「歴史上の人物」カテゴリの記事一覧
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松尾芭蕉(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸前期の俳人。日本近世文学の最盛期をなす元禄(げんろく)期(1688~1704)に活躍した井原西鶴(いはらさいかく)、近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)、芭蕉は、それぞれ小説、浄瑠璃(じょうるり)、俳諧(はいかい)の分野を代表する三大文豪として
江藤新平(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末・維新期の政治家。佐賀の乱の首領。名は胤雄(たねお)、号は南白(なんぱく)。天保(てんぽう)5年2月9日、佐賀藩下級武士の家に生まれる。国学者枝吉神陽(えだよししんよう)に師事、しだいに尊攘(そんじょう)運動に参加し、1862年(文久2)脱藩して
三条実美(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
幕末・明治前期の公卿(くぎょう)、太政(だじょう)大臣、政治家。幼名福麿。天保(てんぽう)8年2月7日、三条実万(さねつむ)の第4子として生まれる。家格は五摂家(ごせっけ)に次ぐ九清華(きゅうせいが)の一家。1854年(安政1)従(じゅ)五位上に叙せ
前島密(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
郵便制度の創始者。越後(えちご)国(新潟県)出身。天保(てんぽう)6年1月7日生まれ。本姓は上野(うえの)、通称は来輔(らいすけ)、号は鴻爪子(こうそうし)。1847年(弘化4)江戸に出て医学を修め、また、蘭学(らんがく)、英学を学ぶ。1865年
一茶(日本大百科全書・世界大百科事典)
江戸時代の文化・文政期(1804~30)に活躍した俳諧師(はいかいし)。本名は小林弥太郎。北信濃(きたしなの)の柏原(かしわばら)(北国(ほっこく)街道の宿場町。長野県信濃町)に生まれる。15歳(数え年)で江戸に出たが、晩年は生地に帰住した。父の
与謝蕪村(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一七一六-八三江戸時代中期の俳人・画家。本姓谷口氏。与謝氏(「よざ」とも)を称するのは丹後からの帰洛後。俳号ははじめ宰町・宰鳥、蕪村号は寛保四年(延享元、一七四四)の『歳旦帖』から。代表的画号は宝暦十年(一七六〇)ころから謝長庚・謝春星、安永七年
平賀源内(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
江戸時代の本草学者(ほんぞうがくしゃ)、戯作者(げさくしゃ)。讃岐(さぬき)の志度浦(香川県さぬき市)の生まれ。幼名を四万吉(よもきち)。伝次郎、嘉次郎といい、名は国倫(くにとも)または国棟(くにむね)。源内(または元内)は通称。字(あざな)は子彝
北条時政(世界大百科事典・日本大百科全書)
鎌倉幕府の初代執権。時方の子。母は伊豆掾伴為房の娘。伊豆国北条(現静岡県伊豆の国市,旧韮山町)を本拠とする在庁官人で,北条四郎と称した。源頼朝が伊豆に流されていたとき,娘の北条政子が頼朝の妻となるのを許した。1180年(治承4)頼朝が平氏打倒の兵を
北条義時(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一六三-一二二四 鎌倉時代前期の第二代執権(一二〇五―二四)。相模守・陸奥守・右京権大夫を歴任、また駿河・伊豆・若狭・越後・大隅・信濃の守護となる。長寛元年(一一六三)北条時政の第二子として生まれる。母は伊東入道女。幼名は江馬四郎・江馬小四郎
源頼家(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
一一八二-一二〇四 鎌倉幕府の第二代将軍。一二〇二―〇三在職。源頼朝の長男。母は北条政子。寿永元年(一一八二)鎌倉の比企能員邸に生まれる。幼名は万寿(または十万)。能員妻・河越重頼妻(能員の妹)・梶原景時妻らが乳母となる。頼家の安産を祈って源頼朝は
源義仲(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一五四-八四 平安時代後期の武将。木曾義仲・木曾冠者・旭将軍と称される。久寿元年(一一五四)に生まれる。父は春宮帯刀長源義賢、母は遊女と伝える。寿永二年(一一八三)の入洛以前は根本資料を欠き、延慶本・盛衰記・長門本など語り系の『平家物語』によらざるを
大庭景親(世界大百科事典・国史大辞典・日本大百科全書)
平安時代末期の武士。通称大庭三郎。景忠の子で,平治の乱の際捕らえられながらも助命されたことから平家に臣従した。1180年5月の源頼政挙兵時には京都にあって平家軍に属し,東下後の同年8月源頼朝が挙兵すると,平家方の総大将として石橋山でこれを破った
梶原景時(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一二〇〇 鎌倉時代前期の武将。相模国住人五郎景清の子。通称平三。源頼朝挙兵の時、大庭景親に属したが、石橋山にいき、頼朝の危急を救い、のち頼朝に従って、源義仲追討をはじめ、平家追討に功があった。文治元年(一一八五)屋島攻撃の際、源義経と逆櫓の策を争い
大友宗麟(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五三〇-八七戦国時代の武将。豊後・筑後・肥後・筑前・豊前・肥前六ヵ国守護。享禄三年(一五三〇)生まる。大友氏二十代義鑑の長子。幼名塩法師丸、のち五郎また新太郎。左衛門督、従四位下。諱は義鎮(よししげ)。入道宗麟・円斎・三非斎。キリスト教名
アレクサンドロス(日本大百科全書・岩波 世界人名大辞典・デジタル版 集英社世界文学大事典)
マケドニア王(在位前336~前323)。「大王」(マグヌスMagnus)とよばれたのは、ローマ共和政末期の軍人や政治家が彼らの業績の大きさをアレクサンドロスのそれに対比させたことに始まる。父はフィリッポス2世、母はマケドニアの西エペイロスの王族の娘
比企能員(日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉時代初期の武将。能員の養母比企尼は源頼朝(よりとも)の乳母(うば)であり、頼朝が伊豆に配流されると武蔵(むさし)国比企郡(埼玉県比企郡・入間郡)に移り住み、なにかと頼朝のめんどうをみた。その関係から能員も早くから頼朝に仕え、平氏打倒、奥州征伐にも
三善康信(日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉幕府初代問注所執事(もんちゅうじょしつじ)。法名善信(ぜんしん)。三善氏は明法(みょうぼう)・算道(さんどう)をもって朝廷に仕える中流貴族であったが、母が源頼朝(よりとも)の乳母(めのと)の妹であった関係で、伊豆に配流されていた頼朝に京都の情報を
三浦義澄(日本大百科全書・国史大辞典)
鎌倉初期の武将。義明(よしあき)の子。幼名荒次郎。三浦介(すけ)。相模(さがみ)国守護。1180年(治承4)畠山重忠(はたけやましげただ)・河越重頼(かわごえしげより)・江戸重長らに攻められて本拠地三浦の衣笠(きぬがさ)城(神奈川県横須賀市)が落城し
藤原秀衡(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
古代末期東北の武将。清衡(きよひら)の孫、基衡(もとひら)の子。鎮守府将軍。陸奥守(むつのかみ)に任ぜられて、平泉(ひらいずみ)政権を北方の独立王国の地位に高めるとともに、平氏、源氏と並ぶ第三の政治勢力として評価されるまで権威あるものにした
菅原道真(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
平安前期の律令(りつりょう)官人。政治家、文人、学者として名が高い。是善(これよし)の子で母は伴(とも)氏。本名は三、幼名を阿呼(あこ)といい、後世菅公(かんこう)と尊称された。従(じゅ)二位右大臣に至る。承和(じょうわ)12年6月25日、父祖三代の
倭の五王(日本大百科全書・世界大百科事典)
中国史料にその名が伝えられた5世紀の5人の倭国王。『宋書(そうじょ)』と『南史』では讃(さん)・珍(ちん)・済(せい)・興(こう)・武(ぶ)、『梁書(りょうしょ)』では賛・彌・済・興・武と記す。しかし、讃と賛は音通、珍と彌も一見文字の違いは大きいが
藤原基経(日本大百科全書・世界大百科事典)
平安前期の官僚。藤原長良(ながら)(良房(よしふさ)の兄)の第3子で、母は藤原乙春(おとはる)。藤原良房の養子となり、養父を継いで氏長者(うじのちょうじゃ)となり、いわゆる藤原摂関家隆盛の基礎をつくりあげた。851年(仁寿1)に16歳で文徳
平将門(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-九四〇平安時代中期の武者。桓武平氏高望の孫。父は良持。系図には父を良将、母を犬養春枝の女とするものがあり、その生年を延喜三年(九〇三)と伝えるものもある。将門は下総北部の豊田・猿島地方(茨城県西部)を地盤としており、若いころに藤原忠平に仕えたが
文覚(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
生没年未詳。平安末~鎌倉初期の僧。俗名遠藤盛遠(えんどうもりとお)。摂津の渡辺党の遠藤茂遠(もちとお)の子。初め上西門院(じょうさいもんいん)に仕えたが、同僚の源渡(みなもとのわたる)の妻袈裟(けさ)に恋慕し、誤って彼女を殺したのが動機で出家し
三浦義村(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
鎌倉前期の武将。義澄(よしずみ)の子。母は伊東祐親(いとうすけちか)の女(むすめ)という。駿河守(するがのかみ)。評定(ひょうじょう)衆。1199年(正治1)梶原景時(かじわらかげとき)排斥を策謀したのをはじめ、1213年(建保1)和田の乱では
平宗盛(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
平安末期の武将。父は平清盛(きよもり)、母は平時子。久安(きゅうあん)3年誕生。同腹弟妹に知盛(とももり)・重衡(しげひら)・建礼(けんれい)門院徳子(とくこ)がいる。従(じゅ)一位内大臣。1179年(治承3)清盛の嫡男重盛(しげもり)が病没後
畠山重忠(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
鎌倉初期の武将。重能(しげよし)の子。母は三浦義明(よしあき)の女(むすめ)。系図によれば桓武(かんむ)平氏の流れで、畠山を称したのは武蔵(むさし)国畠山庄(しょう)(埼玉県深谷(ふかや)市川本地区付近)の庄司(しょうじ)であった重能からである
静御前(日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
生没年不詳。源義経(よしつね)の妾(しょう)。磯禅師(いそのぜんじ)の女(むすめ)で、もと京都の白拍子(しらびょうし)であった。義経が京都堀川第(ほりかわだい)で兄頼朝(よりとも)の刺客土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)に襲われたとき、機転によって
釈迦(世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典・国史大辞典)
仏教の開祖。釈迦はサンスクリット語のシャーキャムニŚākyamuniの音訳,釈迦牟尼(むに)(〈釈迦族の聖者〉)の略。釈尊(しやくそん)は釈迦牟尼世尊(せそん)(尊称)の略。釈迦は歴史的実在の人物であり,その人種的帰属(モンゴル系かアーリヤ系か)や
孔子(国史大辞典・岩波 世界人名大辞典・世界大百科事典)
前五五二-四七九中国、春秋時代の学者。儒教の祖。諱は丘、字は仲尼。魯の襄公二十一年(前五五二、または同二十二年ともいう)十月庚子(二十一日)、魯国昌平郷陬邑(すうゆう)に生まれた。父は孔(こつ)、字を叔梁といい、勇士として知られ、母は顔氏の女で徴在と