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  11. 源義朝

源義朝

ジャパンナレッジで閲覧できる『源義朝』の国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典
源義朝
みなもとのよしとも
一一二三 - 六〇
平安時代後期の武将。源為義の長子として保安四年(一一二三)に誕生、母は淡路守藤原忠清の女。生年は没年から逆算したものであり、出生地も不明である。『保元物語』には父為義の言として、「嫡子にて候義朝こそ、坂東そだちのものにて、武勇のみちにたけて候へ」とあり、久安元年(一一四五)の官宣旨案には「上総曹司源義朝」と記され、また義朝が鎌倉の亀谷に館を構えていたことが『吾妻鏡』にみえ、義朝の嫡子義平が「鎌倉悪源太」と称されていることから、義朝は幼少から東国で成育したと考えられている。成人した義朝は鎌倉を中心とする相模を本拠として南関東一帯で勢力の拡張につとめ、在地武士の家人化をおしすすめるとともに、天養元年(一一四四)の相模国大庭御厨押領事件や康治二年(一一四三)から久安元年にかけて起った下総国相馬御厨をめぐる千葉氏との紛争を通じて所領の拡大と有力武士の服属をはかった。その後義朝は東国の武士団統合を嫡子義平の手にゆだねて上洛し、都の武者となった。仁平三年(一一五三)には従五位下・下野守に任じられ、父為義の官を超越した。久寿二年(一一五五)八月、相模から武蔵に進出した嫡子義平は、大蔵館の合戦で叔父源義賢と秩父重隆を討った。義賢と「父子之約」をなしていた義朝の弟源頼賢は信濃に走り、義平に対抗しようとして鳥羽院領を侵したため、十月義朝に対して頼賢追討の院宣が発せられた。翌年起った保元の乱に際して義朝は、相模の大庭景義、両総の上総広常・千葉常胤、武蔵七党などの東国武士を結集し、平清盛とならんで後白河天皇方の軍事力の中核となった。天皇方の作戦は義朝の主張によって機先を制する夜襲に一決し、七月十一日未明、崇徳上皇方の白河殿を奇襲して勝利を得た。父為義や兄弟たちを敵として戦った義朝は、その戦功により右馬権頭に任じられて昇殿を許され、ついで左馬頭に昇進した。しかし乱後の処置はきびしく、父為義に対する義朝の助命嘆願はまったく容れられず、七月三十日、義朝は父、兄弟らを斬刑に処した。この後、義朝は後白河院の近臣として権勢を振るっていた藤原通憲(信西)との提携を策し、通憲の三男是憲を婿にすることを望んだが、通憲に拒否された上、通憲がその子成範に平清盛の女を迎えることを約束したため、当時通憲と権勢を争っていた藤原信頼と接近するようになった。平治の乱では乱中に従四位下・播磨守となり信頼方の軍事力として活躍したが、平清盛との合戦に敗れ、嫡子義平・次子朝長・三子頼朝らと戦場を脱出して勢多を渡り、美濃国赤坂の青墓に逃れた。子息らと別れた義朝と郎従鎌田正清は尾張国知多郡に入って、野間の内海庄司長田忠致を頼り、その保護によって東国に赴こうとしたが、永暦元年(一一六〇)正月三日、忠致に謀殺された。時に義朝三十八歳。その首級は忠致によって京に送られ、東獄門前の樹にかけられた。文治元年(一一八五)八月、頼朝の請によって後白河法皇は刑官に命じて義朝の首を尋ね出し、大江公朝を勅使として遺骨を鎌倉に送らせた。九月三日、遺骨は南御堂の地に葬られた。墓所は尾張国野間荘(愛知県知多郡美浜町野間)の大御堂寺。→平治の乱(へいじのらん),→保元の乱(ほげんのらん)
[参考文献]
『平治物語』(『日本古典文学大系』三一)、『愚管抄』(同八六)、『吾妻鏡』、『兵範記』、安田元久「古代末期に於ける関東武士団」(同編『日本封建制成立の諸前提』所収)、上横手雅敬「院政期の源氏」(御家人制研究会編『御家人制の研究』所収)
(鈴木 英雄)


日本大百科全書(ニッポニカ)
源義朝
みなもとのよしとも
[1123―60?]

平安末期の武将。清和(せいわ)源氏の嫡流為義(ためよし)の嫡男。母は淡路守(あわじのかみ)藤原忠清(ただきよ)の女(むすめ)。相模(さがみ)国(神奈川県)鎌倉で成長したらしく、天養(てんよう)(1144~45)ころ相模大庭御厨(おおばのみくりや)ついで下総(しもうさ)相馬(そうま)御厨の押妨(おうぼう)を企てている。同地域に本領を確立しようとしたものらしい。鎌倉は父祖伝来の地であり、また義朝には「上総御曹司(かずさおんぞうし)」の異名もあるので、相模や房総の地域はもともと清和源氏と深い因縁のある地であったと思われる。やがて下野守(しもつけのかみ)となり、保元(ほうげん)の乱(1156)では、父為義や他の弟がみな崇徳(すとく)上皇方にくみしたのに対し、ひとり後白河(ごしらかわ)天皇方として戦い、上皇方を破った。乱後、父・弟を処刑、恩賞として左馬頭(さまのかみ)となるが、少納言(しょうなごん)入道信西(しんぜい)(藤原通憲(みちのり))と組んだ平清盛(きよもり)の権勢に圧倒され、しだいに藤原信頼(のぶより)に接近、1159年(平治1)ついに挙兵して平治(へいじ)の乱を起こす。しかし清盛の急襲を受けて敗退し、東国に逃れる途中、尾張(おわり)国知多(ちた)郡野間(愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために殺害された。同年12月29日とも翌永暦(えいりゃく)元年1月4日ともいわれる。野間の大坊(だいぼう)(大御堂(おおみどう)寺)の義朝の墓には、義朝の最期の無念を推量して木太刀(こだち)を捧(ささ)げる風習が残っている。
[飯田悠紀子]



世界大百科事典
源義朝
みなもとのよしとも
1123-60?(保安4-永暦1?)

平安末期の武将。源為義の長男。母は淡路守藤原忠清の娘。父祖相伝の本拠相模国鎌倉で成長したらしい。天養年間(1144-45)目代(もくだい)と結んで同国大庭御厨(おおばのみくりや)の押妨を企て,さらに同じころ下総相馬(そうま)御厨をも掠領した。義朝には上総御曹司の異名があるところから,房総地域にも勢力を扶植していたと推測される。上京して下野守となり,1156年(保元1)保元の乱で平清盛と同様後白河天皇方として戦い,乱後父為義,兄弟以下崇徳上皇方の源氏一族を斬った。恩賞により左馬頭(さまのかみ)となったが,信西(しんぜい)と組んだ清盛と不和になり,59年(平治1)12月清盛が熊野参詣に赴いた留守をついて藤原信頼とともに挙兵し,平治の乱を引き起こした。しかし急ぎ帰京した清盛の軍勢に敗れ,東国に逃れる途中,尾張国知多郡野間(現,愛知県知多郡美浜町野間)で家人長田忠致(おさだただむね)のために鎌田正清ともども殺された。平治1年12月29日とも永暦1年1月4日ともいわれる。

伝承

《平治物語》の伝えるところによれば,長田荘司忠致は義朝郎等鎌田正清の舅(しゆうと)にあたるところから,鎌田の言に従って忠致を頼って立ち寄ったという。しかし湯殿でだまし討ちにあい,その際義朝が〈木太刀一つあらば〉と言ったと伝えられるところから,野間の大御堂(おおみどう)寺(野間の大坊)の義朝の墓には木太刀をささげる風習が残っている。また義朝,鎌田正清については幸若《鎌田》や浄瑠璃《鎌田兵衛名所盃》の題材ともなっている。
[飯田 悠紀子]

[索引語]
上総御曹司 平治の乱 長田忠致 鎌田正清 野間の大坊
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1. 源義朝
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5. 源義朝
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6. みなもとの-よしとも【源義朝】
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11. 源義朝改葬 (見出し語:源義朝)
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12. 源義朝於長田莊司湯殿(見出し語:源義朝)
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13. 源義朝贈官位 (見出し語:源義朝)
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14. みなもとの-よしともの-むすめ【源義朝女】
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15. あいちぐん【愛知郡】
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16. あいちぐん【愛知郡】愛知県
日本歴史地名大系
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17. あいはら[あひはら]【粟飯原】
日本国語大辞典
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18. 青墓
日本大百科全書
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19. あおはか[あをはか]【青墓】
日本国語大辞典
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20. あおはかしゅく【青墓宿】岐阜県:大垣市/旧多藝郡・不破郡地区/青墓村
日本歴史地名大系
青墓宿の長者の女であった(「保元物語」、「吾妻鏡」建久元年一〇月二九日条)。平治の乱に敗れた源義朝は、青墓の長者大炊の女延寿との間に夜叉御前をもうけていた縁で青 ...
21. 青墓宿
世界大百科事典
鶴若,天王丸の母が青墓長者の女であったことが《保元物語》にみえる。また,《平治物語》によると源義朝は平治の乱に敗れ,青墓に逃れているが,青墓長者大炊の女延寿との ...
22. あおはかのしゅく【青墓宿】
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23. 赤坂(岐阜)
世界大百科事典
にあった東山道の宿駅。現,岐阜県大垣市赤坂町。中世の文学作品に多く登場する。《平治物語》には源義朝の身がわりとなって佐渡式部大輔重成が赤坂の子安の森で討死したこ ...
24. あかさか【赤坂】
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『富士紀行』にも「行つれぬ友さへ跡に残る夜をしばしやこゝに赤坂の里」とあり、古くから赤坂の宿があった。源義朝の身代りに佐渡式部大輔重成が子安の森で討死、関ヶ原の ...
25. あかさか【赤坂】 : 赤坂/(三)
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『富士紀行』にも「行つれぬ友さへ跡に残る夜をしばしやこゝに赤坂の里」とあり、古くから赤坂の宿があった。源義朝の身代りに佐渡式部大輔重成が子安の森で討死、関ヶ原の ...
26. 顕仁親王・崇徳天皇・崇徳上皇・崇徳法皇
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1156年〈保元元(4・27) 丙子⑨〉 7・10 崇徳上皇,源為義らを白河殿に召集,天皇,源義朝・平清盛らを高松殿に召集,互いに軍勢を整える(兵範記)。 11 ...
27. あさいぐん【朝夷郡】千葉県:安房国
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28. あさひなぐん【朝夷郡】
国史大辞典
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29. 足利氏画像
世界大百科事典
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30. 足利義康
日本大百科全書
蔵人(くろうど)、従(じゅ)五位下となった。妻は熱田大宮司範忠(あつただいぐうじのりただ)の娘(源義朝(よしとも)の妻の姪(めい))。保元2年5月29日死去。上 ...
31. あしかがよしやす【足利義康】
国史大辞典
となり、左衛門尉・検非違使に任ぜられた。保元の乱には後白河天皇方として活躍、平清盛の三百騎、源義朝の二百騎についで百騎を従え、天皇方軍勢の主力をなした。近衛方面 ...
32. あだちぐん【足立郡】埼玉県:武蔵国
日本歴史地名大系
その後何らかのつながりで足立遠兼が郡司職を保持したらしい。〔中世〕足立遠兼の子遠元は、平治の乱では源義朝に従って活躍したが(平治物語)、戦いに敗れた後は不遇であ ...
33. あだちぐん【足立郡】東京都:武蔵国
日本歴史地名大系
らしい。〔中世〕足立郡司武蔵武芝の系譜を引くと推定される足立遠元は、平治の乱(平治元年)では源義朝のもと京都に従軍している(平治物語)。源氏敗北後、平氏政権下で ...
34. あだちし【足立氏】画像
国史大辞典
(一)武蔵国の足立氏 源頼朝に仕えた足立遠元が著名である。遠元は足立郡の有力な領主で、平治の乱には源義朝に従っており、平安時代以来源氏の家人であった。この家は ...
35. あだち-とおもと【足立遠元】
日本人名大辞典
平安後期-鎌倉時代の武将。武蔵(むさし)足立(あだち)郡の在地武士。源氏の家人。平治(へいじ)の乱には源義朝(よしとも)にしたがい,治承(じしょう)4年(118 ...
36. あつたじんぐう【熱田神宮】愛知県:名古屋市/熱田区/宮宿
日本歴史地名大系
改革まで大宮司職は藤原氏(千秋氏)によって世襲され、尾張氏は権宮司職にとどまった。季範の女と源義朝の間に生れたのが頼朝である。頼朝はその母の在所である熱田大宮司 ...
37. 熱田大宮司家
世界大百科事典
譲与したことから,以後は代々藤原氏の継承するところとなる。季範は京都の公家政権に接近したほか,一女を源義朝の正室となし,その女の生んだ源頼朝の鎌倉幕府開設にとも ...
38. あつただいぐうじけ【熱田大宮司家】画像
国史大辞典
両氏を出し、また範雅の裔は庶子の流とせられた。一方、季範の女二人は宮廷に仕えたが、他の一女は源義朝に嫁して頼朝を生み、大宮司家は源氏の棟梁の外戚となり、公武双方 ...
39. 熱田大宮司家 系図[図版]画像
国史大辞典
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40. 熱田大宮司季範
日本大百科全書
大宮司職は尾張氏を離れ、藤原氏の世襲するところとなった。なお季範の一女子は、源家の棟梁(とうりょう)源義朝(よしとも)に嫁して頼朝(よりとも)を生んだ。季範はの ...
41. あつただいぐうじすえのり【熱田大宮司季範】
国史大辞典
大宮司職に就き、これより大宮司職は尾張氏を離れ、藤原氏の世襲するところとなったが、季範の女は源義朝に嫁して頼朝を生み、武家とも親縁関係を結んだ。 (小島 鉦作) ...
42. あねにしのとういんちょう【姉西洞院町】京都市:中京区/城巽学区地図
日本歴史地名大系
当町付近には少納言藤原信西の邸があり、「平治物語」には、平治元年(一一五九)一二月九日、藤原信頼・源義朝の軍勢が「丑刻に信西入道が姉小路西洞院の宿所へ押よせて火 ...
43. 阿野全成
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1153?-1203(仁平3?-建仁3) 鎌倉初期の武士。源義朝の子。母は常盤。義経の兄,頼朝の異母弟。幼名今若。平治の乱後,醍醐寺に入れられ悪禅師と号した。1 ...
44. あのぜんじょう【阿野全成】
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鎌倉時代前期の僧籍の武士。幼名今若、醍醐禅師・阿野冠者という。また勇力あり悪禅師という。父は源義朝、母は常盤。義朝が平治の乱に敗死したのち母は今若・乙若(義円) ...
45. あの-ぜんじょう【阿野全成】
日本人名大辞典
1153−1203 平安後期-鎌倉時代の武将。仁平(にんびょう)3年生まれ。源義朝の子。母は常盤御前(ときわごぜん)。源義経の兄。阿野時元の父。平治(へいじ)の ...
46. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
?―一二一九 鎌倉時代前期の武士。父は阿野全成、母は北条時政の娘。源義朝の孫にあたる。承久元年(一二一九)駿河国から鎌倉へ飛脚が走って、同国阿野(静岡県沼津市 ...
47. あの-ときもと【阿野時元】
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?−1219 鎌倉時代の武将。源義朝の孫。阿野全成(ぜんじょう)の子。母は阿波局(あわのつぼね)。将軍源実朝が暗殺された直後の建保(けんぽ)7年,宣旨をうけて関 ...
48. あべの【阿倍野】大阪府:大阪市/阿倍野区地図
日本歴史地名大系
する不穏な様相を呈し始めていた。平治の乱が勃発し、熊野参詣途上の平清盛が帰京しようとした際、源義朝の嫡男悪源太義平が阿倍野に出陣して迎撃態勢をとっているとの報に ...
49. あべのさだとうくびづか【安倍貞任首塚】京都府:北桑田郡/京北町/浮井村
日本歴史地名大系
また有頭郷がもと貞任の父安倍頼時の領地でその没後源頼義の恩賞地として与えられたと伝えられることや、源義朝などの旧領であったなどのことからこのような伝承が生れたも ...
50. あやせし【綾瀬市】神奈川県地図
日本歴史地名大系
坏・須恵器坏やその断欠が出土している。〔中世〕綾瀬村風土記は小薗を平治(一一五九―六〇)まで源義朝が支配したとしている。平安時代末から鎌倉時代は、「吾妻鏡」治承 ...
「源義朝」の情報だけではなく、「源義朝」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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