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  11. 鑑真
新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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新版 日本架空伝承人名事典
鑑真
がんじん
688‐763
 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動、「江淮こうわい化主」と尊敬され、得度や受戒をした弟子は四万人といわれた。七三三年(天平五)遣唐使の多治比広成に随行して奈良興福寺の栄叡と普照が入唐。揚州大明寺に鑑真を訪ね、日本へ戒律を伝えるため東航を要請した。弟子らが渡海の危険を訴えると、鑑真は仏法のために「何ぞ身命を惜しまん」と言い、自ら渡航の意思を決然と語った。しかし、鑑真一行の渡海は、暴風による遭難や鑑真の離国を惜しむ者の密告などで五回も挫折。この間一二年、栄叡は死去し、鑑真は両眼を失明した。七五三年に藤原清河を大使とする第一〇回遣唐使が帰国する便に乗船することになった。大使と阿倍仲麻呂が乗った第一船は驩州かんしゅう(現、ベトナム北部のビン付近)まで吹き流されて漂着。地元民と言葉が通じず、乗船者約二〇〇人の大半が殺された。鑑真と副使大伴古麻呂が乗った第二船は、沖縄を経て薩摩国坊津ぼうのつ(現、鹿児島県南さつま市)に漂着。なお、普照と副使吉備真備きびのまきびの第三船は現在の和歌山県白浜町に漂着した。鑑真が第二船に乗ったのは、時の皇帝玄宗が鑑真の才能を惜しんで渡海を許さず、大使藤原清河は鑑真の乗船を拒否。そのため副使大伴古麻呂が密かに乗船させたためである。七五四年(天平勝宝六)一月、平城京に到着した鑑真は、聖武上皇・孝謙天皇以下の歓待を受けた。奈良東大寺大仏殿前に戒壇を設け、上皇から僧尼まで四〇〇人に菩薩戒を授け、以後戒律制度が急速に整備されていった。七五九年(天平宝字三)新田部親王の旧宅跡を朝廷から譲り受け、唐招提寺を創建。七六三年五月、同寺で七六歳の生涯を閉じた。
 近年の研究では、鑑真の失明は完全失明ではなく、視力残存失明であったらしいということが、「鑑真書状」を研究する過程で明らかになってきた。鑑真は『一切経』の校正にあたっており、多くの誤字の訂正を行っている事実が、このことを物語っている。唐招提寺に残る国宝の鑑真像は、日本最古の肖像座像とされる。鑑真の死の前年の春、弟子の忍基は講堂の梁が折れるのを夢に見て、鑑真の死期が近いことを悟り、その肖像(乾漆像)を造り始めたという。なお、芭蕉の「若葉して御目の雫ぬぐはばや」の句は、鑑真の座像を拝してのものである。鑑真が住職を務めた中国の大明寺は、一九六六年に文化大革命によって破壊されかかったが、周恩来首相の指示により閉鎖で事無きを得た。八〇年に唐招提寺の鑑真座像が「里帰り」するにあたり、法浄寺と変更されていた寺名が大明寺に戻され、拝観のため二一万人が訪れた。
[安宅 夏夫]


日本大百科全書(ニッポニカ)
鑑真
がんじん
[687―763]

中国唐代の僧。日本の律宗(りっしゅう)の祖。過海(かかい)大師、唐大和上(とうだいわじょう)などと尊称される。揚州(江蘇(こうそ)省)の人。俗姓は淳于(じゅんう)。揚州大雲寺の智満(ちまん)について出家、南山律(なんざんりつ)の道岸(どうがん)(654―717)によって菩薩戒(ぼさつかい)を受け、その後、長安の実際寺で恒景(こうけい)を戒和上(かいわじょう)として具足戒(ぐそくかい)を受けた。洛陽(らくよう)、長安に住すること5年、その間に三蔵(さんぞう)を学び、道宣(どうせん)の弟子融済(ゆうさい)、満意の門人大亮(たいりょう)らに律学の教えを受け、また天台も兼学した。揚州に帰ったのちは大明寺にあって律を講じ、江准(こうわい)の化主(けしゅ)と仰がれ、その名声はとどろいた。そのころ733年(天平5)に日本僧の栄叡(ようえい)(?―749)、普照(ふしょう)(生没年不詳)が授戒伝律の師を求めて入唐(にっとう)していたが、742年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡って律を伝える人がいないか、募ってもらうよう請うた。それが機縁となり、鑑真は弘法(ぐほう)のため不惜身命(ふしゃくしんみょう)の思いに燃え、自ら弟子を率いて来朝した。来朝まで5回も渡海に失敗し、あるときは同行の僧の密告や弟子の妨害によって未然に終わり、あるときは海に乗り出してから風浪にもてあそばれて難破し、あるときは遠く海南島に流される労苦を味わい、12年の歳月を要して来朝した。その間、栄叡や弟子祥彦(しょうげん)の死に会い、自らも失明するに至っており、海路、陸上の旅で世を去ったもの36人、望みを放棄して彼のもとを去ったもの200余人に及んだ。しかし渡海の失敗が重なる間も、鑑真は各地で伝道教化(きょうげ)に励んだ。鑑真の伝記には在唐中の活動が総括されており、百数十遍の各種律典を講じ、寺舎を建立し、十方(じっぽう)の衆僧を供養し、さらに、仏像をつくること無数、一切経(いっさいきょう)を書写すること30部、戒を授けること4万有余に及んだ、と伝える。
 753年(天平勝宝5)薩摩(さつま)(鹿児島県)坊津(ぼうのつ)に到着、翌754年入京した。聖武(しょうむ)上皇はその労をねぎらい、詔(みことのり)して鑑真に授戒伝律の権限を委任し、自ら鑑真を戒師として東大寺大仏の前で登壇受戒した。また従来の僧も旧戒を捨てて受戒し、ここに、かつて日本で行われたことのない10人の僧による三師七証(さんししちしょう)の受戒が成立した。翌755年には戒壇院(かいだんいん)もつくられ、それまでの度牒(どちょう)にかわって戒牒(かいちょう)を授ける制度が確立された。上皇崩御(ほうぎょ)後の756年(天平勝宝8)には大僧都(だいそうず)に任じられたが、老齢のためその任を解かれ、戒律の教導に専念することとなり、大和上(だいわじょう)の称が与えられた。759年(天平宝字3)、かねて与えられていた新田部(にいたべ)親王の旧宅をもって寺とし、これを唐招提寺(とうしょうだいじ)と称し、戒律研鑽(けんさん)の道場として衆僧に開放する制をたてた。また官寺における布薩(ふさつ)のための経済的裏づけを行うことと相まって、仏教の協同体意識を養い、いわゆる教団(僧伽(そうぎゃ)、サンガ)が初めて名実ともに確立するに至った。彼が将来したもののうち、天台典籍(てんせき)はのちに最澄(さいちょう)の天台宗開創の基盤となり、王羲之(おうぎし)父子の真蹟(しんせき)は書道の興隆に多大の影響を与えた。ともに来朝した弟子に法進(はっしん)(709―778)、思託(したく)(生没年不詳)などがあり、法進は戒壇院を継ぎ、思託は鑑真の伝記『大唐伝戒師僧名記大和上鑑真伝』(略称『大和上伝』)3巻を書いた。この書は現存しないが、これを略述した真人元開(まひとげんかい)(淡海三船(おうみのみふね))の『東征伝』1巻が現存する。鑑真の墓所は唐招提寺にあり、開山堂には国宝の鑑真像を安置する。
[石田瑞麿]2017年1月19日



世界大百科事典
鑑真
がんじん
688-769

中国,唐代の高僧,日本律宗の開祖。中国の楊州江陽県の生れで,春秋時代の斉国の名士淳于〓(こん)の後裔と伝える。中国の南山律宗の開祖道宣の高弟道岸(654-717)より菩薩戒を,長安の実際寺で弘景から具足戒を受け,その後,諸宗を学び江淮の地で戒律の講義や授戒を行い,あるいは古寺修理,一切経を書写するなど,諸州屈指の伝戒師として信望があつかった。中国仏教界では,登壇受戒して具足戒をうけねば僧尼と認められず,受戒は出家の出発を約する重要な正門であった。日本では平城京遷都以後,仏教隆盛と並行して,僧尼令に違反する僧尼や,勝手に僧尼となる私度僧が群出するようになり,律令政府として唐の授戒制度や戒律研究の必要性を痛感するに至り,733年(天平5)の遣唐使派遣の際に,僧栄叡(ようえい),普照,玄朗などが,舎人親王の要請で入唐求法し,伝戒師の招請にあたった。この要請に応じて,736年に来航したのが,インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)や唐僧道璿(どうせん)であったが,授戒には少なくとも三師七証の10僧を必要としたため,さらに諸州を巡り,揚州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願した。鑑真一行の渡航は5回企てられたが,師僧の出国を願わぬ弟子などの妨害と難破で失敗し,栄叡や補佐役の祥彦も病没,自身も視力を失うなど,幾多の辛酸をなめた。しかし伝戒の素志をひるがえすことなく,第10次遣唐船の帰国に際し,副使大伴古麻呂の第2船に乗って,ひそかに出国し,753年(天平勝宝5)12月に折からの暴風波浪をしのいで,薩摩国秋妻屋浦(現鹿児島県南さつま市,旧坊津町)に入港した。翌年2月に弟子法進,曇静,義静,思託や,日本僧普照,延慶などにともなわれて,待望の平城京に入り,東大寺大仏を拝し,客坊に止住した。この間,日本では前後12年,6回目の航海で渡来した鑑真に対する信望と帰依は異常なほどで,高官・高僧らは自身あるいは使者を送って労をねぎらい,勅使吉備真備も〈自今以後,授戒伝律はもはら大和尚にまかす〉という孝謙天皇の意向を伝えた。4月には大仏殿前に臨設の戒壇を築き,聖武上皇などに菩薩戒を授け,その後大仏殿西方に戒壇院を設立し,登壇授戒の制が整った。756年に大僧都に任ぜられ,仏教界を統べる僧綱の重職にあったが,彼の身をいとった孝謙天皇は僧綱を解き,鑑真は故新田部親王の旧宅地に唐招提寺を建立した。招提とは私寺の意味である。

 鑑真により伝えられた戒律思想は,三戒壇の成立によって授戒制度が整備され,天平仏教に点睛を加え,将来した天台関係の論著は,平安時代仏教にも影響を与えた。伝律持戒に殉じた非凡な人物であっただけに,宮廷のあつい信頼や,藤原仲麻呂,石上宅嗣,淡海三船などの帰依を得て,また弟子法進,思託,恵雲,如宝なども多大の功績をのこしている。現在唐招提寺に伝わる鑑真像は,没前の姿を伝えている。
[堀池 春峰]

[索引語]
戒壇
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1. 鑑眞(かんしん)
古事類苑
宗教部 洋巻 第2巻 532ページ ...
2. 鑑真
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求めて入唐(にっとう)していたが、742年に二人が鑑真を訪れ、弟子のなかに日本に渡って律を伝える人がいないか、募ってもらうよう請うた。それが機縁となり、鑑真は弘 ...
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には少なくとも三師七証の10僧を必要としたため,さらに諸州を巡り,揚州大明寺の鑑真に日本への渡航を懇願した。鑑真一行の渡航は5回企てられたが,師僧の出国を願わぬ ...
4. がんじん【鑑真】
日本国語大辞典
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5. がんじん【鑑真】画像
国史大辞典
戒律の普及に尽くし、思託は鑑真のために『大和尚広伝』や『延暦僧録』を編著し、鑑真とともに古代国家の要望に応えたといってよい。 [参考文献]『唐大和上東征伝』、安 ...
6. 鑑真
日本史年表
754年〈天平勝宝6 甲午〉 1・16 遣唐副使 大伴古麻呂 、唐僧 鑑真 ・ 法進 らを伴い帰国(続紀)。 754年〈天平勝宝6 甲午〉 4・‐ 鑑真 、東大 ...
7. がんじん【鑑真】
日本人名大辞典
688−763 唐(とう)(中国)の僧。嗣聖5年生まれ。日本律宗の開祖。「授戒の大師」と称され,揚州の大明寺で律を講じる。唐にわたった栄叡(えいえい),普照(ふ ...
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9. 鑑真[文献目録]
日本人物文献目録
大久保道舟『鑑真大和上東征の意義』堀池春峰『鑑真と医薬学』森鹿三『鑑真特集』-『鑑真と弘法』褚民誼『鑑真とその周辺』小野勝年『鑑真と唐招提寺』北川桃雄『鑑真につ ...
10. 【鑑真(眞)】がんじん
新選漢和辞典Web版
人名。奈良(なら)時代、唐(とう)から帰化した名僧。わが国に律宗(りっしゅう)を伝え、のち唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建した。(六八八~七六三)  ...
11. 鑑眞傳戒律 (見出し語:鑑眞)
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12. 鑑眞傳戒律 (見出し語:鑑眞)
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宗教部 洋巻 第2巻 620ページ ...
13. 鑑眞爲唐招堤寺開山 (見出し語:鑑眞)
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14. 鑑真自署[図版]画像
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15. がんじんわじょう‐ざぞう[ガンジンワジャウザザウ]【鑑真和上坐像】
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奈良の唐招提寺にある鑑真の肖像。天平彫刻の代表的なもの。国宝。 ...
16. がんじんわじょうぞう【鑑真和上像】 : 唐招提寺
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17. 鑑真和上三異事(著作ID:144627)
新日本古典籍データベース
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18. 唐大和上東征伝(著作ID:1477970)
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とうだいわじょうとうせいでん 鑑真過海大師東征伝 鑑真和尚東征伝 法務贈大僧正唐鑑真過海大師東征伝 過海大師東征伝 鑑真大和尚伝 東征伝 東行伝筌 淡海三船(お ...
19. がんじんかかいだいしとうせいでん【鑑真過海大師東征伝】
国史大辞典
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20. がんじんわじょうとうせいえでん【鑑真和上東征絵伝】
国史大辞典
⇒東征絵伝(とうせいえでん)  ...
21. あいだぐん【英田郡】岡山県
日本歴史地名大系
が本坊となった。英田町真神の真言宗御室派長福寺は、天平宝字元年(七五七)孝謙天皇の勅願所として鑑真が開山したと伝える。弘安八年(一二八五)円源によって再興され、 ...
22. あきめうら【秋目浦】鹿児島県:川辺郡/坊津町/秋目村
日本歴史地名大系
五千円(無利子・満三〇年賦)の拝借を鹿児島県令に訴えており、秋目漁民の漁への執念が感じられる。鑑真記念館の近くに宮内平蔵記念碑と女島遭難者慰霊碑がある。後者は明 ...
23. あきめむら【秋目村】鹿児島県:川辺郡/坊津町
日本歴史地名大系
南下して久志村に至る往還道が走る。奈良時代に奈良唐招提寺を建立した唐僧鑑真の上陸地とされ、中世には加世田別符のうちに含まれた。「唐大和上東征伝」によれば、鑑真の ...
24. あすかべおう【安宿王】
国史大辞典
そのため長屋王の変で、罪を免れた。天平九年(七三七)従五位下。玄蕃頭・治部卿・中務大輔・播磨守兼迎鑑真勅使・内匠頭・讃岐守を歴任。天平宝字元年(七五七)七月、橘 ...
25. あたぐん【阿多郡】鹿児島県:薩摩国
日本歴史地名大系
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26. 穴太寺
日本大百科全書
705年(慶雲2)左大弁大伴古麻呂(おおとものこまろ)の開創と伝える。古麻呂はのちに遣唐副使として、鑑真(がんじん)一行を自分の船に乗せ、来日させた人物である。 ...
27. 阿倍仲麻呂画像
日本大百科全書
左補闕(さほけつ)、儀王友(ぎおうゆう)となる。753年(天平勝宝5)遣唐大使藤原清河(きよかわ)とともに僧鑑真(がんじん)に会い、その渡日を要請し、自らも帰国 ...
28. 阿倍仲麻呂
世界大百科事典
)の友に任ぜられた。752年,入唐した遣唐使藤原清河,吉備真備らと帰国することを願い出て許可され,鑑真(がんじん)一行らをも伴って蘇州より出航したが,仲麻呂の乗 ...
29. あべのなかまろ【阿倍仲麻呂】
国史大辞典
仲麻呂の進言による渤海路をとって十一年に帰朝している。天平勝宝五年(七五三)遣唐大使藤原清河とともに僧鑑真の渡日を要請し、ともに帰国を志したが失敗した。その後玄 ...
30. あべの-なかまろ【阿倍仲麻呂】
日本人名大辞典
安南都護などを歴任。その間李白(りはく),王維らの文人とも交遊。遣唐使藤原清河(きよかわ)らと鑑真に来日を要請,みずからも帰国しようとしたが失敗,日本にはついに ...
31. あんどう-こうせい【安藤更生】
日本人名大辞典
昭和45年10月26日死去。70歳。東京出身。東京外国語学校(現東京外大)卒。本名は正輝。著作に「鑑真大和上伝之研究」「日本のミイラ」など。 ...
32. 医学
世界大百科事典
この仙薬は,金,銀,水銀,ヒ素などの重金属を主成分とするもので,用量をすぎれば,かえって寿命を縮める結果になる。鑑真が来日して名声を得た理由の一つには,彼の医学 ...
33. いがく【医学】
国史大辞典
る。また正倉院には奈良時代の薬物が多数に現存しており、天平勝宝六年(七五四)に来朝した唐の名僧鑑真は医薬にも精通していて、日本人にそれを講じたといわれる。今日に ...
34. い‐ごう[ヰガウ]【位号】
日本国語大辞典
官名位号〓」*遣唐船〔1936〕〈高木卓〉九「鑑真が伝燈大法師の位号を以て東大寺から迎へられるや」*漢書‐元后伝論「位号已移 ...
35. 医者
世界大百科事典
もっぱらとしていたから,一般の救療事業は僧医にゆだねられていた。754年(天平勝宝6)に渡来した唐の仏僧鑑真の救療活動や医学教育はその典型である。この傾向は武家 ...
36. 宇治拾遺物語 211ページ
日本古典文学全集
本尊は毘沙門天。もとは天台宗で山号は松尾山。現在は、独立して鞍馬弘教総本山。宝亀元年(七七〇)、鑑真の弟子鑑禎の開基とも、延暦十五年(七九六)、藤原伊勢人による ...
37. うちなわじま【阿児奈波島】沖縄県:総論
日本歴史地名大系
鑑真の伝記「唐大和上東征伝」にみえる島名。同書によると天宝一二歳(七五三)一一月一六日に四船で蘇州の黄泗浦を出発し、同月二一日に第一船と第二船が同時に「阿児奈波 ...
38. うちわ‐まき[うちは‥]【団扇撒】
日本国語大辞典
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39. えいえい【栄叡】
国史大辞典
その後、空しく十余年を費やし、ついに止むを得ず、帰国を決意して揚州に下ったが、ここで律僧鑑真を訪ね、鑑真以下弟子たちが日本に渡ることとなった。しかし渡海は困難を ...
40. えいえい【栄叡】
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(どうせん)を日本におくることに成功。さらに鑑真を渡海させようとして5度失敗。天平勝宝元年唐の端州竜興寺で客死した。美濃(みの)(岐阜県)出身 ...
41. 栄花物語 474ページ
日本古典文学全集
めに働き、完成後死ぬという類型的な霊異譚。ほかに聖武天皇の東大寺大仏殿建立、重源の大仏殿再建、鑑真の唐の崇福寺建立の際の話などがある。『関寺縁起』によれば、源信 ...
42. えいふくじ【永福寺】千葉県:成田市/飯岡村地図
日本歴史地名大系
本尊は薬師如来。天平宝字七年(七六三)鑑真によって創建されたと伝える。近くに鑑真が居住した跡といわれる唐鑑房や鑑真が持参した唐の竹を植えたと伝える唐竹谷といった ...
43. え‐がく【依学】
仏教語大辞典
1 和上。親教師。 →鄔婆陀那 高僧伝要文抄 三・思託伝 「鑑真和上為受戒依学、在唐得十九年」 2 師について学ぶこと。 守護国界章 下ノ上・一 「此則善知識 ...
44. 江戸繁昌記 3 180ページ
東洋文庫
根本の教義とし、涅槃経と大智度論を傍依とし、禅定と智慧との調和を宗義とする。わが国には、天平勝宝六年唐僧鑑真が来朝してこれを伝えた (四〇)禅宗 わが国では、臨 ...
45. 慧能
日本大百科全書
中国、唐代の僧。中国禅宗の第六祖。俗姓は盧(ろ)氏。諡号(しごう)は大鑑真空普覚円明(だいかんしんくうふかくえんみょう)禅師。六祖(ろくそ)大師ともいわれる。新 ...
46. えん‐き[ヱン‥]【円機】
日本国語大辞典
権機(ごんき)。*日蓮遺文‐下山御消息〔1277〕「唐の揚州龍興寺の鑑真和尚と申せし人、漢土より我朝に法華経天台宗を渡給て有しが、円機未熟とやおぼしけん、此の法 ...
47. 延慶
世界大百科事典
ような地位にあったものか。753年(天平勝宝5)唐僧鑑真が来朝し,翌年入京して東大寺にもうで,良弁と会話した際,延慶が通訳をつとめた。鑑真に大和上位を,思託らそ ...
48. えんけい【延慶】
国史大辞典
天平勝宝五年(七五三)遣唐副使大伴古麻呂の船で薩摩に着いた鑑真を大宰府に案内し(『唐大和上東征伝』)、翌年鑑真の入京・大仏礼拝の際訳語をつとめた(『東大寺要録』 ...
49. えんけい【延慶】
日本人名大辞典
奈良時代の僧。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)5年(753)薩摩(さつま)(鹿児島県)についた鑑真(がんじん)を大宰府に案内し,奈良では通訳をつとめる。藤原仲麻 ...
50. 燕京歳時記 北京年中行事記 86ページ
東洋文庫
信者がこの上にのぼって誓い、これによって僧侶たり真の    信者たることが公認される。日本へ戒壇を伝えたのは鑑真和尚(六八八-七六三)であるが、    中国では ...
「鑑真」の情報だけではなく、「鑑真」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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「鑑真」は日本の歴史に関連のある記事です。
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空海(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
774‐835(宝亀5‐承和2)弘法大師、俗に「お大師さん」と略称する。平安時代初期の僧で日本真言密教の大成者。真言宗の開祖。讃岐国(香川県)多度郡弘田郷に生まれた。生誕の月日は不明であるが、後に不空三蔵(七〇五‐七七四)の生れかわりとする信仰から
最澄(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
767‐822(神護景雲1‐弘仁13)伝教大師。平安初期の僧侶。天台宗の開祖。三津首百枝の子という。幼名は広野。俗姓は三津氏で、帰化人の子といわれる。近江国滋賀郡古市郷(現、滋賀県大津市)の生れ。七七八年(宝亀九)一二歳で近江国分寺の大国師行表
坂上田村麻呂(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
758‐811(天平宝字2‐弘仁2)平安初頭の武将。犬養の孫。苅田麻呂の子。坂上氏は応神朝に渡来したという阿知使主(あちのおみ)を祖先とし大和国高市郡に蟠踞(ばんきょ)した倭(東)漢(やまとのあや)氏の一族で、武術に秀でていた。田村麻呂も
道鏡(新版 日本架空伝承人名事典・国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
?‐772(宝亀3)奈良後期の政治家、僧侶。俗姓弓削連。河内国若江郡(現、八尾市)の人。出自に天智天皇皇子志貴(施基)皇子の王子説と物部守屋子孫説の二説がある。前者は『七大寺年表』『本朝皇胤紹運録』等時代の下る書に見える。後者は『続日本紀』
鑑真(新版 日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
688‐763 中国、唐代の高僧。唐の揚州江陽県の生まれで、揚州の大雲寺で出家し、二〇歳で長安や洛陽の高僧から戒律関係の教理や、律宗・天台宗の教義を学んだ。とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を研究し、南山律宗の継承者として日夜活動
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