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  11. 北条時房

北条時房

ジャパンナレッジで閲覧できる『北条時房』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

北条時房
ほうじょうときふさ
一一七五 - 一二四〇
鎌倉時代中期の連署。安元元年(一一七五)生まれる。北条時政の三男、義時の弟。文治五年(一一八九)四月、元服して五郎時連と称し、七月には奥州征伐に従軍。蹴鞠をよくし,二代将軍源頼家に近侍した。建仁二年(一二〇二)六月、時房と改名。元久二年(一二〇五)三月主殿権助、四月式部丞、八月従五位下・遠江守、九月駿河守、承元元年(一二〇七)正月武蔵守となる。建保元年(一二一三)五月、和田氏の乱の功により上総飫富荘(おふのしょう、『吾妻鏡』には飯富荘とある)を与えられ、同五年十二月、相模守に転じた。翌六年二月、姉政子の熊野詣に随行、帰途政子は京都で後鳥羽上皇の乳母藤原兼子に会い、上皇の皇子を三代将軍源実朝の後継者に迎えることを内約した。時房は上皇に召され、院の蹴鞠に参候した。十月、従五位上に昇る。承久元年(一二一九)正月、実朝が殺されると、政子は上皇の皇子を将軍に迎えたいと奏上したが、上皇は摂津国長江・倉橋両荘の地頭の改補を求めた。三月、時房は使者として千余騎を率いて上洛、上皇の要求に対する拒否を伝え、さらに将軍の下向を請うた。公武関係が険悪化し、同三年五月、承久の乱が起ると、時房は甥の泰時(義時の子)とともに東海道の大将軍として攻め上り、六月、京都に攻め入り、それ以来、泰時・時房は六波羅探題として、それぞれ六波羅北方・南方の任についた。乱の勲功によって、時房は伊勢守護に任ぜられ、同国内十六ヵ所を与えられ、また淡路国志筑荘地頭となった。元仁元年(一二二四)六月、執権義時が没すると、泰時が執権となり、翌嘉禄元年(一二二五)七月、政子の没後、泰時は連署を新設、時房をこれに任じた。寛喜三年(一二三一)十二月正五位下、文暦元年(一二三四)正月従四位下となり、嘉禎二年(一二三六)二月修理権大夫を兼ね、翌三年正月従四位上となり、十一月相模守を辞した。将軍九条(藤原)頼経の上洛に従って在京中の暦仁元年(一二三八)閏二月には、正四位下に叙せられた。仁治元年(一二四〇)正月二十四日没。六十六歳。法名は行念または称念。
[参考文献]
『大日本史料』五ノ一二 仁治元年正月二十四日条、上横手雅敬『北条泰時』(『人物叢書』九)、同『日本中世政治史研究』
(上横手 雅敬)


日本大百科全書(ニッポニカ)

北条時房
ほうじょうときふさ
[1175―1240]

鎌倉前期の武将。時政 (ときまさ)の子、義時 (よしとき)の弟。相模守 (さがみのかみ)、修理権大夫 (しゅりごんのだいぶ)歴任。将軍源実朝 (さねとも)没後の将軍後継問題に関して、兄執権義時の命で上京し、折衝にあたった。1221年(承久3)後鳥羽 (ごとば)上皇の討幕計画をつぶすため、甥 (おい)の泰時 (やすとき)(義時の子)とともに上京、勝利ののち六波羅 (ろくはら)にとどまり、朝廷の監視、乱後の処理にあたった。義時急死(1224)後鎌倉に帰り、連署 (れんしょ)となって執権泰時のよき協力者として幕政を指導した。延応 (えんおう)2年正月24日死去。

[田辺久子]



世界大百科事典

北条時房
ほうじょうときふさ
1175-1240(安元1-仁治1)

鎌倉前期の武将。時政の三男。初名時連。畠山重忠の誅伐や和田合戦鎮圧に活躍。1210年(承元4)幕府膝下の武蔵国の国守となり事実上の守護を兼ねる。17年(建保5)相模守。源実朝の死(1219)後の緊迫した公武交渉の一翼をにない,21年(承久3)承久の乱が起こると甥泰時とともに東海道を進撃,後鳥羽上皇軍を破って入京。乱後六波羅探題南方の任にあたり,伊勢,丹波の守護を兼ねる。25年(嘉禄1)鎌倉へ帰り執権泰時のもとで連署となり,のち遠江の守護を兼ねる。39年(延応1)4月泰時が重病のとき,時房は平然として酒宴を続け,非難を受けると〈自分が安心して酒宴できるのも泰時のおかげである。もし泰時が死んだら私も遁世するから,これが最後の宴となるだろう〉と語ったという逸話が示すように,終世変わらず泰時の忠実な協力者であった。子孫は大仏氏,佐介氏を称す。
[青山 幹哉]

[索引語]
北条泰時
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1. 北条時房
日本大百科全書
鎌倉前期の武将。時政ときまさの子、義時よしときの弟。相模守さがみのかみ、修理権大夫しゅりごんのだいぶ歴任。将軍源実朝さねとも没後の将軍後継問題に関して、兄執権義
2. 北条時房
世界大百科事典
1175-1240(安元1-仁治1) 鎌倉前期の武将。時政の三男。初名時連。畠山重忠の誅伐や和田合戦鎮圧に活躍。1210年(承元4)幕府膝下の武蔵国の国守となり
3. ほうじょう‐ときふさ【北条時房】
日本国語大辞典
鎌倉初期の武将。時政の子。義時の弟。奥州征伐や和田義盛の乱の平定に功を挙げ、承久の乱には上洛、乱後六波羅探題南方に就任。安元元~延応二年(一一七五~一二四〇)
4. ほうじょうときふさ【北条時房】画像
国史大辞典
一一七五―一二四〇 鎌倉時代中期の連署。安元元年(一一七五)生まれる。北条時政の三男、義時の弟。文治五年(一一八九)四月、元服して五郎時連と称し、七月には奥州
5. ほうじょう-ときふさ【北条時房】
日本人名大辞典
1175−1240 鎌倉時代の武将。安元元年生まれ。北条時政の3男。北条義時の弟。源頼朝の奥州攻めなどに参加。承久(じょうきゅう)の乱では甥(おい)の北条泰時と
6. 北條時房爲六波羅探題 (見出し語:北條時房)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 857ページ
7. 北條時房爲連署 (見出し語:北條時房)
古事類苑
官位部 洋巻 第2巻 691ページ
8. 北条時房花押[図版]画像
国史大辞典
 (c)Yoshikawa kobunkan Inc. 
9. あだちかげもり【安達景盛】
国史大辞典
、やがて高野山に入って、実朝菩提のために金剛三昧院を建立し、高野入道と称された。承久の乱では北条時房に属して戦い、京方の軍兵を栂尾に追ったとき明恵上人に会い、以
10. あだちし【足立氏】画像
国史大辞典
遠元は頼朝の公文所創設以来その寄人となっており、政務に馴れた有力な御家人であった。その娘二人は畠山重忠・北条時房に嫁した。嘉禎二年(一二三六)まで讃岐国本山荘地
11. あまたぐん【天田郡】
国史大辞典
(同)・今安保・曾我井荘などがあった。建久三年(一一九二)土肥実平が初代守護に任ぜられ、のち北条時房、その子時盛が受け継いだが、その後は六波羅探題南方が兼任した
12. いしいむら【石井村】愛媛県:松山市/重信川北岸地域(旧久米郡・下浮穴郡地区)
日本歴史地名大系
[現]松山市東石井町・西石井町 松山平野の南平坦部に位置する農村。東は星岡村、西は古川村、南は居相村・越智村、北は浅生田村・尼山村に接する。村の北辺を小野川が流
13. いしかわし【石川氏】画像
国史大辞典
家幹の次男馬場資幹が大掾に任ぜられ、以後資幹の子孫が大掾職を世襲した。北条氏の常陸国進出の過程で一族中から北条時房の子孫の被官となる家を生じ、その所領吉田郡吉田
14. いしかわし【石川氏】 : 石川氏/(三)
国史大辞典
家幹の次男馬場資幹が大掾に任ぜられ、以後資幹の子孫が大掾職を世襲した。北条氏の常陸国進出の過程で一族中から北条時房の子孫の被官となる家を生じ、その所領吉田郡吉田
15. いずもだいじんぐう【出雲大神宮】京都府:亀岡市/出雲村
日本歴史地名大系
[現]亀岡市千歳町 出雲 御影山の麓に鎮座する丹波国の一宮。「延喜式」神名帳にみえる名神大社で、同書神祇臨時祭に記される「名神祭二百八十五座」の一。祭神は大己貴
16. いせじんぐう【伊勢神宮】三重県:伊勢市
日本歴史地名大系
戦勝後内宮に伊勢国安楽村・井後村(現亀山市)、外宮に同国葉若村(現亀山市)・西園村を寄進した。執権北条時房は正嘉元年(一二五七)新写大般若経一部六〇〇巻を大神宮
17. 伊勢国画像
日本大百科全書
鎌倉幕府は守護に山内首藤経俊やまうちすどうつねとし、平賀朝雅ひらがともまさ、大内惟義これよしらを任じ、北条時房ときふさ以後は北条氏の一門がその地位を独占した。ま
18. いせのくに【伊勢国】画像
国史大辞典
伊賀国にも勢力を伸ばした。鎌倉時代の守護としては、初期に山内首藤経俊・平賀朝雅・大内惟信、承久の乱後は北条時房が、また後期には北条氏一門の金沢氏がそれぞれなった
19. いだごう【井田郷】大分県:大野郡/犬飼町
日本歴史地名大系
井田郷は八〇町五段、地頭は相模三郎入道殿女子とある。相模三郎入道は建長三年(一二五一)没した北条時房三男資時で、その室は大友親秀女であった(藤姓大友系図など)。
20. いわつきし【岩槻市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
箕勾氏は経遠の弟経光が箕輪郷を領し、曾孫為経が箕勾を名乗った(前掲系図)。その子孫箕勾政高は承久の乱のとき北条時房の陣に加わって近江勢多橋(現滋賀県大津市)の戦
21. うさかのしょう【宇坂庄】福井県:足羽郡/美山町
日本歴史地名大系
荘域は足羽川の中流域河谷一帯、美山町と福井市の一部を含む地に比定される。貞永元年(一二三二)の六波羅探題宛関東御教書(尊経閣文庫武家手鑑)に越前国宇坂庄地頭条々
22. うちだのしょう・うちだごう【内田庄・内田郷】静岡県:小笠郡/菊川町
日本歴史地名大系
嘉禎二年(一二三六)六月、内田致茂は内田庄下郷地頭職を子息致員に譲って(前掲内田致茂譲状写)、同年一二月一日の北条時房下知状(写)で安堵され、文永八年(一二七一
23. うつのみやずしばくふあと【宇津宮辻子幕府跡】神奈川県:鎌倉市/小町村地図
日本歴史地名大系
。源実朝が没した六年後のことである。「吾妻鏡」によると、この年一〇月三日、執権北条泰時・連署北条時房が「宇津宮辻子」に移すことを決め、その場所について群議、翌四
24. おおくら【大倉】神奈川県:鎌倉市/雪下村地図
日本歴史地名大系
大倉と呼称される東方の範囲が知られる。承久元年(一二一九)正月一五日条によれば、大倉辺りが火災に襲われ、北条時房室の宿所以下数十軒が焼失。貞応元年(一二二二)七
25. おおくろだむら【大黒田村】三重県:松阪市
日本歴史地名大系
小黒田は南黒田と称したという(五鈴遺響)。「吾妻鏡」の貞応元年(一二二二)三月三日条に黒田御厨がみえる。北条時房は伊勢国守護職を与えられ、同時に伊勢国内に一六ヵ
26. おさらぎ-ともなお【大仏朝直】
日本人名大辞典
1206−1264 鎌倉時代の武将。建永元年生まれ。北条時房の子。母は足立遠元(あだち-とおもと)の娘。大仏氏の祖。延応元年評定衆となる。翌2年の父の死去により
27. おさらぎむねのぶ【大仏宗宣】画像
国史大辞典
一二五九―一三一二 鎌倉時代後期の幕府執権。正元元年(一二五九)の誕生。北条氏の族大仏宣時の長男、母は北条時房の七男越前守時広の女。弘安五年(一二八二)二月雅楽
28. おぜきむら【尾関村】愛知県:一宮市
日本歴史地名大系
木曾川の南方にあたり、北は大江用水を境に黒岩・河田・大野の各村に接する。暦仁元年(一二三八)一二月と推定される北条時房書状案(石清水菊大路家文書)に尾塞兵衛尉季
29. おふのしょう【飫富庄】千葉県:袖ケ浦市/飯富村
日本歴史地名大系
領を没収されたと思われ、建暦三年(一二一三)五月七日、和田合戦後の論功行賞の一環として当庄は北条時房に与えられている(同書)。ただ飯富氏は断絶したわけではなく、
30. おやまむら【小山村】京都府:船井郡/園部町
日本歴史地名大系
貝原益軒の「西北紀行」には園部城下に入る前に「小山」と記される。貞応元年(一二二二)一〇月二〇日付北条時房書下(関戸守彦氏所蔵文書)に「後白河院法華堂領丹波国野
31. 花押 37[別刷図版]画像
国史大辞典
702 北条時政(二) 703 北条義時(一) 704 北条義時(二) 705 北条時氏 706 北条時房 707 北条泰時(一) 708 北条泰時(二) 70
32. かくさん【覚山】
国史大辞典
一二五二―一三〇六 鎌倉幕府執権北条時宗夫人、臨済宗の尼僧。秋田城介安達義景の女、母は北条時房の女。建長四年(一二五二)七月四日誕生。堀内殿、のち潮音院殿とよ
33. かくさんに【覚山尼】
日本人名大辞典
1252−1306 鎌倉時代の尼僧。建長4年7月4日生まれ。安達義景の娘。母は北条時房の娘。臨済(りんざい)宗。弘長元年北条時宗にとつぎ,嫡男貞時を生む。弘安(
34. 上総国
世界大百科事典
北荘を根拠とする和田義盛が挙兵して北条義時に滅ぼされる事件が起きた。この和田合戦の恩賞として北条時房が飯富荘を領し,三浦胤義が伊北郡を領した。1210年(承元4
35. かたやまごう【片山郷】埼玉県:新座市
日本歴史地名大系
(一二二二)三月二四日に丹波国和知庄(現京都府和知町)の地頭職を与えられ(嘉禎四年七月三日「北条時房下知状案」片山文書)、やがてその子孫は同庄に移住した。弘安三
36. かばのみくりや【蒲御厨】静岡県:浜松市/旧長上郡・豊田郡地区
日本歴史地名大系
が蒲御厨上・下両郷の地頭職を獲得し、源清成を地頭代に補任した(「北条時政下文」同文書)。以後北条時房・師時・貞時・高時・泰家らに相伝され(弘安七年六月二八日「北
37. かまくらばんやく【鎌倉番役】
国史大辞典
割り当てられて交代で諸門の警固に任ずることになり、これを鎌倉大番役と称するようになった。ただし北条時房以下しかるべき御家人は代官を差し出すことを認められた。かく
38. かみよしむら【神吉村】京都府:船井郡/八木町
日本歴史地名大系
抄)の一部であったといわれる(大日本地名辞書、日本地理志料)。しかし、承久三年(一二二一)の北条時房書状(氷室文書)にみえる「丹波国神吉氷室司」をはじめ、史料に
39. かりばかま【狩袴】
国史大辞典
室内用の八幅からなる指貫の袴に対して、六幅からなる仕立てをいう。『吾妻鏡』建保六年(一二一八)五月五日条に北条時房の談として「着〓布衣
40. かんばやしのしょう【上林庄】京都府:綾部市/十倉村
日本歴史地名大系
綾部市の東北部、由良川上流域および支流上林川流域に比定される。地名初出は寿永三年(一一八四)四月一六日付平辰清所領寄進状案(東寺百合文書)で、丹後国大内郷(現舞
41. きさいちのしょう【私市庄】京都府:綾部市/私市村
日本歴史地名大系
可停止新儀之状、依鎌倉殿仰、下知如件、寛喜四年四月十七日(附箋)「北条泰時」武蔵守平(花押)(附箋)「北条時房」相模守平(花押)このような紛争は弘長二年(一二六
42. くろだのみくりや(くろだのしよう)【黒田御厨(黒田庄)】三重県:安芸郡/河芸町/北黒田村
日本歴史地名大系
平賀朝雅がこれに替わったりするが、「吾妻鏡」によると、貞応元年(一二二二)三月三日には六波羅探題北条時房が、承久の乱の戦功によって伊勢国守護に任ぜられる。そして
43. くわたのしょう【桑田庄】京都府:亀岡市/山本村
日本歴史地名大系
桑田郷(和名抄)内に成立したと考えられる松尾社(現京都市西京区)領。建久八年(一一九七)二月二四日付松尾神宮政所下文(松尾大社東家文書)に松尾大神宮政所定桑田庄
44. 御所奉行
世界大百科事典
,将軍の社寺参詣や年中行事などの営中の雑事をつかさどった職。将軍源実朝が1203年(建仁3)北条時房に奉行すべきことを命じたのを初見とし,以後二階堂行光・行方や
45. ごしょぶぎょう【御所奉行】
国史大辞典
営中の諸事を掌る鎌倉・室町両幕府の職名。鎌倉幕府では、建仁三年(一二〇三)に北条時房が営中雑事を奉行することを命じられたのを最初に、二階堂氏ら評定衆・引付衆の
46. ごせいばいしきもく【御成敗式目】
国史大辞典
始めているのは、法に対する泰時の関心の深さを示している。式目編纂の経過は明らかではないが、執権泰時・連署北条時房、それに十一名の評定衆が編纂に関与し、中でも法理
47. さどのくに【佐渡国】新潟県
日本歴史地名大系
書「昭和定本日蓮上人遺文」)には文永八年(一二七一)の日蓮配流当時は「武蔵前司預り」の地で、北条時房の孫大仏宣時が守護であったことが知られる。以後佐渡守護は鎌倉
48. しくみごう【志久見郷】長野県:下水内郡/栄村
日本歴史地名大系
の子中野五郎能成は源頼家の近習として比企能員らと北条氏を滅ぼそうとしてかえって滅ぼされたが、北条時房の計らいにより所領安堵を得、同年九月二三日鎌倉幕府下知状があ
49. 承久の乱画像
日本大百科全書
所領、摂津国せっつのくに長江ながえ・倉橋くらはし両荘しょう地頭の解任を幕府に要求した。幕府は北条時房ときふさを上洛じょうらくさせて拒否を回答するとともに、さらに
50. せきがはらむら【関ヶ原村】岐阜県:不破郡/関ヶ原町
日本歴史地名大系
命じている。なお「承久兵乱記」によれば、承久三年(一二二一)六月七日東海・東山両道の軍勢を合せた北条時房・泰時は「せきがはら」で軍議をしたという。天正一七年一〇
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