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  11. 二葉亭四迷

二葉亭四迷

ジャパンナレッジで閲覧できる『二葉亭四迷』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

二葉亭四迷
ふたばていしめい
一八六四 - 一九〇九
明治時代の小説家。本名長谷川辰之助。元治元年(一八六四)二月二十八日(文久二年(一八六二)十月八日説、元治元年二月三日説もある)、江戸市ヶ谷の尾張藩上屋敷(東京都新宿区、現在陸上自衛隊市谷駐屯地)に生まれた。父は尾張藩士長谷川吉数、母は後藤氏志津。独り子。後年の回想によれば、幼少時に幕末維新の動乱を身近に体験したことが、以後の進路や思想形成に大きな影響を与えたという。少年時代を官吏となった父に従って名古屋、松江ですごし、ロシアの南下政策を防ぐことを生涯の目的と定めて陸軍士官学校を受験したが三度失敗、外交官志望に転じて、まずロシア語を学ぶべく明治十四年(一八八一)、東京外国語学校露語部に入学した。しかしそこで受けた文学的教育の結果、文学を通じて世論を導くことに興味を持ち、露語部が東京商業学校(現一橋大学)に吸収されたのを契機に退学、十九年、同郷の先輩坪内逍遙を訪ねて文学者となる決意を固めた。二十年、言文一致体で近代日本の浮動性を描き、最初の近代小説とされる『浮雲』初編を刊行。『あひゞき』『めぐりあひ』(二十一年)の翻訳とともに新文学の基礎を築いたが、『浮雲』の稿を進めるにつれて思想的動揺や表現上の苦悶が重なり、二十二年、第三編を中絶して内閣官報局の官吏となり、三十年まで在職した。官報局では外国新聞の翻訳、『出版月評』編集に携わるかたわら、宗教・哲学を研究して「人生の真理」を探ったが、ついにそれを得ることができず、「観念」よりも「実感」を重んじ、「実業」の場で奮闘したいと考えるに至った。三十二年、東京外国語学校(現東京外国語大学)教授に就任、ロシア語を教えたが、年来の宿志は衰えず、時局の切迫に促されて三十五年辞職、ウラジオストック・哈爾浜(ハルビン)で雑貨商を営む徳永商会の顧問として中国大陸に渡り、各地を視察した。しかしまもなく徳永の人柄に失望、北京で旧外語同窓の川島浪速と会見、川島が全権を持つ京師警務学堂提調(警察学校事務長)となった。北京での数ヵ月は日露開戦前夜の緊張を味わい、充実した生活だったが、ここでも川島と不和を生じ、三十六年七月帰国した。三十七年、大阪朝日新聞に入社。東京出張員として政治記者を任じ多数の記事を送ったが、一部を除いては朝日幹部から認められず、創作を期待する声に押されて小説執筆に追いこまれた。三十九年『其面影』、翌年『平凡』を『東京朝日新聞』に連載。好評を博したものの依然として「空想」性を含む文学には懐疑的で、国際政治への飛躍を夢見続けた。その希望は突然実現し、四十一年、朝日新聞露都特派員としてペテルブルグ(現レニングラード)に派遣されたが、日露両国民の相互理解をはかろうとする意図もむなしく、肺結核に犯されて翌年ロンドンまわりで海路帰国の途次、五月十日ベンガル湾上で没した。四十六歳。墓は東京都豊島区の染井墓地にある。創作『浮雲』『其面影』『平凡』、翻訳『かた恋』『血笑記』『うき草』、編著『世界語』(エスペラント語教科書)など。『二葉亭四迷全集』全九巻(昭和三十九年(一九六四)―四十年、岩波書店)、『二葉亭四迷全集』全七巻別巻一(同五十九―、筑摩書房)が刊行されている。
[参考文献]
坪内逍遙・内田魯庵編『二葉亭四迷』、内田魯庵『思ひ出す人々』、坪内逍遙『柿の蔕』、中村光夫『二葉亭四迷伝』(『講談社文庫』)、小田切秀雄『二葉亭四迷』(『岩波新書』青七五六)、十川信介『増補二葉亭四迷論』、稲垣達郎『二葉亭四迷』(『稲垣達郎学芸文集』一)、亀井秀雄『二葉亭四迷―戦争と革命の放浪者―』(『日本の作家』三七)
(十川 信介)


日本大百科全書(ニッポニカ)

二葉亭四迷
ふたばていしめい
[1864―1909]

小説家。本名長谷川辰之助 (はせがわたつのすけ)。別号冷々亭杏雨 (れいれいていきょうう)。尾張 (おわり)藩士長谷川吉数 (よしかず)のひとり子として元治 (げんじ)元年2月28日(一説には文久 (ぶんきゅう)2年10月8日)江戸に生まれる。幕末から明治初年にかけての動乱期を江戸、名古屋、松江などで過ごし、最初は軍人となってロシアの南下政策からわが国を守ろうと考えたが、陸軍士官学校受験に失敗、外交官志望に転じて東京外国語学校でロシア語を学んだ。しかし在学中にロシア文学に興味をもち、学校が東京商業学校(現一橋大学)に合併されたことを不満として、1886年(明治19)退学、坪内逍遙 (つぼうちしょうよう)を訪ねて文学者として出発した。同年『小説総論』において、現象を借りて本質を写さなければならぬというリアリズムの理論を主張し、それに基づいて『浮雲 (うきぐも)』(1887~1889)を発表したが、執筆中に生じた思想的動揺から観念や文学の価値を疑い、小説を中絶し、内閣官報局に入って官吏となった。官報局時代の彼は外字新聞の翻訳を担当するかたわら、内外の文献をあさって人生の目的や観念の存在価値を追求したが、結局それらの意味を確立することができず、「実感」を重んじて実業に従事したいと願うようになった。この探究の跡は手記『落葉のはきよせ』(1889~1894)に残されている。1897年官報局を退職、陸軍大学校などでロシア語を教え、1899年には東京外国語学校教授に就任したが、年来の志である日露問題への関心は消えず、両国の関係が緊迫化した1902年(明治35)外語大を辞任してウラジオストクに渡った。しかし現地の受け入れ先、徳永商店と肌があわず、北京 (ペキン)で旧友川島浪速 (かわしまなにわ)が主宰する警察学校の事務長となったが、ここでも川島と意見が対立して、1903年帰国した。

 帰国後朝日新聞社に入社した彼は、周囲の説得に屈して1906年『其面影 (そのおもかげ)』を『東京朝日新聞』に連載(刊行は1907年)、文壇に復活した。この小説は、知識や観念のために「死了」して真の行為を欠く知識人の内面の空白を批判したもので、『浮雲』の主題を引き継いだ作品である。この小説の好評に促されて1907年『平凡』を発表したが、小説家で終わるつもりはなく、1908年、朝日新聞露都特派員として日露の相互理解に尽くすべくペテルブルグに向かった。しかし不運にも着任早々不眠症に悩み、ついで肺炎と肺結核を併発して、ロンドン経由、船路帰国の途中、明治42年5月10日ベンガル湾上で没した。

 文学者としての彼はわずか3編の創作といくつかの翻訳しか残さず、その実生活も失敗の連続に終わったが、「真理」を追求して経世済民の文学を目ざし、近代リアリズムと言文一致の主張によって近代文学の基礎を築いた功績はきわめて大きく、また翻訳においても『あひゞき』『めぐりあひ』(ツルゲーネフ原作。ともに1888)はじめ、『うき草』(ツルゲーネフ、1897)、『血笑記 (けっしょうき)』(アンドレーエフ、1908)などのロシア文学を紹介し、後世に多大の影響を与えた。わが国最初のエスペラント語の教科書『世界語』(1906)を編纂 (へんさん)した功績も忘れることができない。

[十川信介]



世界大百科事典

二葉亭四迷
ふたばていしめい
1864-1909(元治1-明治42)

明治期の小説家,翻訳家。本名長谷川辰之助。別号は冷々亭杏雨,四明など。尾張藩下級武士の独り子として江戸生れ。維新の動乱を体験し,幼少年期を名古屋,東京,松江などに過ごした。陸軍士官学校の受験に3度失敗したのち,対ロシア外交への関心から東京外国語学校露語科に入学。1881年から86年までの在学中に19世紀ロシア文学に目を開かれ,文学の意義と社会的役割を自覚した。86年1月,当時新文学の旗手と見られていた坪内逍遥をたずね,文学観を披瀝して逍遥に衝撃を与え,そのすすめで評論《小説総論》(1886)や《浮雲》(1887-89)を発表。後者は言文一致体によるリアリズム小説の野心作だったが,第3編に難渋して創作の自信を失い,89年から内閣官報局雇員となって海外の新聞・雑誌の翻訳に従事。のち,陸・海軍の大学校や東京外語の露語教授に任じられながら,国際舞台での活動を念願して職を捨て,1902年大陸に渡った。ウラジオストクでエスペランチスト協会に加入,北京では治安をあずかる警務学堂の提調代理(事務長)などを経験したが,志を得ず翌年帰国。日露戦争前夜の朝日新聞社に迎えられ,ロシアの新聞の翻訳・調査を担当。社では二葉亭と夏目漱石によって小説欄を充実させたい意向をもち,戦後はその要請を断りきれず,二葉亭は《其面影(そのおもかげ)》(1906),《平凡》(1907)を新聞小説として発表した。08年に朝日新聞露都特派員になり,宿願の国際的活動を夢見て勇躍ペテルブルグに赴任したが,ほどなく肺結核をわずらい,帰国の船中で没した。ロシア文学の翻訳は,新鮮な訳文で読者に感銘を与えた《あひゞき》《めぐりあひ》(ともに1888)をはじめ,《うき草》(1897),《血笑記》(1908)など生涯を通して多数にわたり,創作に劣らぬ価値をもつ。彼は終始,日本人の運命にかかわる姿勢で文学を考え,社会や政治の問題に深い関心をいだき続けた。エスペランチストとして《世界語》(1906)などの著書もある。
[畑 有三]

[索引語]
長谷川辰之助 小説総論 浮雲(二葉亭四迷) 世界語
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検索コンテンツ
1. 二葉亭四迷画像
日本大百科全書
小説家。本名長谷川辰之助はせがわたつのすけ。別号冷々亭杏雨れいれいていきょうう。尾張おわり藩士長谷川吉数よしかずのひとり子として元治げんじ元年2月28日(一説に
2. 二葉亭四迷
世界大百科事典
エスペランチストとして《世界語》(1906)などの著書もある。畑 有三 長谷川辰之助 小説総論 浮雲(二葉亭四迷) 世界語
3. ふたばてい‐しめい【二葉亭四迷】
日本国語大辞典
小説家、翻訳家。本名長谷川辰之助。尾張藩士の子として江戸に生まれる。東京外国語学校露語部中退。坪内逍遙を知り文学への志向を強め、明治二〇年(一八八七)近代写実小
4. ふたばていしめい【二葉亭四迷】
国史大辞典
庵編『二葉亭四迷』、内田魯庵『思ひ出す人々』、坪内逍遙『柿の蔕』、中村光夫『二葉亭四迷伝』(『講談社文庫』)、小田切秀雄『二葉亭四迷』(『岩波新書』青七五六)、
5. ふたばてい-しめい【二葉亭四迷】画像
日本人名大辞典
1864−1909 明治時代の小説家,翻訳家。元治(げんじ)元年2月28日(文久2年10月8日とも)生まれ。明治19年坪内逍遥のすすめで「小説総論」,翌年言文一
6. 二葉亭四迷[百科マルチメディア]画像
日本大百科全書
国立国会図書館所蔵
7. 二葉亭四迷(長谷川辰之助モ見ヨ)[文献目録]
日本人物文献目録
』吉江孤雁『二葉亭四迷 特集』-『二葉亭四迷』稲垣達郎『二葉亭四迷』岩城準太郎『二葉亭四迷』岩崎万喜夫『二葉亭四迷』菊池章一『二葉亭四迷』幸田守也『二葉亭四迷
8. 長谷川辰之助(二葉亭四迷モ見ヨ)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:2件 『戯作者と革命家長谷川辰之助君』木下尚江『長谷川辰之助氏』嗣出
9. ああ
日本国語大辞典
三十棒〔1771〕「わし等がかけば、ああでは無いて」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・八「アアではないか斯うでは無いかと」*家〔1910~11〕〈島崎藤
10. ああ‐ああ
日本国語大辞典
〔感動〕(1)ひどくがっかりしたとき発することば。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・五「アアアア偶(たま)に人が気を利かせれば此様な事った」*二百十日〔
11. ああ‐いう[‥いふ]
日本国語大辞典
*滑稽本・浮世風呂〔1809~13〕三・上「ありゃア、ああいふ癖で」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・一一「そりゃアア云ふ胸の広い方だから」*この子〔1
12. ああ‐した
日本国語大辞典
*洒落本・一事千金〔1778〕六「アアしたそぶりは、こふいふ気か」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一五「ああした我儘者ですから」*火の柱〔1904〕〈
13. あい‐あい・する[あひ‥]【相愛】
日本国語大辞典
相投じて相愛(アヒアイ)する。此等は所謂(いはゆる)上の恋にて」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・八「凡そ相愛(アヒアイ)する二つの心は、一体分身で孤立
14. あいかわら‐ず[あひかはら‥]【相変─・相不変】
日本国語大辞典
〕前・上「御隠居どうでごっすナ。相(アイ)かはらず碁でござらう」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・七「相変らず立(りう)とした服飾(こしらへ)」*良人の
15. あい‐かん・ず[あひ‥]【相感】
日本国語大辞典
「感ず」の改まった言い方。*江談抄〔1111頃〕五「満座相感云。文集毛志計留波斗」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・八「嬉笑(きせう)にも相感じ、怒罵に
16. あいきょう‐げ[アイキャウ‥]【愛敬気】
日本国語大辞典
〔名〕あいきょうのある様子。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・一「愛嬌気(アイケウゲ)といったら微塵(みぢん)もなし」*大阪の宿〔1925~26〕〈水上
17. あい‐・する【愛】
日本国語大辞典
深くも愛せずさすがに捨もやらぬを、相たのみたる女の、心をよみたるなるべし」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一六「苟(かりそ)めにも人を愛するといふから
18. あい‐そ【愛想・愛相】
日本国語大辞典
「此内は鮓商売、宿屋ではござらぬと、あいそのないがあいそと成り」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一八「おとなしく、愛想(アイソ)がよくて」(ロ)他人の
19. あいそ が 尽(つ)きる
日本国語大辞典
99か〕実泪上戸の段「おれが目で見てさへあいそのつきた今のざま」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・六「二十三にも成って親を養(すご)す所か自分の居所立所
20. 愛想が尽きる
故事俗信ことわざ大辞典
799か)実泪上戸の段「おれが目で見てさへあいそのつきた今のざま」浮雲(1887~89)〈二葉亭四迷〉一・六「二十三にも成って親を養(すご)す所か自分の居所立所
21. あいそ を 尽(つ)かす
日本国語大辞典
1694〕四・二「かんびゃうにあぐみて、たがひにあいそをつかし」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・八「叔母ですら愛想(アイソ)を尽かすに、親なればこそ子
22. 愛想を尽かす
故事俗信ことわざ大辞典
(1694)四・二「かんびゃうにあぐみて、たがひにあいそをつかし」浮雲(1887~89)〈二葉亭四迷〉二・八「叔母ですら愛想(アイソ)を尽かすに、親なればこそ子
23. あいだ‐がら[あひだ‥]【間柄】
日本国語大辞典
間柄」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・五「しかしなんぼ叔母甥の間柄だと言って」(2)互いの関係。付き合い。交際。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷
24. アイディア
日本国語大辞典
理性の働きの対象となるもの。すなわち、神、意志の自由、絶対者など。イデー。*小説総論〔1886〕〈二葉亭四迷〉「凡そ形(フホーム)あれば茲に意(アイデア)あり。
25. アイディアル
日本国語大辞典
だから」【二】〔名〕人間が到達しようとする究極の目的。極致。理想。*小説総論〔1886〕〈二葉亭四迷〉「人物の善悪を定めんには、我に極美(アイデアル)なかるべか
26. アイドル
日本国語大辞典
あこがれの的。現在では多く、熱狂的なファンを持つ若い歌手、俳優などにいう。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・七「彼(あの)娘ばかりには限らない、どんな美
27. あい‐にく【生憎】
日本国語大辞典
までいった遊女(をんな)がおいらに出っくわせたらうじゃアねへか」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・七「生憎(アイニク)故障も無かったと見えて昇は一時頃に
28. あい‐ねん【愛念】
日本国語大辞典
父母の愛念(アヒネン)撫育の恩をば報(ほうず)ることなりがたし」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一九「その温(あたたか)な愛念も、幸福な境界も、優しい
29. あひゞき
世界大百科事典
二葉亭四迷の翻訳小説。1888年(明治21)《国民之友》に2度に分載。原作はロシアのI.S.ツルゲーネフの短編集《猟人日記》の1編。秋9月中旬,主人公は白樺林の
30. あい‐びき[あひ‥]【逢引】
日本国語大辞典
としたとある」(2)合鍵をいう、盗人仲間の隠語。〔隠語輯覧{1915}〕【二】(あひゞき)二葉亭四迷が言文一致体によって翻訳したツルゲーネフ作の「猟人日記」中の
31. あい‐よ
日本国語大辞典
此頃はお遠々しいの』『アイヨ。おめへあんばいがわるかったじゃアねへか』」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・四「『母親(おっか)さん、咽(のど)が涸いてい
32. あえ‐て[あへ‥]【敢─・肯─】
日本国語大辞典
て、あが翁の細みをたどり、敢て世塵を厭ず、人情またやるかたなし」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一六「何事につけても、己一人をのみ責めて敢て叨(みだ)
33. あ・える[あへる]【合・和・韲】
日本国語大辞典
あへるといふこと有、あえられたなどいふ謾の字也、謾(あえる)也」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・二「人を泣かせたり笑はせたり、人をあへたり揉だりして玩
34. あおぎ‐うやま・う[あふぎうやまふ]【仰敬】
日本国語大辞典
〔他ハ四〕尊敬する。あがめる。崇拝する。*あひゞき〔1888〕〈二葉亭四迷訳〉「やさしい誠心を込め、吾仏とあふぎ敬ふ気ざしを現はしてゐた」アオ
35. あお‐ばな[あを‥]【青洟】
日本国語大辞典
ぢき)るごとき青洟(アヲハナ)を、啜(すす)り籠(こめ)つつすすみ出」*平凡〔1907〕〈二葉亭四迷〉三三「八つばかりの男の児が、青洟を啜り啜り」
36. あお‐びかり[あを‥]【青光】
日本国語大辞典
ficariuo (アヲ ヒカリヲ) アタエ ツクッタゾ」*めぐりあひ〔1888~89〕〈二葉亭四迷訳〉一「菩醍樹が青びかりに光るしんめりとした月の光をあびて」
37. あお‐み[あを‥]【青味】
日本国語大辞典
二「簡編は昔紙がなかったほどに、竹の青みをとって刀でほりつけて」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・一「一人は年齢(ねんぱい)二十二、三の男、顔色は蒼味(
38. あお‐む・く[あふ‥]【仰向】
日本国語大辞典
*雑俳・柳多留‐五三〔1811〕「あをむくは父うつむくは母の恩」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一七「昇は天井を仰向(アホム)いて、『はっ、はっ、はっ
39. あお‐むけ[あふ‥]【仰向】
日本国語大辞典
・柳多留‐一四九〔1838~40〕「仰向けにすると不様なひき蟇」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉三・一九「両手を頭に敷き仰向(アフム)けに臥しながら」
40. あおむけ‐ざま[あふむけ‥]【仰向様】
日本国語大辞典
1857~63〕四・上「仰向(アヲムケ)さまにどっさりと転へば」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・七「金鍍金(きんめっき)の徽章を附けた大黒帽子を仰向け
41. あおり‐け・す[あふり‥]【煽消】
日本国語大辞典
〔他サ四〕火をあおいで消す。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・六「『よろしいヨ、解ったヨ』と昇は憤然(やっき)と成って饒舌(しゃべり)懸けたお勢の火の手
42. あかいわらい[あかいわらひ]【赤い笑い】
日本国語大辞典
とり、戦争の残虐性、非人間性をえぐり出し、戦争に対するはげしい憎悪に貫かれている。日本では二葉亭四迷の名訳「血笑記」(一九〇八)で早くから紹介された。
43. あか‐ぬけ【垢抜】
日本国語大辞典
「弁舌水のよどみなく、実にも小松屋宗右衛門、垢ぬけのした親仁也」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・四「小股の切上(きりあが)った、垢抜けのした、何処とも
44. 垢抜けのした
故事俗信ことわざ大辞典
家「弁舌水のよどみなく、実にも小松屋宗右衛門、垢ぬけのした親仁也」浮雲(1887~89)〈二葉亭四迷〉一・四「小股の切上(きりあが)った、垢抜けのした、何処とも
45. あか の 他人(たにん)
日本国語大辞典
後・六回「その養子となりし金五郎、あかの他人といふではなけれど」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・五「縁を断(き)ッて仕舞へば赤の他人、他人に遠慮も糸瓜
46. あか‐びかり【垢光】
日本国語大辞典
〔名〕あかがついて、衣服などが光ること。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉二・九「手摺(てず)れて垢光りに光った洋服、加之(しか)も二三ケ所手痍(てきず)を
47. あか‐ま【赤間】
日本国語大辞典
たぎておつる塩なれば」【二】〔名〕「あかまいし(赤間石)」の略。*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・一「歯磨の函と肩を比べた赤間の硯が一面載せてある」
48. あかみ‐わた・る【赤渡】
日本国語大辞典
一〇月の頃の林や、全体が赤い服を着た人など、あるものが全体に赤くなる、または赤い」*あひゞき〔1888〕〈二葉亭四迷訳〉「或はそこに在りとある物総て一時に微笑し
49. あから・める【赤】
日本国語大辞典
(かほ)におほひし懐紙の包み」*浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・二「覚えずも顔を赧(アカ)らめた」*たけくらべ〔1895~96〕〈樋口一葉〉一「子心に
50. あかり【明】
日本国語大辞典
りがかんかんついてゐてまがわるくってはいられなかったはネ」*めぐりあひ〔1888~89〕〈二葉亭四迷訳〉「彼の時のやうに燈火(アカリ)の射した見知ぬ小坐舗(こざ
「二葉亭四迷」の情報だけではなく、「二葉亭四迷」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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幕末期の討幕運動指導者、海援隊長。竜馬は通称。直陰のちに直柔と名乗り、脱藩後は才谷梅太郎などの変名を使う。天保六年(一八三五)十一月十五日(十月十五日説・十一月十日説あり)、土佐藩の町人郷士坂本八平直足・幸の次男として
織田信長(日本大百科全書・国史大辞典・世界大百科事典・日本架空伝承人名事典)
戦国・安土桃山時代の武将。戦国動乱を終結し全国統一の前提をつくった。[脇田 修]家系織田氏は近江津田氏と関係があると伝えられているが、室町期斯波氏に仕え、越前(福井県)織田荘を根拠とし織田劔神社を氏神と崇敬した。斯波氏が尾張(おわり)守護の関係で尾張守護代として尾張(愛知県)に入る
上杉景勝(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
一五五五 - 一六二三 安土桃山・江戸時代前期の大名。越後春日山城・会津若松城主、出羽国米沢藩主。幼名を卯松、喜平次と称し、はじめ顕景と名乗った。弘治元年(一五五五)十一月二十七日に生まれる。父は越後国魚沼郡上田荘坂戸(新潟県南魚沼郡六日町)
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ルノワール(日本大百科全書・世界大百科事典)
豊後の国。郡は八所、〔郷は四十、里は百十〕駅は九所、〔みな小路〕烽は五所、〔みな下国〕寺は二所〔一つは僧の寺、一つは尼の寺〕である。豊後の国は、本、豊前の国と合わせて一つの国であった。昔、纏向の日代の宮で天下をお治めになった大足彦の天皇
エジソン(世界大百科事典)
アメリカの発明家,電気技術者。二重電信機,スズ箔蓄音機,カーボンマイクロホン,白熱電球,映画,アルカリ蓄電池,謄写印刷機などを発明,または改良したことで非常に著名である。貧しい材木商兼穀物商の家に生まれ,小学校には数ヵ月しかいかずに母親から教育を受け
ショパン(日本大百科全書・世界大百科事典)
ピアノ音楽に比類ない境地を開いたポーランド出身の作曲家、ピアニスト。主要な作品のほとんどがピアノ曲で、その個性的で斬新(ざんしん)な書法はリリシズムを基調に、雄々しさ、気品、メランコリーなど多彩な性格をあわせもち、「ピアノの詩人」とたたえられ、世界的
山本周五郎(日本近代文学大事典・日本大百科全書・世界大百科事典)
本文:既存小説家。山梨県北都留郡初狩村八二番戸(現・大月市下初狩二二一番地)生れ。父清水逸太郎、母とくの長男。本名は三十六(さとむ)。家業は繭、馬喰、そのほか諸小売りであった。生前、本籍地の韮崎市若尾を出生地と語ったのは、そこが武田の御倉奉行と伝え
築山殿(日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典)
徳川家康の室。駿河御前(するがごぜん)ともいう。父は関口義広(よしひろ)(一説に氏広、また親永(ちかなが)など)、母は駿河の今川義元の妹。1556年(弘治2)義元の養女として、当時今川氏の人質となり駿府(すんぷ)にあった三河岡崎城主の家康に嫁し
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