884―1943]昭和期の海軍軍人。明治17年4月4日新潟県生まれ。海軍兵学校32期、海軍大学校14期卒業。第一次世界大戦後の3回にわたる在米勤務ののち、いち早く航空機の将来性に着目。1930年(昭和5)航空本部技術部長、1935年航空本部長。航空兵力を主体とした対米迎撃戦を構想し
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