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  11. 運慶

運慶

ジャパンナレッジで閲覧できる『運慶』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典のサンプルページ

国史大辞典

運慶
うんけい
 - 一二二三
鎌倉時代初期の仏師。康慶の子。長子湛慶が建長六年(一二五四)八十二歳であった(蓮華王院本堂中尊千手観音像銘)ことから逆算して、ほぼ一一四〇年代の出生と推定される。治承四年(一一八〇)焼亡の東大・興福両寺の復興造像に康慶とともに一門を率いて活躍、この間すぐれた造仏手腕によって南京仏師の地位を高めるとともに、新様式を完成、鎌倉時代彫刻様式の根幹を形づくった。安元二年(一一七六)父の指導下に造った円成寺大日如来像が知られる最初の遺作で、寿永二年(一一八三)みずから発願の『法華経』(真正極楽寺・上野家蔵)を書写、文治二年(一一八六)北条時政発願の伊豆願成就院造像(阿弥陀・不動三尊・毘沙門現存)、同年永久寺正願院弥勒菩薩、同五年和田義盛発願の横須賀浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門(現存)を造り、その銘によれば当時興福寺相応院勾当であった。建久五年(一一九四)峯仲子私田を買得した興福寺西金堂衆雲慶房大法師(『東大寺文書』)を仏師運慶にあてる説がある。同年東大寺中門二天造立に定覚を補佐し、同六年東大寺大仏殿供養に康慶譲で法眼叙位、翌七年大仏殿脇侍・四天王像を康慶・定覚・快慶とともに造り、同八年・九年文覚発願により東寺講堂諸像を修理、同南大門二王、神護寺中門二天を造り、同じく文覚発願により東寺講堂像を模して神護寺講堂諸像を造立するが、これは遅れて文覚没後に完成している。建仁二年(一二〇二)近衛基通発願の白檀一尺六寸普賢菩薩を造り、翌三年東大寺南大門二王(現存)を快慶らと造り、東大寺総供養に際して法印叙位、承元二年(一二〇八)より建暦二年(一二一二)まで一門を率い惣大仏師として興福寺北円堂諸像(弥勒仏・無著・世親現存)を造り、建保元年(一二一三)法勝寺九重塔造仏に当時の諸流の仏師とともに携わり、同四年源実朝持仏堂釈迦を京都より渡し、同六年北条義時発願大倉新御堂薬師を造り、承久元年(一二一九)平政子発願勝長寿院五大堂造仏、建保六年以前みずから発願造立の地蔵十輪院諸像を貞応二年(一二二三)高山寺に移したのが知られる最後の事蹟である。その他、光明峯寺金堂不動三尊を造っている。同年十二月十一日没。以上、南京仏師として東大・興福寺関係のほか、早くから東国武士関係の造仏に従い、また文覚に重用されて東寺を中心に京都にも拠点を持つに至り、宮廷貴族関係にも用いられたことが知られる。円成寺大日では平安後期様式に従いながらすぐれた彫刻的天分を示し、願成就院諸像では天平彫刻・平安初期彫刻にまなびながら写実と量感を兼ねそなえた力強い新様式をはじめて打ち出し、以後これを洗練させて鎌倉彫刻の基本型を完成させた。金剛峯寺不動堂八大童子像の内六躯、六波羅蜜寺地蔵菩薩像は確証はないが彼の作か。子息六人(湛慶・康運・康弁・康勝・運賀・運助)はそれぞれ運慶様をついでこれを展開させ、娘如意は七条院女房冷泉局の養子となり正治元年(一一九九)近江香荘を譲り受けたことが知られる(早稲田大学図書館所蔵『香庄文書』)。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ一五 承久元年十二月二十七日条、小林剛『日本彫刻作家研究』、久野健・田枝幹宏『運慶の彫刻』、田辺三郎助編『運慶と快慶』(至文堂『日本の美術』七八)、水野敬三郎『運慶と鎌倉彫刻』(小学館『日本の美術』一二)、林屋辰三郎「仏師運慶について」(『中世文化の基調』所収)、荻野三七彦「運慶の謎」(『日本中世古文書の研究』所収)、西川杏太郎「運慶の作例とその木寄せについて」(『仏教芸術』八四)
(水野 敬三郎)


日本大百科全書(ニッポニカ)

運慶
うんけい
[?―1223]

鎌倉初期の仏師で、日本彫刻史上にもっとも有名な作家。父は定朝 (じょうちょう)5代目と称する慶派の康慶 (こうけい)。当時は京都に根拠を置く院派、円派が貴族階層の信任を受けて勢力があり、興福寺に所属し、奈良を中心とする慶派は振るわなかったが、運慶の代には関東武士の間に活躍の場を求め、その情勢を逆転させるに至った。壮年期には奈良の興福寺の造仏により、仏師としての僧綱位 (そうごうい)も法橋 (ほっきょう)から法眼 (ほうげん)、法印 (ほういん)へと上り、晩年には主として鎌倉幕府関係の仕事を手がけるなど、運慶の制作は造仏の盛んだった当時でも例のないほどで、実力もさることながら、人気のほどが察せられる。約60年にわたる仏師としての生涯における作品は、文献上では多いが、確実な遺品として現存するのは奈良円成寺大日如来 (だいにちにょらい)像(1176)、静岡願成就院阿弥陀 (あみだ)如来・不動・毘沙門天 (びしゃもんてん)像(1186)、神奈川浄楽寺阿弥陀三尊・不動・毘沙門天像(1189)、高野山 (こうやさん)不動堂の八大童子像(1197)、奈良興福寺北円堂弥勒 (みろく)・無著 (むじゃく)・世親 (せしん)像(1212ころ)、快慶と合作の東大寺金剛力士像(1203)にすぎない。没年は貞応 (じょうおう)2年12月11日と伝える。

 運慶の作風は、康慶に始まる写実主義を推し進め、平安末期の形式化した貴族趣味的な像に対し、男性的な風貌 (ふうぼう)、堂々たる体躯 (たいく)、深く複雑な衣文 (えもん)線、自由な動きをもつ姿態などに特色があり、かつ天平 (てんぴょう)以来の彫刻の古典をその作品に総合している。これが当時の武士階級に喜ばれ、幕府をはじめ諸豪族の注文も多かった。彼の子の湛慶 (たんけい)、康勝、康弁、および康慶の弟子快慶などが、彼のあとも引き続いて活躍し、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあった。彼の作風は関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を基としている。

[佐藤昭夫]



世界大百科事典

運慶
うんけい
?-1223(貞応2)

平安末~鎌倉初期に活躍した仏師。名匠定朝の系統である慶派に属し,父は康朝の弟子とされる康慶である。12世紀後半期は京都に根拠を置く院派・円派が貴族の信任を得て勢力を誇り,定朝の孫の頼助以来興福寺に所属して奈良に中心を置く慶派はふるわなかった。しかし,康朝の子成朝が鎌倉に下るなど,しだいに慶派は関東武士の間に活躍の場を求め,運慶の代に入り,東大寺復興の造仏に至ってその勢力関係は逆転する。慶派と関東武士との結びつきは,院派・円派が京都の旧権力者に重く用いられていたため,これに反発する東国勢力が慶派を用いたこと,また慶派の新鮮な力強い彫刻表現に力への憧憬の念をもつ東国武士たちが共感をいだいたことによると思われる。運慶らは,成朝との関係から関東武士に重用されたのであろう。諸記録に見られる運慶の活躍は,造仏の盛んだった鎌倉初期にあっても際立っており,実力もさることながら,人気の程が察せられる。

 しかし現存する彼の確実な作品は少なく,奈良円成寺の大日如来像(1176),静岡願成就院の阿弥陀三尊(脇侍は現存せず)・不動明王・毘沙門天像(以上1186),神奈川浄楽寺の阿弥陀三尊・不動明王・毘沙門天像(以上1189),高野山不動堂の八大童子像(1197,2軀は室町期の後補),奈良興福寺北円堂の弥勒三尊像(脇侍は現存せず)および同寺の無著・世親像(以上1212ころ),快慶と合作になる東大寺南大門の金剛力士像(1203)にすぎない。運慶の作風は康慶にすでに見られた写実主義的傾向をさらにおし進め,平安末期に流行していた定朝様の形式化した貴族趣味的な像に対し,男性的な風貌,堂々たる体軀,複雑で彫の深い衣文,自由な動きをもつ姿態などに特色が見られる。定朝様に対する意識的な反抗は,平安王朝文化の否定という,当時の一般的な文化現象に通じるといえる。そして運慶様の基礎は奈良の地で天平以来の彫刻の古典を学び総合したことにあるだろう。彼の仕事の足跡をたどると,最初期の作であり20歳代の作と思われる円成寺像は,引きしまった体軀や玉眼という新技法を取り入れた点に新しい動向が見られるが,なお藤原風を脱しきれてはいない。それから10年後の願成就院像において,はっきりとその後の運慶様に見られる特色を示す。その3年後の浄楽寺像とともに,これらの像は鎌倉幕府の首脳である北条時政・和田義盛の発願になることは特筆されねばならない。1197年(建久8)には京都東寺講堂の像の修理を文覚を願主として行い,1203年(建仁3)には文覚の中興した神護寺の像を制作する。同年東大寺再興の最後を飾る南大門の金剛力士像の場合は,20人の仏師のみごとな分業体制によって,69日間で8mを超す巨像の制作に成功する。同年11月の東大寺総供養で運慶は仏師として最高位の法印に昇る。その後興福寺北円堂の造営を終えたあとは主として鎌倉幕府関係の造仏に終始し,18年(建保6)北条義時発願の大倉新御堂像,19年(承久1)頼朝菩提のため政子が営んだ勝長寿院の五大尊などをつくっている。

 運慶は幕府だけでなく,摂政近衛基通発願の普賢菩薩像(1202)をつくり,白河上皇が建立した法勝寺九重塔の復興造営(1213)にも参加している。晩年には自ら地蔵十輪院を建て,一門の子弟と共に多くの造仏をしたが,いま京都六波羅蜜寺に伝わる地蔵菩薩座像はその本尊といわれている。運慶には湛慶,康運,康弁,康勝,運賀,運助の6人の子息があったといわれ,多くのすぐれた子弟を育て,その後の慶派の地位を不動のものとした。その様式は,規範として,長く日本の彫刻に影響を与えた。
[佐藤 昭夫]

[索引語]
慶派 興福寺 快慶 定朝様 運慶様


新版 日本架空伝承人名事典

運慶
うんけい
?‐1223(貞応2)
 平安末~鎌倉初期に活躍した仏師。運慶は父康慶に見られた写実傾向を推し進め、平安後期の定朝様式の形式化した貴族趣味的な像を否定し、天平以来の古典的表現を基礎とした力強い作風を完成したが、その様式は鎌倉時代彫刻の規範とされ、長く日本彫刻に影響を与えた。それだけに彼の声望は当時から大きく喧伝され、多くの伝承を生んでいる。『吾妻鏡』に藤原基衡が毛越寺を造営した時、本尊丈六薬師像と十二神将を仏師雲(運)慶に依頼し、多額の金品や山海の珍物を贈ったという話が載っていることなど、その最たるものである。京都三十三間堂の像を慶長ころ(一七世紀初め)修理した仏師康正の言が『大仏師系図』にあり、千躰仏は湛慶の作ではなく運慶作の像が多いといい、事実運慶銘像(五〇一号)があるが、造立銘ではなく、後世の鑑定銘である。運慶が三十三間堂像を造立する機会はありえず、彼の作であってほしいという願望のゆえだろう。運慶作と称する像は全国に多く、行基作、空海作と並ぶほどであるが、彼の確実な作はごく少なく、伝承像は彼の作といいがたいものがほとんどだが、昔の人の目は意外に確かで、いかにも運慶作らしい、多少とも厳しい顔立ちの、量感を持った像とか、激しい表現をした忿怒相の、とくに仁王像などを彼の作としているのも面白い。夏目漱石の『夢十夜』にある浅草の仁王像を運慶が造っていたという話など、それを示す好例といってよいだろう。
[佐藤 昭夫]
 運慶は今太い眉を一寸の高さに横へ彫り抜いて、鑿の歯を竪に返すや否や斜すに、上から槌を打ち下した。堅い木を一と刻みに削つて、厚い木屑が槌の声に応じて飛んだと思つたら、小鼻のおつ開いた怒り鼻の側面が忽ち浮き上がつて来た。其の刀の入れ方が如何にも無遠慮であつた。さうして少しも疑念を挟んで居らん様に見えた。
 「能くあゝ無造作に鑿を使つて、思ふ様なまみへや鼻が出来るものだな」と自分はあんまり感心したから独言の様に言つた。するとさつきの若い男が、
 「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんぢやない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋つてゐるのを、鑿と槌の力で掘り出す迄だ。丸で土の中から石を掘り出す様なものだから決して間違ふ筈はない」と云つた。
夢十夜
うんけいの作のそばから乗て行
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):7‐24
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
浅草蔵前の長延寺の本尊の閻魔像(長一丈六尺)は運慶作と伝えられていた。蔵宿くらやどで金策した武士が駕籠に乗って行く先は、言わずと知れた吉原。
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検索コンテンツ
1. 運慶
日本大百科全書
彼のあとも引き続いて活躍し、鎌倉時代前半の彫刻界は運慶中心の慶派の時代でもあった。彼の作風は関東の彫刻にも大きな足跡を残し、いわゆる鎌倉地方様式も、この運慶様を
2. 運慶
世界大百科事典
をもつ東国武士たちが共感をいだいたことによると思われる。運慶らは,成朝との関係から関東武士に重用されたのであろう。諸記録に見られる運慶の活躍は,造仏の盛んだった
3. うんけい【運慶】
日本国語大辞典
鎌倉初期の彫刻家。南都仏師。定朝五代の孫康慶の子。東大寺や興福寺の復興事業に加わり、数多くの仏像を制作。写実的な力強い作風で、鎌倉彫刻の第一人者とされる。作品に
4. うんけい【運慶】画像
国史大辞典
』、久野健・田枝幹宏『運慶の彫刻』、田辺三郎助編『運慶と快慶』(至文堂『日本の美術』七八)、水野敬三郎『運慶と鎌倉彫刻』(小学館『日本の美術』一二)、林屋辰三郎
5. 運慶(うんけい)
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 155ページ
6. うんけい【運慶】
日本人名大辞典
?−1224* 平安後期-鎌倉時代の仏師。父康慶とともに戦乱で荒廃した奈良諸大寺の復興,造仏につくす。建仁(けんにん)3年快慶と東大寺南大門仁王像を制作,法印と
7. うんけい【運慶】
日本架空伝承人名事典
『大仏師系図』にあり、千躰仏は湛慶の作ではなく運慶作の像が多いといい、事実運慶銘像(五〇一号)があるが、造立銘ではなく、後世の鑑定銘である。運慶が三十三間堂像を
8. 運慶[文献目録]
日本人物文献目録
【逐次刊行物】:38件 『運慶略年譜』西川新次『大仏師運慶』丸尾彰三郎『運慶』田中万宗『運慶論』岡本謙次郎『東大寺』小林剛『仏師運慶の研究』小林剛『運慶』滝川駿
9. 運慶
古事類苑
宗教部 洋巻 第1巻 216ページ
10. 運慶花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
11. あしかりやまちょう【芦刈山町】京都市:下京区/格致学区地図
日本歴史地名大系
みいだすという物語である。神体にあたる芦刈の尉は、頭に「天文六丁酉年六月、七条仏師運慶之玄孫式部卿法印康運作」の墨書銘があり、康運は運慶の末弟運助の七代目にあた
12. あぶくまがわ【阿武隈川】福島県:総論
日本歴史地名大系
の信達盆地は古くからの養蚕地帯であった。平安時代末期藤原基衡が奥州平泉毛越寺の本尊を仏師雲慶(運慶)に作らせた際の謝礼のなかに「安達絹千疋」「信夫毛地摺千端」が
13. あまのさんこんごうじ【天野山金剛寺】大阪府:河内長野市/天野山村地図
日本歴史地名大系
国指定重要文化財の金堂安置の本尊木造大日如来坐像・脇士木造不動明王坐像・木造降三世明王坐像(以上鎌倉、伝運慶作)、銅造観音菩薩立像(飛鳥―白鳳)、絵画では絹本著
14. あらまち【荒町】宮城県:仙台市/仙台城下
日本歴史地名大系
団扇の内職をしてかなりの産額があったという(物産沿革)。町の守護神ともいうべき毘沙門堂の本尊は運慶作と伝え、戦国時代には名取郡北目城主粟野大膳亮の守護神であった
15. あんあみ の 作(さく)
日本国語大辞典
作(ゴサク)にてもあるべきか。心だておむくにして、残所なし」*古郷帰の江戸咄〔1687〕芝居「運慶、湛慶、あん阿彌の御作か、ちょいちょいなどとののしりて」*俳諧
16. あんこうじ【安岡寺】大阪府:高槻市/服部村地図
日本歴史地名大系
院・泉蔵坊があった。「摂津名所図会」によると、本尊は長一尺五寸、脇侍左は弘法大師作不動尊、右は運慶作毘沙門天。開山堂には開成皇子と開智禅師の像を安置。鎮守には八
17. あんこくじ【安国寺】宮城県:古川市/柏崎村
日本歴史地名大系
光背の高さ三尺七寸、その特徴は螺髪が低めになっていることから、宋朝様式の影響をうけた室町時代の作で、運慶の流れをくむ仏師の作とみられる。像高三尺四寸の毘沙門天色
18. あんなみよう【安阿弥様】
国史大辞典
鎌倉時代初頭に、運慶と並んで活躍した大仏師快慶(安阿弥陀仏)の創った彫刻様式をいう。彼が安阿弥陀仏号を作品に署名したのは、遺品から見ると建久三年(一一九二、京
19. いしがみむら【石神村】福島県:原町市
日本歴史地名大系
かつて曹洞宗戒養寺があった(以上「奥相志」)。旧高旧領取調帳では高一二六石余。相馬三十三観音の第二九番札所で、運慶作と伝える十一面観音を安置する真言宗西福寺があ
20. いしてじ【石手寺】愛媛県:松山市/石手川下流域(旧温泉郡の大部分)/石手村
日本歴史地名大系
全体の容姿は均衡よく整い、全国屈指のものである。また蟇股は優麗繊細で鎌倉時代の傑作といわれる。なお楼門には運慶一門の作と伝える金剛力士の像(県指定有形文化財)を
21. いしやまでら【石山寺】滋賀県:大津市/南部地域/寺辺村
日本歴史地名大系
安延名のように中核となる名主名義の田地にほかの田地を組合せる場合もあった。教厳・良全(例院司)・運慶・快珍などの僧侶名、大工・清目・紺舁などの職掌名がみえ、一二
22. いずみまち【和泉町】長野県:松本市/松本城下
日本歴史地名大系
代々ノ住持開クコトナシ、(中略)護摩堂本尊ハ不動尊、知証大師ノ作(中略)本坊ノ内仏ハ金剛界大日如来運慶ノ作ナリ云々」とある。歴代松本城主の祈願所、水野氏時代寺領
23. いちののむら【市野々村】岩手県:一関市
日本歴史地名大系
ら当国第一の篦とほめられたことによると伝える(安永風土記)。また藤原氏の招きによって当地に来た運慶が自境山(自鏡山、三四一メートル)の桂を使って多くの仏像を彫刻
24. いちばむら【市場村】滋賀県:高島郡/朽木村
日本歴史地名大系
朽木亮綱の菩提寺。天台真盛宗慶宝寺は明応四年坂本西教寺二世盛全の創立、本尊阿弥陀如来、脇士観音・勢至の三体は伝運慶作という。毎年一一月二〇日にお十夜会と称し、夜
25. いちみやけむら【市三宅村】滋賀県:野洲郡/野洲町
日本歴史地名大系
五五)、開山は浄厳院六世仙誉殊慶とある。「輿地志略」には往古は天台宗、寺蔵の不動・毘沙門天像は運慶の作、三宅出雲守が大檀越であると記す。本尊の鎌倉時代作木造阿弥
26. いわじりむら【岩尻村】宮城県:本吉郡/本吉町
日本歴史地名大系
一一月から一二月までは根魚・そい・鈍口を延縄・手釣でとっている。曹洞宗陽広山仙翁寺があり、本尊の薬師如来は運慶の作と伝える。明応元年(一四九二)邑主千葉豊後守に
27. いわとむら【岩戸村】神奈川県:横須賀市地図
日本歴史地名大系
開山は大達明岩正因、開基は三浦一族の佐原義連という。木造菩薩立像・木造地蔵菩薩立像は鎌倉時代の運慶系の地方仏師の手になり、いずれも国指定重要文化財。不動明王・毘
28. いわやじ【岩屋寺】島根県:仁多郡/横田町/馬場村
日本歴史地名大系
大師像(高野山阿本により京仏師作)・石刻文字・文書等が現存している。四天王(愛知県浄蓮寺蔵)は運慶八代目の弟康秀が当寺に来山し彫刻したもの。また紀州高野山に隠遁
29. 院派
世界大百科事典
造ることが多く,院助,院覚,院朝,院尊などが出て,最も勢力のある一派であった。鎌倉時代の前半には,運慶を中心にした慶派仏師に押されたが,後半から南北朝時代にかけ
30. うばどう【姥堂】愛知県:名古屋市/熱田区/宮宿/伝馬町
日本歴史地名大系
俗に「おんばこさん」とよばれ、神戸町の円福寺に属していた。奪衣婆の木像は八尺一寸あり、空海作・運慶作・安阿弥作などといわれていた。創建の年代を「名古屋市史」社寺
31. うばどうあと【姥堂跡】京都市:東山区/清水寺門前/清水寺地図
日本歴史地名大系
跡志)。本尊は愛染明王で、愛染院の名もある。姥堂の名は本尊の脇に三途川の老婆の木像(坐像三尺、運慶作と伝える)を配したことによる。この像について「菟芸泥赴」(貞
32. うるしむら【漆村】福島県:耶麻郡/北塩原村
日本歴史地名大系
天台宗大正寺は漆薬師堂の参道を扼する地にある。空海が薬師山を開いたときに創建され、本尊の三尊阿弥陀如来は運慶の作と伝える(大塩組風土記)。「新編会津風土記」によ
33. うんが【運賀】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の仏師。運慶の5男といわれる。建久の末ごろ父にしたがい,東寺の仏像制作・修理にくわわる。承元(じょうげん)2年(1208)からはじまった運慶一門
34. うんじょ【運助】
日本人名大辞典
?−? 鎌倉時代の仏師。運慶の6男といわれる。建久の末ごろ父にしたがい,東寺の仏像制作・修理にくわわる。承元(じょうげん)2年(1208)からはじまった運慶一門
35. えこういん【回向院】京都市:上京区/仁和学区/東竪町地図
日本歴史地名大系
焼、天明二年(一七八二)再建(坊目誌)。「浄家寺鑑」は善導大師像・法然上人絵像・如意輪観音・伝運慶作毘沙門・伝定朝作地蔵・摩耶夫人と悉達太子像などの寺宝を記し、
36. 江戸近郊道しるべ 102ページ
東洋文庫
一、高幡山、元は天台宗にて、慈覚大師を開基とす、今は真言宗にて寺領御朱印三十石一、山門二王尊は運慶作一、山上八幡宮は、源頼義公奥州下向の時勧請、今は五社と成、古
37. 江戸近郊道しるべ 342ページ
東洋文庫
とはよまず、靖重識 五 仏像に玉眼を入る事、仏師運慶に始るといふ、実にしかるやいなや、下総の国分寺中にある四天  布袋和尚の木像には玉眼なし、是らは運慶以前、聖
38. 江戸繁昌記 1 66ページ
東洋文庫
安置、左輔金剛は一丈五尺九寸、腰廻り七尺三寸。右輔金剛は一丈六尺、腰廻り七尺六寸。雄勁な名品で、運慶作と伝えていた。毎年春秋の彼岸の中日、正月と七月の十六日には
39. えにちじ【恵日寺】愛知県:稲沢市/西島村
日本歴史地名大系
の地から移した。境内の薬師堂は明応九年建立、安永八年(一七七九)再建と伝え、腹籠の薬師如来像は運慶作と伝える。
40. えんこうじ【円光寺】愛知県:稲沢市/下津村
日本歴史地名大系
歩の寄進を受けた。また荒野一畝一〇歩も除地(徇行記)。本尊聖観世音菩薩像は聖徳太子作、二王像は運慶作と伝えられる。
41. えんじゅじ【延寿寺】京都市:下京区/稚松学区/本塩竈町地図
日本歴史地名大系
王院(三十三間堂、現京都市東山区)を供養した際、諸所の捧物をもって造らしめたもので、その鋳型は運慶作という。長講堂が一時退転した時、この三尊を本尊とした天台宗寺
42. 円成寺
日本大百科全書
阿弥陀堂)、楼門、宇賀神うがじん堂、五輪塔、本尊厨子ずし、阿弥陀如来坐像ざぞう、大日如来坐像(運慶作)、四天王立像などがあるほか、県指定の文化財も多い。復原され
43. えんじょうじ【円成寺】
国史大辞典
仏身の料として上品八丈絹四十三疋をたまわったことが記され、「大仏師康慶実弟子運慶」の記名と花押がある。師父康慶指導下の若年の作で、のちに完成する運慶様式はまだ見
44. えんじょうじ【円成寺】 : 円成寺/(二)
国史大辞典
代初期の庭園として著明で、本堂・楼門(ともに重要文化財)、春日堂・白山堂(ともに国宝)のほか、運慶の大日如来像(重要文化財)、四天王・阿弥陀如来(ともに重要文化
45. えんじょうじ【円成寺】奈良県:奈良市/柳生・田原地区/忍辱山村
日本歴史地名大系
丙申十月十九日 大仏師康慶 実弟子運慶」とあり、七条仏所の総帥康慶の実弟子運慶が安元元年(一一七五)一一月二四日から約一年をかけて完成した。運慶二〇代末年頃の作
46. 円成寺大日如来坐像
日本史年表
1176年〈安元2 丙申〉 10・19 運慶, 円成寺大日如来坐像 を作る(同像銘)。
47. えんぱ【円派】画像
国史大辞典
十二世紀後半には明円がおり、平家関係の造仏にも携わったことが目だち、南都復興では一門を率いて院尊・康慶・運慶らと活躍した。遺作に安元二年(一一七六)の大覚寺五大
48. えんめいじ【延命寺】愛知県:海部郡/甚目寺町/坂牧村
日本歴史地名大系
」とみえる古刹。源三位頼政の造立と伝えられ、境内の薬師堂は頼政の持仏の木仏坐像の薬師如来を本尊とする。寺内の運慶作という十二神将も頼政の寄付とされる(尾張志)。
49. おおいしだむら【大石田村】福島県:大沼郡/三島町
日本歴史地名大系
に徳一が会津五高野の一つとするべく大高寺を建立し、三六坊を開き、その一つ大石沢金岩山金秀院には運慶作の虚空蔵菩薩像を安置したと伝える(「会津正統記」など)。三六
50. おお‐ボス[おほ‥]【大─】
日本国語大辞典
〔名〕 (ボスは{英}boss )大親分。最高実力者。*美貌の皇后〔1950〕〈亀井勝一郎〉中尊寺「運慶は仏師界における大ボスであったやうな気がしてならない」オ
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真田幸村(真田信繁)(国史大辞典・日本大百科全書・日本架空伝承人名事典)
一五六七 - 一六一五 安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。幼名御弁丸、のち源次郎。左衛門佐と称す。名は信繁。幸村の名で有名であるが、この称の確実な史料はない。高野山蟄居中に剃髪して好白と号した。永禄十年(一五六七)信濃国上田城主真田昌幸の次男
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
真田昌幸(国史大辞典)
安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え
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ユダヤ教およびキリスト教の聖典。人類の歴史において,聖書ほど広く世界に行き渡り,人々の心を深く捉え,その社会・文化あるいは思想の形成に多大な影響を与え,また熱心な研究の対象となってきたものはおそらくないであろう。その意味で,聖書は人類の大いなる遺産
閻魔(日本架空伝承人名事典・日本国語大辞典・世界大百科事典)
閻魔は冥府の王として仏教とともに日本に入り、恐ろしいものの代名詞とされたが、地蔵菩薩と習合して信仰対象にもなった。奈良時代には閻羅王と書かれ、まれに閻魔国とも書かれている(『日本霊異記』)。閻羅は閻魔羅闍(えんまらじゃ)の略で、閻魔王の意味である。
信教の自由(日本大百科全書・世界大百科事典)
宗教を信仰し、宗教上の行為を行う自由。宗教の自由ともいう。信教の自由は、宗教的権威から人間精神を解放することにより、近代の精神的自由の確立に大きな役割を果たした。また、信教の自由は、人間の魂の救済にかかわる自由として、精神的自由の源をなし、近代以来の
三宝絵詞(東洋文庫・国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典・日本国語大辞典)
平安中期,出家した尊子内親王に源為憲が献じた仏教入門書。表題には「絵」とあるが,絵は失われて詞書だけがのこる。本生譚,経典の功徳,仏教・年中行事などを内容とする。1990年01月刊
渓嵐拾葉集(国史大辞典・世界大百科事典)
叡山の光宗が応長元年(一三一一)から貞和四年(一三四八)にかけて叡山天台の行事・作法や口伝法門などを集録したもの。もと三百巻あったと伝えるが、現在は百十三巻。顕部・密部・戒部・記録部・医療部・雑記部の六部からなり、当時の天台の顕・密・禅・戒に関する
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