1. 九条兼実
日本大百科全書
鎌倉前期の政治家。月輪関白つきのわかんぱく、後法性寺入道ごほうしょうじにゅうどう関白などの称がある。関白藤原忠通ただみちの三男。母は藤原仲光なかみつの女むすめ加
2. 九条兼実
世界大百科事典
1149-1207(久安5-承元1) 平安末~鎌倉初期の公卿。藤原忠通の三男。母は家女房藤原仲光女。同母弟に慈円らがおり,異母兄弟姉妹に藤原基実(近衛),同基房
3. くじょう‐かねざね【九条兼実】
日本国語大辞典
平安末期、鎌倉初期の公卿。摂政、関白、太政大臣。従一位。藤原忠通の三男。慈円の兄。九条家の始祖。月輪(つきのわ)関白、月輪殿、法性寺殿ともいう。源頼朝の後援で摂
4. くじょうかねざね【九条兼実】画像
国史大辞典
一一四九―一二〇七 平安・鎌倉時代初期の公卿。月輪殿・後法性寺殿ともよばれた。藤原忠通を父として久安五年(一一四九)に生まれた。早く僧籍に入った者を除くと第三
5. 九条兼実
日本史年表
)(寿永4) 乙巳〉 12・28 頼朝の要請により, 九条兼実 を内覧とする(玉葉)。 1196年〈建久7 丙辰〉 11・25 九条兼実 の関白・氏長者を罷免し
6. くじょう-かねざね【九条兼実】
日本人名大辞典
1149−1207 平安後期-鎌倉時代の公卿(くぎょう)。久安5年生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条家の祖。仁安(にんあん)元年右大臣,承安(じょうあん)4
7. 九条兼実[文献目録]
日本人物文献目録
『藤原兼実建立の御堂二、三について』杉山信三『九条兼実における法然教受容過程』高橋正隆『九条兼実の春日社と南円堂信仰』亀田孜『興福寺再興と九条兼実の国体観』中上
8. 九条兼実花押[図版]画像
国史大辞典
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9. あいごう【安威郷】大阪府:摂津国/島下郡
日本歴史地名大系
る(いずれも現茨木市)。「玉葉」によると文治四年(一一八八)正月一一日、時の藤原氏長者である九条兼実が安井庄を訪れて、庵室で宿泊している。したがってこの時期も藤
10. あいのしょう【安威庄】大阪府:茨木市/安威村
日本歴史地名大系
古代の島下郡安威郷の地に立庄された庄園で、江戸期の安威村一帯を庄域とした。文治四年(一一八八)正月一一日、関白九条兼実が安井庄にある藤原宗頼の庵室に宿しており(
11. あかさきむら【赤崎村】兵庫県:城崎郡/日高町
日本歴史地名大系
。また中世前期には当地一帯に赤崎庄が成立していた。〔赤崎庄〕元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状案(九条家文書)に、家領のうちに「但馬国赤崎庄」とみえ、
12. あさぎのほう【浅黄袍】
国史大辞典
之黄衣
」と解すに至り、
九条兼実は『玉葉』建久二年(一一九一)十二月十四日条に、これを正説として「不
13. あずまかがみ【吾妻鏡】
国史大辞典
編纂に用いられた材料のうち、今日残っていてそれと指摘されている書物には、京都の公家の日記として九条兼実の『玉葉』や藤原定家の『明月記』、鎌倉に下り将軍に近侍した
14. あそうだむら【浅宇田村】三重県:上野市
日本歴史地名大系
まもなく旧に復した。元久元年(一二〇四)には最勝金剛院の堂舎とともに浅宇田庄は宜秋門院に譲られ(四月二三日「九条兼実置文」九条家文書)、建長二年(一二五〇)には
15. あそうむら【麻生村】茨城県:行方郡/麻生町
日本歴史地名大系
「和名抄」にいう麻生郷の本郷の地(新編常陸国誌)で、建久二年(一一九一)一一月日の摂政前太政大臣家九条兼実政所下文(鹿島神宮文書)に麻生郷の名がある。中世は大掾
16. 安倍泰親
世界大百科事典
平安末期の陰陽家。生没年不詳。藤原頼長や九条兼実に重用され,1182年(寿永1)4月陰陽頭に任じたが,翌年正月をもって記録類から消えており,このころ没したとみら
17. あべの-やすちか【安倍泰親】
日本人名大辞典
1110−1183 平安時代後期の陰陽師(おんようじ)。天永元年生まれ。安倍晴明(せいめい)の子孫。藤原頼長や九条兼実に重用され,雅楽頭(うたのかみ),陰陽権博
18. あべのやすちか【安倍泰親】
日本架空伝承人名事典
平安末期の陰陽家。生没年不詳。藤原頼長や九条兼実に重用され、一一八二年(寿永一)四月陰陽頭に任じたが、翌年正月をもって記録類から消えており、このころ没したとみら
19. あべのやすちかていあと【安倍泰親邸跡】京都市:下京区/有隣学区/西橋詰町地図
日本歴史地名大系
天文博士安倍晴明(九二一―一〇〇五)の五代の子孫。卜占の才能に秀で、左大臣藤原頼長に重用されたが、源頼政や関白九条兼実にも信頼が厚く、寿永元年(一一八二)に陰陽
20. あまぐん【海部郡】愛知県
日本歴史地名大系
目寺町森)が海東郡に成立し、頼長の兄忠通の息女皇嘉門院領となり、女院は治承四年(一一八〇)に九条兼実の子良通に譲っている(九条家文書)。「延喜式」神名帳に登載さ
21. あまべぐん【海部郡】大分県:豊後国
日本歴史地名大系
になった。同庄は、治承四年(一一八〇)五月宗子の娘で崇徳天皇皇后でもあった皇嘉門院聖子から兄九条兼実の子良通へ譲られている。しかし臼杵庄から最勝金剛院さらに皇嘉
22. いいののまき【飯野牧】山梨県:南巨摩郡/身延町
日本歴史地名大系
しかし同月一四日には憲基の嫌疑は晴れたようで(同書同年一〇月一二日・一四日条)、憲基はその後も九条兼実宅へ出入りしている。憲基が下司と結んで不正を働いており、召
23. いくしまのしょう【生嶋庄】兵庫県:尼崎市/旧川辺郡地区
日本歴史地名大系
備進することで忠通の下文を得たとされる(正応四年七月日「覚照重申状案」九条家文書)。皇嘉門院の所領はのちに弟九条兼実の子良通に譲与されていることから、当庄も同様
24. 意見封事
日本史年表
意見封事 を奏上させる(玉葉文治三年五月二三日条)。 1187年〈文治3 丁未〉 5・23 九条兼実,公卿らの 意見封事 17通を法皇に奏上(玉葉)。
25. いずみし【和泉市】大阪府地図
日本歴史地名大系
争論の際の天永三年(一一一二)の証拠文書中に主税頭領宮村がみえる。長寛二年(一一六四)摂関家九条兼実により立庄され、奈良春日社に寄進された春木庄をはじめ、おそら
26. いずみのくに【和泉国】大阪府地図
日本歴史地名大系
櫛造供御人をも編成した。また大鳥郡大鳥郷(現堺市)居住の摂関家大番舎人に対する支配はより強化された。九条兼実は久米田寺(現岸和田市)を九条家の菩提寺である九条御
27. いたのしょう【井田庄】静岡県:田方郡/戸田村
日本歴史地名大系
嘉門院惣処分状(九条家文書)に「いつ みつのミくりや 井た」とみえるのが早い。皇嘉門院聖子(九条兼実の姉)から兼実に譲られた庄園の一つで、京都の最勝金剛院(現京
28. いちじょう-かねふゆ【一条兼冬】
日本人名大辞典
三位。右大臣にすすみ,22年関白,左大臣となる。従一位。和歌,連歌をこのみ,絵も上手で先祖の九条兼実(かねざね),一条実経(さねつね)などの肖像をかいたという。
29. いちじょうたかよし【一条高能】
国史大辞典
同七年十二月参議、翌八年正月従三位となる。高能が参議に任ぜられたのは、幕府と関係の深かった関白九条兼実が源通親の陰謀により失脚した直後のことで、この任官は通親が
30. 一条能保
日本大百科全書
非違使別当けびいしべっとうとなり、名実ともに洛中警察権を掌握した。また同年6月摂政せっしょう九条兼実かねざねの嫡子良経よしつねを女婿じょせいに迎え、権勢を振るっ
31. いちじょう‐よしやす【一条能保】
日本国語大辞典
鎌倉初期の公家。藤原通重の子。従二位権中納言。源頼朝と親しく、九条兼実とともに、京都における親幕派の中心人物。後に対立する源通親に追われた。法名保蓮。久安三~建
32. いちじょうよしやす【一条能保】
国史大辞典
頼朝は彼の活躍に期待するところが多かった。翌三年七月能保の妻は後鳥羽天皇の乳母となり、またその女の一人は関白九条兼実の嫡子良経と結婚したが、これらはいずれも頼朝
33. 一休ばなし(仮名草子集) 284ページ
日本古典文学全集
やぶりたるとはえいふまじき也 初期の天台宗の僧。慈円。吉水の僧正と通称する。関白藤原忠通の子。九条兼実の弟。天台座主を五度つとめた。『愚管抄』『拾玉集』がある
34. いつくしまじんじゃ【厳島神社】広島県:佐伯郡/宮島町/厳島
日本歴史地名大系
今又立鳥居、仍可打額」とあり、この鳥居がどこの鳥居かは不明であるが、もし大鳥居の前身であるとするなら、九条兼実が額の神名を書いて安元三年に送っている。厳島社再度
35. いなげのしょう【稲毛庄】神奈川県:川崎市
日本歴史地名大系
と新庄が成立しており、ともに摂関家の九条家に伝領されていた。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(県史一)によれば稲毛新庄は娘の宜秋門院任子に譲られ、本
36. いなづみのしょう【稲積庄】鳥取県:倉吉市
日本歴史地名大系
が停止され、翌年当庄は一時的に国衙領となった。同年一二月に後白河院政が復活し、同五年三月には九条兼実が当庄を後白河院領に戻すことと、然るべき者に支配を委任するこ
37. いのうえほんしょう【井上本庄】和歌山県:那賀郡/粉河町
日本歴史地名大系
紀ノ川北岸の河岸段丘上にあった荘園で、長田庄ともいう。東は粉河庄、西は井上新庄。古くは摂関家領荘園であったが、山城随心院に寄進され、室町時代に粉河寺領となった。
38. いわたのしょう【石田庄】岐阜県:岐阜市/旧山県郡・各務郡地区/岩田村
日本歴史地名大系
る当庄は、平安末に皇嘉門院領となり、その後九条家領になった。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状に女院庁分御領として「美濃国宇多勅旨衣斐・石田」とみえ、
39. いんせいじだい【院政時代】
国史大辞典
制の保持を図ったが、守護・地頭を設置し、在庁官人の進止権を東国に承認し、さらに頼朝の推薦する九条兼実を関白に任命することを拒むことができなかった。兼実は後白河法
40. いんでむら【位田村】滋賀県:神崎郡/五個荘町
日本歴史地名大系
思われ(神崎郡志稿)、小字にも位田と称する一町余の地がある。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(九条家文書)に「小幡位田」とみえる。永正一六年(一五一
41. いんぷもんいん【殷富門院】
国史大辞典
建保四年(一二一六)四月二日七十歳で没した。建久三年春、後白河法皇より金剛勝院および押小路殿を伝領。なお九条兼実の子良恵、後鳥羽天皇の皇子長仁親王・守成親王(の
42. いんぼう‐か【陰謀家】
日本国語大辞典
企てる人。よく、謀反、悪事などを計画する人。*安吾新日本地理〔1951〕〈坂口安吾〉飛鳥の幻「九条兼実という九条家始祖の関白は藤原氏歴代の中で特に実利派の陰謀家
43. 宇治拾遺物語 113ページ
日本古典文学全集
僧正の疲労回復の治療法。これについて新大系が紹介している『明月記』元久元年十一月二十九日条の九条兼実からの次の伝聞記事は、それが覚猷個人の奇習でなかったことを証
44. うすきのしょう【臼杵庄】大分県:臼杵市
日本歴史地名大系
徳天皇皇后であった皇嘉門院藤原聖子(藤原忠通の娘)に譲られており、聖子はこれを養子九条良通(九条兼実の子)に譲り渡している。文治年中(一一八五―九〇)に原図が作
45. えしん【慧信】
日本人名大辞典
1124−1171 平安時代後期の僧。天治(てんじ)元年生まれ。藤原忠通の子。九条兼実の兄。保元(ほうげん)2年興福寺別当となり,同寺一乗院にはいる。延暦(えん
46. えちごのくに【越後国】新潟県
日本歴史地名大系
源頼朝らが東国に平氏追討の反旗を掲げると、平家は地方豪族を起用して反平家軍を押えようとした。九条兼実の「玉葉」にも越後から信濃の木曾義仲軍を攻めた城資永の風聞が
47. えびのしょう【衣斐庄】岐阜県:揖斐郡/大野町
日本歴史地名大系
九条家領。現大野町大衣斐・小衣斐に比定される。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実譲状(九条家文書、以下同文書は省略)に「美濃国宇多勅旨衣斐・石田」とある。
48. おおいずみのしょう【大泉庄】大阪府:和泉市/府中村
日本歴史地名大系
宿の雑事は九条家領大泉庄と八条院領宇多庄(現泉大津市)が奉仕している。元久元年(一二〇四)四月二三日の九条兼実置文(九条家文書)によれば、当庄は兼実から娘後鳥羽
49. おおいずみのしょう【大泉荘】
国史大辞典
にみえるのが初見で、この時養子良通に譲ることを条件にその実父九条兼実に処分されている。良通は早世のため、元久元年(一二〇四)九条兼実置文(『九条家文書』)で宜秋
50. おおいずみのしょう【大泉荘】 : 大泉荘/(二)
国史大辞典
にみえるのが初見で、この時養子良通に譲ることを条件にその実父九条兼実に処分されている。良通は早世のため、元久元年(一二〇四)九条兼実置文(『九条家文書』)で宜秋