坪内逍遙・内田魯庵編『二葉亭四迷』、内田魯庵『思ひ出す人々』、坪内逍遙『柿の蔕』、中村光夫『二葉亭四迷伝』(『講談社文庫』)、小田切秀雄『二葉亭四迷』(『岩波新書』青七五六)、十川信介『増補二葉亭四迷論』、稲垣達郎『二葉亭四迷』(『稲垣達郎学芸文集』一)、亀井秀雄『二葉亭四迷―戦争と革命の放浪者―』(『日本の作家』三七)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
小説家。本名長谷川辰之助 (はせがわたつのすけ)。別号冷々亭杏雨 (れいれいていきょうう)。尾張 (おわり)藩士長谷川吉数 (よしかず)のひとり子として元治 (げんじ)元年2月28日(一説には文久 (ぶんきゅう)2年10月8日)江戸に生まれる。幕末から明治初年にかけての動乱期を江戸、名古屋、松江などで過ごし、最初は軍人となってロシアの南下政策からわが国を守ろうと考えたが、陸軍士官学校受験に失敗、外交官志望に転じて東京外国語学校でロシア語を学んだ。しかし在学中にロシア文学に興味をもち、学校が東京商業学校(現一橋大学)に合併されたことを不満として、1886年(明治19)退学、坪内逍遙 (つぼうちしょうよう)を訪ねて文学者として出発した。同年『小説総論』において、現象を借りて本質を写さなければならぬというリアリズムの理論を主張し、それに基づいて『浮雲 (うきぐも)』(1887~1889)を発表したが、執筆中に生じた思想的動揺から観念や文学の価値を疑い、小説を中絶し、内閣官報局に入って官吏となった。官報局時代の彼は外字新聞の翻訳を担当するかたわら、内外の文献をあさって人生の目的や観念の存在価値を追求したが、結局それらの意味を確立することができず、「実感」を重んじて実業に従事したいと願うようになった。この探究の跡は手記『落葉のはきよせ』(1889~1894)に残されている。1897年官報局を退職、陸軍大学校などでロシア語を教え、1899年には東京外国語学校教授に就任したが、年来の志である日露問題への関心は消えず、両国の関係が緊迫化した1902年(明治35)外語大を辞任してウラジオストクに渡った。しかし現地の受け入れ先、徳永商店と肌があわず、北京 (ペキン)で旧友川島浪速 (かわしまなにわ)が主宰する警察学校の事務長となったが、ここでも川島と意見が対立して、1903年帰国した。
帰国後朝日新聞社に入社した彼は、周囲の説得に屈して1906年『其面影 (そのおもかげ)』を『東京朝日新聞』に連載(刊行は1907年)、文壇に復活した。この小説は、知識や観念のために「死了」して真の行為を欠く知識人の内面の空白を批判したもので、『浮雲』の主題を引き継いだ作品である。この小説の好評に促されて1907年『平凡』を発表したが、小説家で終わるつもりはなく、1908年、朝日新聞露都特派員として日露の相互理解に尽くすべくペテルブルグに向かった。しかし不運にも着任早々不眠症に悩み、ついで肺炎と肺結核を併発して、ロンドン経由、船路帰国の途中、明治42年5月10日ベンガル湾上で没した。
文学者としての彼はわずか3編の創作といくつかの翻訳しか残さず、その実生活も失敗の連続に終わったが、「真理」を追求して経世済民の文学を目ざし、近代リアリズムと言文一致の主張によって近代文学の基礎を築いた功績はきわめて大きく、また翻訳においても『あひゞき』『めぐりあひ』(ツルゲーネフ原作。ともに1888)はじめ、『うき草』(ツルゲーネフ、1897)、『血笑記 (けっしょうき)』(アンドレーエフ、1908)などのロシア文学を紹介し、後世に多大の影響を与えた。わが国最初のエスペラント語の教科書『世界語』(1906)を編纂 (へんさん)した功績も忘れることができない。
世界大百科事典
明治期の小説家,翻訳家。本名長谷川辰之助。別号は冷々亭杏雨,四明など。尾張藩下級武士の独り子として江戸生れ。維新の動乱を体験し,幼少年期を名古屋,東京,松江などに過ごした。陸軍士官学校の受験に3度失敗したのち,対ロシア外交への関心から東京外国語学校露語科に入学。1881年から86年までの在学中に19世紀ロシア文学に目を開かれ,文学の意義と社会的役割を自覚した。86年1月,当時新文学の旗手と見られていた坪内逍遥をたずね,文学観を披瀝して逍遥に衝撃を与え,そのすすめで評論《小説総論》(1886)や《浮雲》(1887-89)を発表。後者は言文一致体によるリアリズム小説の野心作だったが,第3編に難渋して創作の自信を失い,89年から内閣官報局雇員となって海外の新聞・雑誌の翻訳に従事。のち,陸・海軍の大学校や東京外語の露語教授に任じられながら,国際舞台での活動を念願して職を捨て,1902年大陸に渡った。ウラジオストクでエスペランチスト協会に加入,北京では治安をあずかる警務学堂の提調代理(事務長)などを経験したが,志を得ず翌年帰国。日露戦争前夜の朝日新聞社に迎えられ,ロシアの新聞の翻訳・調査を担当。社では二葉亭と夏目漱石によって小説欄を充実させたい意向をもち,戦後はその要請を断りきれず,二葉亭は《其面影(そのおもかげ)》(1906),《平凡》(1907)を新聞小説として発表した。08年に朝日新聞露都特派員になり,宿願の国際的活動を夢見て勇躍ペテルブルグに赴任したが,ほどなく肺結核をわずらい,帰国の船中で没した。ロシア文学の翻訳は,新鮮な訳文で読者に感銘を与えた《あひゞき》《めぐりあひ》(ともに1888)をはじめ,《うき草》(1897),《血笑記》(1908)など生涯を通して多数にわたり,創作に劣らぬ価値をもつ。彼は終始,日本人の運命にかかわる姿勢で文学を考え,社会や政治の問題に深い関心をいだき続けた。エスペランチストとして《世界語》(1906)などの著書もある。
©2025 NetAdvance Inc. All rights reserved.