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  11. 紀伊国屋文左衛門

紀伊国屋文左衛門

ジャパンナレッジで閲覧できる『紀伊国屋文左衛門』の国史大辞典・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん
 - 一七三四
江戸時代中期の江戸の豪商。略して紀文ともいう。その伝記は詳らかでないが、没年六十六歳といわれるので、寛文九年(一六六九)の生まれか。現在の和歌山県有田郡湯浅町別所の生まれと推定され、はじめ紀州のみかんを江戸に廻漕し、江戸から塩鮭を上方にもたらして巨利を得たといわれる。こうして蓄積した資本をもとに、貞享年間(一六八四―八八)二十歳のころ江戸に進出し、京橋本八町堀三丁目に居宅一町四方という壮大な材木問屋を開いた。元禄十年(一六九七)、紀文は老中柳沢吉保や勘定頭荻原重秀にとりいって、上野寛永寺根本中堂の用材請負に成功し、駿府の豪商松木新左衛門と組んで約五十万両の巨利を占めたといわれる。江戸のたび重なる火災や盛んに行われる寺院建築によって、材木問屋は大いに栄えたが、なかでも紀文の事業は奈良屋茂左衛門とならんで、幕府御用達として一時全盛をきわめた。またこのころ紀文は御用達町人として長崎貿易にも関係し、亜鉛(トタン)を原価で輸入する利権を得ていた。紀文の商いは、幕閣や勘定方役人との結託によって一層繁栄したもので、後年新井白石は『折たく柴の記』中で、荻原と御用達商人とのこうした癒着ぶりを非難している。元禄期を中心に、以前の門閥特権商人と新興商人の勢力交替がみられたが、この新興のいわゆる元禄町人は、投機型商人と堅実型商人の二つの類型に分けることができる。紀文の事業は、いわば一攫千金をめざす投機的性格がつよく、奈良屋茂左衛門・淀屋辰五郎らとならび称される。この点おなじく代表的な元禄町人としてあげられる三井・鴻池らのような、利殖を重んじ、事業を子々孫々に継続した堅実型の商人とは異質であった。紀文は、元禄十三年幕府の忌諱にふれて一時投獄され、以後御用達としての特権にありつけなくなり、商売は振るわなくなった。やがて政局の転換に伴い柳沢や荻原が引退すると、紀文の幕府御用達としての立場も全く失われた。そして紀文は元禄末以降数度買いだめていた材木を深川の木場で焼失したことが致命的となって、正徳年間(一七一一―一六)にはついに材木問屋を廃業し、浅草寺内慈昌院地内に移転したが、家財運搬になお十八日間を要したといわれ、その豪奢ぶりもさることながら、いまだその余力のほどがうかがわれる。こののち俳諧を親しむといった文化人として日々を過ごしたが、まもなく深川八幡一の鳥居北側の地に隠棲し、享保十九年(一七三四)四月二十四日、この地で没した。法名帰性融相と称し、深川霊岸(巌)寺塔中浄(成)等院に葬られた。紀文について事実を明らかにする史料はきわめてすくないが、文学の世界に描かれた紀文は多い。ことに吉原における豪遊ぶりは有名であるが、これも宣伝的な要素が多く、紀文は自己の財力の巨大さを江戸市民に誇示し印象づけることによって、世間からの信頼を得、自己の事業を有利に展開しようとしたものであって、そのためきわだって人目につく社交機関や宣伝機関を利用して「紀文」の名を売っていた。したがって紀文の交友関係はひろく、その取巻き連中は、絵師の英一蝶、俳諧師の宝井其角、書家の佐々木文山などの文芸人をはじめ多彩であった。→御用商人(ごようしょうにん),→奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)
[参考文献]
上山勘太郎『実伝紀伊国屋文左衛門』、田村栄太郎『実録小説考』(『田村栄太郎著作集』四)、中田易直「紀伊国屋文左衛門」(『金融ジャーナル』一五ノ一三)
(中田 易直)


世界大百科事典

紀伊国屋文左衛門
きのくにやぶんざえもん

元禄時代の豪商。生没年不詳。通称紀文。江戸の本八丁堀三丁目に住し幕府の材木御用達として活躍,巨富を積んだ。たとえば1698年(元禄11)に江戸寛永寺根本中堂の資材調達を請け負ったと伝えられるほか,1700年には下総香取社の普請用材を調達している。これら用材は,おもに駿府(静岡市)の豪商松木新左衛門らとともに,大井川上流の駿州,遠州(静岡県)の山々から採材した。忍(おし)藩主阿部正武らに大名貸も行っていたらしい。とくに,柳沢吉保と並ぶ幕閣の実力者であった老中阿部とは密接な関係にあった。同藩の記録《公余録》によれば,1703年9月15日に江戸藩邸で正式に御目見し拝領物を頂戴,翌日忍領内の秩父銅山見分に出立したが,終始きわめて丁重な待遇をうけており,権力と結託する政商としての一面をうかがうことができる。このほか,幕府の鋳銭事業を請け負ったと伝えられるが,上記の秩父銅山見分は,その銅銭鋳造事業と無関係ではなかろう。日常生活は贅をきわめ,遊里吉原などでも豪遊したため紀文大尽と称せられたが,宝永末年か正徳のころ材木商を閉業し,深川一の鳥居付近に隠棲,晩年は微禄した。山東京伝の《近世奇跡考》(1804成立)によれば,俳諧を宝井其角に学び千山と号し,1734年(享保19)4月24日没,法名は帰性融相信士,深川霊巌寺塔頭の浄等院に葬られたという。没落の原因は,大金を湯水のごとく遊び費やしたということだけでなく,過伐濫伐により山林が荒廃し林業不況が生じたため,当時一般に材木商経営が悪化したことが挙げられる。さらに没落の背景として,元禄のインフレ政策から新井白石の正徳の治によるデフレ政策へと幕政が転換したため,政商紀文の活躍する場がなくなったことも指摘できよう。このように紀文は,その身一代で豪商に成りあがり,また没落したことで有名であるが,創業の基礎をひらき財をなしたのは紀州出身の父であり,豪遊して没落したのはその子であるという紀文二代説もあるなど,紀文の履歴には,なお不明の点が多い。
[竹内 誠]

伝承と作品化

文左衛門の俗伝は,ミカンの買出しと吉原豪遊によって有名であり,また明暦大火のおり木曾材買占めで巨利を得た河村瑞賢の逸話が混同されるなど,早くから伝説化した。享保期の俳優二朱判吉兵衛作と伝えられる《大尽舞》に〈抑(そもそも)お客の始りは高麗もろこしはぞんぜねど,今日本にかくれなき紀の国文左でとゞめたり,緞子(どんす)大尽はりあひに三浦の几帳(きちよう)を身受する……〉とうたわれている。江戸期随筆考証文の類にも紀文の事跡は記されたが,真偽わかちがたい。読本《昔唄花街始(むかしうたくるわのはじまり)》(式亭三馬作,1809)には〈つのくに汶三(ぶんざ)〉の名で捌(さば)き役として登場,人情本の《紀文実伝長者永代鑑》(2世楚満人(為永春水)作,文政年間),合巻の《黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかずき)》(2世為永春水作,1854-66)等では主人公となっている。歌舞伎では《青楼詞合鏡(さとことばあわせかがみ)》(並木五瓶作,1797桐座初演)で3世沢村宗十郎が紀伊国屋文蔵に扮し好評を得,いらい読本等の挿画は宗十郎の似顔で文左衛門を描くにいたった。また《紀文大尽廓入船(くるわのいりふね)》(3世河竹新七作,1878市村座初演)は,前記2世為永春水作の合巻をもとに放牛舎桃林が講釈化したものの脚色。長唄にも《紀文大尽》(中内蝶二作詞,1911発表),また実録本には《名誉長者鑑》(成立年不詳)があり,俗伝ではおおむね初世の一代富豪化と2世の驕奢・零落とが分けて描出され,江戸町人の一典型となっている。
[小池 章太郎]

[索引語]
紀文 紀文大尽 大尽舞 昔唄花街始(むかしうたくるわのはじまり) 紀文実伝長者永代鑑 黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかずき) 青楼詞合鏡(さとことばあわせかがみ) 紀文大尽廓入船(くるわのいりふね)
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検索ヒット数 66
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検索コンテンツ
1. 紀伊国屋文左衛門
日本大百科全書
生没年不詳。元禄げんろく時代(1688~1704)の豪商。通称紀文、俳号千山せんざん。若年のとき暴風雨をついて故郷紀州(和歌山県)から蜜柑みかん船を江戸へ回漕か
2. 紀伊国屋文左衛門
世界大百科事典
元禄時代の豪商。生没年不詳。通称紀文。江戸の本八丁堀三丁目に住し幕府の材木御用達として活躍,巨富を積んだ。たとえば1698年(元禄11)に江戸寛永寺根本中堂の資
3. きのくにやぶんざえもん【紀伊国屋文左衛門】画像
国史大辞典
らやもざえもん) [参考文献]上山勘太郎『実伝紀伊国屋文左衛門』、田村栄太郎『実録小説考』(『田村栄太郎著作集』四)、中田易直「紀伊国屋文左衛門」(『金融ジャー
4. きのくにや-ぶんざえもん【紀伊国屋文左衛門】
日本人名大辞典
?−1734 江戸時代前期-中期の豪商。紀伊(きい)(和歌山県)の人。貞享(じょうきょう)年間に江戸八丁堀で材木問屋をひらき,寛永寺根本中堂造営の用材を調達して
5. きのくにやぶんざえもん【紀伊国屋文左衛門】
日本架空伝承人名事典
なしたのは紀州出身の父であり、豪遊して没落したのはその子であるという紀文二代説もあるなど、紀伊国屋文左衛門の履歴には、いまなお不明の点が多い。[竹内 誠]伝承と
6. 紀伊国屋文左衛門[文献目録]
日本人物文献目録
『実伝紀伊国屋文左衛門』上山勘太郎『紀伊国屋文左衛門小伝』阪上義和(著刊)『紀伊国屋文左衛門事歴』岡谷繁実『紀文と奈良茂』関根黙庵『紀文の俳句』波武可通『近代政
7. 紀伊國屋文左衞門奢侈 (見出し語:紀伊國屋文左衞門)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 628ページ
8. 紀伊國屋文左衞門風流 (見出し語:紀伊國屋文左衞門)
古事類苑
器用部 洋巻 第1巻 248ページ
9. 紀伊國屋文左衞門驕慢 (見出し語:紀伊國屋文左衞門)
古事類苑
人部 洋巻 第2巻 616ページ
10. いしむら-おうみ【石村近江(4代)】
日本人名大辞典
江戸時代前期の三味線製作者。3代石村近江の子。「雷電」「小蝶」などの作品が知られ,そのおおくは紀伊国屋文左衛門が所持したという。元禄(げんろく)9年1月27日死
11. いばらきや-こうさい【茨木屋幸斎】
日本人名大辞典
。家内に500人もの遊女や使用人をかかえ,豪奢(ごうしゃ)な生活をし,宝永年間には江戸で紀伊国屋文左衛門と豪遊をきそった。享保(きょうほう)3年(1718)奢侈
12. 江戸真砂六十帖
世界大百科事典
書き記したもの。石川六兵衛の女房の奢侈(しやし),元禄金吹替え,奈良屋茂左衛門,英一蝶,永代橋,紀伊国屋文左衛門,役者声色の元祖などを項目を掲げて記す。異本とし
13. おおいがわ【大井川】静岡県:総論
日本歴史地名大系
享保二年「御立山書上帳」森家文書など)。こうして江戸に送られた木材の大部分は幕府や尾張藩の御用木で、紀伊国屋文左衛門や信濃屋庄三郎が請負人として有名(元禄一一年
14. 「改造」
日本近代文学大事典
馬場孤蝶の『豊田貢』、村松梢風の『白木屋お駒』、藤井真澄の『ゲンコツ団長の失望』、荒畑寒村の『紀伊国屋文左衛門』、白柳秀湖の『鰯屋の嫁』を一挙に掲載、小説欄はな
15. かご‐ながもち【籠長持】
日本国語大辞典
*紀文大尽〔1892〕〈村井弦斎〉大火事「籠長持(カゴナガモチ)に竹の皮包を詰め八丁堀三丁目紀伊国屋文左衛門施行弁当と筆太に記したる紙幟(のぼり)を押立て」
16. かた‐な【片名・偏名・肩名】
日本国語大辞典
心は、阿波、讚岐、伊予、土佐の片名なり」*随筆・蜘蛛の糸巻〔1846〕一八大通「元祿の比、紀伊国屋文左衛門〈略〉片名に呼びて紀文といふ」(4)((3)から転じた
17. 甲子夜話続篇 1 222ページ
東洋文庫
待、時待、くれ松、連理の松に契りをこめて、福大黒を見さいな。『近世奇跡考』〔京伝著〕云。紀伊国屋文左衛門は、材
18. かみ-ちょうしち【髪長七】
日本人名大辞典
?−? 江戸時代中期の幇間(ほうかん)。江戸の髪結い。口笛や餓鬼舞(がきまい)が得意で紀伊国屋文左衛門(?-1734)にひいきにされ,つねにともなわれて酒席に興
19. 紀伊国
世界大百科事典
3万5000石で新宮に配置し,支藩的存在をなした。 産業 産業のおもなものとして紀州蜜柑があるが,紀伊国屋文左衛門が荒天をついて江戸に運んだというのは多分に伝説
20. きいのくに【紀伊国】和歌山県
日本歴史地名大系
たたえた盆踊歌がある。現在も各地に「紀州備長炭」使用の木札を掲げた鰻屋などがある。紀州蜜柑 紀伊国屋文左衛門で知られる紀州蜜柑の起源は、永享年間(一四二九―四一
21. キシュウミカン画像
日本大百科全書
有田郡を中心に広まった。1671年(寛文11)江戸に初出荷され、キシュウミカンの名が普及した。紀伊国屋文左衛門きのくにやぶんざえもん時代の蜜柑船は本種を運んだも
22. 木場
世界大百科事典
元禄期(1688-1704)には幕府の建築事業が多かったため,御用材の調達を請け負う大商人が出現した。紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門は代表的商人である。とくに
23. 黄表紙 110ページ
日本古典文学全集
度量の大きい江戸っ子のたとえ。「大門を打つ」は新吉原の大門を閉めて他の客を入れずに買い切ること。江戸の豪商紀伊国屋文左衛門は一夜千両にて大門を打ったと伝えられる
24. 紀文大尽
世界大百科事典
で発表。作詞中内蝶二。作曲4世吉住小三郎,3世杵屋(きねや)六四郎。吉原で豪遊する2代目紀伊国屋文左衛門が,江戸時代の元禄期に巨万の富を得た父紀文が,若き日に悲
25. きんせい【近世】画像
国史大辞典
その営業利得に応ずる徴税法はなかったから、短時日の間に巨利を得る者も現われた。河村瑞賢・紀伊国屋文左衛門あるいは三井などに代表される豪富家が生じ、それらを背景に
26. 黒手組曲輪達引
世界大百科事典
めぐって鳥井らと対立。助六は狼藉(ろうぜき)から救った新兵衛が揚巻の父親であることを知る。紀伊国屋文左衛門に喧嘩をいましめられ,助六は鳥井らの打擲(ちようちやく
27. げんろくぶんか【元禄文化】
国史大辞典
京都・大坂・江戸の三都や城下町などの地方都市や上方の農村での民衆が余裕をもつようになったこと、紀伊国屋文左衛門や奈良屋茂左衛門の豪遊を伝える遊里や劇場など三都の
28. 幸田 露伴
日本近代文学大事典
この物語は中国明代の短編小説集『今古奇観』の『銭秀才錯占鳳凰儔』にヒントを得、ブンセイムは紀伊國屋文左衛門をもじったものとされているが、プロットの大半は露伴の奔
29. 小林 宗吉
日本近代文学大事典
外務省勤務後劇作に専心。大正一一年一月、『深川の秋』が新国劇により上演、以後同劇団のために『紀伊國屋文左衛門』『カインの末裔』(脚色)『剣客商売』(ロスタン原作
30. ごようしょうにん【御用商人】
国史大辞典
同様公金為替を請け負い、ともに御用達商人として活躍した。また幕府の用材請負で巨利を占めた紀伊国屋文左衛門・奈良屋茂左衛門なども投機的な御用商人としてよく知られる
31. ささきぶんざん【佐々木文山】
国史大辞典
讃岐高松侯に仕え、西窪に住んだ。寺社の額字を書し、士庶に門弟多く、酔えば一層の妙趣を示した。紀伊国屋文左衛門らと遊んだ吉原の揚屋で春山桜花を画いた屏風に揮亳を望
32. しゃかい【社会】 : 近世
国史大辞典
その営業利得に応ずる徴税法はなかったから、短時日の間に巨利を得る者も現われた。河村瑞賢・紀伊国屋文左衛門あるいは三井などに代表される豪富家が生じ、それらを背景に
33. 洒落本 24ページ
日本古典文学全集
浄瑠璃「夕霧阿波鳴渡」で、有名な大坂新町の太夫夕霧と情死したという大金持藤屋伊左衛門。江戸の豪商紀伊国屋文左衛門。吉原での大尽遊びは名高く、晩年、落魄して享保十
34. せんずむら【千頭村】静岡県:榛原郡/本川根町
日本歴史地名大系
あった。大間平は寛文六年(一六六六)に遠州領となった(「返答書」森家文書)。元禄五年には紀伊国屋文左衛門・松木屋郷蔵などが駿州山の御用木を請負った際に遠州山内に
35. 増訂 武江年表 1 107ページ
東洋文庫
是れ等のともがら武家の例に事よせ、八朔に白き衣裳を着したるか、尚考ふ可し)。○本八町堀三丁目住紀伊国屋文左衛門(材木やにして世にいふ紀文大尽也。俳号千山と云ふ)
36. 増訂 武江年表 1 136ページ
東洋文庫
山谷瑞泉院に葬す)。〇三月二十一日、弘法大師九百年忌(真言宗寺院法笹を段く)。〇四月二十四日、紀伊国屋文左衛門死す(所謂紀文大尽也。俳号千山と云ふ。霊巌寺中浄等
37. 増訂 武江年表 1 195ページ
東洋文庫
大内熊耳の門人田江南と云へる人、投壷の礼を研尋し其の法を伝ふ。「投壷指揮」「投壷矢勢図解」等梓行せり)。○紀伊国屋文左衛門(千山)が実子文右衛門、築地飯田町に住
38. 増訂 武江年表 1 223ページ
東洋文庫
なかりし事を知るべし。又、元禄の頃、吉原に井なし。砂利場、田圃のあたりより汲みたりしを、紀伊国屋文左衛門、揚屋町尾張屋清十郎方にて、始めて掘りぬき井をほらせしが
39. 増訂 武江年表 2 26ページ
東洋文庫
H-214祇徳       1-161杵屋六翁        皿一153紀伊国屋文左衛門  1-107,136紀伊国屋文左衛門(2世) 1-195紀伊国屋又太夫
40. 増補 私の見た明治文壇 2 370ページ
東洋文庫
木戸孝允(松菊) 1=30,115-16,118175 紀海音 1=151,2=258 紀伊国屋文左衛門(紀文) 1=181 紀定丸(定麿・吉見儀助・野原雲輔)
41. だいじん‐まい[‥まひ]【大尽舞】
日本国語大辞典
正徳・享保(一七一一~三六)頃の道化役者二朱判吉兵衛(中村吉兵衛)の創始という。郭(くるわ)の由来、紀伊国屋文左衛門らの大尽、遊君などを歌った二五段から成る謡い
42. 津本陽
日本大百科全書
剣による人間形成という教養小説の側面を持つ作品も生み出した。歴史小説の分野では、紀州の豪商紀伊国屋文左衛門の波瀾の人生を描いた『黄金の海へ』(1989)、8代将
43. とうこうえん-ひなかめ【桃江園雛亀】
日本人名大辞典
狂歌は弥生庵雛丸(やよいあん-ひなまる)に師事し,桃の本の号をゆずられた。今紀文(いまきぶん)(紀伊国屋文左衛門の現代版)と称された細木香以(さいき-こうい)は
44. どうえつじまむら【道悦島村】静岡県:島田市
日本歴史地名大系
村明細帳(道悦島村文書)によれば家数七五・人数四五二。元禄(一六八八―一七〇四)初年頃、紀伊国屋文左衛門が江戸上野寛永寺根本中堂建立のため請負った用材を大井川奥
45. 浪花節
日本大百科全書
『天保六花撰てんぽうろっかせん』の木村友衛ともえ、『天保水滸伝てんぽうすいこでん』の玉川勝太郎、『紀伊国屋文左衛門きのくにやぶんざえもん』の梅中軒鶯堂ばいちゅう
46. 奈良屋茂左衛門
世界大百科事典
・土地造成ブームに便乗して公営工事の請負業者として,短期間に巨万の富をきずいた。同時期の紀伊国屋文左衛門とともに特権的投機商人の典型とされる。1710年(宝永7
47. ならやもざえもん【奈良屋茂左衛門】
国史大辞典
江戸時代中期の江戸深川の材木請負業者。通称奈良茂。姓神田氏。元禄時代前後に材木商で巨利を占めた紀伊国屋文左衛門(紀文)とならんで、江戸吉原の遊客として英雄視され
48. ならや-もざえもん【奈良屋茂左衛門(4代)】
日本人名大辞典
修復工事をうけおって巨利をえた。江戸で火災がおきるたびに商売は繁盛し,巨万の富をきずいた。紀伊国屋文左衛門とならび称される。正徳(しょうとく)4年6月13日死去
49. ならや-もざえもん【奈良屋茂左衛門(5代)】
日本人名大辞典
元禄(げんろく)8年生まれ。4代奈良屋茂左衛門の長男。遺産13万2000両余を弟勝屋とともにうけつぐ。紀伊国屋文左衛門とはりあうなど,弟ともども吉原などで豪遊を
50. 日本教育史 2 140ページ
東洋文庫
配布するありて、商法大に巧になり、元禄年間、即ち徳川綱吉の時に至り、漸く盛にして、川村瑞軒、紀伊国屋文左衛門の如き、暴富の人を出だすに至る。寛政、文化の比、徳川
「紀伊国屋文左衛門」の情報だけではなく、「紀伊国屋文左衛門」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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