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  11. 葛飾北斎

葛飾北斎

ジャパンナレッジで閲覧できる『葛飾北斎』の日本架空伝承人名事典・世界大百科事典のサンプルページ

新版 日本架空伝承人名事典

葛飾北斎
かつしかほくさい
1760‐1849(宝暦10‐嘉永2)
 江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。江戸本所割下水(現、東京都墨田区)で生まれた。幼少の頃より好んで絵を描き、版画の技術を学び、勝川春草の門に入って写実的な役者絵、黄表紙などの挿絵を描いた。狩野派を学んだために勝川派から追放され、以後は土佐派・琳派、中国画・洋風画などを摂取して独自の画風を確立。人物画・風景画・歴史画・漫画・春画・妖怪画、さらに民衆のさまざまな表情や動植物のスケッチを収めた『北斎漫画』など、「森羅万象を描く絵師」といわれた。北斎芸術の頂点は『富嶽三十六景』で、五〇代後半になって初めて旅に出て、各地から眺めた霊峰富士に感動し、一八三一年(天保二)に完成させた。続編の『富嶽百景』を三五年に、七六歳で発表。その跋文に「(自分の画業は)八十歳にして益々進み、九十歳にして猶ほ其奥意を極め、一百歳をして正に神妙ならんか、百有十歳にしては一点一格生くるが如くあらん、願くば長寿の君子、予が言の妄ならざるを見給ふべし」と書いた。自ら画狂人と称し、九〇年の生涯は刻苦精励の継続であり、広い画境と膨大な作品群は浮世絵師中で最大。その浮世絵は、フランス印象派の画家たちに多大な感銘と影響を与えたが、そのきっかけとなったのは、当時ヨーロッパに輸出された日本陶器の包装紙に『北斎漫画』が使用されており、そのデッサンの秀逸さに驚嘆したフランス人の版画家が画家仲間に教えたことだった。マネ、ゴッホなど印象派を代表する画家の血脈に、北斎の画業が流れ込んでいる。
 北斎は個性が強く、奇行に富み、画号を変えること三十数度。「為一いいつ」「画狂老人まんじ」など数えきれないが、時には貧乏生活の足しとして弟子に画号を売っている。「北斎」の号は北斗七星にちなむ。引っ越しの回数は九三回といわれ、寝床は敷きっぱなしで、土鍋の飯は炊いたまま。茶碗・皿・小鉢の類も洗うことはなく、衣類も垢じみたぼろぼろのものを着ていた。最初の妻、二度目の妻、長女にも先立たれ、孫娘と二人の窮乏生活を送り、七九歳の時には火災に遭い、写生帳を失う。これを教訓として若い画家に伝えるため、死の前年に銅版画や油絵の技法を述べた絵手本『絵本彩色道』や手本集『初心画鑑』を残すなど、たくましい体力と気力をうかがわせた。浅草遍照院境内の狭い借家で生涯を閉じたが、死の直前に「あと一〇年生きれば、ひとかどの絵師になれたのだが」と画道に対する意欲を洩らしている。
[安宅 夏夫]
江戸本所の産にして、御用の鏡師の男なりといふ。幼名時太郎、後鉄次郎と改む。始め業を勝川春章の門に入て、名を勝川春朗と書す。故有て破門せられ、後古俵屋宗理の跡を続て二代目菱川宗理となり、画風をかへて一派をなせり。〔割註〕叢春朗の頃は役者の錦絵を出せし也。堤等琳孫二の画風を慕へり。宗理の頃狂歌摺物等多し。」亦門人宗二に宗理を譲り、〔割註〕三代目宗理とす。」名を家元に帰せり。于〓時寛政十年一派の画法を立て、北斎辰政雷斗と改む。〔割註〕一説北辰妙見を信ず、故に北斎と云。」北斎流と号し、明画の筆法を以て浮世絵をなす。古今唐画の筆意を以て、浮世絵を工夫せしは、此翁を以て祖とす。〔割註〕雷斗の名、聟重信に譲る。」爰において世上の画家、其家風を奇として、世俗に至る迄大にもてはやせり。
新増補浮世絵類考
為一ヅハ大きな馬で名をひろめ
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):96‐14
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
画の為に一ッ心くだく筆の道
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):96‐14
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
ひ句もたんと出るはづかさい会
編者/評者:呉陵軒可有ら(編)
出典:『誹風柳多留』
編・相印(月)・番号(枚、丁、日):96‐14
刊行/開き:1765~1840年(明和2~天保11)(刊)
第一句、文化(一八〇四‐一八)のころ、本所合羽干場(現、墨田区太平地区のうち)において、一二〇畳大の紙に一頭の馬を描いて評判となった。また北斎は可候そうべく・卍の俳号で狂句を詠み、その選者ともなった。『柳多留』八五編(一八二五年(文政八)刊)には序文を書いている。第二句、「為」「一」の二字を詠みこんだ選者への挨拶句で、いわば楽屋ぼめ。第三句の「嗅ひ句」は臭い句。北斎は好んで下がかった句を詠み、その主催する「葛西会」は江戸の糞尿を運ぶ葛西船に縁のある名の句会だけに、ひどく下品な句が頻出するのももっともだ、と。


世界大百科事典

葛飾北斎
かつしかほくさい
1760-1849(宝暦10-嘉永2)

江戸後期に活躍した浮世絵師。本姓は川村氏で,江戸本所割下水(わりげすい)に生まれる。幕府御用鏡師の中島伊勢の養子となり,幼名時太郎,のち鉄蔵と改める。〈北斎〉とは一時の画号で,生涯に30回ほどの改号をする。〈画狂人〉とも号して,画三昧の生活を送り,浮世絵師中で最も作域が広い。1778年(安永7),勝川春章の門に入り,翌年に春朗と号して役者絵を発表,以後,役者絵,角力絵,浮絵,黄表紙の挿絵を描く。94年ころ,勝川派を破門された後,狩野,住吉,琳派,洋風画派を学び,2世俵屋宗理を名のり,30歳代後半に至って自己の画風を確立,97年に北斎と初めて号した。このころ,《東遊》《東都名所一覧》等の絵入狂歌本に優れた挿絵を描いて注目され,《くだんうしがふち》等では洋風の遠近・陰影表現による風景版画シリーズも発表する。次いで北斎の声価を決定づけたのは,文化年間(1804-18)の初めころから流行する読本(よみほん)の挿絵の仕事である。中国伝奇小説の影響を濃く反映し,荒唐無稽な内容をもつ読本の世界を絵画化するため,北斎は和漢洋の三体を融合し想像力を駆使した画面を展開した。木版墨摺技術の可能性を極限まで追求した北斎の読本挿絵の成果は,小説家曲亭馬琴と組む時に最も大きく得られ,《新編水滸画伝》(1806)や《椿説弓張月》等の傑作が生まれた。この読本挿絵で培われた北斎の新生面は,錦絵風景版画の分野でより効果的に発揮され,代表作《富嶽三十六景》をはじめとして《諸国滝廻り》《千絵の海》《諸国名橋奇覧》等の揃物シリーズに結実した。一例を挙げると,ゴッホが〈鷲の爪〉と呼んだ《富嶽三十六景》中の〈神奈川沖浪裏〉のすさまじい波の表現は,読本挿絵の経験の中から生まれた。この〈リアルな絵空事(えそらごと)〉の世界が北斎後期作品の核心部をなすといえるが,これは後に歌川広重に批判される(絵本《富士見百図》序文)。版画以外でも,肉筆の美人画および花鳥画に傑作が多く,中でも《二美人図》《雪中美人図》《酔余美人図》が代表作。その他,絵手本の刊行が注目されるが,山水,花鳥,人物,器物,図案等あらゆる題材を対象とした《北斎漫画》13編(1814-49)は彼の総決算ともいえる成果で,フランス印象派のドガらにも大きな示唆を与えた。
[狩野 博幸]

[索引語]
北斎 画狂人 勝川春朗 俵屋宗理 くだんうしがふち 富嶽三十六景 北斎漫画
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1. 葛飾北斎画像
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江戸中期から後期にかけての浮世絵師。江戸・本所割下水わりげすいに川村某の子として生まれる。幼年時の事柄についてはあまり明らかではないが、幼名を時太郎といい、後年
2. 葛飾北斎
世界大百科事典
1760-1849(宝暦10-嘉永2) 江戸後期に活躍した浮世絵師。本姓は川村氏で,江戸本所割下水(わりげすい)に生まれる。幕府御用鏡師の中島伊勢の養子となり,
3. かつしか‐ほくさい【葛飾北斎】
日本国語大辞典
江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。本姓、中島。幼名、時太郎、のち鉄蔵。別号、春朗、宗理、可候。江戸の人。勝川春章に師事して役者絵、美人画、絵本、さし絵などを描き、
4. かつしかほくさい【〓飾北斎】
国史大辞典
一七六〇―一八四九 江戸時代後期の浮世絵師。葛飾派の開祖。宝暦十年(一七六〇)九月二十三日、江戸本所割下水(東京都墨田区)に川村某の子として生をうけたが、四、
5. 葛飾北齋(かつしかほくさい)
古事類苑
文學部 洋巻 第3巻 854ページ
6. かつしか-ほくさい【葛飾北斎】
日本人名大辞典
1760−1849 江戸時代中期-後期の浮世絵師。宝暦10年9月23日生まれ。勝川春章に入門し,勝川春朗と号して役者絵を発表。のち狩野(かのう)派,住吉派,琳派
7. かつしかほくさい【葛飾北斎】
日本架空伝承人名事典
江戸後期の浮世絵師。葛飾派の祖。江戸本所割下水(現、東京都墨田区)で生まれた。幼少の頃より好んで絵を描き、版画の技術を学び、勝川春草の門に入って写実的な役者絵、
8. 葛飾北斎[文献目録]
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』鍋井克之『葛飾北斎』楢崎宗重『葛飾北斎』編輯部『葛飾北斎』松本文雄『葛飾北斎翁略伝並墳墓』武田酔霞『葛飾北斎尾張名古屋の生活』武田酔霞『葛飾北斎改名考 1‐3
9. 葛飾北斎/北斎ブーム[美術]
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葛飾北斎(1760~1849)は、江戸後期に活躍した浮世絵師。勝川春章(かつかわしゅんしょう 1726?~92?)に入門し、春朗(しゅんろう)の雅号で役者絵や
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19. 葛飾北斎『北斎漫画』[百科マルチメディア]画像
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20. 葛飾北斎喜多川歌麿画帖(著作ID:807410)
新日本古典籍データベース
かつしかほくさいきたがわうたまろがじょう 絵画 
21. 藍絵画像
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新しさによるものと思われ、渓斎英泉、歌川国貞ら、この時期の多くの浮世絵師が用いている。とくに葛飾北斎かつしかほくさいの『冨嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい』(
22. あいずり【藍〓
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水野忠邦の改革令による贅沢品禁止の結果つくられたという説がある。だが、文政から天保初年にかけての作品である葛飾北斎の「富嶽三十六景」中にすでに見られる。そのころ
23. 会田誠
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もつ怪獣に、1970年代の特撮テレビ番組『ウルトラマン』の女性キャラクターが襲われる様子を、葛飾北斎の春画に見立てて描いた310×410センチメートルの巨大なセ
24. あおうどうでんぜん【亜欧堂田善】
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25. あおとふじつなもりょうあん[あをとふぢつなモリョウアン]【青砥藤綱摸稜案】
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27. 秋山記行・夜職草 236ページ
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㌍~)梅笑………狩野師信画家江戸(花㏄航~)玉山………岡田玉山画家大阪(荘一乖~)北斎………葛飾北斎画家江戸(花猷九〇~)真顔………鹿都部真顔(北川嘉兵衛)狂歌
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29. あさくさ【浅草】
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30. 浅草御蔵
世界大百科事典
受領,売却する札差や米問屋ら大商人が軒を連ねていた。また川に面した中央部には名松首尾の松があり,安藤広重や葛飾北斎がこれを描いている。維新後明治政府に引き継がれ
31. あさくさしようでんよこちよう【浅草聖天横町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
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町奉行支配で浅草寺領年貢地。表間口一〇間・裏行二〇間の南町奉行懸り上納地があった(文政町方書上)。葛飾北斎の晩年の住居遍照院裏店は当町のことである。明治二年(一
32. あさくさながずみちよう【浅草永住町】東京都:台東区/旧浅草区地区地図
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正保元年当地へ移転した(文政町方書上)。境内は古跡拝領地(寺社備考)。江戸時代後期の浮世絵師葛飾北斎の墓があり、北斎筆の絹本着色骸骨図・紙本淡彩達磨図を所蔵する
33. あさの-ほくすい【浅野北水】
日本人名大辞典
江戸時代後期の戯作(げさく)者,浮世絵師。天明-天保(てんぽう)(1781-1844)のころの人。画を葛飾北斎(かつしか-ほくさい)にまなぶ。江戸横山町で煙管(
34. 遊び画像
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れるようになった。それにつれて、浮世絵界を代表する著名な絵師たち、たとえば歌川豊国とよくに、葛飾北斎かつしかほくさい、歌川広重ひろしげなどによる、絵双六が市販さ
35. 潮来[市]
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占めるが,全般的に農業はふるわない。湖岸は水郷筑波国定公園に属し,市街地背後の台地からの展望にすぐれ,葛飾北斎の《富嶽三十六景》に〈常州牛堀〉の図がおさめられて
36. 潮来(市)画像
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ターチェンジがある。江戸時代、霞ヶ浦かすみがうらの出入り口に位置する牛堀は水上交通の要衝で、葛飾北斎の『富嶽三十六景』の「常州牛堀」に描かれる。常陸利根ひたちと
37. いっぽうさい-ばえん【一峰斎馬円】
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なかでも「犬も歩けば棒に当たる」に始まるものがよく知られており、「犬棒かるた」の名でもよばれている。葛飾北斎かつしかほくさいが描いたものなどが租型になったともい
40. ウォール
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19世紀の画家ドラクロワの歴史画を想おもわせる「戦死した部隊の語らい」(1991~1992)や、葛飾北斎かつしかほくさいの富嶽ふがく三十六景「駿州江尻すんしゅう
41. 浮世絵画像
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のよき範例を示した。この派の流れは孫弟子の勝川春章かつかわしゅんしょう、さらには春章の弟子の葛飾北斎かつしかほくさいへと受け継がれ、宮川、勝川、葛飾派という浮世
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43. うきよ‐え[‥ヱ]【浮世絵】
日本国語大辞典
特に版画は菱川師宣に始まり一色刷りから錦絵に発展。鈴木春信、鳥居清長、勝川春章、喜多川歌麿、葛飾北斎、安藤広重などが代表的作家。明治時代以後衰えたが、版画は西洋
44. うきよえ【浮世絵】
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45. 浮世絵にみる前挽大鋸[百科マルチメディア]画像
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日本独特の製材用縦挽鋸たてびきのこ。左下に鋸のこぎりの目立てをするようすが描かれている。葛飾北斎かつしかほくさい画『冨嶽ふがく三十六景 遠江とおとうみ山中』(部
46. うきよ-ゑ【浮世絵】
全文全訳古語辞典
多色刷りもある。十七世紀後半、菱川師宣の活躍以降、十八世紀半ばに鈴木春信により完成され、以後、喜多川歌麿・葛飾北斎らが輩出して最盛期を迎え、明治に至って衰微した
47. うしぼりむら【牛堀村】茨城県:行方郡/牛堀町
日本歴史地名大系
浪逆の海にいたる」と記されている。また背後の台地権現山や湖上から筑波山・富士山を望む景勝の地としても知られ、葛飾北斎も「牛堀河口より富士を望む図」を描いている。
48. 歌川国芳
世界大百科事典
之一箇》の錦絵シリーズが好評を博し,一躍〈武者絵の国芳〉の名声を得るに至った。他に美人画や,葛飾北斎の作風も採り入れた役者絵も多数制作したが,むしろ量的には少な
49. うたがわくによし【歌川国芳】
歌舞伎事典
人之一箇》の錦絵シリーズが好評を博し、一躍〈武者絵の国芳〉の名声を得るに至った。他に美人画や葛飾北斎の作風も採り入れた役者絵も多数製作したが、むしろ量的には少な
50. 歌川豊国(初世)[文献目録]
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『絵本「年玉筆」の筆者は初代豊国か二代豊国か』七戸吉三『欧米に於ける豊国の観賞』野口米次郎『葛飾北斎と歌川豊国』鈴木仁一『黒田氏の豊国考に就て』井上生『挿絵に就
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