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  11. 源実朝

源実朝

ジャパンナレッジで閲覧できる『源実朝』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

源実朝
みなもとのさねとも
一一九二 - 一二一九
鎌倉幕府第三代将軍。一二〇三―一九在職。幼名千幡。建久三年(一一九二)八月九日鎌倉で誕生。父は源頼朝、母は北条政子。正治元年(一一九九)正月十三日父が急死、兄頼家が第二代将軍となった。建仁三年(一二〇三)の八月二十七日、頼家病気のため代わって関西三十八ヵ国の地頭職に補せられ、翌月二日比企一族が滅亡し、頼家が伊豆修禅寺に幽閉されると、同月七日には従五位下に任ぜられ、将軍職をつぎ、名を実朝と改めた。時に十二歳。元久元年(一二〇四)正月に従五位上、二年正月には正五位下・右近衛権中将にそれぞれ叙任せられた。元久二年の六月には畠山重忠が討たれたが、七月八日、畠山一党の所領を功労者に分賜した時のことを『吾妻鏡』は「将軍家御幼稚の間」すべて母政子の計らいによった旨を記す。実朝の置かれていた立場がよくわかる。同じ年閏七月、北条時政が妻牧氏とともに平賀朝雅の将軍擁立を企てて失敗、時政は伊豆に隠退、嫡子義時が執権となり、朝雅も討たれた。建永元年(一二〇六)二月に従四位下に叙せられたのをはじめ官位は順調に進み、承元三年(一二〇九)には従三位・右近衛中将、建暦元年(一二一一)正三位。この年、下向した鴨長明が実朝に「謁し奉ること度々に及」(『吾妻鏡』)んだ。年中行事への親臨や寺社参詣の公的役割を果たすだけで政治の実権を持たなかった実朝は和歌に心を傾け、早く元久二年四月に十二首を詠じ、歌会もしばしば催した。最初の師は藤原定家の弟子内藤知親と推測されているが、のちには定家に批評を請い、定家から『詠歌口伝』や『万葉集』を贈られている。鴨長明をたびたび引見したのも、和歌への関心に基づく。建暦二年従二位に叙され、明庵栄西を導師に迎えて大慈寺(廃絶)を開創。建保元年(一二一三)正二位。この年五月和田義盛が挙兵、北条氏に討たれて和田一族が滅びる。同四年には六月権中納言、七月左近衛中将と進み、九月、北条義時の命をうけた大江広元から官位昇進への願望を諫言され、「源氏の正統此の時に縮まり畢(おわ)んぬ、子孫敢てこれを相継ぐべからず、然らば飽くまで官職を帯し、家名を挙げんと欲す」(『吾妻鏡』)と答えた。また同年六月、東大寺大仏再興にたずさわった宋人陳和卿(ちんなけい)と対面、十一月、渡宋用の船の建造を命じた。船は翌年完成したが海に浮かばず、渡宋の夢は破れる。同六年正月権大納言に任ぜられたが、大将補任を望んで使者を京都に送り、その年三月には左近衛大将を兼任、十月には内大臣、十二月には右大臣に昇った。翌承久元年(一二一九)正月二十七日、右大臣拝賀のため鶴岡八幡宮寺に参詣、神拝の終ったあと、頼家の遺子公暁に暗殺された。室坊門信清女とのあいだに子供はなかった。時に二十八歳。鎌倉勝長寿院に葬られたが同院は廃絶して墓も滅び、鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)寿福寺に供養塔と思える石造五輪塔が建つ。家集に『金槐和歌集』がある。→喫茶養生記(きっさようじょうき),→金槐和歌集(きんかいわかしゅう),→近代秀歌(きんだいしゅうか)
[参考文献]
『大日本史料』四ノ一四 承久元年正月二十七日条、『愚管抄』(『日本古典文学大系』八六)、川田順『源実朝』、斎藤茂吉『源実朝』(『斎藤茂吉全集』三三)、竜粛『鎌倉時代』上、中野孝次『実朝考』、小林秀雄『無常といふ事』(『小林秀雄全集』八)、鎌田五郎『源実朝の作家論的研究』、吉本隆明『源実朝』(『日本詩人選』一二)、志村士郎『金槐和歌集とその周辺』、松永伍一『実朝游魂』
(三山 進)


日本大百科全書(ニッポニカ)

源実朝
みなもとのさねとも
[1192―1219]

鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝 (よりとも)の二男。母は北条政子 (ほうじょうまさこ)。幼名千幡 (せんまん)。1203年(建仁3)北条時政 (ときまさ)が2代将軍頼家 (よりいえ)を倒したとき、後を継ぐ千幡に朝廷から実朝の名を賜り、征夷 (せいい)大将軍に任ぜられた。時政は政所別当 (まんどころべっとう)をその手に収めて独裁政治の一歩を踏み出し、源氏の功臣畠山重忠 (はたけやましげただ)その他を倒してその勢いを示した。実朝は、もはや政治上に多くを期待しえないことを知って、むしろ京都風の文化と生活とを享受する楽しみに意をもっぱらにし、夫人も都から迎え、右大臣の高官を望むという風であった。そのため関東武士の信望はしだいに薄らいだ。北条義時 (よしとき)はこの情勢を利用して、源氏将軍断絶の計画を推し進めたと思われる。義時は1213年(建保1)関東の大勢力たる和田義盛 (わだよしもり)を倒し、義盛の帯していた侍所 (さむらいどころ)別当をあわせて、北条氏による執権 (しっけん)政治の基礎を築いた。そして実朝に実子がないため、将来皇族を将軍に迎える方針をたてた。一方朝廷側は、1219年(承久1)実朝に右大臣の官を授けた。しかしそれは身分不相応の高い官を与えて、自滅させる「官打ち」を目的としたものと噂 (うわさ)された。正月27日、実朝は鎌倉鶴岡八幡宮 (つるがおかはちまんぐう)でその拝賀式を行ったが、甥 (おい)公暁 (くぎょう)のために殺され、ここに源氏の正統は絶え、源氏将軍も3代で断絶した。

 実朝は和歌を熱愛し、藤原定家 (ていか)の指導を受けて『万葉集』『古今和歌集』をはじめ、古来の和歌を研究して独自の歌風を大成した。その家集『金槐 (きんかい)和歌集』3巻は約700首の詠を収めており、古今の絶唱と高く評価されるものをも含んでいる。

[多賀宗隼]



世界大百科事典

源実朝
みなもとのさねとも
1192-1219(建久3-承久1)

鎌倉幕府第3代将軍。歌人。1192年8月9日源頼朝と北条時政女政子の次男として鎌倉に生まれた。幼名を千幡(万)(せんまん)という。父頼朝の死後征夷大将軍に補任された兄頼家が廃されたため,1203年(建仁3)9月征夷大将軍の職を継いだ。早くから京の文化にあこがれ,04年(元久1)後鳥羽上皇の母七条院の姪に当たる坊門家の権大納言藤原信清の女子を迎えて妻とした。院政を執る後鳥羽上皇は実朝のこうした性向を利用して鎌倉幕府を制御しようとし,実朝もこれに応ずる意志をいだいていた。〈山はさけ海はあせなん世なりとも君に二心我あらめやも〉の歌は上皇の書状を受けたときの作という。しかし公武関係は在地支配権をめぐって根本的矛盾を蔵していたので,院政政権はひそかに討幕の計画を進め,これと幕府の実権をにぎる母政子や執権北条義時以下の御家人勢力との対立の中にあって,将軍実朝はしだいに孤立を深めた。1217年(建保5)東大寺大仏殿再興の宋人陳和卿から自分が前世に宋国医王山(いおうぜん)の長老であったとの示唆を告げられると,感激して和卿に大船を建造させ,渡宋を企てた。この計画は進水の失敗によって挫折したが,なお御家人葛山景倫(かつらやまかげとも)を宋に派遣しようとしたり,宋に仏舎利を求めたりした伝えもある。これらは実朝の孤独,絶望の深さを示すが,晩年しきりに官位の昇進を望んだのも,また同様な心境によると見られる。その官位はすでに1209年(承元3)従三位,13年正二位,16年権中納言に昇っていたが,18年には一挙に権大納言兼左近衛大将から内大臣を経て右大臣へと異常な昇進をみた。これを憂えた大江広元の諫言に対して実朝は,源氏の正統は断絶するから,せめて家名を挙げておきたいと答えたという。

 このような苦悩多い生涯で,実朝が心を慰めるよすがとしたのは,和歌,管絃,蹴鞠などの京文化,とくに和歌であった。14歳ころから作歌を始め,18歳のとき歌壇の巨匠藤原定家の門に入り,定家は《詠歌口伝》を著して与え,また相伝の《万葉集》を贈った。実朝の作品は700首余が家集《金槐(きんかい)和歌集》などに収められている。大部分は当時完成した《新古今和歌集》の歌風による習作であるが,天成の豊かな感受性が流露し,また晩年の作とみられる異色の万葉調が含まれ,この点が近世の賀茂真淵や近代の正岡子規に注目され,和歌史上不朽の名をとどめた。1219年1月27日,右大臣昇任の拝賀のため鶴岡八幡宮に参詣した際,兄頼家の遺子,同宮別当公暁(くぎよう)によって社頭で暗殺され,28年の短い生涯を閉じた。御家人のうち秋田城介景盛をはじめ100余人が殉(したが)って出家したところに,事件の衝撃の大きさを見ることができる。暗殺の背景にあったのは北条氏か三浦氏かなど,真相はなぞにつつまれている。
→官打ち
[目崎 徳衛]

[索引語]
後鳥羽天皇(院,上皇)
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検索コンテンツ
1. 源実朝画像
日本大百科全書
鎌倉幕府第3代将軍。源頼朝よりともの二男。母は北条政子ほうじょうまさこ。幼名千幡せんまん。1203年(建仁3)北条時政ときまさが2代将軍頼家よりいえを倒したとき
2. 源実朝
世界大百科事典
1192-1219(建久3-承久1) 鎌倉幕府第3代将軍。歌人。1192年8月9日源頼朝と北条時政女政子の次男として鎌倉に生まれた。幼名を千幡(万)(せんまん)
3. みなもと‐の‐さねとも【源実朝】
日本国語大辞典
鎌倉幕府三代将軍。頼朝の二男。母は北条政子。幼名千幡。一二歳のとき頼家が追放されたあとを継いで将軍となったが、実権は北条氏が握っていたので、官位の昇進だけをのぞ
4. みなもとのさねとも【源実朝】
全文全訳古語辞典
[人名]鎌倉幕府の第三代将軍。一一九二年(建久三)~一二一九年(建保七)。父は頼朝、母は政子。十二歳で将軍となり、後には右大臣となったが、甥の公暁のために鎌倉の
5. みなもとのさねとも【源実朝】画像
国史大辞典
八六)、川田順『源実朝』、斎藤茂吉『源実朝』(『斎藤茂吉全集』三三)、竜粛『鎌倉時代』上、中野孝次『実朝考』、小林秀雄『無常といふ事』(『小林秀雄全集』八)、鎌
6. 源実朝
日本史年表
り, 源実朝 を征夷大将軍に補任(猪隈関白記)。 1218年〈建保6 戊寅〉 12・2 源実朝 を右大臣に任じる(公卿補任)。 1219年〈承久元(4・12) 
7. みなもとの-さねとも【源実朝】
日本人名大辞典
1192−1219 鎌倉幕府3代将軍。在職1203-19。建久3年8月9日生まれ。源頼朝の子。母は北条政子。北条氏に擁立されて建仁(けんにん)3年将軍となるが,
8. 源実朝[文献目録]
日本人物文献目録
井晃義『源実朝』上田英夫『源実朝』上田英夫『源実朝 1‐2』上田三四二『源実朝』岡本潤『源実朝』鶴陰居士『源実朝』片野四郎『源実朝』斎藤茂吉『源実朝』藤川忠治『
9. 源實朝爲征夷大將軍 (見出し語:源實朝)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 658ページ
10. 源實朝遭害 (見出し語:源實朝)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 517ページ
11. 中世和歌集
日本古典文学全集
藤原定家や京極派の歌人などの、中世を代表する和歌をおさめる。収録する和歌集(部分収録)は、鎌倉3代将軍源実朝の私家集『金槐和歌集』、勅撰集の『千載和歌集』(7番
12. 源実朝花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
13. 小倉百人一首(93) 歌人/源実朝(鎌倉右大臣)[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
ぎさこぐ あまのをぶねのつなでかなしも定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/よのなかは源実朝みなもとのさねとも(鎌倉右大臣かまくらのうだいじん)菱川師宣ひ
14. あいくおうじ【阿育王寺】
国史大辞典
育王禅寺と改め禅宗五山の第五とした。『平家物語』に平重盛が育王山(いおうさん)に黄金を寄進したことがみえ、源実朝も参詣を企て、重源が木材を送って舎利殿を建立する
15. あい‐ながや[あひ‥]【相長屋】
日本国語大辞典
*俳諧・信徳十百韻〔1675〕「相長屋非番の武士の集りに 百ものがたりいさぎよかりき」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「ハテ夫(そ)れが相(あイ)
16. あお・つ[あふつ]【煽】
日本国語大辞典
物がばたばたする。*雑俳・銀土器〔1716~36〕「風にゆらゆらあふつ暖簾」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「百間に余る高塀、屏風をたたむがごとく
17. あか ぬ
日本国語大辞典
*浄瑠璃・役行者大峯桜〔1751〕二「愚図愚図と明かぬ事云ふ手間で、板お神酒でも出せ出せ」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「まだまだと明かぬ評定聞
18. あき【飽・厭】
日本国語大辞典
あまだれの、石を穿てることを思ひ出で」(2)十分みちたりること。また、興味を失うこと。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「長々お世話になった御近所の
19. あき‐じろ【空城・明城】
日本国語大辞典
五「国府の台の合戦には、此城の者共、残らず、下総へ行て、明城にて置きければ」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「我々東国へ向ひし跡此坂本は明(あキ)
20. あきつ‐くに【秋津国】
日本国語大辞典
三〇「島のほかも波をさまれるあきつくにに道ある君の恵みをぞ知る〈藤原為相〉」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「踏(ふみ)塊(かため)たる秋津(アキ
21. あき‐や【空家・空屋・明家】
日本国語大辞典
詫人に似合たる宿なれば」*俳諧・曠野〔1689〕二・初春「立臼に若草見たる明屋哉〈亀助〉」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「明家同然の坂本の城。責
22. あけ た 儘(まま)なる雑言(ぞうごん)
日本国語大辞典
言いたい放題の口をきくこと。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕九「四方を睨でつっ立たり。ヤア明た儘(ママ)なる佐々木が雑言(ザウゴン)。討とめて手柄に
23. 開けた儘なる雑言
故事俗信ことわざ大辞典
言いたい放題に口をきく。 浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)九「四方を睨でつっ立たり。ヤア明た儘(ママ)なる佐々木が雑言(ザウゴン)。討とめて手柄にせん
24. あけ‐はな・れる【明離】
日本国語大辞典
*新勅撰和歌集〔1235〕冬・四二三「山たかみあけはなれゆくよこ雲のたえまにみゆる峰の白雪〈源実朝〉」*徒然草〔1331頃〕一〇四「このたびは鳥も花やかなる声に
25. あざ が 倒(こ)け込(こ)む
日本国語大辞典
めくりカルタで、思いがけなく強い有利な札のあざが自分の手にころげ込む。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕六「雑兵組の頭となし、物の具させよと土民が手柄
26. あざが倒け込む
故事俗信ことわざ大辞典
めくりカルタで、思いがけなく強い運、有利なことが自分にころげ込んでくる。 浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)六「雑兵組の頭となし、物の具させよと土民が手
27. あしかが‐よう[‥ヤウ]【足利様】
日本国語大辞典
のこのむかばきくくりさげ、あしかがやうのそめたづな、むちに取そへくりかけし」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「素袍袴も足利様(アシカガヤウ)の、烏
28. あしかがよしうじ【足利義氏】画像
国史大辞典
追善のために高野山金剛三昧院内に大仏殿を建立し、一丈八尺五寸(約五・六メートル)の大日如来像を安置して、源実朝および政子の遺骨を納め、美作大原保を寄進した。また
29. あしかがよしうじ【足利義氏】 : 足利義氏/(一)
国史大辞典
追善のために高野山金剛三昧院内に大仏殿を建立し、一丈八尺五寸(約五・六メートル)の大日如来像を安置して、源実朝および政子の遺骨を納め、美作大原保を寄進した。また
30. あしのこ【芦ノ湖】神奈川県:足柄下郡/箱根町地図
日本歴史地名大系
十町なり、にしのかたなるみづうみにて、雨ふれど水まさず、日てれども水ひずふしぎなり」と記す。源実朝は「金槐集」に玉くしげ箱根の海はけゝれあれやふた山にかけて何か
31. あしわけ‐ぶね【葦分舟】
日本国語大辞典
ら長者〔1661〕四「あしわけ舟にさをさして、はらにはしほやの夕けふりたつ」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕五「直には行ぬ蘆分船(アシわけぶね)、櫓
32. あずまかがみ【吾妻鏡】
国史大辞典
六十年の長歳月の日記の記事から、わずか十数年分を披見したとしか思われない。これは、記主定家と将軍源実朝との歌道の師弟関係・交友関係から、この時期に限って採訪した
33. あたみし【熱海市】静岡県
日本歴史地名大系
それ以後将軍の二所詣は慣例となり、それに伊豆国一宮の三嶋社(三嶋大社)も加えられた。三代将軍源実朝は「走湯山」参詣の時に「わたつ海のなかにむかひていつるゆのいつ
34. 安達景盛
世界大百科事典
れ,1218年(建保6)出羽介となり秋田城を支配して秋田城介(じようのすけ)と称される。将軍源実朝の死(1219)により出家し高野山へ入る。法名大
35. あだち-かげもり【安達景盛】
日本人名大辞典
父とともに源頼朝につかえ,建保(けんぽ)6年出羽介(でわのすけ)となり秋田城を支配するが,翌年将軍源実朝(さねとも)の死をいたんで出家し,高野山にはいる。娘松下
36. あだちやすもり【安達泰盛】画像
国史大辞典
泰盛の政治以外の活動も注目されるが、特に高野山および京都との接触において著しい。前者としては、景盛が将軍源実朝の菩提のために高野に入って大蓮房覚智と称したのに端
37. あづま-すけみつ【吾妻助光】
日本人名大辞典
建永2年(1207)夏鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の放生会(ほうじょうえ)に参ずる将軍源実朝(さねとも)の警護に故なく不参したため出仕をとめられた。同年
38. あと‐ぞなえ[‥ぞなへ]【後備】
日本国語大辞典
「御出陣にをひては、御跡備(アトソナヘ)をくろめ申べき覚悟にて、所望申処に」*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕二「佐々木高綱三浦の助御乗物の前後を囲(
39. あと の 月(つき)の富(とみ)の札(ふだ)を買(か)うよう
日本国語大辞典
(先月すでに当否の決まってしまった富くじを買うようなものの意)ばかばかしい、むだなことのたとえ。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「何ぼかはいがらし
40. 後の月の富の札を買うよう
故事俗信ことわざ大辞典
買うようだ。やっても手遅れでかいのないこと、無駄なこと、ばかばかしいことのたとえ。 浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記(1781)七「何ぼかはいがらしゃっても、首の
41. あと へ 寄(よ)る
日本国語大辞典
(腹の皮が後へ寄るの意から)空腹になる。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「水辛(みづから)や梅干で酒がいけるものかいの。そしてきつう跡へ寄った」
42. 阿野全成
世界大百科事典
1180年(治承4)頼朝の挙兵にあたり京都から下向して参加し,駿河国阿野に住した。北条時政の女阿波局(源実朝の乳母)を妻としていたが,1203年謀反の疑いありと
43. あのときもと【阿野時元】
国史大辞典
十一日に多勢を率いて深山に城郭を築き宣旨を賜わって東国を管領しようと企てていると報じた。将軍源実朝が公暁に殺された日の十数日後のことである。尼将軍北条政子は執権
44. あの-ときもと【阿野時元】
日本人名大辞典
−1219 鎌倉時代の武将。源義朝の孫。阿野全成(ぜんじょう)の子。母は阿波局(あわのつぼね)。将軍源実朝が暗殺された直後の建保(けんぽ)7年,宣旨をうけて関東
45. あぶら【油】[方言]
日本方言大辞典
当壮)1930(2)追従ついしょう。おべっか。 大阪※116浪花聞書 1820頃浄瑠璃源頼家源実朝鎌倉三代記七「口先でちょっぽ草津から取寄せましたと油半分」(3
46. あぶら【油・脂・膏】
日本国語大辞典
こと。おせじ。へつらい。追従(ついしょう)。→あぶらを言う・あぶらを掛ける。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「口先でちょっぽ草津から取寄ましたと油
47. あぶら‐はんぶん【油半分】
日本国語大辞典
〔名〕(形動)うそ半分。口前うまく、おせじ半分に並べ立てること。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕七「やいのと念比(ねんごろ)ぶり口先でちょっぽ草津か
48. あぶれ‐むしゃ【溢武者】
日本国語大辞典
〔名〕「あぶれつわもの(溢兵)」に同じ。*浄瑠璃・源頼家源実朝鎌倉三代記〔1781〕四「唯一人(いちにん)のあぶれ武者臆すなかかれと声々に」
49. あべ-ちかもと【安倍親職】
日本人名大辞典
?−1240 鎌倉時代の陰陽師(おんようじ)。建暦(けんりゃく)元年幕府の祈祷師として将軍源実朝の無病息災,延命長寿をいのる天曹地府(てんそうちふ)祭をおこなっ
50. あまごい【雨乞】
国史大辞典
竜王もその類であるが、伝えられている「ときにより過ぐれば民の歎きなり八大竜王雨止めたまへ」の源実朝の止雨祈願の歌は世に知られている。民間に伝わる雨乞のうたには「
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武田信義(国史大辞典・世界大百科事典)
一一二八-八六平安・鎌倉時代前期の武士。治承・寿永の乱に活躍。甲斐源氏。新羅三郎義光の子義清が巨摩郡武田を本居とした。信義は義清の孫で、清光の子として大治三年(一一二八)に生まれ、治承四年(一一八〇)の以仁王の令旨に応じ挙兵、源頼朝方に参じ武功を
阿野全成(国史大辞典・世界大百科事典)
一一五三-一二〇三鎌倉時代前期の僧籍の武士。幼名今若、醍醐禅師・阿野冠者という。また勇力あり悪禅師という。父は源義朝、母は常盤。義朝が平治の乱に敗死したのち母は今若・乙若(義円)・牛若(義経)の三児を連れて逃れたが、平清盛に召し出され
源実朝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一一九二-一二一九鎌倉幕府第三代将軍。一二〇三―一九在職。幼名千幡。建久三年(一一九二)八月九日鎌倉で誕生。父は源頼朝、母は北条政子。正治元年(一一九九)正月十三日父が急死、兄頼家が第二代将軍となった。建仁三年(一二〇三)の八月二十七日
源行家(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
?-一一八六平安・鎌倉時代前期の武将。本名義盛。為義の十男、熊野新宮に住し新宮十郎と呼ばれた。治承四年(一一八〇)四月八条院蔵人となり行家と改名、同年五月に挙兵した以仁王の令旨を奉じ東国に下向、源頼朝をはじめとする諸国源氏の蜂起を促した。
大江広元(世界大百科事典・日本大百科全書)
鎌倉前期の幕府の重臣。式部少輔大江維光の子で,明経博士中原広季の養子となり,鎌倉に下るまでは外記として文筆の職にあった。源頼朝と親しかった,同じ広季の養子親能の関係から頼朝に招かれ,1184年(元暦1)以来,幕府の公文所ついで政所の別当となり
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