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  11. 蘇我入鹿

蘇我入鹿

ジャパンナレッジで閲覧できる『蘇我入鹿』の改訂新版 世界大百科事典・日本大百科全書のサンプルページ

世界大百科事典
蘇我入鹿
そがのいるか
?-645(大化1)

飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は,唐から帰国した新漢人旻(いまきのあやひとみん)の学堂に学んだが,旻から第一級の人物と評価された,と《家伝》は伝えている。642年1月,皇極天皇が即位したころは,入鹿の権勢はすでに父の大臣毛人を凌ぎ,国政を左右するほどであった,という。翌643年10月には,入鹿は父から紫冠を授けられ,大臣の位を認められた。この直後から入鹿らは,聖徳太子の子の大兄山背皇子の上宮王家の討滅を謀りはじめた。山背皇子らは,舒明天皇即位時の紛糾以来まだ即位の望みを捨てず,舒明天皇の死後もその即位が見送られてきたことに不満をつのらせ,大臣毛人や入鹿の政治にさまざまの抵抗を示していたからである。そのため入鹿らは,山背皇子を排し,大兄(おおえ)を蘇我系の古人皇子に代えようとした。11月,入鹿は軽皇子(次の孝徳天皇),巨勢徳太,大伴馬飼らとともに軍をおこし,山背皇子を斑鳩(いかるが)宮に急襲しその一族ことごとくを覆滅した。これを知った毛人は怒り嘆いたという。このあと,入鹿に対する反感が急速に高まり,645年春から難波への遷都も日程に上ってくると,蘇我本宗家討滅計画が中臣鎌子(鎌足),葛城皇子(中大兄)らによってひそかにすすめられた。その結果,6月に,飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で,入鹿は暗殺され,つづいて父毛人も甘檮(あまかし)岡(甘樫丘)の邸に火を放って自殺した。
→乙巳の変(いつしのへん)
[門脇 禎二]

伝承

入鹿が山背大兄王以下の聖徳太子の子孫を滅ぼし,やがて中臣鎌子らによって大極殿に殺されることは《日本書紀》に記されるが,これは《聖徳太子伝暦》の後半部に継承され,以降,主として太子伝の領域で入鹿像が形成される。すでに《書紀》は入鹿を威を振るい王位を奪おうとする逆臣として描き,鎌足や中大兄皇子による謀殺を正当化しているが,その際に入鹿が人となり疑いぶかく昼夜剣をはいていたのを,俳優(わざひと)に戯れさせて解かせたというような物語的要素が含まれている。《伝暦》は中世太子伝のなかでいっそう物語化され,そのなかで入鹿の凡人にあらざる威勢の様と謀叛のはかりごとが強調された。たとえば前者では,入鹿は庭に鳥形を戴いた鉄柱を建てこれを眼力で睨み落としたという邪視の説話がみられ,後者は,法興寺槻樹の下で蹴鞠のとき,中大兄皇子の鞋が脱げたとされているが,これも皇子の足を直接地に踏ませて王位につけなくするはかりごとであるというものである。このときに足を手でうけたのが鎌足であり,入鹿を討つために鎌足が計略をめぐらすことなどが物語られて,入鹿と鎌足の説話は分かちがたく展開していく。その入鹿退治説話は藤原氏のはじまりに関する伝承として,春日社の縁起《春夜神記》を中心に中世に流布し,《旅宿問答》等に記されつつ舞曲《入鹿》として芸能化される。そこで入鹿は逆臣ながら〈大通力の人にて三年(みとせ)の事を兼て知〉る者とされ,鎌足の計略を悟って容易に心を許さない。鎌足は盲目を装って子を火中に落として死なせることにより,ようやく油断させて討つ。首を落とされた入鹿の死体はなお王を害そうとするというが,それは太子伝などに首が幾度も躍りあがったり御簾に食いついたりしたという伝承にもとづく。入鹿と鎌足の相克は,やがて同じく舞曲《大織冠(たいしよかん)》とともに一連の世界として近世に継承され,古浄瑠璃《大織冠魔王合戦(別名入鹿大臣)》を経て《妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)》に至る。そこでは入鹿が典型的な公家悪(くげあく)として造型され,王位を奪い取るために種々の外道の法を行う超人的な悪の化身となって活躍している。つまり入鹿は終始,王権にたいする〓奪(さんだつ)者の典型として形象された。
→藤原鎌足[伝承]
[阿部 泰郎]

[索引語]
蘇我鞍作 藤原鎌足


日本大百科全書(ニッポニカ)
蘇我入鹿
そがのいるか
[?―645]

飛鳥(あすか)時代の高官。蘇我毛人(えみし)(蝦夷)の子。蘇我鞍作(くらつくり)、蘇我林臣(はやしのおみ)鞍作、蘇我太郎、林太郎などとも記された。入鹿を入霞と記すものもある。642年(皇極天皇1)正月、皇極(こうぎょく)天皇の即位したときには入鹿(鞍作)の権勢はすでに父の大臣毛人(蝦夷)をしのぎ国政を左右したと『日本書紀』は記す。しかし藤原家伝によれば、入鹿は唐から帰国した旻(みん)の学堂に出入し、旻から第一級の人物としての評価を受けたと記される。643年10月、入鹿は父の毛人(蝦夷)から紫冠を授けられ大臣の位に擬された。この直後に、入鹿らは、天皇位を望む大兄山背(おおえやましろ)皇子とその一族の覆滅を謀った。これは、舒明(じょめい)天皇即位時の紛争があとを引き、さらに舒明天皇没後にも大兄山背皇子の即位が実現されなかったことが原因となり、山背皇子やその支持勢力が不満を募らせ、彼らが蘇我大臣らの政治にさまざまに抵抗したからである。その結果、翌11月、入鹿、軽(かる)皇子(次の孝徳(こうとく)天皇)、巨勢臣徳太(こせのおみとこだ)、大伴連馬飼(おおとものむらじうまかい)、土師連娑姿(はじのむらじさば)らは軍を起こし、大兄山背皇子とその一族を斑鳩(いかるが)宮に急襲し、これを覆滅した。これを知った父の毛人(蝦夷)は怒り嘆いたという。事件のあと、古人(ふるひと)皇子が大兄とされたが、以後、蘇我本宗家に対する反感が急速に高まり、645年春から難波(なにわ)への遷都も日程に上ってくると、本宗家討滅計画がひそかに進められた。これに対し、毛人、入鹿も甘檮岡(あまかしのおか)に堅固に家を構えて備えた。しかし、645年6月12日、飛鳥板蓋(いたぶき)宮での三韓進調とされる儀式の場で、入鹿は、中臣鎌子(なかとみのかまこ)(鎌足(かまたり))と謀った中大兄(なかのおおえ)皇子、佐伯連子麻呂(さえきのむらじこまろ)らによって暗殺された。
[門脇禎二]

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1. 蘇我入鹿(そがいるか)
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2. 蘇我入鹿画像
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3. 蘇我入鹿
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?-645(大化1) 飛鳥時代の廷臣。蘇我毛人(蝦夷(えみし))の子。名は鞍作(くらつくり)といい,蘇我林臣鞍作,林太郎,蘇我大郎ともいわれた。青年時代の入鹿は ...
4. そが‐の‐いるか【蘇我入鹿】
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5. そがのいるか【蘇我入鹿】
国史大辞典
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6. 蘇我入鹿
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7. 蘇我入鹿(そがのいるか)[考古学]
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8. そがの-いるか【蘇我入鹿】
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9. そがのいるか【蘇我入鹿】
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10. 蘇我入鹿[文献目録]
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11. 蘇我入鹿首塚[百科マルチメディア]画像
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世界大百科事典
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皇極天皇は同天皇二年四月、小墾田宮(現大字豊浦)から飛鳥板蓋の新宮に移った。大化改新の序曲として知られている蘇我入鹿誅滅事件の舞台となった宮である。また孝徳天皇 ...
14. 飛鳥時代画像
日本大百科全書
山背の期待がふたたび裏切られたことで蘇我氏と山背の仲はいっそう険悪となった。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)は山背大兄王一家を斑鳩宮(いかるがのみ ...
15. 飛鳥時代(年表)
日本大百科全書
唐から帰る641(舒明13)舒明天皇没す。蘇我倉山田石川麻呂、山田寺造営開始643(皇極2)蘇我入鹿、蝦夷にかわり大臣となる。入鹿、山背大兄王一家を滅ぼす(上宮 ...
16. 飛鳥寺
世界大百科事典
大兄皇子と中臣鎌足の出会いが有名である。また645年(大化1)の政変(乙巳(いつし)の変)で蘇我入鹿を殺害した中大兄皇子は当寺に立てこもり,672年(天武1)の ...
17. あすかでら【飛鳥寺】画像
国史大辞典
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その上に五輪塔が立っている。「高市郡古跡略考」には「蘇我入鹿大臣石塔」として、「村ヨリ一町未申ノ方田中に五輪少し残れり、里人もさこそ申侍る」とある。口碑に蘇我入 ...
19. あすかのいたぶきのみや【飛鳥板蓋宮】
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難波に移したので、怪異現象は板蓋宮が衰退する兆候であったと旧本に記すという。この年の六月十二日に蘇我入鹿誅伐事件があった。大化元年(六四五)十二月九日に、孝徳天 ...
20. 飛鳥美術
世界大百科事典
642年百済は高句麗と結び,新羅の侵攻した任那の中心地帯を奪取した。643年蘇我入鹿は山背大兄王および一族を滅ぼすが,翌々年蘇我入鹿は中大兄皇子らに殺され,時代 ...
21. 阿倍内麻呂
日本大百科全書
最初の左大臣。一名倉梯麻呂(くらはしまろ)。蘇我入鹿(そがのいるか)が殺され孝徳(こうとく)天皇が即位するとただちに左大臣に任命され、大化改新の枢機に参画した。 ...
22. 甘樫丘東麓(あまかしのおかとうろく)遺跡[考古学]
イミダス 2018
。奈良文化財研究所の調査により、建物5棟と塀が焼失した状態で出土した。建物は倉庫などであり、蘇我入鹿の邸宅である谷の宮門(はざまのみかど)の一角をなして、大化の ...
23. あまのいぬかいうじ【海犬養氏】
国史大辞典
やがて朝廷にも出仕し、稚犬養氏らとともに宮城門の守衛にあたるようになった。皇極天皇四年(六四五)六月、蘇我入鹿打倒事件の際、海犬養連勝麻呂が、稚犬養網田らと中大 ...
24. あまのいぬかいの-かつまろ【海犬養勝麻呂】
日本人名大辞典
任務は宮城門の守備。皇極天皇4年(645)飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で中大兄(なかのおおえの)皇子らによる蘇我入鹿(いるか)暗殺にかかわり,暗殺用の剣を佐伯子 ...
25. 斑鳩[町]
世界大百科事典
聖徳太子は,605年10月に斑鳩宮に移り,621年2月に斑鳩宮で没した。643年(皇極2),上宮王家は蘇我入鹿によって滅ぼされ,その際,斑鳩宮も焼失した。193 ...
26. いかるが【斑鳩】
国史大辞典
山背大兄王が斑鳩宮に住み、また山背大兄王の異母弟泊瀬王の宮もこの地にあった。皇極天皇二年(六四三)十一月蘇我入鹿らが山背大兄王を襲い斑鳩宮を焼いた。天平年間(七 ...
27. 斑鳩宮
日本大百科全書
聖徳太子が601年(推古天皇9)斑鳩(奈良県生駒(いこま)郡斑鳩町)に営んだ宮室。643年(皇極天皇2)蘇我入鹿(そがのいるか)の兵によって焼き払われ、いったん ...
28. いかるがのみや【斑鳩宮】
国史大辞典
法隆寺はその西側に創立された。太子の死後その宮に住まった長子山背大兄王は、皇極天皇二年(六四三)に蘇我入鹿のつかわした兵に急襲され、宮は焼き払われた。王は身をも ...
29. いこまやま【生駒山】奈良県:生駒市
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30. 板蓋宮画像
日本大百科全書
小墾田宮(おはりだのみや)より飛鳥(あすか)板蓋の新宮に移った。645年(大化1)6月、板蓋宮で蘇我入鹿(そがのいるか)が中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)らに ...
31. 乙巳の変
世界大百科事典
は近代にはいってからである。→大化改新青木 和夫 中大兄皇子 天智天皇 藤原鎌足 蘇我蝦夷 蘇我入鹿 蘇我石川麻呂 大化改新 ...
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日本国語大辞典
兵庫県神崎郡神崎町にある高野山真言宗の寺、法楽寺の別名。古代、蘇我入鹿の臣下の枚夫という者が、従者に殺害されようとしたさい、その危機を救った二匹の黒い飼い犬をま ...
33. 新漢人旻
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34. 妹背山婦女庭訓
日本大百科全書
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35. 妹背山婦女庭訓
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月大坂竹本座初演。5段。角書に〈十三鐘絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ,大和に伝わる十三鐘や衣掛け柳, ...
36. いもせやまおんなていきん[いもせやまをんなテイキン]【妹背山婦女庭訓】
日本国語大辞典
松田ばく、栄善平、近松東南らが合作。明和八年(一七七一)大坂竹本座初演。藤原鎌足(かまたり)が蘇我入鹿(そがのいるか)を討った事件を骨子とし、これに采女(うねめ ...
37. いもせやまおんなていきん【妹背山婦女庭訓】
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38. いもせやまおんなていきん【妹背山婦女庭訓】
歌舞伎事典
坂・竹本座初演。五段。角書に〈十三鐘/絹懸柳〉とある。近松門左衛門の《大職冠》など藤原鎌足の蘇我入鹿誅戮に取材した先行作を踏まえ、大和に伝わる十三鐘や衣掛け柳、 ...
39. いもせやまをんなていきん【妹背山婦女庭訓】
全文全訳古語辞典
[作品名]浄瑠璃。五段。近松半二らの合作。一七七一年(明和八)大坂竹本座初演。藤原鎌足が蘇我入鹿を討った事件を中心にして、大和地方の伝説などをふんだんに取り入れ ...
40. 入鹿
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41. いるかじんじゃ【入鹿神社】奈良県:橿原市/八木・今井地区/小綱村
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43. 江戸繁昌記 1 251ページ
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塗って粉飾している (二)皇極帝の四年… 『日本書紀』二四、皇極天皇四年六月、入鹿誅伐の箇所に、「中臣鎌子連、蘇我入鹿臣が為人疑多くて、昼夜剣を持けることを知り ...
44. おおさけじんじゃ【大避神社】兵庫県:赤穂市/坂越村
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聖徳太子に重用され、太子より仏像を賜り太秦(現京都市右京区)に広隆寺を建てた。皇極天皇三年に蘇我入鹿の難を避けて坂越浦に至り、千種川流域を開拓、大化三年(六四七 ...
45. おばつじむら【大蓮村】大阪府:東大阪市/旧布施市地区地図
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・中十四・西十四・十八・南三十双などの小字名が残る。村の北東部に小墳があり俗に狐塚とよぶが、蘇我入鹿の墓と伝える(大阪府全志)。天正―慶長(一五七三―一六一五) ...
46. おみわ【お三輪】
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大和(奈良県)の酒商杉屋の娘。藤原鎌足(かまたり)の嫡男で出家した淡海に恋をする。藤原一族が蘇我入鹿(そがの-いるか)を討つためには,自分の死が役立つとおもい命 ...
47. おみわ【お三輪】
日本架空伝承人名事典
藤原鎌足が蘇我入鹿を討伐した物語を骨子として大和地方の伝説を配した人形浄瑠璃『妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)』(一七七一年(明和八)正月大坂竹本座初 ...
48. かぐろむら【鹿黒村】千葉県:印西市地図
日本歴史地名大系
北は亀成川下流域に面し、西側には谷津が深く入り込む。元禄郷帳にカグロの訓を付す。地名由来にかかわり、蘇我入鹿が殺されたとき、その縁者が入鹿の首を当地に葬り居住し ...
49. かずらきの-わかいぬかいのあみた【葛城稚犬養網田】
日本人名大辞典
の天智天皇)にしたがい,飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)で佐伯子麻呂(さえきの-こまろ)とともに蘇我入鹿(そがの-いるか)を斬殺した(大化の改新のはじまり)。宮城の ...
50. 敵役
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