イタリアの物理学者,天文学者.
ピサに生まれる.ピサ [1589]およびパドヴァ [92-1616]の各大学数学教授.ピサの聖堂の吊灯を見て振子の等時性を発見した [1583].ピサの斜塔で落体の実験を行い,
〖全集〗S.Timpanaro編, 2巻, 1936-38.
岩波 世界人名大辞典
イタリアの物理学者,天文学者.
ピサに生まれる.ピサ [1589]およびパドヴァ [92-1616]の各大学数学教授.ピサの聖堂の吊灯を見て振子の等時性を発見した [1583].ピサの斜塔で落体の実験を行い,
〖全集〗S.Timpanaro編, 2巻, 1936-38.
デジタル版 集英社世界文学大事典
世界大百科事典
ルネサンス末期のイタリアの自然学者,天文学者。近代の数量的な自然観の樹立のために多大の貢献を行い,しばしば〈近代科学の父〉と呼ばれる。ピサで生まれた。父親ビンチェンツィオVincenzio Galilei(1520ころ-91)は微禄したフィレンツェの貴族出身で,織物商を生業としたが,音楽に造詣が深く,かなり名の知られた人物であった。ガリレイは初め医者を志して,1581年にピサ大学に入ったがスコラ的な講義に幻滅を味わい,中途で退学した。その後フィレンツェでリッチOstilio Ricci(1540-1603)から個人的にユークリッド(エウクレイデス)やアルキメデスを学んだ彼は,科学における数学の重要性を認識し,その研究に打ちこんだ。そして89年にピサ大学の数学教授となり,次いで92年にはパドバ大学に移り,そこに1610年まで在職した。20年以上にわたる両大学の数学教授時代に彼が学生に教えたのは,ユークリッド幾何学やプトレマイオスの天動説的な天文学を初めとする伝統的な諸学科であったが,自分の研究対象としたのは主として場所運動論であった。彼は早くも90年ころその最初の考察を《運動について》と題する論稿としてまとめあげた。この中で彼は,あらゆる物体が同一種類の物質から成ることを前提にしたうえで,アルキメデスの静力学的な浮力の原理を拡大することによって,落体の速度が落体の比重から媒質の比重を差し引いたものに比例すると論じている。だが,その後まもなく彼は,斜面や振子の研究を深めることによって,《運動について》では副次的役割しか与えられなかった加速度こそが,落体の運動の本質的要因であることを見抜き,ついには真空中での落下距離が落下時間の2乗に比例し,しかもそのためには落下速度が落下時間に比例しなければならないという落体の基本法則を発見した。さらにこの研究の過程で運動の合成の法則と慣性の法則を導き出し,投射体の経路がパラボラ曲線になることを証明することができた。だが彼の慣性の法則はあくまで地球の中心から同一距離だけ離れた水平面上での等速運動の継続を主張する〈円運動の慣性〉の法則にすぎず,直線運動の慣性の法則ではなかったことを忘れてはならない(この点で彼は円の完全性という古代・中世の観念からまだ脱却してはいなかったのである)。ほかにも彼は幾多の成果を得たが,なかでも特筆すべきは,振子の等時性とその周期の2乗がひもの長さに比例するという成果である。
以上の研究が大きな前進を遂げている間に,彼の生涯における大きな転機が1610年に訪れる。この前年,彼はオランダで望遠鏡が発明されたといううわさを伝え聞いて,早速みずからその製作に着手した。そして倍率30倍の望遠鏡を用いて初めて天体観測を行い,月面の凹凸,木星の4個の衛星,太陽の黒点,金星の満ち欠け等の一連の驚嘆すべき新現象を発見した。これらの現象はいずれも,地上界は不完全で可滅的であるのに対し,天上界は完全で不滅であり,しかもすべての天体は地球を中心としてそのまわりを回転するというアリストテレスの宇宙論の根幹をゆさぶるものであった。かなり早い時期からコペルニクスの地動説に賛同していた彼は,決定的にその信念を強めるとともに,これらの画期的な発見を《星界の報告》(1610)等に次々と発表した。これまでさほど有名でもない一介の学者にすぎなかった彼は一躍ヨーロッパ全体から大きな脚光を浴びただけではなく,トスカナ大公コシモ2世から宮廷お抱えの哲学者兼首席数学者としてフィレンツェに招かれた。
こうして,必ずしもみずからの意志に添うものでなかった大学での講義の義務から解放され,研究と著作に専念しうるようになった彼は,断続的に起こる病気に悩まされながらも,長年にわたって蓄積してきた研究をまとめあげる仕事に取り組み,まず23年には科学方法論に関する論争の書《黄金計量者》を出版し,自然という書物が数学の文字で書かれていることを力強く主張した。さらに32年には地動説的な宇宙論を全面的に展開した《天文対話》を発表した。しかし《天文対話》は時の教皇ウルバヌス8世の忌諱(きい)に触れ,翌年彼は異端審問所から断罪され,地動説を誓絶させられた。この結果彼はフィレンツェ郊外のアルチェトリに蟄居(ちつきよ)させられたが,その旺盛な研究への情熱はほとんど衰えを見せず,38年には静力学と動力学の成果について体系的に論じた《新科学講話》を教皇庁の権力の及ばない新教国オランダから出版した。この著作は,その後ニュートンの《プリンキピア》(1687)が現れるまで,近代的な力学研究に関する最も重要な著作としてたえず参照されることになった。晩年彼は,両眼失明という不幸に襲われながらも,若い弟子トリチェリやV.ビビアーニとの科学の諸問題をめぐる対話に大きな楽しみを見いだしながら,天寿を全うした。
日本大百科全書(ニッポニカ)
1564 2月15日イタリアのピサに誕生
1574 一家がピサからフィレンツェに移る。このころ初等教育を受ける
1581 ピサ大学医学部進学教養部に入学
1583 数学者リッチに出会う。振り子の等時性を発見
1585 ピサ大学を退学、フィレンツェに戻る
1586 最初の論文「小天秤」を書く
1587 「固体の重心について」を書き、アカデミア・デル・ディシェーニョに提出
1589 ピサ大学数学講師となる
1590 落体の実験「運動について」を書く
1591 父ビンチェンツォ死去
1592 パドバ大学数学正教授となる
1593 この年以降、1599年までに「レ・メカニケ」「築城論」「簡単な軍事技術入門」などを書く。計算尺を製作
1599 このころマリナ・ガンバとの生活開始
1600 長女ビルジニア誕生
1601 次女リビア誕生
1605 メディチ家コジモ2世の家庭教師となる
1606 長男ビンチェンツォ誕生。『幾何学的軍事コンパスの効用』刊
1609 望遠鏡製作。月面観測、木星の衛星を発見
1610 トスカナ大公第一数学者兼哲学者になり、フィレンツェに戻る。『星界からの報告』刊
1611 リンチェイ学士院会員となる
1613 『太陽黒点論』刊。弟子に聖書と地動説の矛盾を書いた手紙を送る
1615 ローマの異端審問所に告発される
1616 2月26日第一次裁判判決
1618 3個の彗星出現
1619 弟子名で『彗星についての講話』刊
1623 『偽金鑑識官』刊
1625 『天文対話』執筆に着手
1632 2月『天文対話』刊。7月『天文対話』発売禁止。10月異端審問所への出頭命令
1633 4月尋問開始。6月22日第二次裁判判決。「異端誓絶」強制される。12月アルチェトリに幽閉の身となる
1634 長女ビルジニア死去
1638 両眼失明
1638 7月『新科学対話』刊。9月詩人ミルトンが来訪
1641 『新科学対話』第5日目用を脱稿
1642 1月9日死去
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