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始皇帝

ジャパンナレッジで閲覧できる『始皇帝』の世界大百科事典・岩波 世界人名大辞典・日本大百科全書のサンプルページ

世界大百科事典

始皇帝
しこうてい
Shǐ huáng dì
前259-前210

中国,秦31代の王(在位,前247-前222),中国最初の皇帝(在位,前222-前210)。姓は嬴(えい),名は政。荘襄王の子。一説では実父は陽翟の大賈である呂不韋とする。荘襄王が人質となって趙に寄寓していたおりに呂不韋は自分の姫妾を荘襄王に献上したが,彼女はすでに妊娠していたという。政は趙の国都邯鄲に生まれ,荘襄王の死去により13歳で秦王となった。はじめ呂不韋を相国として国事をゆだねたが,即位10年に〓毒(ろうあい)の事件に連座したためにしりぞけ,ついで法家の李斯を重用した。王翦(おうせん)等を派遣して韓を手始めに,魏,楚,燕,斉,趙の戦国六雄を次々と滅亡させ,古代帝国の成立を実現させた(前221)。太古の三皇五帝から採って皇帝の称号を定め,みずからは始皇帝と称して帝位を2世,3世と無窮に伝えることを意図した。さらに,朕,制,詔など皇帝専用用語を制定し,また旧来の文や武といった諡法(しほう)を廃止した。

 帝国は五行のうちの水徳となし,これにもとづき歳首は十月,黒色を尊び,数は6をもって文物制度を規格し,黄河を徳水と名をあらため,また庶民を黔首(けんしゆ)(黒頭)と呼んだ。天下を36郡に区画し,領土の拡張に伴い42郡,さらに48郡に編成し,郡県制度を全国に施行した。郡ごとに守(民政)とその丞(補佐),尉(軍政)とその丞および監(監察)を,県には令(または長,民政),丞および尉を置き,いずれも中央政府から派遣する中央集権体制を確立し,また什伍の法を全土に適用させた。郡県制はすでに戦国各国が実施していた統治方式であり,秦の旧領も12郡に編成されていた。天下統一によりこれを全域に及ぼしたのである。民間から武器を没収して国都の咸陽に集め,鐘鐻などの楽器や金人を鋳造して宮廷に並べ,また地方都市の城郭を取り除かせた。度量衡を統一して基準の量器を全国に配布し,車軌を一定し,標準となるべき文字(篆書(てんしよ))や貨幣(半両銭)を制定した。

 制度文物の統一とともに焚書(ふんしよ)と坑儒(こうじゆ)を強行して思想および言論の統制を図った。史官は秦史以外の列国の歴史を焼却処分し,民間が所蔵する詩書諸子百家の類はことごとく守・尉に提出して焼却させた。ただし,医薬・卜筮(ぼくぜい)・農業については除外され,また朝廷の博士はいかなる書籍の所有をも許可された。坑儒とは,諸生が始皇を誹謗し,あるいは妖言をもって民衆を惑わしたという理由により,容疑の方士と諸生とを咸陽において穴埋めにして見せしめにした事実をいう。

 国都の咸陽は渭水が貫流し,渭北には咸陽宮,渭南には興楽宮が設けられ,二宮は渭橋によってつながれていた。咸陽宮が手狭になったので,渭南の上林苑中に朝宮(阿房宮)の造営に着手した。しかし,在世中は前殿のみが完成しただけで,工事は二世皇帝に引き継がれた。宮殿の整備とともに,天下の豪商12万戸を強制移住させて人口を充実させている。また,馳道(ちどう)を建設して中央と地方とを結ぶ交通を緊密にした。

 即位28年から斉,楚,燕などの故地への巡幸を開始した。まず,山東地方に至り,泰山に登りここで封の儀式を,ふもとの梁父(りようほ)で禅の儀式を執行した(封禅)。ついで,山東半島をめぐったが,このおりに斉人の方士徐市(じよふつ)(徐福ともいう)から海中にある三神山(蓬萊,方丈,瀛州(えいしゆう))のことを聞き,徐市に僊人(仙人)と不死の薬を求めさせた。不老長生を願い,みずからも真人(仙人)を思慕するあまり,しばらくは真人と自称して朕の称号を捨てるほどであった。嶧山(えきざん),泰山,瑯琊台(ろうやだい),之罘(しふ),碣石(けつせき)では始皇の功績を石に刻ませている。

 前215-前214年,〈秦を滅ぼすのは胡である〉という讖緯(しんい)を誤解して北辺に蒙恬(もうてん)を派遣し,オルドスに占住していた匈奴を漠北に追い払うとともに,燕,趙,秦の旧城をつないで遼海から臨洮(りんとう)に至る約1500kmに及ぶいわゆる万里の長城を築き,北方民族の侵入に備えた。前214年には陸梁の地を滅ぼして南越三郡(南海,桂林,象)を設置し,コーチシナにまで領土を拡張した。

 前210年,巡幸の途中で病死したが,丞相の李斯と宦官の趙高は内乱の発生を危惧してこれを秘し,詔命と偽って太子の扶蘇と蒙恬を自殺させ,棺を咸陽に運んではじめて喪を発し,驪山(りざん)に埋葬した。末子の胡亥が二世皇帝として即位したが,始皇以来の法罰至上主義,たび重なる外征および朝宮や陵墓などの土木工事に民衆の反感を招き,山東や楚地を中心に反乱が起こり,始皇の没後わずか4年で秦は滅亡した。
→始皇陵
[上田 早苗]

[索引語]
Shǐ huáng dì 嬴政 呂不韋 郡県制(中国) 咸陽 焚書 坑儒 徐市 徐福 蒙恬 扶蘇 胡亥


岩波 世界人名大辞典

しん(の)しこうてい【秦始皇帝
Qín Shǐhuángdì
生号:皇帝 追号:始皇帝 名:政 称:嬴政; 趙政
前259~10

中国の皇帝 [前221/10].

秦の荘襄王の子.秦は嬴(えい)姓の国で,始皇帝を〈嬴政〉と称するのは,姓と氏の区別がつかなくなった漢代以後の呼び方.〈趙政〉と称するのは,始皇帝が秦王の子ではなく,趙出身の娘が呂不韋(りょふい)の子をやどしたという説話に基づく.邯鄲(かんたん)で生まれる.13歳の時,荘襄王が死に,立って秦王となった.韓,趙,燕,魏,楚,斉を次々と滅ぼし [前230-],天下を統一した [前221].丞相らに命じて帝号について議論させ,号を〈皇帝〉,王命を〈制〉,王令を〈詔〉,自称を〈朕〉とすることに決める.〈皇帝〉は生号であり,秦二世にいたって〈始皇帝〉と追号した.戦国時代以来秦では五徳終始説によって,火徳の周をつぐ水徳の王朝と自任し,衣服や様々な旗の色は黒を尊んでいた.また,年始は10月朔日,年末は9月晦日であったが,始皇帝はこれらの制度を継承した.数は6を標準とし,それは割符,冠,輿の長さや大きさにまで及んだ.また,黄河の名前を徳水に改め,天下を分けて36郡とし,民の呼称を黔首(けんしゅ)に改めた.さらに天下の兵器を没収して咸陽(かんよう)に集め,溶かして釣鐘と鐻,銅像12体を作り,度量衡を統一,車の両輪の幅を同じにした.文字は,秦国の書体であった祭祀用の篆書と行政用の隷書を天下のものとし,東方六国の書体のうち行政用の書体(六国古文という.《説文解字》後序)を否定した.また,天下の豪傑・富家12万戸を咸陽に移住させ,天下を統一すると全国を巡遊した.封禅・望祭を行うことを議し [前219],泰山に上り,石を立ててつちもりし,天を祀った.また徐市(じょふつ)(徐福)らに仙人の不死の薬を探し求めさせた.前213年丞相の李斯の意見を採り,禁書の令を発した.それは史官の所蔵している書物のなかで秦の記録でないものおよび博士が官職として掌る以外の儒家の詩書や諸子の書を全て焼き捨てさせ,あえて詩書について論じるものは死刑,古のことをいいたてて今の世を非とするものは一族皆殺しとし,官吏で禁令を破っているのを知りながら検挙しないものも同罪とし,令を下してから30日が過ぎても,書を焼かないものは黥(いれずみ)を施して労役の刑に服させ,医薬,卜筮(ぼくぜい),種樹園芸に関する書物に限り所有を許したというものである.翌年,文学方術の士が妖言をもって民衆を惑わしていると理由をつけ,御史に命じて秦の政策に反対する学者(儒家に限らない)を取り調べさせ,禁令を破ったもの460余人を咸陽にて阬(あな)にし,天下へのみせしめとした.巡遊先の平原津(山東平原)において病にかかり,沙丘の平台(河北邢台)で没した.

〖文献〗 史記6.〖参考〗 平㔟隆郎:都市国家から中華へ, 2005.同:史記の「正統」, 2007.



日本大百科全書(ニッポニカ)

始皇帝
しこうてい
[前259―前210]

中国、戦国の「七雄 (しちゆう)」の一つ、秦 (しん)国の王(在位前247~前221)、ついで秦帝国の初代皇帝(前221~前210)。辛亥 (しんがい)革命(1911)に至るまで、2000余年も存続した皇帝支配体制の創立者として、歴史的に重要な人物である。名は政 (せい)、始皇帝は諡 (おくりな)であって、生前の正式な称号は「皇帝」。父の子楚 (しそ)(即位して荘襄王 (そうじょうおう)。出土史料では荘王)が人質として趙 (ちょう)国にいたころ、その国都邯鄲 (かんたん)(河北省邯鄲市付近)で生まれた。子楚のパトロン、大商人の呂不韋 (りょふい)が始皇帝の実父であると『史記』にはみえる。子楚を継いで13歳で秦王となり、丞相 (じょうしょう)となっていた呂不韋が相国 (しょうこく)として執政した。秦は、6代前の孝公(在位前362~前338)の時代に、都を咸陽 (かんよう)(陝西 (せんせい)省咸陽市の東方15キロメートル付近)に置き、法家の商鞅 (しょうおう)を採用して、富国強兵に努めていたが、秦王政はこのころの成果を受けて、まず母の太后の愛人、嫪〓 (ろうあい)の反乱を鎮圧し、これを契機として呂不韋を追放し、親政を開始した。ついで法家李斯 (りし)(のちに丞相となる)を抜擢 (ばってき)して、商鞅が始めた内政改革(変法 (へんぽう))をさらに徹底させた。咸陽の北東部の平野に巨大な用水路(鄭国渠 (ていこくきょ))をつくり、「四万余頃 (けい)」(約1867万アール)の耕地を開き、民政を安定させた。このような開拓事業を基盤として、国家に忠実な無数の兵士を養成し、軍功をあげれば庶民にも爵 (しゃく)を与えるという信賞必罰の政策、秦国の伝統的騎馬戦術、巧みな外交政策(遠交近攻)などを展開することにより、韓 (かん)、趙 (ちょう)、魏 (ぎ)、楚 (そ)、燕 (えん)、斉 (せい)の6国をこの順序で滅ぼし、紀元前221年、統一国家を完成し、この新生国家の盟主としてふさわしい「皇帝」の号を創立した。

[尾形 勇]

支配構造

秦帝国の支配理念は、国家が民衆のひとりひとりを、あるいは兵士、あるいは人夫として徴用し、また人頭税の形で富を集め取ることにある(個別人身支配)。この理念を実現させるために、それまでの「封建」制(分封制)を廃止し、全国を郡県制 (ぐんけんせい)で再編成した。地方の諸都市である県をいくつかまとめたものが郡であり、36(のち48)の各郡と、その下の各県の統治者としては、皇帝の代行者としての官僚を中央から直接派遣した。皇帝の周囲には、丞相(政務)、太尉 (たいい)(軍務)、御史大夫 (ぎょしたいふ)(監察)を中心とする機動的な中央官制を敷き、また人々の日常生活の隅々まで規制した統一的で膨大な法律を制定し、民間での武器所有を禁じた。また、度量衡規格を一にし、「公平」な租税徴集の体制を整え、行政に便利なように文字を簡略な隷書 (れいしょ)体に統一し、また軍隊をただちに送り、政令を全国の隅々まで行き届かせるために、車軌 (しゃき)(両輪の間の幅)を一定にし、交通網を整備した。

 首都咸陽には、皇帝の威容を誇示する壮麗な宮殿を建て、その周辺に多くの官庁を置き、皇帝の目が届くように地方の豪族を強制移住させるなどして、首都の姿を整えた。咸陽の南には天体の構造をかたどった阿房宮 (あぼうきゅう)をつくり、渭水 (いすい)を渡って咸陽宮に連結させるという大規模な造営も開始した。また北方の外民族の侵入に備えて、かの「万里の長城」を築き、「麗山 (りざん)(酈山)」と称する自己の寿陵 (じゅりょう)(生前につくられる陵)を建設した。これらの事業は、民衆を酷使する結果となり、過酷な法律の適用とともに、秦帝国滅亡の起因となった。

 皇帝支配を支えていた思想は法家のそれであり、儒家思想は「封建」の復古を願うものとして弾圧され、その系統の書物は焼かれ(焚書 (ふんしょ))、儒家たちのうち460余人が、咸陽で生き埋めにされた(坑儒 (こうじゅ))。このことが始皇帝の悪行の第一に数えられるようになったのは、漢代以降、儒家思想が復活してからである。

 始皇帝はまた、威光を全国に示すために、5回にわたる巡幸を行い、その行路は、南は会稽山 (かいけいざん)(浙江 (せっこう)省紹興 (しょうこう)市南東)から揚子江 (ようすこう)流域の洞庭 (どうてい)湖(湖南省)付近にまで及んでいる。しかしこの第5次の巡幸の帰路、前210年7月、沙丘(河北省平郷県近く)で病没してしまい、自分の意志とは違って、公子の一人の胡亥 (こがい)(二世皇帝、在位前210~前207)が即位し、この代で秦帝国は崩壊した。

[尾形 勇]

始皇帝の遺跡

近年の盛大な考古学的調査発掘によって、始皇帝に関する多彩な史料や遺跡、遺構が出現した。まず新しい調査によって、始皇帝陵は二重の城壁を巡らした大規模な陵園であったことがわかり、墳丘の西側から出土した珍しい銅製の車馬、東側1.5キロメートルの地点で発見された数千体の兵士や軍馬の陶俑 (とうよう)など、始皇帝の権力を彷彿 (ほうふつ)させる文物が姿を現している。のちに項羽 (こうう)によって焼き払われた咸陽宮の調査も進んでおり、第3号宮殿遺跡からは、秦代のものとしては初めての壁画が発見された。また湖北省雲夢 (うんぼう)県の秦代の墓からは、戦国末から始皇帝の時期までの、秦の法律文書を中心とする多数の竹簡 (ちくかん)史料が出土し、貴重な第一次史料となっている。

[尾形 勇]

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3. し‐こうてい[‥クヮウテイ]【始皇帝】
日本国語大辞典
)【二】〔名〕(秦の始皇帝が松の下で雨を避け、その松に大夫の位を授けた故事から)松をしゃれていった語。*雑俳・柳多留拾遺〔1801〕巻一四下「きの字やの台にはび
4. しん(の)しこうてい【秦始皇帝】(Qín Shǐhuángdì)
世界人名大辞典
 生号:皇帝 追号:始皇帝 名:政 称:嬴政; 趙政〔前259~10〕 中国の皇帝[前221/10].秦の荘襄王の子.秦は嬴(えい)姓の国で,始皇帝を〈嬴政〉と
5. うつりょう【尉繚】(Wèiliáo)
世界人名大辞典
家,思想家.魏の人.六国の合従を警戒し,諸国の重臣に賄(まいない)して備えることを秦王政(秦始皇帝)に説いた.秦王はこの計略に従い,彼に対等の人に対する礼でもっ
6. えいえい【嬴嬰】(Yíng Yīng)
世界人名大辞典
中国秦代の王.秦二世(しん(の)にせい)の兄の子(《史記》秦始皇本紀).一説に秦始皇帝の弟の子(《史記集解》李斯列伝).秦始皇帝が死去し[前210],宦官の趙高
7. えん(の)たいしたん【燕太子丹】(Yāntàizǐ Dān)
世界人名大辞典
 名:丹〔†前227[始皇帝20]〕 中国戦国時代,燕国の太子.燕王喜の太子.かつて趙に人質に出され,同じ人質の秦の公子政(秦始皇帝)と仲が良かった.政が秦王に
8. おうじちゅう【王次仲】(Wáng Cìzhòng)
世界人名大辞典
中国の書家.ほとんど伝説上の人物で伝記に異説がある.一つは,秦始皇帝時代の人で,倉頡(そうけつ)の旧文を変えて隷書を作ったというもの.始皇帝の時,官務煩多となり
9. おうせん【王翦】(Wáng Jiǎn)
世界人名大辞典
すると王翦に詫びを入れ,王翦は楚に出陣して楚を破った[前223].六国統一[前221]後,秦始皇帝の治世中に没した.〖文献〗 史記73.
10. おうはく【王柏】(Wáng Bǎi)
世界人名大辞典
生没頭.朱熹の経書本文批判の精神を継承しつつ,文献批判研究の世界を開拓.《詩経》《書経》は秦始皇帝の焚書により孔子以来の伝承が失われ前漢初に再編されたと疑って内
11. おうわん【王綰】(Wáng Wǎn)
世界人名大辞典
中国秦代の政治家.秦始皇帝の中国統一の時,廷尉の李斯(りし),御史大夫の馮劫とともに,丞相として帝号の審議を行った[前221].諸侯王の封建を提案したが,李斯に
12. かき【夏姫】(Xiàjī)
世界人名大辞典
たどったため,淫乱・不祥の美女として名高い.なお同名の人物として,秦の孝文王の夫人の一人で,秦始皇帝の父にあたる荘襄王を生んだ夏姫がいる(荘襄王の即位とともに夏
13. かん【桓〓】(Huán Yǐ)
世界人名大辞典
 中国戦国時代の軍人.秦の人.《史記》では主に趙との戦争で活躍している.秦王政(秦始皇帝)の時,将軍となり[前237],王翦(おうせん)らと鄴(現,河北臨漳)を
14. かんぴ【韓非子】(Hánfēizǐ)
世界人名大辞典
憂え,しばしば韓王安を文書で諫めたが用いられず,かえって韓非の著書は秦にもたらされ秦王政(秦始皇帝)の関心をそそり,そこで秦は韓を攻めた.果たして韓から韓非が使
15. りょう【杞梁】(Qǐliáng)
世界人名大辞典
も崩したという伝説が加えられる.さらに後代には杞梁の妻に孟姜女(もうきょうじょ)と名が与えられ,秦始皇帝によって万里の長城建設に動員され命を落とした男の妻の伝説
16. けい【荊軻】(Jīng Kē)
世界人名大辞典
督亢(とくこう)(河北東部)の地図を手みやげに,秦に使者として派遣され,咸陽宮にて秦王政(秦始皇帝)の引見を受けた.その場で秦王を殺そうとしたが失敗し,左右の者
17. げい【黥布】(Qíng Bù)
世界人名大辞典
中国秦末-前漢の武将.六県(現,安徽六安)の人.黥(入れ墨)刑を受けたので黥布とよばれる.驪山の始皇帝陵の建設現場から脱走して群盗となり,項梁,項羽の配下となっ
18. こうぜんり【高漸離】(Gāo Jiànlí)
世界人名大辞典
荊軻の秦王(秦始皇帝)暗殺が失敗に終わり,秦が天下を併せた後は,姓名を変えて酒屋で雇われ仕事をし,宋子の地で隠れていたが,再び筑を撃つようになり,評判は始皇帝
19. さいたく【蔡沢】(Cài Zé)
世界人名大辞典
とをおそれて病と称して職を辞し,綱成君と号した.秦に10年余り居り,昭王,孝文王,荘襄王,秦始皇帝に仕えた.秦のために燕に使いし[前234],燕太子丹を人質とし
20. さんこう【三皇】(Sānhuáng)
世界人名大辞典
3人の神.戦国時代の三皇は天皇,地皇,泰皇(人皇)であり,《史記》秦始皇本紀にも,秦王政(秦始皇帝)が天下統一を果たした時に王に替わる新たな君主号として天皇,地
21. しゅう(の)へいおう【周平王】(Zhōu Píngwáng)
世界人名大辞典
よって携王が滅ぼされた[前759]後,西周の故地は秦が掌握する.その後,戦国各国が滅ぼされ秦始皇帝の焚書,項羽の咸陽焼討ちを経て,携王の存在は忘れられ,平王即位
22. しん(の)にせい【秦二世】(Qín Èrshì)
世界人名大辞典
追及を恐れた趙高の一派に迫られて自殺した.この間,始皇帝を顕彰する事業を進め,始皇帝が巡守先の各地に建立した刻石の文面の末尾に,それが始皇帝によるものであること
23. しんかい【秦開】(Qín Kāi)
世界人名大辞典
信頼された.燕に帰還してから東胡を襲ってこれを破り,東胡は千里余りも退却した.荊軻とともに秦始皇帝暗殺に出向いた秦舞陽は彼の孫だという.〖文献〗 史記110.
24. じゅん【荀子】(Xúnzǐ)
世界人名大辞典
免ぜられ,晩年は蘭陵に家居し,「数万言」の著作をのこして死んだと伝えられる.弟子中の有名な人物に,秦始皇帝のもとで丞相となった李斯(りし)と,法家の思想家韓非子
25. じょふく【徐福】(Xú Fú)
世界人名大辞典
(じょふつ) 中国秦代の方士.斉出身.秦始皇帝が不老不死の仙薬を求めたとき,これに応じて「東海に蓬莱・方丈・瀛州の三神山があり,そこに仙人が
26. じんごう【任囂】(Rén Xiāo)
世界人名大辞典
 中国秦の武将.秦始皇帝の嶺南遠征の時[前219:始皇帝28],主将の屠睢,副将の趙佗(ちょうた)とともに越族と戦い,屠睢の死後に主将となった.桂林郡,南海郡,
27. たいこう【泰皇】(Tàihuáng)
世界人名大辞典
 中国の伝説上の人物.秦王政(秦始皇帝)は天下統一後,臣下に帝号を議論させた.丞相の王綰(おうわん),御史大夫の馮劫,廷尉の李斯(りし)らは,天下を平定してこと
28. ちょうこう【趙高】(Zhào Gāo)
世界人名大辞典
中国秦の宦官,書家.秦始皇帝の死後,偽詔を渙発して皇太子扶蘇(ふそ)に死を賜い,次子胡亥(こがい)(秦二世)を立てて二世皇帝とした.また,丞相李斯(りし)を殺し
29. ちょうりょう【張良】(Zhāng Liáng)
世界人名大辞典
授けた謀臣.韓の人.祖父と父は戦国時代の韓の宰相を務めた.秦が韓を滅ぼす[前230]と,天下巡幸中の秦始皇帝に重さ120斤の鉄槌を投げつけて暗殺を謀ったが失敗し
30. ていばく【程邈】(Chéng Miǎo)
世界人名大辞典
もと衙県の獄吏で,秦始皇帝の時,罪を得て雲陽の獄に繋がれた.獄中で覃思(たんし)すること10年,ついに大小篆の方円を増減して,隷書3000字をつくり,これを上奏
31. てんこう【天皇】(Tiānhuáng)
世界人名大辞典
中国の伝説上の帝王.三皇の一人.戦国時代の三皇は天皇,地皇,泰皇(人皇)であり,《史記》にも,秦始皇帝の時に天皇,地皇,泰皇が議論され,泰皇の〈泰〉を除いて〈帝
32. とうまんぜんう【頭曼単于】(Tóumànchányú)
世界人名大辞典
説あり,頭曼はトルコ・モンゴル語共通のtümän(テュメン;万)で〈万人長〉の意味という.秦始皇帝が派遣した蒙恬(もうてん)に討たれ,オルドスから退去した.蒙恬
33. ぼく【杜牧】(Dù Mù)
世界人名大辞典
代表する文学者として広いジャンルにわたって力を発揮する.賦では進士登第の前に書いた《阿房宮の賦》が名高い.秦始皇帝の宮殿を詠じながら同時代の敬宗(李湛824/2
34. はんおき【樊於期】(Fán Yúqī)
世界人名大辞典
 氏:樊 名:於期〔†前227〕 中国戦国時代の軍人.秦の将軍であったが,秦王政(秦始皇帝)に罪を得て,燕に逃げ,燕太子丹のところに身を寄せた.秦王は彼に莫大な
35. ふきゅうはく【浮丘伯】(Fúqiūbó)
世界人名大辞典
.秦帝国が成立すると魯の片田舎に隠棲して,穆生,白生,楚元王劉交などに詩の学問を授けたが,秦始皇帝が焚書するに及び門人は四散した.劉邦の軍が魯を攻囲した時,浮丘
36. ふくせい【伏生】(Fúshēng)
世界人名大辞典
中国秦-前漢の尚書学者.済南(現,山東章丘)の出身.伏は姓,生は尊称.秦の博士.焚書[前213:始皇帝34]の際に《尚書》を壁に隠した.漢の世となってからそのう
37. ふそ【扶蘇】(Fúsū)
世界人名大辞典
 名:扶蘇〔†前210〕 中国秦始皇帝の長子.始皇帝が諸生460余人を咸陽に穴埋めにした際[前208],天下安まらずと諫言したが,不興を買い,蒙恬(もうてん)を
38. もう【蒙毅】(Méng Yì)
世界人名大辞典
中国秦の政治家.蒙恬(てん)の弟.蒙驁(ごう)の孫.秦始皇帝の信頼した忠臣.かつて宦官の趙高に死刑を判決したことがあり,趙高に怨まれていた.始皇帝の死後,趙高の
39. もうきょうじょ【孟姜女】(Mèngjiāngnǚ)
世界人名大辞典
 中国の悲劇的伝説の主人公の女性.秦始皇帝の時代,万里の長城建設に動員された夫の范杞梁(はんきりょう)の身を案じて工事現場を訪ねると,彼は既に死んで埋められたと
40. もうてん【蒙恬】(Méng Tián)
世界人名大辞典
〔†前210〕 中国秦の武将.秦始皇帝に信頼された.蒙驁(ごう)の孫.蒙毅の兄.秦の将軍として斉を破った功績で内史となった[前221:始皇帝26].秦は中国を統
41. ゆうせん【優旃】(Yōuzhān)
世界人名大辞典
 中国古代の芸能者.秦始皇帝(しん(の)しこうてい)と秦二世(しん(の)にせい)胡亥の2代にわたって仕えた宮廷芸人.優は姓ではなく,俳優の意味で,また旃は字だと
42. 【李斯】(Lǐ Sī)
世界人名大辞典
学んだ.のち秦の宰相呂不韋(りょふい)に仕え,その推薦により秦王政(始皇帝)の長史となり,のち丞相.天下が統一される[前221]と,始皇帝は諸制度の改革を断行し
43. 【李贄】(Lǐ Zhì)
世界人名大辞典
る〈人欲〉や〈私〉を人間のありのままの欲望(童心=真心)として肯定したほか,孔子を相対化し秦始皇帝(しん(の)しこうてい)を絶賛するなど,牢固とした既成の枠組み
44. りゅう【劉濞】(Liú Bì)
世界人名大辞典
〔前214[始皇帝33]~154[景帝3]〕 中国前漢の王.高祖劉邦の兄の劉仲の子.高祖は濞を呉王に封建した時[前196:高祖11],顔に謀反の相を読んで危惧し
45. りゅうほう【劉邦】(Liú Bāng)
世界人名大辞典
沛(はい)(現,江蘇沛県)の農民の出身で,劉太公と劉媼の子.秦二世皇帝の時,亭長の劉邦は,秦始皇帝の陵を建設する人夫の引率中に亡命して群盗となり,陳勝・呉広の反
46. りょふい【呂不韋】(Lǚ Bùwéi)
世界人名大辞典
献上したが,このときすでに呂不韋の子を妊娠していた.女性は男子を生み[前259],政(後の秦始皇帝)と命名された.趙から秦に帰還した子楚は,父の孝文王が即位する
47. ろうあい【嫪毒】(Lào'ǎi)
世界人名大辞典
〔†前238〕 中国戦国時代の政治家.秦の人.秦王政(後の秦始皇帝)の母である太后と淫した呂不韋(りょふい)は事の発覚を恐れたため,大陰の人である嫪毒を舎人とし
48. アッチラとフン族 17ページ
文庫クセジュ
た。匈奴がちゃんとした国家組織をもって集結したのは、秦の諸王が中原に覇を唱え(その最後の王が始皇帝となる)、中国の統一をなしとげたのと、ほぼ同時期と思われる。
49. あ‐ほう【阿呆・阿房(ハウ)】
日本国語大辞典
…美しいといふ」(1)語源については、諸説があり不明であるが、江戸時代には、秦の始皇帝の造った「阿房宮」に結びつける説が一般的であった。この語源説に支えられてか
50. 阿房宮
日本大百科全書
秦の都は統一前の孝公12年(前350)以来、渭水いすい北岸の咸陽かんよう(現在の咸陽市の東)に置かれていたが、始皇帝が天下を統一した紀元前221年に大規模な拡張
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マッカーサー(国史大辞典・日本大百科全書・改訂新版 世界大百科事典)
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