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国史大辞典

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歴史学
れきしがく

〔総説〕

歴史学すなわち学問としての歴史研究は、現代の日本では、本項目の以下の区分のように、国史学・東洋史学・西洋史学の三つの分野に分けられるのが、普通である。このうち国史学は、日本文学の研究が国文学とよばれているのと同様に、自国の歴史を対象とする意味の名称であるが、国文学の場合には特に問題とされることがないのに反し、国史学という名称については、これを日本史学と改めるべきであるとする主張がある。その理由は、国史ないし国史学という語が、明治時代以来、第二次世界大戦後の学制改革に至るまで、教育と研究との上で一般に用いられて来ており、したがってその用語自体が戦前の国家主義的な歴史観と結びついているとみる点にあるようである。しかし教育の面ではともかく、学問的研究の方面では、戦前・戦中の学界の一部に、その種の歴史観に基づく偏向が生じたことは事実ながら、学界の主流は、特定の歴史観にとらわれることなく、史料批判を基本とした実証的な研究の方法を発展させ、史実に関する客観的な認識の成果を積み重ねて来ており、戦後の歴史研究も、当然ながらその延長線上にある。その間に、研究者個人の立場から、独自の見解を提示し、あるいは特定の歴史観に基づく解釈を展開することは、戦前にも戦後にもあったが、それらの見解や解釈も、上に挙げた実証的な研究方法を基礎としているのでなければ、学界での一般的な承認は得られない。その意味では、ことさらに戦前と戦後とを区別する必要はないと考えられる。実際にも、戦後の初等・中等教育や、また大学の一般教育などにおける教科の名称としては、日本史の語が用いられているのに対し、大学の専門課程では、学科名として国史学の名称を使用している場合が少なくない。また逆に、日本史学という語は、必ずしも慣用の表現とはなっていない。本辞典の表題や、以下の記述に国史(学)の語を用いるのは、上記のような理由によるものである。次に、自国史に対する外国史であるが、これに関しても、学問的研究と一般的教育との間に、やはり不一致を生じている。すなわち学界では、東洋史学と西洋史学との二つの分野に外国史を区分しているのに対し、高等学校などの教科としては、両者を総合した世界史の一科目となっている。この点も国史の場合と同じく、戦前・戦中には、中等教育においても東洋史と西洋史とが別の科目とされていたのであったが、戦後の学制改革に際し、世界史という教科が設けられて、現在に至っている。これは前述の改革を主導したアメリカ合衆国、ないしそれを含む欧米の近代国家では、歴史を自国史と外国史(世界史)との二つに区分するのが、普通になっているためであろうか。欧米諸国では、古代オリエントに始まるヨーロッパ中心の歴史が、やがて十五世紀前後のいわゆる大航海時代を経て、アジアやアメリカなどを包括した世界的規模に拡大されて行った過程が、すなわち世界史の基本的な構図と考えられ、その全体としての構図の中に、自国の歴史をどのように位置づけるかという点で、世界史と自国史とが区別されるとともに、両者を組み合わせたものが、歴史教育の基本とされているのであろう。しかしその欧米の地からは隔絶した東アジアにあって、独自の歴史を形成して来た日本にとっては、外国史ないし世界史とは、そのような一元的な構図によって整理することのできる性質のものではなかった。特に日本では、古代以来、中国文明の圧倒的な影響力のもとに置かれていたから、歴史叙述や歴史思想の原型は、中国での『春秋』や『史記』以来の伝統の中にあると一般に考えられ、それとの対比において、自国史の特性を自覚して来たのが、『古事記』『日本書紀』以来の日本における歴史意識の発展の過程であった。すなわち前近代の日本において、自国史と区別された意味での外国史とは、中国史を基本とした東アジアの歴史であり、それを対象とした学問的研究も、明治維新以前にすでにかなり高い水準に達していた。ここにおいて維新後に、万国史ないし文明史の名称のもとに、欧米風の世界史の知識が導入されたとき、日本人にとっての外国史のイメージは、二つに分裂せざるを得なかったとみられる。やがて東洋史学と西洋史学という、日本独特の区分による学問分野の成立をみるに至ったのも、その結果である。このうち東洋史学については、その呼称の用いられ始めた時期が、明治二十七年(一八九四)ごろで、すなわち日本の大陸経営が本格化し始めた時期と一致しているため、その政策との関連を強調する見解があるが、これは短絡的な解釈であろう。前記のようにもともと漢学にもとづく中国中心の東アジア史(明治時代前期の呼称では支那史)の研究の伝統があったこと、また国史学や西洋史学にしても、近代的な学問として大学での研究や教育が発足したのは、明治二十年以降であったことなどを想起すれば、東洋史学だけが特別であったわけではない。むしろ支那史から東洋史への変化は、視野を広く中国以外のアジア諸地域へも広げることにより、近代的な学問への脱皮をはかったものとして理解されるべきであろう。このような視圏の拡大は、現在ではさらに進んで、世界の全域に及び、東洋史学と西洋史学との対象領域の区別も不明確になりつつある。その意味では世界史として統合されるべき時期に来ているともいえようが、しかし安易な統合は、かつての中国中心の東洋史学や、西欧中心の西洋史学が、それぞれ発達させて来た方法上の特色や構造的な歴史像を見失わせ、多数の地域史が単に平面的に羅列されることに終る危険性をはらんでいるとも考えられる。統一ある学問体系としての世界史学の建設は、なお今後の課題とされるべきであろう。

国史学

 学問としての日本史の研究が開始されたのは、どの時代からであったか。東洋史学や西洋史学の場合のように、明治維新以後、西洋の近代的な歴史学の方法が導入されてからである、とみるのも一つの見解であり、むしろそれが現在の学界内外での通念のようになっている。しかし近代ないし現代の国史学は、その源流をさかのぼると、維新前の江戸時代、すなわち近世の間に発達した歴史研究の学問に連続する面が大きく、それが維新後に至り、欧米文明の影響のもとで一層の発展をとげたことは事実としても、その種の外来文化の影響だけで、国史学の成立を説明することはできない。この点に関しては、明治初年に福沢諭吉が『文明論之概略』の第九章「日本文明の由来」の中で、それ以前に存在した日本の歴史書は、王室の系譜や為政者の得失を論述したものにすぎないとし、「日本国の歴史はなくして日本政府の歴史あるのみ。学者の不注意にして国の一大欠典と言ふべし」と述べた文章が、しばしば引用される。しかしこれは福沢一流の誇張した表現であって、当時の学問的状況についての正確な認識とはいいがたい。福沢の念頭にあったのは、当時の一般社会で愛読されていた頼山陽の『日本外史』や、青山延于の『皇朝史略』などであったのであろうが、それらによって当時の学問の水準を代表させることはできないのである。人物中心の政治史に学者らの主たる関心が指向されていたのは、近世の中でもむしろ前期の十七世紀のころのことであり、その研究の成果を利用しつつ、それに文学的な修飾を加えることによって人気を集めたのが、『日本外史』などのいわば通俗的な歴史書であった。十八世紀以降、一面では儒学の分野において、荻生徂徠により、「礼楽刑政」すなわち政治制度の変遷を明らかにすることこそが、歴史研究の主眼である、と唱えられ、また中国から伝来した清朝考証学の影響もあって、人物論よりも、社会制度の歴史に、学者の関心は向けられるようになっていた。徂徠の学問とは別に、同時代の伊藤東涯は、中国と日本との古来の政治制度の変遷を概観した『制度通』を著わしている。また他の一面では、日本の古典を研究する国学の中に、「国史律令の学」あるいは「国史官牒(官牒とは公文書の意味)の学」とよばれる専門分野があって、六国史や律令などを主たる史料として、古代日本の制度史的研究を進めていた。幕末の嘉永元年(一八四八)に伊達千広が著わした『大勢三転考』では、大化改新と鎌倉開府とを画期として、日本の歴史を「骨(かばね)の代(よ)」「職(つかさ)の代」「名(みょう)の代」の三段階に区分しているが、これはまさに社会制度の変遷に着目した時代区分であり、そのような視点からの歴史研究がかなりの程度まで発達していたことをうかがわせる。また水戸藩における『大日本史』の編纂事業も、江戸時代前期には本紀と列伝の部分、すなわち人物中心の政治史の分野に重点が置かれていたのに対し、この十九世紀のころには、豊田天功や栗田寛(栗里)らを中心に、志と表の部分、すなわち制度史や経済史・文化史の分野に関する調査研究が主眼とされるようになっていた。このようにみれば、維新前の日本の学界に、政治史以外の社会や文化に関する歴史的研究がなかったかのように述べた福沢の前記の見解が正しくないことは明らかであろう。文化史の分野での研究の方法に関しては、なお十八世紀中葉に富永仲基が『出定後語』などを著わし、「加上(かじょう)」という概念によって、仏教をはじめ、儒教や神道など各種の宗教や思想にも、それぞれ歴史的変化や発展のあったことを主張し、教祖としての釈迦や、また聖人などを、絶対的な権威とみなすことなく、これを歴史上の存在として客観的な視点から認識しようと試みたことが注目される。さらに以上のような歴史研究の学問的性格は、すでにこの時代の初期である十七世紀のころから始まっていた点に注意しなければならない。「わが国における史学の科学への展開」の時期が、近世初期にあったとするのは、高柳光寿の主張であり、その際に歴史研究が「科学」的であることの必要条件として高柳が挙げているのは、広汎な史料を蒐集し、それに基づいて確実な歴史事実を客観的な視点から認識しようとする、実証主義的な研究方法であって、それがたとえば十七世紀中葉に幕府の命を承けて林羅山・鵞峯父子が編纂した『本朝通鑑』や、同じころ水戸藩で着手した『大日本史』の編纂の事業、また個人の著述ではあるが、山鹿素行の『中朝事実』と『武家事紀』、新井白石の『古史通』と『読史余論』などの上に、具体的に示されているとみるのである。以上の官府と個人とによる四種類の歴史叙述は、いずれも古代以来の日本の歴史の全体像をとらえようとしていた点で、共通しているとともに、先行する『愚管抄』や『神皇正統記』などと異なり、特定の政治的立場や主張と直接には結びついていなかった点でも、この時代の特色をなしていたといえる。その実際の編纂に際しては、特に『本朝通鑑』と『大日本史』とは、それぞれ幕府と水戸藩との公的な事業であっただけに、その政治権力に支えられて、従来は知られていなかった史料についての調査が進み、またそれらを比較検討する作業も、多数の学者の協力によって綿密なものとなった。編纂の方法がそのように実証的であったことは、『本朝通鑑』に引用書目録を付していることや、また『大日本史』では、本文の記述のあとに、出典となった史料の名称を注記するという方針がとられたことなどに、よく示されている。また素行の『武家事紀』の中には、「古案」と題して、諸家の文書を集録した巻があり、これは実用の目的から離れた古文書集としては最初のものとして注目される。確実な史料としての古文書を重視しようとする動向は、その後にもさまざまな形で現われており、幕府の事業としては、五代将軍徳川綱吉の時に、大名や旗本ら諸家に伝わる文書の写しを提出させた『貞享書上』(『譜牒余録』)や、後期に地誌の編纂と関連して作られた『武州文書』『相州文書』などがあり、諸藩でも同様な事業を行なっている。また古文書に限らず、記録など各種の史料を列挙することにより、歴史叙述よりも史料の方に重点を置いて、歴史の客観的考察のための材料を読者に提供しようとする、独特の史書編纂の方式が、この時代の後期に生まれた。その実例としては、塙保己一が和学講談所において、文化三年(一八〇六)以降、幕府の援助のもとに進めた『史料』(『塙史料』)の編纂が挙げられる。これは古代国家の正史としての六国史のあとを継続して、宇多天皇の即位(仁和三年(八八七))以降を、年月日にかけて綱文を立て、その綱文に記された事実の根拠をなす史料、ないしそれに関係ある史料の原文を、そのあとに列記するという方式で編纂されたものである。この事業は、幕府の倒壊によって中絶したが、近代に入り、明治二十八年(一八九七)以降の東京帝国大学史料編纂掛(のち史料編纂所)での中心的な編纂事業とされた『大日本史料』が、これとほとんど同一の方針によっていることは、注目に値する。塙の『史料』ばかりではなく、同じ体裁をとったものとして、徳川家康の時代を中心に、それ以前の三河八代を含めて、幕府創業の歴史を編纂した『朝野旧聞〓(ほう)藁』(文政二年(一八一九)―天保十二年(一八四一)編纂)があり、これも『大日本史料』の原型といえばいえよう。『大日本史料』と並んで、史料編纂所の主要な事業となっている『大日本古文書』の編纂も、前記のような山鹿素行以来の学問的伝統につながっているとみられる。そしてこの史料編纂所を中心とした史料の蒐集・調査と、その編集・刊行の事業が、近代日本における実証的な歴史研究の発展の上に果たした役割の大きいことも周知のとおりである。この事業の出発点をなしたのは、明治維新の直後、明治二年四月に新政府として歴史編修を開始すべきことを述べた天皇の沙汰書(修史の詔勅)であり、やがて同八年修史局(のち修史館)が設置された。この部局は、同二十一年に帝国大学に移管されて、臨時編年史編纂掛と改称されたが、これはドイツ人教師ルードビヒ=リースの指導のもとに、前年に設置された史学科(西洋史学科)につづき、二十二年に予定されていた国史科(のち国史学科)の開設を準備する意味を持っていたと推測される。修史館では、重野安繹・久米邦武・星野恒らが中心となって、史料の採訪や研究を進めており、三人は文科大学教授にも任ぜられたが、修史局以来の漢文の編年体による歴史書を編纂する計画は、『太平記』など史料に対する批判的研究が進展するとともに、困難と考えられるようになり、久米の論文「神道は祭天の古俗」が国家神道に反するものとして批難された事件もあって、二十六年に編纂掛は廃止され、二十八年に再興されたのちは、前期のように史料の編纂を任務とする機関となった。ここと東京・京都の帝国大学を中心に、三上参次・田中義成・三浦周行らが、近代的な国史学を発展させたが、前記の久米の事件や、同四十四年の南北朝正閏問題など、国家の教育方針に反するとみられた場合には、政治権力による圧迫が加えられたから、学問と教育との分離という不自然な事態が生じた。昭和十年(一九三五)代の軍事体制下では、津田左右吉の古代史研究までが弾圧の対象とされた。この間に、歴史思想の動向も、明治前期の田口卯吉らによる啓蒙的な文明史観に始まり、大正年間(一九一二―二六)以降は、社会経済史や文化史・思想史などに重点が移り、さらに第二次世界大戦後は、マルクス主義の歴史観(唯物史観)による日本史の解釈に多くの研究者の関心が指向されたが、近年はその反省期に入り、民俗学・文化人類学また社会史などの影響のもとに新しい研究が進められている。なお、近世ならびに近代の国史学の発達については、記述すべきことが多いが、本辞典では、「古代」「中世」「近世」「近代」の各項目ごとに、また法制史・社会経済史など各分野に関する項目ごとに、それぞれの分野に関する研究史を記述しているので、ここでは重複を避けて、それら各項目を参照されることを希望する。
[参考文献]
史学会編『本邦史学史論叢』、坂本太郎『日本の修史と史学』(『坂本太郎著作集』五)、永原慶二・鹿野政直編『日本の歴史家』、高柳光寿「近世初期に於ける史学の展開」(『高柳光寿史学論文集』下所収)
(尾藤 正英)

東洋史学

〔定義〕

現在東洋史といえば、普通、中国史・朝鮮史をはじめ、北アジア・中央アジア・東南アジア・インドおよび西アジアの歴史を指す。ただし、これは第二次世界大戦後の状況で、戦前は東洋史研究の範囲は中国史を中心とする東アジア史に限られ、それ以外の地域の歴史の研究は皆無に等しかった。ただ中国の周辺史として中央アジア史(西域史)や北アジア史(塞外史)に関する研究はある程度進んでいた。それでは「東洋史」という名称はいつ起ったか。明治前期、中等学校の歴史科目には日本史・万国史(西洋史)と支那史の三科があったが、明治三十年(一八九七)、文部省は支那史を東洋史に改め、中国のみでなく他のアジア諸地域の歴史をも包括することになった。二十九年、藤田豊八『中等教育東洋史』、三十一年には桑原隲蔵(じつぞう)『中等東洋史』といった教科書も刊行され、東洋史の名称も定着した。東京帝大にもはじめ東洋史学科はなく、漢学科の中に支那史学専攻があった。支那史学科が東洋史学科に改編されたのは明治四十三年のことであった。京都帝大も最初は支那史学で、やがて東洋史学に改編された。戦後、新制高等学校の発足にあたって、アメリカ軍の占領政策に基づき、日本史はおかれず、東洋史・西洋史の両科が設けられたが、教育界の日本史設置の強い要望により、昭和二十四年(一九四九)より日本史が復活、東洋史・西洋史を合併して「世界史」が新設された。

〔日本における発達過程〕

日本に近代的な史学研究法が移植されたのは、帝国大学文科大学に史学科が新設された明治二十年のことで、来日したドイツの史学者L・リース、および欧州留学から帰朝した坪井九馬三(くめぞう)が教壇にたった時であった。この際、史学科一回生として入学したのが、のちに日本における東洋史学の創設者とされる白鳥庫吉(くらきち)であった。白鳥が帝大を卒業し学習院教授となるや、西洋史および東洋諸国の歴史を担当した。支那史はすでに市村〓次郎(さんじろう)が担当していた。白鳥はまず朝鮮史の研究から始めたが、日本にもっとも近い国の歴史から研究を始めたのは当然であった。日露戦争のころから満洲・朝鮮史(満鮮史)の研究が活発になり、それを促進したのは南満洲鉄道会社(満鉄)であった。満鉄東京支社内に白鳥の働きかけで満鮮歴史地理調査室が設けられた。明治四十一年一月から白鳥の指導のもとに、はじめ箭内亘(やないわたり)・松井等・稲葉岩吉らが満洲歴史地理を、同四月から池内宏・津田左右吉らが朝鮮歴史地理を研究した。この調査室は大正四年(一九一五)に廃止されたけれども、その間に『満洲歴史地理』『朝鮮歴史地理』の成果を発表した。こうして白鳥のもとで東洋史研究者が養成された(なお満鮮史の研究は東京帝大文学部に引きつがれ、『満鮮地理歴史研究報告』をつぎつぎと刊行した)。他方、新設の京都帝大では内藤虎次郎(湖南)が明治四十年に講師、四十二年に教授となり、京都における中国史研究の基礎を築いた。従来,中国史・満鮮史の研究に終始していた日本の東洋史も、明治末からその研究範囲を拡大した。一例をあげれば、スタイン・ペリオらの敦煌文書発掘に刺激されて、大谷探検隊が西域に赴いたのもこの時期であった。西洋人に独占されていた西域研究に日本人も参加した。またオーストラリア人G・モリソンの東洋学コレクション(モリソン文庫)が三菱の岩崎久弥によって購入され、東洋文庫が設立されたのは大正末であった。義和団事件の賠償金を利用して東方文化学院(東京・京都研究所)が設立されたのは昭和初年であった。東洋文庫・東方文化学院の創設によって、若手研究者がつぎつぎに養成されるようになった。研究範囲も中国・満洲・朝鮮にとどまらず、モンゴル・中央アジアから東南アジアに拡大した。従来の東大・京大のみでなく、北大・東北大・京城帝大などにも東洋史講座が設けられ、東洋史の研究者は急速に増加した。昭和初年になると、東洋史学も大きな転換期を迎えた。従来は歴史地理や文化史といった研究が中心を占めたが、この時期に社会経済史の研究がきわめて盛んになった。当時、日本にもマルクス主義の影響が拡がり、その研究に唯物史観を適用するようになった。若手研究者を中心に結成された歴史学研究会の登場も、このような傾向に拍車をかけた。文献による考証史学という伝統を打ち破ろうとする気運も生まれた。しかし、日中戦争が激化するにつれて、全国的に思想弾圧が強化され、唯物史観さえタブー視されるに至った。逆に国策遂行に協力するための研究機関が生まれた。半官半民の東亜研究所はその最たるもので、軍部や政府の要請に基づく研究に従事した。東大・京大に新設された東洋文化研究所・人文科学研究所も、実質的には国策に貢献するための研究所であった。研究範囲は、太平洋戦争の勃発に伴い、東南アジア・インドから西アジアにまで拡大した。ただし、中国史や東アジア史に比べると、その研究水準はまだ低かった。戦争末期になると、客観的な歴史研究は不可能となり、良心的な研究者は沈黙を守るしかなかった。敗戦後、戦時中は政府・軍部と結びついていた東洋史学の在り方を反省するとともに、戦勝国となった中国を再評価しようとする動きがでてきた。ことに、国共内戦に勝利を収めた中国共産党を中心に中華人民共和国が成立したことは、中国研究者に大きな衝撃を与えた。戦前、東洋史学では近現代史は正当な座を認められなかったが、新中国の成立もあって、一挙に近現代史研究が盛んになった。戦時中に影をひそめていた唯物史観に基づく社会経済史の研究も活況を呈するようになった。昭和二十四年の歴史学研究会大会で「世界史の基本法則」というテーマが掲げられたことは、若い研究者に大きな刺激となった。また、前田直典の論文「東アジヤに於ける古代の終末」(『歴史』一ノ四、昭和二十三年、のち『元朝史の研究』所収)は、中国史研究者に研究方法の再検討を迫った。戦後の中国史研究は前田論文から出発したといってもよい。一九六〇年前後より中国・東アジア史のみでなく、インド・東南アジア・西アジア・中央アジアに関しても本格的な研究が行われるようになった。その背後には東大東洋史学科に南アジア史講座が新設され、京大史学科に西南アジア課程が設置されたという事実もあった。中国史に関していえば、近現代史の研究において質・量ともに著しい発展がみられた。それは現在もなお進展している。

〔特質〕

戦後の東洋史学では中国・東アジアのみならず、アジア諸地域の研究も一斉に盛んになった。このように諸地域の歴史の研究が発達し、細分化するにつれて、各地域の歴史を総合して、東洋史として把握することはますます困難になってきた。なお、東洋史の中では依然として中国史研究が優位を保持している。それは国際的にもひとしく認められている。従来、日本の中国史研究は世界の学界を指導してきたが、最近十年あまり中国の学界が長足の進歩をとげた。中国には根本史料・文書類が多数存在し、研究者の数も日本に比べて数十倍に達するであろう。遅かれ早かれ、日本の中国史研究は中国のそれに追随せざるをえない時期が到来するであろう。
[参考文献]
五井直弘『近代日本と東洋史学』、増淵竜夫「日本の近代史学における中国と日本」(『歴史家の同時代史的考察について』所収)、旗田巍「日本における東洋史学の伝統」(幼方直吉・遠山茂樹・田中正俊編『歴史像再構成の課題』所収)、同「東洋史学の回想」(『歴史評論』一七一・一七三・一七五)
(山根 幸夫)

西洋史学

 日本の歴史学のうち、古代オリエント史、古代ギリシャ・ローマ史、中世より現代に至るヨーロッパ(ロシアを含む)諸国の歴史、および南北アメリカ史を研究対象とする分野。帝国主義時代については、ヨーロッパ列強のアフリカ植民地も、考察の範囲に含められる。欧米の歴史に関する啓蒙的な紹介は、主に文明史という形で、すでに明治初期から行われていたが、本来の意味における西洋史学の発端は、明治二十年(一八八七)から三十五年まで、東京帝国大学文科大学の史学科で教鞭をとったドイツ人の歴史家ルートビヒ=リースの影響下に見出される。リースは、近代歴史学の祖と呼ばれるランケの門弟で、厳密な史料批判にもとづく実証的な研究方法を日本に伝え、これが西洋史学の領域でも、可能なかぎり、徐々に実践されていったのである。明治二十四年にドイツ留学を終えて帰朝した坪井九馬三(くめぞう)は、日本人として最初の西洋史学担当の教授となるが、彼の著書『史学研究法』(明治三十六年)も、歴史家は理論よりまず以て事実の究明を課題とすべきことを説いていた。リース・坪井の門下からは、西洋古代史の草分けとなる村川堅固、近・現代史の開拓者斎藤清太郎、京都帝国大学文学部で西洋史学科の礎石を据えた原勝郎・坂口昂(たかし)らの俊秀が輩出する。リース辞任のあとを受けて、ドイツ・フランスでの留学から帰国した箕作(みつくり)元八が史学科の教授陣を率いるに及び、西洋史学は、リース指導下の揺籃時代を終えて、ようやく独り立ちし始めた。箕作には、依然ランケ学派的な政治史重視の名残りがあったにせよ、『フランス大革命史』『ナポレオン時代史』のほかに、『第十八世紀仏蘭西文化史』『社会主義運動史』のごとき遺著もあり、その自由主義的な歴史観と相まって、西洋史学に新生面を開いた。箕作は大正八年(一九一九)に没するが、彼の指導のもとに、西洋史学のいわば第二世代の新傾向を代表する学者が育った。なかんずく、文化史の開拓者たる大類伸(おおるいのぶる)および、「英国社会史」の名講義で西洋史学における社会史の先駆者となった今井登志喜(としき)がそれである。文化史の領野では、大類が東北帝国大学でルネサンス文化の研究を中心に活躍していたころ、東京商科大学(現一橋大学)で、これとは全く別個に、ドイツ留学中ランプレヒトの影響を受けた三浦新七が、洋の東西に跨る雄大で独特な比較文明史の研究を展開した。東京商大は、三浦以後も、東大や京大にひけをとらぬ高い水準の西洋史研究の場となった。一般に、昭和初年から敗戦に至る激動の時代は、これまでほとんど外国文献に頼ってきた西洋史学が、原史料にもとづく本格的な研究へと成長してゆく転換期であり、同時に他方では、マルクス主義や歴史学派経済学の理論が少なからぬ影響を及ぼし、かつまたそれとの関係で社会経済史ないし比較経済史の発達が見られた時期でもあった。村川堅固の指導下で、杉勇が楔形文字の読解を踏まえたオリエント学の草分けとなり、村川堅太郎がギリシャ語・ラテン語の根本史料を存分に駆使しつつ、ポリス社会を中心とする古典古代の総合的な研究を開始したのは、このいわば第三世代の一特色をなす原史料主義の実例である。その場合、村川にあっては、従来のように古典古代を政治や文芸の面からのみとらえるのではなく、奴隷制を基礎とする社会構成史への道を切り開いたことが重要である。他方、同じ原史料主義を徹底してドイツ中世社会経済史の実証研究に前人未踏の偉業をなしとげたのは、ウィーンでドープシュの指導を受けた東京商大の上原専禄であり、そこにはヨーロッパの学問に対し真の主体性・対等性を確保しようとする強烈な志向が働いていた。マルクス主義史学についていえば、時代の厳しい政治状況の中で、その自由な発達には大きな障害があったが、昭和十年(一九三五)代初期に、東京帝大経済学部の本位田祥男(ほいんでんよしお)が主宰する比較土地制度史の共同研究が発足し、大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄が、それぞれ英・仏・独における近代資本主義成立史を分担する形で、戦後「大塚史学」と通称されるようになった、理論的水準の高い比較経済史の基礎がうち立てられたことの意義は大きい。それに先立って江口朴郎(ぼくろう)は、マルクス=レーニン主義の立場から、原史料にもとづく帝国主義時代の国際関係史を開拓し、旧来のランケ学派的な外交史を脱却した。このような研究の本格化と緻密化は、他面において、西洋史学に各大国別の専門分化を促すことともなり、たとえばイギリス史の田中正義・大野真弓、フランス史の井上幸治や高橋幸八郎、ドイツ史の松田智雄や林健太郎などのほか、アメリカ史の分野でも中屋健一や清水博が開拓的な仕事を始めていた。東京帝大法学部でアメリカ政治史の実証的研究と取り組んだ高木八尺(やさか)の仕事の先駆的重要性も忘れられない。敗戦後、マルクス主義が「解禁」となり、併せてマックス=ウェーバーの理論も西洋史学の中で市民権を得るに及んで、「大塚史学」の第二世代が大輪の花を開かせるとともに、これに対する実証主義的批判も現われた。古代史では、村川の門下たちの間で、ポリス社会、さらに前ポリス期社会の共同体的性格を、実証的、理論的に究明しようとする努力が続けられた。中世史の分野では堀米庸三(ようぞう)・世良晃志郎(せらてるしろう)らが封建国家論を展開し、一橋大の増田四郎は、年来の中世都市研究を発展させる一方、ゲルマン古代史や村落に焦点を合わせた封建制成立論に縦横の活躍を見せた。ビザンツ史では一橋大の渡辺金一がはじめて本格的研究を公にした。戦後およそ十年間は、これらの研究も、「世界史」意識の高揚を反映して、日本や東洋との対比のもとに行われることが多かったが、ようやく戦中・戦後の欧米における厖大な研究成果との接触が可能となるに伴い、研究テーマの細分化・特殊化が顕著になる。これは戦後とみに発展したロシア史の研究についてもいえる。さらに昭和三十年代なかばごろから「第三世界」問題が研究者の関心を惹き始めると、社会構成史や近代化論に重きを置く戦後の西洋史学におのずから変化が生じた。「大塚史学」の若い世代で産業革命以降に研究の重点を移す者がふえたのもその一つだが、ラテンアメリカや東欧など、近代資本主義発展の「周縁」に位置する諸地域への関心が高まったことは、いわゆる戦後史学の克服を示すものとして、いっそう重要である。それと並んで、阿部謹也らにより、従来の社会構成史では視野の外に留まっていた周縁的な諸階層や歴史の「深層」に眼が向けられ、「全体史」としての社会史の必要が唱えられるに至った。そこには、日本中世史の場合と同様、民俗学や文化人類学などの成果を、西洋史学の研究にも摂取しようとする努力が認められる。しかし現在のところ、この意味での社会史は、社会運動史と並んで、なお発展の端緒にあるといえよう。
[参考文献]
一橋大学学園史刊行委員会編『一橋大学学問史』、『東京大学百年史』部局史一、柴田三千雄「日本におけるヨーロッパ歴史学の受容」(『(岩波講座)世界歴史』三〇所収)
(成瀬 治)
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国史大辞典
草創期社会学の多くは、歴史学から材料を得た「社会発展」の図式の上に成立していたわけで、その後の社会学もまたこの歴史性の範囲で一般理論を追究してきたという一面をも ...
2. 歴史学
日本大百科全書
神山四郎新しい歴史学昔は哲学が諸学問の王であるといわれたように、歴史学は人類のあらゆる過去の番人と思われていた。しかし知識の進歩は学問の配置図を変えた。進歩に伴 ...
3. 歴史学
世界大百科事典
学派の業績である。またランケは,大学に歴史学演習を創設して歴史学教育法の模範を示し,史料批判的方法とともに,欧米の学界に大きな影響を与えた。日本の歴史学も明治時 ...
4. れきし‐がく【歴史学】
デジタル大辞泉
歴史を研究の対象とする学問。  ...
5. れきし‐がく【歴史学】
日本国語大辞典
駁す〔1890〕〈森鴎外〉七「歴史学の漸く其問題を看破し得て、開化史の体裁備はり」*学生と教養〔1936〕〈鈴木利貞編〉伝記の学生に対する教養としての意義〈鶴見 ...
6. れきしがく【歴史学】
国史大辞典
〔総説〕 歴史学すなわち学問としての歴史研究は、現代の日本では、本項目の以下の区分のように、国史学・東洋史学・西洋史学の三つの分野に分けられるのが、普通である ...
7. 歴史学
世界文学大事典
ブロックが共同で始めた新しい歴史学のための運動は実証主義歴史学の克服を旗印とし,歴史的世界を生きた現実としてまるごと捉える視点をうちだした。近代歴史学から現代歴 ...
8. れきしがくとのかんけい【歴史学との関係】 : 唯物史観
国史大辞典
析・構成した。その論の明快さは、アカデミズム歴史学界にも圧倒的な影響を与え、歴史学における唯物史観理論の有効性と重要性は広く認められ、戦後の歴史学は文字通りそこ ...
9. 歴史学
プログレッシブ和英
history ...
10. れきし【歴史】
ポケプロ和伊
[女性名詞]〜的な[上の]|storico〜的に見て|dal punto di vista storico歴史学storia [女性名詞] ...
11. historiography 【歴史学】
Encyclopedia of Japan
The writing of histories in Japan is thought to have begun in the mid-6th centur ...
12. れきしがくけんきゅう【歴史学研究】
国史大辞典
多くの重要論文が掲載された。また昭和十年二五号以後、年一回「歴史学年報」として歴史学界の「回顧と展望」を特集している。戦後、これは『歴史学の成果と課題』として継 ...
13. 歴史学研究会
日本大百科全書
義的思想動向に批判と反発をもつ人たちが、自由で豊かな近代的歴史学の確立を期して意欲的な研究活動を開始、33年11月には機関誌『歴史学研究』を創刊した。以後学界に ...
14. 歴史学研究会
世界大百科事典
間研究団体として,学問分野では,科学的歴史学の発展と普及に努めている。また教科書問題,〈紀元節〉問題,元号法制化問題などの政治的な諸問題についても,歴史学の立場 ...
15. れきしがくけんきゅうかい【歴史学研究会】
国史大辞典
発展的に解消し歴史学研究会を結成した。会則に「歴史の科学的研究」を謳い、日本・東洋・西洋の三部会制のもと「歴史学に於ける協同研究の方法」によって活発な研究をすす ...
16. 歴史学研究会
デジタル大辞泉プラス
日本の学術研究団体のひとつ。欧文名は「THE HISTORICAL SCIENCE SOCIETY OF JAPAN」。事務所所在地は東京都千代田区。 2014 ...
17. 『歴史学研究』
日本史年表
1932年〈昭和7 壬申〉 12・‐ 歴史学研究会 創立(昭和8年11月、会誌 『歴史学研究』 創刊)。  ...
18. 歴史学研究会
日本史年表
1932年〈昭和7 壬申〉 12・‐ 歴史学研究会 創立(昭和8年11月、会誌 『歴史学研究』 創刊)。  ...
19. 歴史学派
日本大百科全書
それ以後のG・シュモラー、L・ブレンターノ、A・H・ワグナーらを代表者とする新(後期)歴史学派とに通常二分される。早坂 忠旧歴史学歴史学派は普通、1843年刊 ...
20. 歴史学派
世界大百科事典
A.クニースはその3巨人であり,彼らの歴史学派は後の新歴史学派に対して旧歴史学派と呼ぶこともある。まず口火を切ったのがロッシャーである。彼は1843年に歴史学派 ...
21. れきし‐がくは【歴史学派】
デジタル大辞泉
経済学で、19世紀の40年代から20世紀の10年代にかけてドイツに起こり、その主流となった一学派。古典学派の普遍妥当的な抽象性に反対し、経済現象の歴史性や国民的 ...
22. れきし‐がくは【歴史学派】
日本国語大辞典
〔名〕({ドイツ}historische Schule の訳語)(1)一九世紀初頭、ドイツにおいて、ロマン主義や民族主義の風潮に対して生まれた歴史主義を標榜する ...
23. 歴史学会
デジタル大辞泉プラス
日本の学術研究団体のひとつ。日本および世界における歴史事象の実証的研究を行う。 2014年05月 ...
24. 歴史学派
プログレッシブ和英
the historical school ...
25. 大阪歴史学会
デジタル大辞泉プラス
日本の学術研究団体のひとつ。史学の普及発展を目的とする。事務局所在地は大阪府豊中市。 2014年05月 ...
26. 教科書検定訴訟を支援する歴史学関係者の会
日本史年表
教科書検定制度を違憲とし国に対する損害賠償請求を東京地裁に提訴(9月18日、 教科書検定訴訟を支援する歴史学関係者の会 、10月10日、 教科書検定訴訟を支援す ...
27. 小林秀雄(歴史学)[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:1件 【図書】:0件 【逐次刊行物】:1件 『小林教授略年譜・著作目録』-『小林教授還暦小照』- ...
28. 新歴史学派
世界大百科事典
歴史学派 ...
29. しん‐れきしがくは【新歴史学派】
日本国語大辞典
学の学派の一つ。ロッシャー、ヒルデブラント、クニースらの旧歴史学派に対して、シュモラーを代表者として一九世紀後半におこった。旧歴史学派の方法論を発展させ、経済学 ...
30. 千葉歴史学会
デジタル大辞泉プラス
日本の学術研究団体のひとつ。欧文名は「Chiba Historical Society」。歴史学の研究を推進する。事務局所在地は千葉県千葉市。 2014年05月 ...
31. ていぎれきしがくとのかんけい【定義・歴史学との関係】 : 歴史哲学
国史大辞典
〔定義・歴史学との関係〕 歴史および歴史認識についての哲学的考察。その在り方は、論者の「哲学」によって異なる。「歴史哲学」という言葉は、十八世紀にボルテールが ...
32. にほんれきしがくきょうかい【日本歴史学協会】
国史大辞典
が実施され、大きな変革が加えられてから、日本歴史学協会の今後の役割は、これからの課題となった。 [参考文献]『日本歴史学協会ニュース』、『日本歴史学協会年報』  ...
34. 二十世紀フランス小説 79ページ
文庫クセジュ
うセリーヌに借りた銘句が、この点をたくみに言い表わしている。十八世紀のさる冒険家を主題にした歴史学の博士論文を執筆するためにブーヴィルに住んでいるロカンタンは、 ...
35. 二十世紀フランス小説 138ページ
文庫クセジュ
えて従いながら筆を執っているかのようだ。ルロワ=ラデュリーやル=ゴフ、デュビーといった本物の歴史学者の著作が部数を伸ばしていくのと足並みを揃えるようにして、読者 ...
36. A.D.
ランダムハウス英和
Christ(紀元前)を意味する B.C. が常に年代の後に置かれることから,A.D. も歴史学を含むあらゆる種類の著作物でしばしば年代の後にも置かれる;例  ...
37. Al・bright音声
ランダムハウス英和
l|f〓ks-],(1891-1971):米国の考古学者・聖書歴史学者;聖書中の遺跡を発掘. ...
38. Al・ling・ham音声
ランダムハウス英和
n. Margery,アリンガム(1904-66):英国の女流推理作家・社会歴史学者. ...
39. Beck・er音声
ランダムハウス英和
ベッカー:Carl Lo・tus[lóut〓s],(1873-1945):米国の歴史学者.2 ベッカー:George Ferdinand,(1847-1919) ...
40. Bev・er・idge音声
ランダムハウス英和
ビバリッジ:Albert Jeremiah,(1862-1927):米国の政治家(共和党)・歴史学者.2 ビバリッジ:Sir William Henry (1s ...
41. Cro・ce音声
ランダムハウス英和
benedétto],クローチェ(1866-1952):イタリアの政治家・哲学者・歴史学者. ...
43. Dra・per音声
ランダムハウス英和
ドレーパー:John William,(1811-82):英国生まれの米国の化学者・生理学者・歴史学者;1の父.3 ドレーパー:Ruth,(1884-1956) ...
44. èthno・hístory
ランダムハウス英和
n. 〔文化人類〕 民族歴史学:考古学的発見の分析や旅行記,年代記などの文書の分析による民族文化発展の研究.[1952]èthno・históriann. ...
45. Ev・er・est音声
ランダムハウス英和
Everest in the field of historical scholarship.この本は歴史学の分野での最高峰だ.3 男子の名.[インドの測量に従 ...
46. G2論[世界政治]
現代用語の基礎知識 2016
及ぼしている。格上げされた「米中戦略・経済対話」の創設は、その制度的枠組み。ハーバード大学の歴史学者N・ファーガソンによる「チャイメリカ (Chimerica) ...
47. Ginzburg
ポケプロ伊和
Natalia ~(1916-91;イタリアの作家) 2 Carlo ~(1939- ;イタリアの歴史学者)  ...
48. grad・u・ate
プログレッシブ英和
graduated in history at Birmingham.彼はバーミンガム大学で歴史学を専攻して卒業した1a (他動詞)((略式))〈大学を〉卒業す ...
49. Guo Mo・ruo音声
ランダムハウス英和
郭沫若(かくまつじゃく),グオモールオ(1892-1978):中国の詩人・小説家・歴史学者・政治家. (また KNO MO-JO) ...
50. hígher críticism
プログレッシブ英和
高等批評(◇ 聖書の文学的・歴史学的研究;⇒lower criticism). ...
「歴史学」の情報だけではなく、「歴史学」に関するさまざまな情報も同時に調べることができるため、幅広い視点から知ることができます。
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