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  11. 喜多川歌麿

喜多川歌麿

ジャパンナレッジで閲覧できる『喜多川歌麿』の日本架空伝承人名事典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典

喜多川歌麿
きたがわうたまろ
1753‐1806(宝暦3‐文化3)
 江戸中・後期の浮世絵師。本姓は北川。生国には諸説がある。幼名は市太郎、のち勇助(勇記とも)。江戸に出て、狩野派の絵師である鳥山石燕に師事し、のちに浮世絵の第一人者となった。初めは北尾重政・鳥居清長ら先輩の作風を学び、修業を重ねた。歌麿の号は、一七八一年(天明一)以後のものである。八四年、上野池端に居住していた頃、版元の蔦屋重三郎に見い出される。初めは風景画・役者絵、黄表紙・洒落本の挿絵、錦絵などを描いた。天明(一七八一‐八九)後期には絵入狂歌本の作画も行っている。その後、美人画に専心し、美人画の天才と称された。女性の官能的姿態を描いて、歌麿をしのぐ画師は存在しなかった。大首絵と称される上半身や顔だけを描く手法を取り入れたのも歌麿である。江戸一の美女といわれた難波屋おきたや高島屋おひさら水茶屋の看板娘を描いた「寛永三美人」などが代表作。おきたのほか、吉原大文字屋の多賀袖花魁おいらん、松平周防守の侍女だったお蘭などが、歌麿の重要なモデルとなっている。
 歌麿は時代にも敏感で、世相禁止令に対抗した「判じ絵」や、背景を色で塗った「無線彫り」という技術を考案したのも歌麿である。歌麿は正妻をもたず、自由気ままな生活の中で多くの女性たちと遊び、画業の対象となした。しかし、それだけの人気絵師だったため、幕府からはかなり目をつけられていた。実際、寛政の改革の際には入牢三日、手鎖五〇日の刑を受け、その芸術的生命を絶たれてしまった。画中に政治批判が見られたというのが口実だが、歌麿の影響力、そして版元蔦屋の急成長が警戒されたらしい。おもな作品には、『画本忠撰』『婦女人相十品』『歌撰恋之部』『北国五色墨』などがあり、肉筆画も多い。墓は世田谷区北烏山の専光寺にある。
 邦枝完二『歌麿』は、一九三一年(昭和六)に『大阪朝日新聞』に連載された。多年の浮世絵研究の成果を盛り込み、濃厚な官能描写に富んだ作品は、邦枝の出世作となった。
[田辺 貞夫]
号紫屋、俗称勇助と云。江戸の産。居神田久右衛門馬喰町三丁目に住す。始狩野家の画を学び、後石燕の門に入て一家をなす。男女の時世風俗を写す事上手にして、近世錦絵の花美を極めたり。生涯役者絵をかゝずして、自らいふ、戯場繁昌なる故老若男女贔負の役者あり。是を画いて名を弘るは拙き業なり。何ぞ俳優の余光を仮んや。浮世絵一派をもて世に名を興すべしと云し也。其意に違わず。其名海内に聞えたり。長崎渡来の清朝の商船より歌麿が名を尋ねて多く錦絵を求たり。殊に春画に妙を得たり。
新増補浮世絵類考
歌麿の毛がき彫師の泣きどころ
出典:出典未詳
歌麿の美人ふすまで年が寄り
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):130‐34
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、美人画の頭部、髪の生えぎわの彫を毛割けわりと称し、画師の版下絵に細部の毛髪は描かれておらず、彫師の腕にゆだねられる。彫の技術は後期にいよいよ発達する。第二句、襖などに貼りまぜられた美人画、経年劣化し、色もあせ見るかげなし。


世界大百科事典

喜多川歌麿
きたがわうたまろ
1753?-1806(宝暦3?-文化3)

江戸時代の浮世絵師。伝記的に不明な部分が多く,宝暦3年出生は通説。出生地も江戸,川越,京都などの各説あるが,近時は江戸説が有力。本姓は北川氏,名は勇助あるいは市太郎。画号ははじめ豊章,のち歌麿と改め,画姓も喜多川とする。俳名は石要,狂歌師名は筆綾丸(ふでのあやまる)と称した。幼時から町狩野(まちがのう)の鳥山石燕に絵を学び,初作は1775年(安永4)の《四十八手恋所訳》下巻表紙絵。天明元年(1781)の年号のある序文をもつ黄表紙《身貌大通神略縁起》に画工歌麿の名があり,歌麿改名はこのころと思われる。歌麿の才能を見抜いたのは,この書の版元でもあり,商才と気骨をうたわれた蔦屋重三郎(蔦重)で,《画本虫ゑらみ》《汐干のつと》《百千鳥狂歌合》等の豪華な彩色刷の狂歌絵本シリーズによって歌麿の才能を開花させた。当初は美人画ではなく,花鳥画で彼の力が認められた。1791年(寛政3)幕府の風俗粛正策により,蔦重も山東京伝の洒落本出版の科で身上半減の刑を受ける。その痛手回復に選ばれたのが歌麿であり,美人の半身像を描いた〈大首絵(おおくびえ)〉シリーズであった。その目論見は図に当たり,俗流観相学と絡ませた《婦女人相十品》《婦人相学拾躰》《歌撰恋之部》の試みは,従来の美人画を一変させるほどの人気を博し,歌麿の声価も定まった。蔦重以外からも《当時全盛美人揃》《北国五色墨》等の傑作が生まれる。これらに共通する歌麿美人画の特質は次のように要約されよう。まず構図については,〈大首絵〉は役者絵に先例があるがたんなる役者の接近描写にすぎなかった。歌麿のそれでは,美人の半身がバランスを崩すすれすれのところで構図される。次に,色彩の極度の節約でかえって口紅や下着の色が強く感じられ,女性の肉感的な生々しさが濃厚ににじみ出てくる。さらに,従来の美人画に多かった型どおりのとらえ方ではなく,女性の一瞬の表情や姿態を描くことによってその内面からとらえていこうとする描写態度である。式亭三馬が歌麿を〈女絵を新たに工夫する〉と評したように,歌麿の美人画が現代でも新鮮に受けとめられる理由がここにある。
[狩野 博幸]

[索引語]
豊章 歌麿 石要 筆綾丸 大首絵
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3. きたがわ‐うたまろ【喜多川歌麿】
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江戸中期の浮世絵師。姓は北川。名は信美。初号、豊章。狂歌名、筆の綾丸。鳥山石燕(せきえん)の門に学び、細判の役者絵や絵本を制作する。のち大首絵を創案し、優麗繊細
4. きたがわうたまろ【喜多川歌麿】
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1753−1806 江戸時代中期-後期の浮世絵師。宝暦3年生まれ。鳥山石燕(せきえん)にまなぶ。版元蔦屋(つたや)重三郎にみいだされ,狂歌絵本で頭角をあらわす。
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日本架空伝承人名事典
喜多川歌麿
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32. 歌麿 313ページ
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