(ほう)藁』(文政二年(一八一九)―天保十二年(一八四一)編纂)があり、これも『大日本史料』の原型といえばいえよう。『大日本史料』と並んで、史料編纂所の主要な事業となっている『大日本古文書』の編纂も、前記のような山鹿素行以来の学問的伝統につながっているとみられる。そしてこの史料編纂所を中心とした史料の蒐集・調査と、その編集・刊行の事業が、近代日本における実証的な歴史研究の発展の上に果たした役割の大きいことも周知のとおりである。この事業の出発点をなしたのは、明治維新の直後、明治二年四月に新政府として歴史編修を開始すべきことを述べた天皇の沙汰書(修史の詔勅)であり、やがて同八年修史局(のち修史館)が設置された。この部局は、同二十一年に帝国大学に移管されて、臨時編年史編纂掛と改称されたが、これはドイツ人教師ルードビヒ=リースの指導のもとに、前年に設置された史学科(西洋史学科)につづき、二十二年に予定されていた国史科(のち国史学科)の開設を準備する意味を持っていたと推測される。修史館では、重野安繹・久米邦武・星野恒らが中心となって、史料の採訪や研究を進めており、三人は文科大学教授にも任ぜられたが、修史局以来の漢文の編年体による歴史書を編纂する計画は、『太平記』など史料に対する批判的研究が進展するとともに、困難と考えられるようになり、久米の論文「神道は祭天の古俗」が国家神道に反するものとして批難された事件もあって、二十六年に編纂掛は廃止され、二十八年に再興されたのちは、前期のように史料の編纂を任務とする機関となった。ここと東京・京都の帝国大学を中心に、三上参次・田中義成・三浦周行らが、近代的な国史学を発展させたが、前記の久米の事件や、同四十四年の南北朝正閏問題など、国家の教育方針に反するとみられた場合には、政治権力による圧迫が加えられたから、学問と教育との分離という不自然な事態が生じた。昭和十年(一九三五)代の軍事体制下では、津田左右吉の古代史研究までが弾圧の対象とされた。この間に、歴史思想の動向も、明治前期の田口卯吉らによる啓蒙的な文明史観に始まり、大正年間(一九一二―二六)以降は、社会経済史や文化史・思想史などに重点が移り、さらに第二次世界大戦後は、マルクス主義の歴史観(唯物史観)による日本史の解釈に多くの研究者の関心が指向されたが、近年はその反省期に入り、民俗学・文化人類学また社会史などの影響のもとに新しい研究が進められている。なお、近世ならびに近代の国史学の発達については、記述すべきことが多いが、本辞典では、「古代」「中世」「近世」「近代」の各項目ごとに、また法制史・社会経済史など各分野に関する項目ごとに、それぞれの分野に関する研究史を記述しているので、ここでは重複を避けて、それら各項目を参照されることを希望する。
次郎(さんじろう)が担当していた。白鳥はまず朝鮮史の研究から始めたが、日本にもっとも近い国の歴史から研究を始めたのは当然であった。日露戦争のころから満洲・朝鮮史(満鮮史)の研究が活発になり、それを促進したのは南満洲鉄道会社(満鉄)であった。満鉄東京支社内に白鳥の働きかけで満鮮歴史地理調査室が設けられた。明治四十一年一月から白鳥の指導のもとに、はじめ箭内亘(やないわたり)・松井等・稲葉岩吉らが満洲歴史地理を、同四月から池内宏・津田左右吉らが朝鮮歴史地理を研究した。この調査室は大正四年(一九一五)に廃止されたけれども、その間に『満洲歴史地理』『朝鮮歴史地理』の成果を発表した。こうして白鳥のもとで東洋史研究者が養成された(なお満鮮史の研究は東京帝大文学部に引きつがれ、『満鮮地理歴史研究報告』をつぎつぎと刊行した)。他方、新設の京都帝大では内藤虎次郎(湖南)が明治四十年に講師、四十二年に教授となり、京都における中国史研究の基礎を築いた。従来,中国史・満鮮史の研究に終始していた日本の東洋史も、明治末からその研究範囲を拡大した。一例をあげれば、スタイン・ペリオらの敦煌文書発掘に刺激されて、大谷探検隊が西域に赴いたのもこの時期であった。西洋人に独占されていた西域研究に日本人も参加した。またオーストラリア人G・モリソンの東洋学コレクション(モリソン文庫)が三菱の岩崎久弥によって購入され、東洋文庫が設立されたのは大正末であった。義和団事件の賠償金を利用して東方文化学院(東京・京都研究所)が設立されたのは昭和初年であった。東洋文庫・東方文化学院の創設によって、若手研究者がつぎつぎに養成されるようになった。研究範囲も中国・満洲・朝鮮にとどまらず、モンゴル・中央アジアから東南アジアに拡大した。従来の東大・京大のみでなく、北大・東北大・京城帝大などにも東洋史講座が設けられ、東洋史の研究者は急速に増加した。昭和初年になると、東洋史学も大きな転換期を迎えた。従来は歴史地理や文化史といった研究が中心を占めたが、この時期に社会経済史の研究がきわめて盛んになった。当時、日本にもマルクス主義の影響が拡がり、その研究に唯物史観を適用するようになった。若手研究者を中心に結成された歴史学研究会の登場も、このような傾向に拍車をかけた。文献による考証史学という伝統を打ち破ろうとする気運も生まれた。しかし、日中戦争が激化するにつれて、全国的に思想弾圧が強化され、唯物史観さえタブー視されるに至った。逆に国策遂行に協力するための研究機関が生まれた。半官半民の東亜研究所はその最たるもので、軍部や政府の要請に基づく研究に従事した。東大・京大に新設された東洋文化研究所・人文科学研究所も、実質的には国策に貢献するための研究所であった。研究範囲は、太平洋戦争の勃発に伴い、東南アジア・インドから西アジアにまで拡大した。ただし、中国史や東アジア史に比べると、その研究水準はまだ低かった。戦争末期になると、客観的な歴史研究は不可能となり、良心的な研究者は沈黙を守るしかなかった。敗戦後、戦時中は政府・軍部と結びついていた東洋史学の在り方を反省するとともに、戦勝国となった中国を再評価しようとする動きがでてきた。ことに、国共内戦に勝利を収めた中国共産党を中心に中華人民共和国が成立したことは、中国研究者に大きな衝撃を与えた。戦前、東洋史学では近現代史は正当な座を認められなかったが、新中国の成立もあって、一挙に近現代史研究が盛んになった。戦時中に影をひそめていた唯物史観に基づく社会経済史の研究も活況を呈するようになった。昭和二十四年の歴史学研究会大会で「世界史の基本法則」というテーマが掲げられたことは、若い研究者に大きな刺激となった。また、前田直典の論文「東アジヤに於ける古代の終末」(『歴史』一ノ四、昭和二十三年、のち『元朝史の研究』所収)は、中国史研究者に研究方法の再検討を迫った。戦後の中国史研究は前田論文から出発したといってもよい。一九六〇年前後より中国・東アジア史のみでなく、インド・東南アジア・西アジア・中央アジアに関しても本格的な研究が行われるようになった。その背後には東大東洋史学科に南アジア史講座が新設され、京大史学科に西南アジア課程が設置されたという事実もあった。中国史に関していえば、近現代史の研究において質・量ともに著しい発展がみられた。それは現在もなお進展している。
ks-],(1891-1971):米国の考古学者・聖書歴史学者;聖書中の遺跡を発掘. ...
s],(1873-1945):米国の歴史学者.2 ベッカー:George Ferdinand,(1847-1919) ...
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