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  11. 桂太郎

桂太郎

ジャパンナレッジで閲覧できる『桂太郎』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

桂太郎
かつらたろう
一八四七 - 一九一三
明治時代の軍人、政治家。弘化四年(一八四七)十一月二十八日、萩藩士馬廻役百二十五石の桂与一右衛門信繁と母喜代子の長男として、長州萩平安古(山口県萩市平安古町)に生まれる。はじめ寿熊と称し、のち太郎と改名。海城と号す。藤田与次右衛門・岡田玄道について和漢学を学ぶ。萩藩の洋式銃陣の採用により万延元年(一八六〇)十四歳でこれに入り、戊辰戦争では萩藩第四大隊二番隊司令として奥州各地を転戦。維新後の明治二年(一八六九)には、ヨーロッパ留学をめざし横浜語学所に入学、翌三年同所は大阪兵学寮に移ったが、中途退学。同年、賞典禄二百五十石を資金にドイツに留学し軍事学を学んだ。同六年帰国し、翌年陸軍大尉として明治政府に出仕。明治八年ドイツ公使館付武官として再びドイツに赴き、主としてドイツ軍政を調査・研究する。同十一年帰国、山県有朋陸軍卿に参謀本部の独立を建言し、参謀本部設置後は管西局長に就任。山県有朋の庇護のもとに、プロシア軍制を範とする軍制改革を推進した。明治十七年大山巌陸軍卿一行とともにヨーロッパ各国の軍制を視察し、翌年帰国、同十九年陸軍次官となり、憲法発布に伴う軍制の改革を推進。同二十四年第三師団長に補任。日清戦争開始とともに第三師団を率いて出征した。二十八年戦功により子爵を授けられる。二十九年台湾総督となり、南進の拠点として台湾統治政策をすすめたが、同年十月、第二次松方内閣(松隈内閣)の陸相就任問題がこじれ、総督を辞任した。のち東京防禦総督に任命された。明治三十一年一月第三次伊藤内閣の陸軍大臣に就任、ついで同年六月第一次大隈内閣(隈板内閣)には特に勅命をもって留任し、政党内閣にあって軍備拡張政策を推進するとともに、政党内閣の倒壊を策した。同年九月陸軍大将に補任される。同内閣が官僚勢力の攻撃と内部の猟官争い、派閥対立で倒れたあと成立した第二次山県内閣に再び留任。同内閣の中心閣僚として、軍拡を中心とする日清戦後経営政策を推進した。明治三十三年中国義和団事件には、列強帝国主義への仲間入りをめざして八ヵ国連合軍のうち最大の兵力を派遣し、その鎮圧につとめた。同年十月第四次伊藤内閣が成立し、四たび陸相となったが、同年十二月病気を理由に辞任。陸相在任は四内閣、三年間に及んだが、この間に桂は軍政家から長閥をひきつぐ政治家へと成長した。三十四年五月、第四次伊藤内閣総辞職のあと首相候補に推薦され、翌六月二日山県系の官僚を網羅する内閣を組織した。東アジア情勢の緊迫するなかで、日英同盟締結の方針をかかげて、三十五年一月にはこれを実現し、内閣の威信をたかめた。翌三十六年四月、義和団事件を機会に満洲に大軍を投入したロシアが撤兵を実行せず、むしろ韓国国境に兵備を増強する動きをみせ、日露関係は緊迫し、以後対露交渉に全力を傾注。三十七年二月日露戦争開始後は首相として戦争遂行に尽力した。この間三十七年十二月から翌年八月にかけて立憲政友会領袖原敬と五度にわたって会談し、戦後の政友会総裁西園寺公望への政権譲渡を条件に政府への協力をとりつけた。しかし講和条約に不満をもった民衆の怒りは、日比谷焼打ち事件から全国的な講和反対運動となって展開し、その衝撃もあって、十二月には西園寺を後継首班に推薦して首相を辞任した。これは、「桂園時代」とよばれる新たな政治支配の形式のはじまりを意味した。同四十年には日露戦争の功績により侯爵となり、翌年第一次西園寺内閣辞職のあとをうけて第二次内閣を組織、韓国併合を行なった。その功により四十四年公爵を授けられた。他方、社会主義・無政府主義運動に対しては徹底した弾圧方針をとり、大逆事件では幸徳秋水ら十二名を死刑にして、社会主義者の「冬の時代」をつくりだした。四十四年八月首相を辞任し、西園寺と交代し、みずからは元勲待遇の詔勅をうけて元老となった。こうして桂は政治家として頂点にのぼりつめた。政治家としての桂は、人心収攬にたけ、いわゆる「ニコポン主義」(にっこり笑ってポンと肩をたたく)によって対立勢力を懐柔し、妥協によって難局をきりぬけながらも、次第に独自の政治勢力を形成した。第二次内閣の後半期からは次第に山県からも離れ、しばしば対立することもあった。四十五年七月、政党構想をいだいて欧米旅行に出発したが、途中モスクワで明治天皇の病の報に接し帰国。天皇の死後内大臣兼侍従長として宮中にはいった。同年(大正元)十二月二個師団増設問題で第二次西園寺内閣が倒れたあと、宮中からでて三たび内閣を組織したが、かえって憲政擁護運動をもりあがらせる結果となった。これに対抗して立憲同志会組織を公表したが、結局大正二年(一九一三)二月民衆運動の革命化をおそれて総辞職した。その後新政党の勢力拡大につとめたが、病をえて同年十月十日東京の自邸で死去した。六十七歳。東京世田谷の松陰神社隣りの大夫山(世田谷区若林)に葬られた。法名は長雲院殿忠誉義道清澄大居士。
[参考文献]
徳富猪一郎編『公爵桂太郎伝』、徳富猪一郎『政治家としての桂公』、岡義武『山県有朋』(『岩波新書』青一二〇)、升味準之輔『日本政党史論』二・三
(由井 正臣)


日本大百科全書(ニッポニカ)

桂太郎
かつらたろう
[1847―1913]

明治時代の軍人、政治家。弘化 (こうか)4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争 (ぼしんせんそう)に従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約3年間ドイツ留学。1874年陸軍大尉、同年少佐、陸軍省ついで参謀局勤務、1875年3月ドイツ公使館付、1878年7月帰国、同年中佐、参謀本部勤務、1884年1月より1年間大山巖 (おおやまいわお)陸軍卿 (りくぐんきょう)に随行してヨーロッパ各国の兵制を視察。この間、山県有朋 (やまがたありとも)を助けてドイツ式軍制の建設に努め、軍政の桂、軍令の川上操六 (かわかみそうろく)と併称された。1885年少将、陸軍省総務局長、翌1886年陸軍次官、1890年6月中将、翌1891年第三師団長。ついで日清 (にっしん)戦争に出征し海城で苦戦した。1895年8月戦功で子爵。1896年6月より4か月間台湾総督となり南進策を構想。1898年1月より1901年(明治34)6月まで第三次伊藤博文 (いとうひろぶみ)内閣以降4代の内閣に陸軍大臣を歴任、山県有朋の後継者と目され、軍政家より政治家に成長。第一次大隈重信 (おおくましげのぶ)、第四次伊藤内閣など政党的内閣には好意的でなかった。この間1898年9月大将に昇進、1901年6月第一次桂内閣を組織、以後西園寺公望 (さいおんじきんもち)と交互に政権を担当した(いわゆる桂園 (けいえん)時代)。伊藤、山県、井上馨 (いのうえかおる)ら長州出身の三元老には巧みに機嫌をとり、立憲政友会とは妥協して難局を切り抜け、その巧妙さは「ニコポン主義」(相手を懐柔するの意)と評された。1902年2月日英同盟の功で伯爵、1907年9月日露戦争の功で侯爵、1911年4月韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となり、山県と同爵となる。その政権への執着心と昇進は西園寺の淡泊と対比され、政敵としては原敬 (はらたかし)をもっとも警戒した。また山県としだいに対立し、その慢心ぶりは明治天皇も「桂の大天狗 (てんぐ)」と評したという。

 1912年7月渡欧、モスクワ到着後天皇危篤の報に帰国、8月侍従長兼内大臣となるが、まもなく第二次西園寺内閣の総辞職で12月第三次桂内閣を組織、憲政擁護運動に会して翌1913年(大正2)2月総辞職、政治的生命を絶たれ、政党結成を進めたが、同年10月10日死去した。

[山本四郎]



世界大百科事典

桂太郎
かつらたろう
1847-1913(弘化4-大正2)

明治時代の軍人,政治家。長州藩士族の出身。早くより洋式銃陣を学び,戊辰戦争では長州藩第4大隊2番隊司令として奥羽を転戦。維新後大阪兵学寮に学んだが中退して1870年(明治3)ドイツに留学,一時帰国し陸軍大尉として明治政府に出仕,75年ドイツ公使館付武官として再びドイツに赴きドイツ軍政を調査・研究する。78年帰国,山県有朋陸軍卿に参謀本部独立を建言。参謀本部が設置されると管西局長となり,プロイセン軍制を範として軍制改革を推進した。91年第3師団長となり,日清戦争に出陣,軍功により子爵を授けられる。日清戦後,台湾総督,東京防御総督を経て,98年第3次伊藤博文内閣に陸相として入閣。そのあと第1次大隈重信,第2次山県,第4次伊藤の各内閣に留任した。この間,政党内閣の大隈内閣にたいしては閣僚として内部からの瓦解をはかり,また1900年の義和団事件では中国出兵を積極的にすすめ,列強の仲間入りを果たした。これらの活動を通じて桂は単なる軍人から長州閥の嫡子としての政治家に成長した。01年5月第4次伊藤内閣総辞職のあと後継首班におされ,山県系官僚を網羅して内閣を組織した。政綱に日英同盟締結の方針をかかげ,02年1月これを実現し,内閣の威信を高めた。その後日露関係の切迫するなかで,03年6月対露方針を決定,内閣を改造して開戦外交を展開,04年2月の日露開戦後は戦争遂行に全力を傾けた。戦争末期には政友会領袖の原敬と3度会談し,戦後には政友会総裁西園寺公望に政権を譲ることを条件に政府への協力をとりつけた。しかし日露講和条約に対する不満は日比谷焼打事件から全国的な非講和運動に発展し,その衝撃もあって05年12月には総辞職し,西園寺を後継首班に推薦した。以後いわゆる〈桂園時代〉と呼ばれる一時期が現出した。07年には日露戦争の功により侯爵となり,翌年には西園寺内閣のあとをうけて第2次桂内閣を組織し,対外的には10年に韓国を併合,その功により公爵に陞爵(しようしやく),対内的には社会主義・無政府主義者を徹底的に弾圧し,大逆事件では幸徳秋水ら12名を死刑に処した。11年首相を辞任し元勲優遇の詔勅をうけ元老となった。12年政党結成の構想をもって欧米視察に出発したがモスクワで明治天皇重病の報に接し急ぎ帰国。天皇の死後内大臣兼侍従長として宮中に入った。しかし同年12月二個師団増設問題で第2次西園寺内閣が倒れると,宮中を出て3度内閣を組織した。この行動は非立憲的であるとして護憲運動が全国に広がった。苦境に立った桂は政友会をきりくずし立憲同志会の組織を公表したが,結局13年2月民衆運動の革命化をおそれて総辞職した。その後政党組織化に力を尽くしたが,病をえて同年10月没した。

 政治家としての桂は,人心収攬にたけ,いわゆる〈ニコポン主義〉によって政敵を懐柔し,妥協によって難局をきりぬけたが,同時に長州藩閥を背景とする力の政治家でもあった。
[由井 正臣]

[索引語]
桂園時代 立憲同志会
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1. 桂太郎画像
日本大百科全書
明治時代の軍人、政治家。弘化こうか4年11月28日生まれ。長州藩出身。幕末戊辰戦争ぼしんせんそうに従軍。1869年(明治2)横浜語学校生徒、1870年8月より約
2. 桂太郎
世界大百科事典
1847-1913(弘化4-大正2) 明治時代の軍人,政治家。長州藩士族の出身。早くより洋式銃陣を学び,戊辰戦争では長州藩第4大隊2番隊司令として奥羽を転戦。維
3. かつら‐たろう【桂太郎】
日本国語大辞典
政治家、陸軍大将。公爵。長州藩出身。山県有朋の直系として陸軍次官、各内閣の陸相を経る間にドイツ式兵制の確立、北清事変への出兵などにあたった。明治三四年(一九〇一
4. かつらたろう【桂太郎】
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世田谷区若林)に葬られた。法名は長雲院殿忠誉義道清澄大居士。 [参考文献]徳富猪一郎編『公爵桂太郎伝』、徳富猪一郎『政治家としての桂公』、岡義武『山県有朋』(『
5. かつら-たろう【桂太郎】画像
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1848*−1913 明治-大正時代の軍人,政治家。弘化(こうか)4年11月28日生まれ。参謀本部にはいり,山県有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手。日清(にっし
6. 桂太郎[文献目録]
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7. 桂太郎[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
©小学館ライブラリー
8. 桂太郎自伝
東洋文庫
長州閥嫡流の軍人・政治家として生き,日英同盟・日露戦争・韓国併合を主導した桂は,ニコっと笑ってポンと相手の肩をたたくところから“ニコポン宰相”とよばれた。半生の
9. かつらたろうかんけいもんじょ【桂太郎関係文書】
国史大辞典
十五通である。書類に分類されているものでは、桂太郎自伝稿本が自筆本・浄写本合わせて十三冊、覚書その他の文書を綴った桂太郎伝記参考書十冊、その他桂太郎覚書・意見書
10. 桂太郎内閣画像
日本大百科全書
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11. 桂太郎内閣(第一次)[百科マルチメディア]画像
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12. 桂太郎内閣(第三次)[百科マルチメディア]画像
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13. 桂太郎内閣(第二次)[百科マルチメディア]画像
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14. あきづき-けいたろう【秋月桂太郎】
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15. かもん-けいたろう【加門桂太郎】
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16. 第2次桂内閣
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17. ひきだ-けいたろう【疋田桂太郎】
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1870−1933 明治-昭和時代前期の実業家。明治3年2月生まれ。東京高工(現東京工業大)の教授をへて,化学工業協会専務理事をつとめる。昭和8年3月8日死去。
18. かん【簡義】(Jiǎn Yì)
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19. 青木周蔵自伝 15ページ
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20. 青木周蔵自伝 26ページ
東洋文庫
得て、挙国大本営に就て観戦し、両国の和約成りし〔フランクフルト・アム・マイン講和条約〕後には、桂太郎氏来り、池田謙斎氏等一行
21. 青木周蔵自伝 65ページ
東洋文庫
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22. 青木周蔵自伝 109ページ
東洋文庫
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23. 青木周蔵自伝 322ページ
東洋文庫
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24. 青木周蔵自伝 336ページ
東洋文庫
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25. 青木周蔵自伝 354ページ
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30. 安達謙蔵画像
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士に選出され、官僚派に属して大同倶楽部くらぶ、中央倶楽部の結成に努めた。1913年(大正2)桂太郎かつらたろうの立憲同志会創立に参画し、以後憲政会の幹部として活
31. 安達謙蔵
世界大百科事典
の熊本国権党幹部となり,1902年の第7回総選挙に帝国党から当選,以後連続14回当選。13年桂太郎の立憲同志会創立に参加し,以後憲政会,立憲民政党に属す。この間
32. 安倍晋三
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9月16日首相を退任した。連続在職日数は2822日で佐藤栄作の2798日を、通算在職日数は3188日で桂太郎の2886日をいずれも上回り歴代1位であった。 政権
33. 一木喜徳郎
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地方制度研究のためドイツ留学。帰国後1894年東京帝国大学教授兼務。天皇機関説を提唱。第1次桂太郎内閣の法制局長官,第2次桂内閣で内務次官に就任。この間貴族院勅
34. いとう-きん【伊藤きん】
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江戸吉原の花魁(おいらん)。明治17年東京築地に料亭新喜楽をひらく。日露戦争開戦のとき,首相桂太郎に贅沢(ぜいたく)をいましめた話がのこる。大正4年4月14日死
35. 伊藤博文
世界大百科事典
しかし次年度の財政政策をめぐって閣内対立し,01年5月総辞職した。これ以後,政友会総裁として桂太郎内閣との折衝を任とする一方,元老として日露協商の可能性を打診す
36. いとうひろぶみ【伊藤博文】
国史大辞典
衆議院過半数の政友会を背後に擁しながら七ヵ月足らずの短命をもって終った。後継内閣首班に山県系の桂太郎が登場したことは、当時巨大な派閥網の上に立つ山県有朋とそれを
37. 伊東巳代治
世界大百科事典
責任を負って辞任した。1900年伊藤の政友会結成を周旋したが入党せず,このころから山県有朋や桂太郎らへの接近度を深めた。1899年に枢密顧問官となって以後,しだ
38. いとうみよじ【伊東巳代治】
国史大辞典
負って辞任した。続く第一次大隈内閣がわが国最初の政党内閣として発足したのに対して、同内閣に留任した陸相桂太郎と通謀して内閣倒壊のため暗躍。翌三十二年枢密顧問官に
39. 犬養毅
世界大百科事典
援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと提携し
40. いのうえ-さぶろう【井上三郎】
日本人名大辞典
1887−1959 明治-昭和時代前期の軍人,政治家。明治20年2月6日生まれ。桂太郎の3男。井上勝之助の養子。井上光貞(みつさだ)の父。大正6年陸軍省軍務局に
41. 井上光貞
日本大百科全書
日本史学者。東京都生まれ。井上馨いのうえかおるの曽孫そうそん、首相となった桂太郎の孫。1942年(昭和17)東京帝国大学文学部国史学科を卒業し、大学院に進む。坂
42. いのうえ-みつさだ【井上光貞】
日本人名大辞典
1917−1983 昭和時代の日本史学者。大正6年9月19日生まれ。井上馨(かおる)の曾孫。桂太郎の孫。東京帝大在学中から坂本太郎の指導をうけ,古代政治史・仏教
43. いわした-きよちか【岩下清周】
日本人名大辞典
岩下壮一の父。三井物産パリ支店長,三井銀行支配人などをへて明治30年北浜銀行設立にくわわり,36年頭取。桂太郎,原敬らとしたしく,41年衆議院議員(当選2回)。
44. いわしたせいしゅう【岩下清周】
国史大辞典
ど多数の会社に関係し、役員となったが、大正三年(一九一四)同行が破綻し、頭取を辞した。なお、桂太郎・原敬らとも親しく、明治四十一年より大正三年まで衆議院議員に在
45. インブリー(Imbrie, William)
世界人名大辞典
成立に尽くす.日本基督教会創業時代より信仰告白,教会規則の改正に貢献した.また日露戦争の際,桂太郎首相と対談し,その内容を英文にして日本の立場を欧米人に紹介した
46. うつのみや-たろう【宇都宮太郎】
日本人名大辞典
使館付武官。のち参謀本部第二部長,第四師団長などをへて,大正7年朝鮮軍司令官。翌年陸軍大将。桂太郎,仙波太郎とともに陸軍の三太郎とよばれた。大正11年2月15日
47. えんいち【円一(2)】
日本人名大辞典
慶応4年京都で奥羽鎮撫副総督沢為量(ためかず)の知遇をえて戊辰(ぼしん)戦争に従軍。長門(ながと)(山口県)の桂太郎の隊にはいり,出羽(でわ)角間川(秋田県)で
48. 大石正巳
世界大百科事典
る大隈内閣に農商務相として入閣。憲政本党,次いで立憲国民党の幹部として活動したが,1913年桂太郎の立憲同志会結成に参加し,15年政界を引退。自由・進歩両党間に
49. 大浦兼武
世界大百科事典
山口,熊本各県知事を歴任,98年警視総監となる。1900年勅選貴族院議員となり,03年第1次桂太郎内閣の逓信大臣,08年第2次桂内閣の農商務大臣,第3次桂内閣で
50. おおくまないかく【大隈内閣】画像
国史大辞典
で無傷であり、しかも改進党・憲政本党以来の民衆政治家としてのイメージも強く残っていた。大隈は桂太郎の遺産である立憲同志会を基礎に尾崎行雄の中正会や貴族院の山県系
「桂太郎」の情報だけではなく、「桂太郎」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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安土桃山時代の武将。初代上田城主。幼名源五郎、通称喜兵衛。安房守。真田弾正幸隆の第三子として天文十六年(一五四七)信濃国に生まれる。信之・幸村の父。武田信玄・勝頼父子に仕えて足軽大将を勤め、甲斐の名族武藤家をついだが、兄信綱・昌輝が天正三年(一五七五)に
真田信之(真田信幸)(国史大辞典)
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。初代松代藩主。幼名は源三郎。はじめ信幸、のち信之と改めた。号は一当斎。真田安房守昌幸の嫡男として永禄九年(一五六六)生まれた。母は菊亭(今出川)晴季の娘。幸村の兄。昌幸が徳川家康に属したため
本多正信(国史大辞典)
戦国時代から江戸時代前期にかけて徳川家康に仕えた吏僚的武将。その側近にあり謀臣として著名。通称は弥八郎。諱ははじめ正保、正行。佐渡守。天文七年(一五三八)三河国に生まれる。父は本多弥八郎俊正。母は不詳であるが松平清康の侍女だったという。徳川家康に仕え


「桂太郎」は幕末に関連のある記事です。
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沖田総司(日本架空伝承人名事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
新撰組隊士。白河藩士の子として生まれる。天然理心流近藤周助の試衛館で剣を学び、同門の近藤勇とともに、新撰組に加わった。剣の才能は抜群であったものの、結核を患い、池田屋事件では、近藤らとともにわずか五名で、一番先に斬り込んだが、喀血して昏倒した。
長崎海軍伝習所の日々(東洋文庫)
日本海軍の黎明期を物語る史料。幕末の安政のころ,伝習所教官として来日したオランダ士官の目にうつる若き日の勝海舟,榎本武揚,開明の藩主島津斉彬,鍋島閑叟ら。生き生きと登場する幕末の群像。1964年09月刊
桂太郎(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一八四七-一九一三明治時代の軍人、政治家。弘化四年(一八四七)十一月二十八日、萩藩士馬廻役百二十五石の桂与一右衛門信繁と母喜代子の長男として、長州萩平安古(山口県萩市平安古町)に生まれる。はじめ寿熊と称し、のち太郎と改名。海城と号す。藤田与次右衛門
岩倉使節団(日本大百科全書・世界大百科事典)
1871年(明治4)11月から1873年9月にかけて、約1年10か月、米欧12か国を歴訪した、出発時46名よりなる使節団。特命全権大使は右大臣岩倉具視(いわくらともみ)で、副使は参議木戸孝允(きどたかよし)、大蔵卿(おおくらきょう)大久保利通


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