室町時代初期の能役者,謡曲作者。観阿弥の子で2代目の観世大夫。生年は貞治3年とも考えられ,正確な没年・享年は不明(1436年には健在)。幼名藤若(ふじわか)(前名鬼夜叉(おにやしや)とも)。通称三郎,実名元清。秦氏を称し,父の芸名だった〈観世〉が姓同様に通用しはじめ,世人は観世三郎とも呼んだ。中年以後の擬法名的芸名が世阿弥陀仏で,世阿,世阿弥はその略称。現今は世阿弥と呼ぶことが多い。セアミと清んで呼ぶのは誤り。老後の法名が至翁(道号)善芳(法諱)。弟に四郎がいた。
南北朝の争乱が下火になり,室町幕府の基礎が固まりかけたころに世阿弥は生まれた。父の観阿弥は30歳を超えた年盛りで,すでに大和猿楽(やまとさるがく)結崎(ゆうざき)座のスター役者だったと推定される。数多い田楽(でんがく)や猿楽の能役者が芸を競う中から,観阿弥が抜け出る要因となった音曲改革に取り組んだのは世阿弥の幼年期であり,京洛に観阿弥の名声を高めた醍醐寺での猿楽(年不明)には子の世阿弥も出演していた。世阿弥が12歳の年(1375年の永和1年か前年の応安7年)に,観阿弥が洛東今熊野で催した猿楽能を将軍足利義満が見物し,以来彼は観世父子に絶大な庇護を加える。世阿弥の可憐さが5,6歳年長だった義満を魅了したらしい。義満の世阿弥寵愛は尋常でなく,彼の勘気にふれて東国を流浪していた連歌師の琳阿弥は,世阿弥に自作の謡(うたい)を義満の御前で謡ってもらって勘気を許されている。足利武将らも将軍の機嫌をとるために世阿弥を引き立てたし,北朝公家の代表格の二条良基も13歳の世阿弥に〈藤若〉の名を与え,自邸の連歌会に藤若を加えてその句を激賞したりしている。良基の文章によれば,世阿弥は稀代の美少年で,能芸に秀でるのみならず,13歳の時すでに鞠(まり)や連歌に堪能だったという。父観阿弥が子を貴人の賞玩向きに教育したものと考えられる。
1384年(元中/至徳1)に父が没し,まだ初心段階の世阿弥が観世大夫(結崎座の演能グループたる観世座の統率者)を継いだ。美童としての魅力はすでに失せ,田楽新座の喜阿弥や近江猿楽比叡座の犬王(いぬおう)らの競争相手も父の在世期から台頭しており,新大夫の前途は多難だったろうが,世阿弥は精進を重ねて苦境をのりこえたようで(当時の記録は皆無に近い),99年(応永6)には京都一条竹ヶ鼻で3日間の勧進猿楽(勧進能)を催し,将軍の台臨を得て,天下の名声を獲得した。翌年に《風姿花伝》の第三までを書いたのは,彼の自信の表明でもあったろう。芸名の世阿弥陀仏を称したのはその直後の40歳ころかららしく,セアではなくゼアと濁ったのは義満の裁定に基づく。そうした世阿弥の地位を揺るがせたのが犬王である。彼は観阿弥とほぼ同世代で,応永(1394-1428)以前から義満に後援されていたが一時失脚し,1401年ころに復活して世阿弥以上に義満に評価された。義満の法名道義の1字をもらって犬阿弥から道阿弥に改称することを許されたし,08年の後小松天皇北山第(義満別邸)行幸の際も,世阿弥ではなくて犬王の芸が天覧に供されている。歌舞に秀で,幽玄(優美)で情趣あふれる能を得意とした彼の芸風が,公家化の傾向を強めていた晩年の義満の意にかなったのであろう。このような犬王の出世は世阿弥に大きな影響を与えた。大和猿楽の伝統たる物まね主体の〈面白き能〉から,歌舞中心の〈美しき能〉への方向転換がそれで,犬王の長所を参照した能の歌舞劇化の成功が,世阿弥の名声を保ち,その後の能の質的向上をももたらしたように思われる。
1408年5月,北山第行幸直後に義満が急逝し,世阿弥はよき後援者・批判者を失った。義満の後嗣足利義持は,父義満の方針を改めること多く,芸能後援についても尊氏時代に戻して田楽を重んじた。とくに新座の増阿弥(ぞうあみ)を後援し,応永20年代(1413-22)には毎年増阿弥に勧進田楽を興行させている。しかし世阿弥も幕府内で重用されており,義持が世阿弥を疎んじたという説には根拠がない。義満以上に高かった義持の鑑賞眼にかなうための世阿弥の努力が,増阿弥の長所を採り入れたらしい冷えたる能への深化を生み,世阿弥の芸風や芸論を充実させてもいる。猿楽能の第一人者としての世阿弥の地位は不動であったろう。1422年ころ60歳前後で世阿弥は出家し,観世大夫の地位を子の観世元雅に譲った。引退したわけではなく,出家後も能を演じ,元雅や次男の七郎元能や甥の三郎元重(のちの音阿弥)らの教導にも熱心だった。子弟の成長で観世座は発展の一途をたどり,彼自身の芸も円熟の境に達し,出家前後が世阿弥の絶頂期であったろう。応永27年(1420)の《至花道》,30年の《三道》,31年の《花鏡(かきよう)》など,高度な能楽論が続々と書かれたし,彼が多くの能を創作したのも出家前後が中心らしい。
だが,1428年(応永35)に義持が没し,還俗した弟の義教が将軍になってから,観世父子に意外な悲運が訪れた。義教は青院門跡時代から世阿弥の甥の三郎元重を後援していたが,将軍になってからはいっそう元重を引き立て,本家筋たる世阿弥父子には露骨な圧迫を加えた。29年(永享1)の仙洞御所での能の阻止,翌年の醍醐寺清滝宮の楽頭職剝奪などがそれで,世阿弥が一時は元重を養子にしたらしいのに,元雅に観世大夫を譲ったことが義教の反感の一因になったのかもしれない。義教の弾圧下にも,女婿金春禅竹(こんぱるぜんちく)のため《拾玉得花(しゆうぎよくとつか)》を著述し,《習道書(しゆどうしよ)》を書いて一座の結束をはかるなど,世阿弥の意欲は衰えなかったが,1430年には元能が父の芸談を《申楽談儀(さるがくだんぎ)》にまとめて遁世し,32年8月には元雅が伊勢で客死し,観世座の本流は断絶してしまった。老後に後嗣を失った嘆きは《夢跡一紙(むせきいつし)》に痛ましく,翌年成立の《却来華(きやくらいか)》は相伝者のいないまま後代への形見として書かれている。33年に元重が観世大夫となったが,その大夫継承をめぐって将軍の怒りに触れたのか,世阿弥は翌年老残の身を佐渡へ流された。在島中の小謡曲舞(こうたいくせまい)集《金島書》によって1436年(永享8)2月に健在だったことは知られるが,帰洛したか否かは明らかでない。世阿弥夫妻が帰依した曹洞宗補巌寺(ふがんじ)(奈良県田原本町)に彼の忌日(8月8日)が記録されているが,没年は不明で,81歳没との伝承が残るのみである。不遇のうちに世阿弥は波乱多き出涯を閉じたらしい。
能役者としての世阿弥は,先人や好敵手(父観阿弥,犬王,喜阿弥,増阿弥ら)の長所を積極的に採り入れ,将軍に代表される観客の好みの変化に応じて芸風を発展させた,融通性に富む芸人だった。中世人には稀な合理的精神・独創性の持ち主だったことが,自筆文書の書き様(濁点・読点・分かち書の採用,片仮名による能本の表音表記など)からも知られる。そうした資質や父が用意した天才教育で身につけた教養を背景に,父が基礎を固めた物まね主体の猿楽能を,歌舞主体の美しき能(幽玄能)へと洗練し,能の芸術性を著しく高めたのが世阿弥であった。小男だったと伝えられるが,能の大成者としての功績はまことに大きく,後代に残る業績としては,能作の仕事と能楽論書著述の仕事が挙げられる。
世阿弥は能の台本たる謡曲の作者として卓越していた。能を作ることが道の命であると主張した彼は,多くの曲を新作し,また古曲を改作した。彼の手に成ることが文献的に確認できる曲だけでも改作を含めれば50曲に近く,他に作品分析から世阿弥作と認められる曲も多い。《高砂》《弓八幡》《老松》《養老》《忠度》《敦盛》《頼政》《実盛》《清経》《井筒》《江口》《檜垣》《西行桜》《班女》《桜川》《花筐(はながたみ)》《蘆刈》《春栄(しゆんねい)》《錦木》《砧(きぬた)》《恋重荷(こいのおもに)》《蟻通(ありどおし)》《融(とおる)》《野守(のもり)》《鵺(ぬえ)》などが代表作で,現在も盛んに演じられている。世阿弥作の能の多くは,《伊勢物語》《平家物語》などから舞歌にふさわしい人体を主役に選び,序破急五段の構成を基本とする夢幻能の形態をとったシテ中心の曲である。古歌や古文を巧みに応用し,和歌的修辞や連歌的展開で彩った流麗な謡曲文は,抒情と叙事の適度の配合やイメージの統一とあいまって,見事な詩劇を創造している。作曲にも抜群の才を示し,音曲的魅力にあふれた曲が多い。後世能を離れて普及した謡(うたい)で好まれたのも世阿弥作の曲である。見・聞の両面にわたって余情あふれる美的世界を現出する夢幻能を完成させた点が,能作者世阿弥の最大の業績であろう。
世阿弥はまた,自己の芸得を〈道のため,家のため〉に能楽論書に書き残した。彼以前に類書の書かれた形跡はなく,猿楽の社会的地位の向上や能の質的向上が彼の芸道意識を強め,初めての能楽論書を書かせるにいたったのであろう。もちろん彼の文学的素養も寄与していた。現今,彼の著述と認め得る能楽論書は,芸談・随想をも含めて,《風姿花伝》《花習内抜書(かしゆのうちぬきがき)》《音曲口伝(おんぎよくくでん)》《花鏡》《至花道》《二曲三体人形図》《曲付次第(ふしづけしだい)》《三道》《風曲集(ふうぎよくしゆう)》《遊楽習道風見(ゆうがくしゆどうふうけん)》《五位》《九位》《六義(りくぎ)》《拾玉得花》《五音曲条々》《五音》《習道書》《夢跡一紙》《却来華》《金島書》《申楽談儀》の21種である。そこに展開されている世阿弥の芸論の主題は,主要な書の名が示すように〈花〉であった。花とは能の魅力の比喩で,面白さ・珍しさと同意であると彼は説明する。その花の理想的なものとして重視したのが幽玄美(少年の可憐さや貴婦人の優美さがその典型)で,花や幽玄の論はさらに妙花・冷え・無文(むもん)の論へと深められ,そうした高級な芸術美を発現するための習道論にも,二曲三体説,初心不可忘説,却来説などのすぐれた理論が展開されている。生硬な造語や難解な文脈のため読みやすくはないが,道に命を賭した芸人の体験に裏打ちされた真摯(しんし)な所説は,おのずと迫力ある高度の演劇論・芸術論となり得ており,今や世界的に高い評価を受け,外国語訳が続出しているほどである。
以上に略述したように,自作の能を自身が演じて自己の理想とする美を舞台上に現出し,その体験に基づく芸論をも残したのが世阿弥である。演者と作者と理論家とを一身に兼ねたわけで,世界の文芸史上にも稀な天才と評して過言ではあるまい。世阿弥以後の能は,さまざまの変革を重ねたものの,ついに世阿弥の歌舞幽玄能を超えることはできず,彼の志向した路線に沿って発展してきたと認められる。600年後の現代の能の繁栄や魅力が,世阿弥の偉大さを雄弁に語っているといえよう。
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