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  11. 源義家
国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典

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国史大辞典
源義家
みなもとのよしいえ
一〇三九 - 一一〇六
平安時代後期の武将。長暦三年(一〇三九)に生まれる。頼義の長子。母は平直方の女。幼名源太。石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称す。義家が出自をもつ清和源氏は、身分的には中級貴族に属するが、当時貴族出身者のなかで武的要素を強くもつ人々があり、彼らは中央官職の「武官」に任ぜられ、中央政府を支える武力となった。このような武的性格をもつものが「武者」と呼ばれ、その任務遂行のため、私的な従者(郎等・郎従など)を率いて武力を行使した。当時の武者の中で代表的な存在が、清和源氏(ことに河内源氏)の人々であり、父頼義も「武官」を経て諸国の守を歴任するといった有力な「武者」であった。こうして義家は、はじめから「武者」たるべきことを運命づけられて成長したのである。『尊卑分脈』以下の諸系図の記載によれば、義家は左馬尉・左衛門尉・左近将監・左馬権頭・兵部大輔・検非違使などを経て、河内・相模・武蔵・信濃・出羽・下野・伊予・陸奥の守などを歴任、正四位下に叙されている。まさに中流貴族の経歴であるが、他方では「天下第一武勇之士」「武士の長者」と称され、さらに「武威天下に満つ、誠に是大将軍に足る者也」と評され、当代随一の「武者」であった。前九年の役では、頼義に従い、鳥海柵では大風雪の中で危地に立ったが、義家の奮戦でわずかに勝利を得た。康平五年(一〇六二)乱を平定し、翌年乱の功賞として従五位下、出羽守に叙任、武将の名声を高めた。そのころ大江匡房に「未だ兵法を知らず」と評され、かえって匡房に師事したといわれる。承暦三年(一〇七九)、美濃で合戦を始めた源重宗を勅命により追討し、永保元年(一〇八一)、検非違使とともに園城寺に赴き悪僧を逮捕している。永保三年、陸奥守兼鎮守府将軍となったが、たまたまおこった出羽の清原氏の内紛に介入して後三年の役をおこす。この乱は寛治元年(一〇八七)におさまり、その際義家は朝廷に追討の官符を請うたが、当局側はこの乱を私闘とし、行賞もなかったので、義家は私財を頒って将士に報いた。寛治五年、義家は弟の義綱と、それぞれの郎等藤原実清・清原則清の領地争いに関与して対立、合戦に及ばんとした。このとき源氏の主家である関白藤原師実が争乱の調停に動き、検非違使をして両者を諭させ、紛争原因を調査させた。そして合戦を未然に防ぐため宣旨を五畿七道に下して、諸国から兵士が京都に上ることを禁止し、同時に諸国の百姓が田畠の公験を義家に寄付することを禁じた。このため源氏内部の私闘は無事におさまったが、さらに翌年には義家が構立した諸国荘園を停止すべき宣旨が出された。義家の在地領主の間での声望がいかに大きく、義家への所領寄進とそれに伴う義家の荘園設立の動きが高まっていたことが推察されるが、同時にこの停止令で義家の経済力が傾き始めたことも否定できない。承徳二年(一〇九八)院の昇殿を許されたが、康和三年(一一〇一)七月、次男対馬守義親が鎮西において叛乱を起し、さらに嘉承元年(一一〇六)六月、三男の義国が常陸国で騒擾事件をおこすなどのことにより、義家の中央における立場は苦しいものとなった。そしてこの年の七月、病を得て没した。六十八歳。墓は大阪府羽曳野市通法寺の国史跡通法寺跡にある。→後三年の役(ごさんねんのえき),→前九年の役(ぜんくねんのえき)
[参考文献]
『大日本史料』三ノ八、嘉承元年七月是月条、安田元久『源義家』(『人物叢書』一三〇)
(安田 元久)


日本大百科全書(ニッポニカ)
源義家
みなもとのよしいえ
[1039―1106]

平安後期の武将。河内(かわち)源氏の嫡流で頼義(よりよし)の長子。母は上野介(こうずけのすけ)平直方(なおかた)の女(むすめ)。7歳の春、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の宝前で元服し、「八幡太郎(はちまんたろう)」と号した。前九年の役に、父頼義に従って出陣し、安倍頼時(あべのよりとき)・貞任(さだとう)父子と戦い、1062年(康平5)貞任を衣川関(ころもがわのせき)(岩手県)で破り、ついで厨川柵(くりやがわのき)で滅ぼし、その功によって従(じゅ)五位下出羽守(でわのかみ)に任ぜられた。
 この前九年の役における奮戦によって、一躍、武勇の名を天下に広め、『陸奥話記(むつわき)』などにその合戦のようすが描かれるに至る。検非違使(けびいし)や左衛門尉(さえもんのじょう)として僧兵の嗷訴(ごうそ)の鎮圧などに活動するとともに、下野(しもつけ)、相模(さがみ)、武蔵(むさし)、河内などの国司を歴任し、83年(永保3)陸奥守(むつのかみ)兼鎮守府将軍になった。そのとき、奥羽の豪族清原(きよはら)氏に内紛が起こり、清原真衡(さねひら)と同家衡(いえひら)・藤原清衡(きよひら)とが抗戦状態になった。義家は真衡を援助してこの内紛に介入し、真衡の死後、家衡と清衡が対立すると、86年(応徳3)清衡を助けて自ら数千騎を率いて家衡を攻撃した。義家は、家衡の激しい抵抗と飢寒のために苦戦したが、ついに87年(寛治1)金沢柵(秋田県)を攻略して家衡を討った。これが後三年の役である。
 この戦いにあたって、義家は清原氏追討の官符を朝廷に求めたが、朝廷は義家による奥州征覇の私戦とみなして、追討の官符も恩賞も与えなかった。そのため義家は自らの私財をもって麾下(きか)の将兵の功に報いた、と『奥州後三年記』は伝えている。
 こうした義家の行為と奮戦の武勇によって武士の信望を集め、東国における源氏の勢力は著しく進展した。やがて、諸国の武士や百姓のなかで義家に荘園(しょうえん)を寄進する者も多くなり、義家は「天下第一武勇之士」などと称され、白河(しらかわ)院政を支える軍事力の中核となって活動し、98年(承徳2)には院の昇殿を許されるまでになった。しかし一方で、院や貴族は、義家の勢力が急激に増大するのに警戒心を強め始め、91年(寛治5)義家の郎党と弟義綱(よしつな)の郎党との所領争いから義家と義綱の戦闘が惹起(じゃっき)されようとすると、朝廷は義家の入京を制止し、諸国の百姓が義家に荘園を寄進するのを禁じる宣旨(せんじ)を出した。その後も、朝廷はできるだけ義家の勢力が拡大するのを抑えて、弟義綱や平正盛(まさもり)を重用する方針をとった。このため1106年(嘉承1)7月、義家が没すると一族内部に深刻な後継者争いが生じて源氏の勢力が没落し始め、かわって平正盛・忠盛(ただもり)らの平氏が台頭してくるのである。
[田中文英]



世界大百科事典
源義家
みなもとのよしいえ
1039-1106(長暦3-嘉承1)

平安後期の武将。源頼義の長男。母は上野介平直方の娘。石清水(いわしみず)八幡宮で元服し〈八幡太郎〉と号した。前九年の役に父に従って参戦,勲功により1063年(康平6)従五位下出羽守となり,やがて下野守に転任した。70年(延久2)には陸奥で藤原基通を追捕(ついぶ),その後京に戻り,主家藤原摂関家の警衛や京中の治安維持の任に当たった。このころ〈武勇の輩(ともがら)〉といえばほとんど源氏,とくに義家一党を指すほどに源氏の武力は成長していた。在京中義家は大江匡房(まさふさ)に兵法を学んだという。83年(永保3)陸奥守兼鎮守府将軍として赴任,任国に起こった清原氏の内紛を私兵をもって鎮定した(後三年の役)。この際義家の弟義光が兄の苦戦を聞いて馳参したことは有名。乱後,朝廷はこの争乱を私闘と断じて恩賞を行わず,乱平定の翌88年(寛治2)には義家の陸奥守を解任した。しかしこの戦乱を通して義家と東国武士間の主従結合が強化され,義家は〈天下第一武勇之士〉と評されるに至った。義家の名声を頼って諸国の在地有力者がその田畠を義家に寄進したため,朝廷は91年(寛治5)にこれを禁止したほか,その翌年には義家構立の荘園の停止(ちようじ)を命じている。98年(承徳2)になってようやく陸奥守時代の功過が定められ,正四位下に叙されて院(白河)の昇殿を許された。しかしこの前後に弟源義綱との内紛や,子源義親(よしちか)の配流(はいる)事件などがあり,苦しい立場の中で没した。この後,義親追討を通して平正盛が台頭することとなる。

伝承

〈武略神通の人〉といわれた義家については伝承もきわめて多く,とくに全国各地の八幡神社には義家伝説が多数伝えられている。すでにその生誕に関して,父頼義が八幡宮に参詣したとき夢告により宝剣を得たが,その同じ月に妻が懐胎し,生まれたのが義家であったといわれている。そのほか,《古今著聞集》《古事談》や《陸奥話記》《奥州後三年記》《源平盛衰記》などの説話や軍記物に所伝が頻出する。有名なものとしては,前九年の役の衣川(ころもがわ)の戦で敗走する安倍貞任(さだとう)に〈衣のたては綻(ほころ)びにけり〉とうたいかけたところ,貞任が〈年を経し糸のみだれのくるしさに〉と答えたので,その教養に感じて矢をおさめたという話(《陸奥話記》),京へ帰って貞任討伐の自慢話をしたところ大江匡房に〈惜しむらくは兵法を知らず〉と言われ,かえって喜んで匡房に弟子入りして兵法を学んだこと,そして〈兵野に伏すとき,雁列を破る〉との兵書の教えから,後三年の役では斜雁の列の乱れをみて伏兵を知ることができたとの話(《奥州後三年記》)などがあげられる。

 義家伝説を大別すると,(1)戦闘での武勇伝と,従者や武勇之仁に対する武将としての思いやりを描いたもの,(2)そこから派生して義家の名や声を聞いただけで猛悪な強盗も逃げ出すというような,〈同じき源氏と申せども,八幡太郎は恐ろしや〉(《梁塵秘抄》)に発展する類のもの,(3)さらに義家によって物の怪(もののけ)や悪霊さえも退散するという神格化された武勇神とでもいうべき義家像を描いたもの,の3種がある。
[飯田 悠紀子]

[索引語]
八幡太郎 大江匡房 後三年の役 衣川(ころもがわ)の戦 安倍貞任
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日本歴史地名大系
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25. あさくさふくいちよういつちようめ【浅草福井町一丁目】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
日本歴史地名大系
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日本歴史地名大系
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44. あまなわしんめいぐう【甘縄神明宮】
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長谷の東部をいう。『新編相模国風土記稿』には、長谷村の鎮守は俗に甘縄明神と呼ばれ、その神体は源義家の守護神であったというが、この社は『吾妻鏡』にみえる甘縄神明宮 ...
45. 鮎貝八幡宮
日本大百科全書
倉稲魂命(うかのみたまのみこと)を祀(まつ)る。社伝によれば、1060年(康平3)鎮守府将軍源義家(よしいえ)の勧請(かんじょう)という。江戸時代には領主上杉氏 ...
46. あゆかい‐はちまんぐう[あゆかひ‥]【鮎貝八幡宮】
日本国語大辞典
貝にある神社。旧県社。祭神は応神天皇、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)。康平三年(一〇六〇)源義家が錦の御旗を神体として、応神天皇を勧請(かんじょう)したという ...
47. あゆかいむら【鮎貝村】山形県:西置賜郡/白鷹町
日本歴史地名大系
が、のち輪王寺ともども仙台城下へ移転した(奥羽編年史料)。鮎貝城本丸跡に康平二年(一〇五九)源義家の勧請と伝える鮎貝八幡宮がある。明治三二年(一八九九)字八幡台 ...
48. あらためじょうあと【新田目城跡】山形県:酒田市/旧荒瀬郷地区/荒田目村
日本歴史地名大系
が判明した。大物忌神社吹浦口之宮(現飽海郡遊佐町)の社記によると、寛治年間(一〇八七―九四)源義家が東征の際大物忌神に戦勝を祈誓して勝利を得たため、帰陣の途中須 ...
49. あらためむら【荒田目村】山形県:酒田市/旧荒瀬郷地区
日本歴史地名大系
社の祭礼で奉納されている(酒田市史)。大物忌神社は新田目城跡(県指定史跡)の東半分を占める。源義家が東征帰陣のとき、報恩として刀一振を奉納し、須藤某をとどめて神 ...
50. いいだむら【飯田村】宮城県:仙台市/旧名取郡地区
日本歴史地名大系
枚・草鞋三万五千足などがある。村の南西土手内に飯田八幡神社があり、寛治年中(一〇八七―九四)源義家が勧請したと伝え、慶長五年(一六〇〇)現在地に遷座したという( ...
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として、高知城下本町(高知市本丁筋一丁目)に生まれる
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・改訂新版 世界大百科事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(日本大百科全書(ニッポニカ))
安土桃山時代・江戸初期の大名。上杉謙信の養子。初名は卯松、喜平次、顕景。実父は越後坂戸城(新潟県南魚沼市)の城主長尾政景で、母は謙信の姉。父の死後謙信に養われ、1575年(天正3)春日山城の中城で上杉弾正少弼景勝となる。78年謙信の死後、もう1人の養子上杉三郎景虎
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徳川慶喜(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三七 - 一九一三 江戸幕府最後の第十五代将軍。一八六六―六七在職。水戸藩主徳川斉昭(烈公)の七男として、天保八年(一八三七)九月二十九日江戸水戸藩邸に生まれた。生母は吉子女王(有栖川宮王女、貞芳院、文明夫人)。幼名七郎麿、字子邦、諱昭致・慶喜、雅号興山
勝海舟(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八二三 - 九九 幕末・明治時代の政治家。名は義邦、通称を麟太郎、海舟は号。安房守を明治後安芳と変えて字とした。文政六年(一八二三)正月三十日、江戸本所亀沢町(東京都墨田区亀沢)の父の実家男谷(おたに)邸に、旗本小普請組の勝小吉・のぶの長男
吉田松陰(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八三〇 - 五九 幕末の思想家、教育者。長門の人。幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す。天保元年(一八三〇)八月四日、父長州藩士杉百合之助常道(家禄二十六石)・母滝の次男として
井伊直弼(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一八一五 - 六〇 江戸時代後期の大老。近江国彦根藩主。文化十二年(一八一五)十月二十九日、十一代藩主直中の十四男として彦根城内で生まれた。母は側室のお富の方。通称は鉄三郎といい、柳王舎(やぎわのや)・柳和舎・緑舎・宗観・無根水(むねみ)など
ペリー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
一七九四 - 一八五八 米国海軍軍人。幕末の日本に来航して日米和親条約締結をした人物。一七九四年四月十日父クリストファーChristopher Ramond Perryと母セーラSarah Wallace (Alexander)Perryの三男としてロードアイランド州に生まれる。少年期をニューポートなどで育ち
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