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  11. 平賀朝雅

平賀朝雅

ジャパンナレッジで閲覧できる『平賀朝雅』の日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

日本大百科全書(ニッポニカ)

平賀朝雅
ひらがともまさ
[?―1205]

鎌倉前期の武将。朝政とも書く。父は武蔵守 (むさしのかみ)義信 (よしのぶ)。母は源頼朝 (よりとも)の乳母 (めのと)比企尼 (ひきのあま)の三女。頼朝の猶子 (ゆうし)。北条時政 (ときまさ)の後妻牧方 (まきのかた)の女婿 (じょせい)。武蔵守、右衛門権佐 (うえもんのごんのすけ)を歴任。1203年(建仁3)9月、比企能員 (よしかず)追討に加わり、10月、京都守護に任じられ上洛 (じょうらく)する。翌年伊賀 (いが)・伊勢 (いせ)の平氏残党が反乱を起こした際これを平定し、5月には勲功賞として両国の守護職に補任 (ぶにん)された。この年11月に在京中の畠山重保 (はたけやましげやす)と口論し、重保を義母牧方に讒言 (ざんげん)。これが原因となって、1205年(元久2)6月に畠山一族は北条時政の命により滅ぼされた。しかしこの事件の処理をめぐって、時政とその子政子 (まさこ)・義時 (よしとき)の間に隔絶が生じ、同年閏 (うるう)7月牧方が朝雅を将軍に擁立しようとする陰謀が発覚するに及び、時政・牧方は政子・義時によって伊豆に幽閉され、朝雅も同月26日に京都で誅 (ちゅう)された。

[菊池紳一]



世界大百科事典

平賀朝雅
ひらがともまさ
?-1205(元久2)

鎌倉初期の武将。義信の子。北条時政の女婿。1203年(建仁3)比企氏の乱の平定に活躍。乱後京都守護になり中原親能を補佐。三日平氏の乱を平定し,伊勢・伊賀の守護に補任される。時政前妻の女婿畠山重忠の子に嘲笑されたことを怒り,時政後妻牧方を通じて時政を動かし,畠山一族を討滅。しかし牧方が源実朝にかえて朝雅を将軍にしようとしたため,北条義時に討たれた。
→牧氏の変
[松井 茂]



国史大辞典

平賀朝雅
ひらがともまさ
 - 一二〇五
鎌倉時代前期の武将。清和源氏新羅三郎義光流、平賀義信の子。母は比企尼(源頼朝の乳母)の三女。朝政とも書く。執権北条時政の後妻牧の方の娘婿となる。武蔵守、右衛門権佐を歴任。建仁三年(一二〇三)比企能員が将軍源頼家に訴え、北条氏を倒そうとしたとき、比企討伐に加わる。比企氏滅亡、頼家幽閉後に京都守護となる。さらに元久元年(一二〇四)伊賀・伊勢に起った富田基度・平盛時らの「三日平氏の乱」を平定し、功により乱のとき逃走した山内首藤経俊所持の伊賀・伊勢両国の守護職に任じられた。在京中、畠山重保(重忠の子)と不和になり、このことを義母牧の方に讒訴したことから、元久二年六月時政は畠山重忠・重保父子を討った。同年閏七月牧の方が朝雅を将軍に擁立しようとしたが露顕し、時政は出家して義時に執権を譲った。義時は在京御家人五条有範・後藤基清・佐々木広綱らに命じ、朝雅を京都六角東洞院邸に討ち、敗走した朝雅は同月二十六日に射殺された。
[参考文献]
『大日本史料』四ノ八 元久二年閏七月二十六日条
(綾村 宏)
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検索コンテンツ
1. 平賀朝雅
日本大百科全書
鎌倉前期の武将。朝政とも書く。父は武蔵守むさしのかみ義信よしのぶ。母は源頼朝よりともの乳母めのと比企尼ひきのあまの三女。頼朝の猶子ゆうし。北条時政ときまさの後妻
2. 平賀朝雅
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?-1205(元久2) 鎌倉初期の武将。義信の子。北条時政の女婿。1203年(建仁3)比企氏の乱の平定に活躍。乱後京都守護になり中原親能を補佐。三日平氏の乱を平
3. ひらがともまさ【平賀朝雅】
国史大辞典
?―一二〇五 鎌倉時代前期の武将。清和源氏新羅三郎義光流、平賀義信の子。母は比企尼(源頼朝の乳母)の三女。朝政とも書く。執権北条時政の後妻牧の方の娘婿となる。
4. 平賀朝雅
日本史年表
1205年〈元久2 乙丑⑦〉 閏7・26 幕府,在京御家人に命じて 朝雅 を討つ(明月記・吾)。
5. ひらが-ともまさ【平賀朝雅】
日本人名大辞典
?−1205 鎌倉時代の武将。平賀義信の子。牧の方の娘婿。建仁(けんにん)3年(1203)比企能員(ひき-よしかず)追討に活躍し,京都守護となる。在京中に畠山重
6. ひらがともまさていあと【平賀朝雅邸跡】京都市:中京区/日彰学区/三文字町地図
日本歴史地名大系
建仁三年(一二〇三)鎌倉幕府京都守護として上洛した北条時政の女婿平賀朝雅の邸宅跡。北条時政の後妻牧氏が、鎌倉幕府三代将軍実朝殺害を謀り女婿朝雅を将軍につけようと
7. ひらがともまさのらん【平賀朝雅の乱】
国史大辞典
、執権北条時政の後妻牧の方が、夫と共謀し、将軍源実朝を殺害して、娘婿で頼朝の猶子となっていた平賀朝雅を将軍に擁立しようと計画し、失敗した事件。これより先、元久元
8. あだち-ちかなが【安達親長】
日本人名大辞典
(たじま)(兵庫県)の守護となり,のち出雲(いずも)(島根県)の守護も兼任。元久2年京都守護平賀朝雅(ともまさ)の追討にあたる。承久(じょうきゅう)の乱では後鳥
9. いがしのへん【伊賀氏の変】
国史大辞典
るのである。この事件は元久二年(一二〇五)に起った北条時政の後妻牧の方による娘婿の平賀朝雅擁立運動(平賀朝雅の乱)と酷似しており、また以後も続発する北条氏内部の
10. 伊賀国
世界大百科事典
方の残党が伊勢,伊賀両国に蜂起し,両国守護山内首藤刑部丞経俊を追却する。これに対し鎌倉幕府は平賀朝雅を派遣し鎮圧するが,伊賀国では名張郡六箇山に数日間立てこもり
11. いずのくに【伊豆国】静岡県
日本歴史地名大系
、実質上幕府にとって重要な国であったことに変りはなかった。やがて時政は後妻である牧の方の娘婿平賀朝雅を将軍に立てようと企てて失敗、北条政子と北条義時によって元久
12. 伊勢国画像
日本大百科全書
平家側の拠点として源氏への対抗が続いた。鎌倉幕府は守護に山内首藤経俊やまうちすどうつねとし、平賀朝雅ひらがともまさ、大内惟義これよしらを任じ、北条時房ときふさ以
13. 伊勢国
世界大百科事典
1204年(元久1)平氏残党による反乱(三日平氏の乱)で経俊が逃亡すると,幕府は反乱鎮圧に功のあった平賀朝雅を伊勢・伊賀両国の守護とした。しかしこの朝雅も翌年将
14. いせのくに【伊勢国】画像
国史大辞典
ことに正衡の直系は伊勢国に根をおろし、伊賀国にも勢力を伸ばした。鎌倉時代の守護としては、初期に山内首藤経俊・平賀朝雅・大内惟信、承久の乱後は北条時房が、また後期
15. いせのくに【伊勢国】三重県
日本歴史地名大系
とで反乱を起こし、守護を追放し鈴鹿関など国境を固めて伊勢と伊賀二国を占拠した。幕府は京都守護平賀朝雅をしてこれを討伐させたが、合戦は四月一〇日から一二日までで終
16. うつのみやよりつな【宇都宮頼綱】
国史大辞典
を嗣ぎ宇都宮検校となる。ついで元久二年(一二〇五)北条時政が妻牧氏と謀り将軍源実朝を殺し女婿平賀朝雅を将軍にたてようとした隠謀事件に加担したとの嫌疑をうけ北条政
17. おおうちこれのぶ【大内惟信】画像
国史大辞典
大夫などと称した。父のあとをついで鎌倉幕府の有力御家人の一人として活躍、元久二年(一二〇五)平賀朝雅が京都で誅されたのち、彼がもっていた伊賀・伊勢両国の守護職を
18. 大江広元
世界大百科事典
た。北条時政が執権として力を振るうと,いったん政所別当を退くが,05年(元久2)の時政出家と平賀朝雅追討,13年(建保1)の和田合戦では,幕府の長老として政子や
19. おにがじょうあと【鬼ヶ城跡】和歌山県:東牟婁郡/本宮町/伏拝村
日本歴史地名大系
越後の豪族城長茂の後裔松本氏の居城であるという。「続風土記」によると、長茂は京都東洞院の京都守護平賀朝雅の邸を攻めたが失敗、熊野に逃れ、熊野本宮の神領地に居した
20. おのじょうあと【小野城跡】三重県:亀山市/小野村
日本歴史地名大系
。「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)五月六日条に同年四月に起こった三日平氏の乱を平定した京都守護平賀朝雅は、乱の張本が伊勢平氏の一流若菜五郎(盛高)で、その城郭が「
21. かもちむら【金持村】鳥取県:日野郡/日野町
日本歴史地名大系
寿永二年(一一八三)下榎に移住したと記される。中世の当地は金持氏の拠点とされる。元久二年(一二〇五)閏七月の平賀朝雅の乱を記した「愚管抄」巻六に「伯耆国守護武士
22. 京都守護
日本大百科全書
初期には源頼朝よりともの縁者、側近があてられたが、時政が執権となった1203年(建仁3)以後は、平賀朝雅ひらがともまさ、伊賀光季いがみつすえなど北条氏の縁者が多
23. 京都守護
世界大百科事典
初例。以後,一条能保(在任1186-94),中原親能(1186-88,1195-1208),平賀朝雅(1203-05),中原季時(1205-19),伊賀光季・大
24. きょうとしゅご【京都守護】画像
国史大辞典
建仁三年(一二〇三)北条時政が比企氏を滅ぼし、将軍源頼家を退けて実朝を擁立、みずから執権に就任すると、平賀朝雅を京都守護として派遣したが、このころから京都守護の
25. くろだのみくりや(くろだのしよう)【黒田御厨(黒田庄)】三重県:安芸郡/河芸町/北黒田村
日本歴史地名大系
首藤経俊であろう。彼は元久元年(一二〇四)の平氏残党討伐の際に逃亡して、守護職を召上げられ、平賀朝雅がこれに替わったりするが、「吾妻鏡」によると、貞応元年(一二
26. ごじょう-ありのり【五条有範】
日本人名大辞典
?−1221 鎌倉時代の武将。在京御家人として,元久2年(1205)後藤基清らとともに平賀朝雅(ともまさ)を討つ。のち検非違使(けびいし),筑後守(ちくごのかみ
27. 佐々木信綱
日本大百科全書
県米原まいばら市)の住人柏原為永ためながを討伐、1205年(元久2)には幕府軍に従い京都守護平賀朝雅ひらがともまさを攻め、左近将監さこんのしょうげんに任ぜられた
28. ささき-もりつな【佐々木盛綱】
日本人名大辞典
頼朝の死後出家したが,建仁(けんにん)元年の越後城(じょう)氏の反乱鎮圧,元久2年の京都守護平賀朝雅(ともまさ)追討などに功績があった。法名は西念。
29. 執権政治
日本大百科全書
政所別当まんどころべっとう(執権)に就任し、政権を握った。1205年(元久2)時政は実朝を廃して女婿の平賀朝雅ひらがともまさを将軍にたてようとして失敗、義時よし
30. しっけんせいじ【執権政治】
国史大辞典
執権政治の成立とする。こうして時政が政権を握ったが、元久二年(一二〇五)時政は実朝を廃し女婿の平賀朝雅を将軍に立てようとして失敗し、伊豆に追われ、義時が執権に就
31. しっけんせいじ【執権政治】 : 執権政治/(一)
国史大辞典
執権政治の成立とする。こうして時政が政権を握ったが、元久二年(一二〇五)時政は実朝を廃し女婿の平賀朝雅を将軍に立てようとして失敗し、伊豆に追われ、義時が執権に就
32. 曾我物語 103ページ
日本古典文学全集
校訂。同じ妹婿であるというのに、どうして嫌うことがあろうかとの意。『尊卑分脈』は、政子の妹として平賀朝雅(政)の妻(後、藤原国通の妻)、宇都宮頼綱の妻、藤原実宣
33. 曾我物語 104ページ
日本古典文学全集
宗親は池禅尼の子頼盛に仕え、駿河国大岡の牧(静岡県沼津市大岡付近)を領した。北条義時の後妻となり、娘婿平賀朝雅の将軍擁立を時政とともに計り、義時や政子に排され、
34. 曾我物語 342ページ
日本古典文学全集
→八〇ページ注一。仮名本の「源義信」が正しい。大内(平賀)義信のこと。源義光の孫。大内惟義・平賀朝雅の父。平治の乱では源義朝に最後まで従い、頼朝の挙兵にも直ちに
35. たいらの-もとのり【平基度】
日本人名大辞典
あげる。両国の守護山内首藤経俊(やまのうちすどう-つねとし)をおそって逃亡させたが,追討軍の平賀朝雅(ともまさ)に討たれた(三日平氏の乱)。元久元年4月21日死
36. たいらの-もりとき【平盛時(2)】
日本人名大辞典
あげる。両国の守護山内首藤経俊(やまのうちすどう-つねとし)をおそって逃亡させたが,追討軍の平賀朝雅(ともまさ)に討たれた(三日平氏の乱)。元久元年4月死去。通
37. ぬまづし【沼津市】静岡県
日本歴史地名大系
頼盛に仕え北条時政の後妻牧の方の父でもあった牧宗親が現地を支配し、時政が地頭職を有していたとされる。牧氏は平賀朝雅の将軍擁立に失敗して没落するが、地頭職は北条氏
38. 畠山氏画像
世界大百科事典
御家人となり,同国菅谷(比企郡嵐山町菅谷)に居館を構えた。しかし1205年(元久2)子重保が平賀朝雅と争ったことから,一族とともに北条時政に誘殺され,家が絶えた
39. はたけやまし【畠山氏】画像
国史大辞典
重忠は北条氏や足立氏と姻戚関係を結び、鎌倉幕府の重臣となる。元久元年(一二〇四)重忠の子重保は北条時政の女婿平賀朝雅と口論、翌二年六月鎌倉にて誅殺。さらに武蔵菅
40. はたけやまし【畠山氏】 : 畠山氏/(一)
国史大辞典
重忠は北条氏や足立氏と姻戚関係を結び、鎌倉幕府の重臣となる。元久元年(一二〇四)重忠の子重保は北条時政の女婿平賀朝雅と口論、翌二年六月鎌倉にて誅殺。さらに武蔵菅
41. 畠山重忠
日本大百科全書
1205年(元久2)子重保しげやす(母は足立遠元あだちとおもとの女)が北条時政ときまさの後妻牧まき氏の女婿平賀朝雅ひらがともまさと争って時政に殺されたあと、6月
42. 畠山重忠
世界大百科事典
企てているとの風聞が立つのは武士の眉目〉と語って嫌疑を一蹴したという話は有名である。しかし1205年平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の
43. はたけやましげただ【畠山重忠】
国史大辞典
のちに北条時政の女とも婚し、六郎重保が生まれた。元久二年(一二〇五)この重保と北条時政の後妻牧の方の女婿である平賀朝雅との対立を背景に、武蔵国への進出を企図する
44. はたけやましげただ【畠山重忠】
日本架空伝承人名事典
企てているとの風聞が立つのは武士の眉目」と語って嫌疑を一蹴したという話は有名である。しかし一二〇五年平賀朝雅を将軍にたてようと企図する北条時政とその後妻牧の方の
45. はたけやま-しげやす【畠山重保】
日本人名大辞典
鎌倉時代の武将。畠山重忠の長男。母は北条時政の娘(政子の妹)。元久元年時政の後妻牧の方の娘婿で京都守護の平賀朝雅(ともまさ)と酒宴の席で口論。これを口実に時政ら
46. 英草紙 116ページ
日本古典文学全集
故なくして女性の室に立ち入った道徳的批難。北条時政の後妻。畠山重忠の長男六郎重保と、牧の方腹の娘婿平賀朝雅と争い、牧の方が時政に畠山父子の謀反と讒言した。一時は
47. 榛谷氏
世界大百科事典
吾妻鏡》の逸話は,重朝の純朴な性格を伝えている。1205年(元久2)北条時政の後妻牧方の娘婿平賀朝雅を将軍にたてるため,朝雅と対立する畠山氏を滅亡に導いた時政ら
48. ひがしとみだむら【東富田村】三重県:四日市市/北部地区
日本歴史地名大系
氏の乱に際して「朝明郡富田之館」に拠る進士三郎基度は弟松本三郎盛光・同四郎・同九郎らとともに平賀朝雅によって誅された(吾妻鏡)。おそらくこの地は伊勢平氏の拠点の
49. ひながむら【日永村】三重県:四日市市/南部地区
日本歴史地名大系
平安末期には神宮領寛御厨に含まれていた。「吾妻鏡」元久元年(一二〇四)五月六日条に、三日平氏の乱鎮圧に向かった平賀朝雅よりの報として「凡張本若菜五郎城〓構処□□
50. 平賀氏
世界大百科事典
-88)から文禄(1592-96)までの古文書を伝えている。郷道 哲章 平賀盛義 平賀義信 平賀朝雅
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