French Revolution 英語
フランス革命とは1789年7月14日から1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)にかけてフランスに起きた革命をいう。
革命の意義
この革命は、思想、法律、政治、社会全領域に及ぶもので、自然権思想を武器とし、絶対王制の法構造を打ち破り、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設した。その過程で諸階級が並行的に革命に参加したので、市民革命の典型ともいわれるが、帰着するところは国内商工業の自由、土地耕作の自由の承認であった。革命は出発点においては絶対主義国家間の戦争を否定したが、途中からオーストリア、プロイセンなどの干渉戦争が始まり、ついでイギリスが参戦、その圧力を受けて急展開を示し、政情の不安定も続いたため、最終的に軍隊を背景にしたナポレオンのクーデターで収拾されることとなった。これはフランス革命が起きた歴史的環境を示しており、イギリスよりは後進国、大陸の他の諸国よりは先進の資本主義国であったことの反映である。
背景
革命の思想を培養したものは、18世紀中葉からの啓蒙 (けいもう)思想である。このうち、モンテスキューは三権の区別と有機的結合を説き、貴族制を生かした君主制を理想とし、ルイ14世流の絶対主義を批判した。ボルテールは宗教的狂信を非難して寛容論を唱え、ケネーは啓蒙的君主専制の下で地主国家への脱皮を説き、ディドロは人間本来の幸福を欲望の充足に認めた。最後にルソーは、文明への激しい批判から出発して、個人が契約により人格と所有権を譲渡するかわりに平等な公的権利を受け取る人民国家を構想した。これら各種の批判の的になった絶対王制は、身分制社会に立脚し、2500万国民の2%にすぎない僧侶 (そうりょ)・貴族に免税特権を与えていた。彼ら特権身分は、第三身分とりわけ85%を占める農民の納税に寄生し、なおかつ封建領主としては領主制地代を徴しながら宮廷や地方で暮らしていた。ルイ16世(在位1774~1792)の政府は、それまでの累積赤字に加えて、アメリカ独立革命を救援した軍事費のため、財政の窮乏に陥った。このため、財務総監カロンヌはやむなく1787年2月に名士会を招集した(革命の開始点をこの時期にとる歴史家もある)。ここで特権身分にも課税する「補助地租」の提案を行ったが、僧侶・貴族の強い反対にあい、勅令審査権をもつ高等法院もこれに結託してカロンヌを失脚させた。同様に財務審議会長ブリエンヌと国璽尚書ラモアニョンの税制・司法改革も挫折 (ざせつ)し、1788年8月ネッケルがふたたび財務長官に起用された。彼は第三身分の財力を借りて財政危機を乗り切ろうとし、高等法院が要求した全国三部会 (エタ・ジェネロー)の招集に応じ、第三身分議員を倍増することを決めた。
革命の経過
三部会から国民議会へ
全国三部会は1789年5月5日、ベルサイユ宮殿で開催された。僧侶・貴族議員は各300人、第三身分は約600人であった。シエイエスら第三身分議員は合同討議を主張し、僧族議員の一部がこれに和して6月17日国民議会を宣し、ラ・ファイエットなど自由主義貴族も合流して同月末、正式に承認された。国民議会は7月初めから憲法作成の作業にとりかかるが、アルトア伯など宮廷保守派は国王に圧力をかけ、ベルサイユ付近に軍隊を集結させたため、パリ市民に極度の不安を与えることとなった。
バスチーユ襲撃
1789年7月11日、国王ルイ16世は事態の責任者としてネッケルを罷免した。この知らせがパリに届くと市民は激高し、同月14日約1万人が政治犯を収容していたバスチーユ牢獄 (ろうごく)を襲撃、王室親衛隊がこれに加担し占拠した。翌日、旧体制最後のパリ市長ド・フレッセルと守備隊長ド・ローネーは殺され、宮廷の企図は阻まれた。パリは自治制の確立に向かい、選挙人会から市長バイイ、国民衛兵隊総司令官ラ・ファイエットが任命された。
封建的特権の廃止と人権宣言
地方ではパリの運動に呼応するかのように激しい農民騒擾 (そうじょう)が起こった。すでに18世紀中葉から領主は地代滞納地の回収や、農民の出費による土地台帳の改訂を行って彼らの反発を浴びていたが、このころ、農村に野盗を放つという「貴族の陰謀」の流言におびえた農民は逆に領主の城館を襲い土地台帳を火に投じた。この騒擾を背景に、憲法制定議会(立憲議会)は1789年8月4日夜、ノアイエ子爵の提案で封建的特権と領主制の廃止を宣言し、法の前の平等の前提条件が実現した。ただし1790年3月、農奴身分にまつわる領主権は無償廃止されるが、土地に関する領主権、つまり領主制地代は貨幣による買戻しとされたため、小農層の不満は収まらなかった。立憲議会は次いで1789年8月26日、ラ・ファイエットやシエイエスらの草案をもとに人権宣言を可決し、人間の生来の自由、権利の平等、国民主権、租税の平等、所有権の神聖など新しい国民社会の基本原則を打ち出した。この人権宣言は、即政治的平等をうたっておらず、抵抗権の具体的な行使法も明記していないことから、ルソーの社会契約論や後のジャコバン=山岳派 (モンタニャール)人権宣言とは同一視できないが、農村や都市民衆の運動を背景に、これをてことしつつ絶対王制や保守派貴族の抵抗を破って新しい市民社会の構成原理を宣明したといえよう。国王は封建的特権の廃止と人権宣言への同意をためらったが、10月5日、おりしもパン不足に悩まされていたパリ市場街の主婦たちは、ベルサイユまで行進し、議会に訴えるとともに翌6日王宮に乱入したため、国王は議会の意に添って宣言に同意し、同時に議会とともにパリに帰還した。これによって最終的に絶対王制への復帰の夢が奪われたといわれる。
1791年憲法
立憲議会はすでにバルナーブの線に沿って一院制と国王の停止的拒否権を定め、立憲君主制の根幹を築いたが、財政の改善は、タレーランの提案どおり教会財産の国有化と売却によるほかないと考えた。かくして1790年5月から教会財産の競売が始まったが、支払手段として発行したアッシニャを紙幣に切り替え、漸次、大量発行していった。僧侶自身については政府から俸給を払われる役人とし、これを定めた僧侶民事法への宣誓を強制された。こうして聖界は立憲僧と宣誓拒否僧に分裂し、宣誓拒否僧は革命に敵対し始めた。立憲議会はこのほか、県制の施行、司法制度の整備、農事法の制定、ギルドの廃止など近代的改革を行ったが、納税額によって能動市民と受動市民との差別を設け、3日分の労賃に相当する直接税を納める市民にのみ、予選会での投票権、集会権、請願権を認め、国民衛兵からも受動市民を排除した。またル・シャプリエ法によって、職人・労働者の団結を禁止した。要するに立憲議会は、自由主義貴族と上層ブルジョアジーを主体としながら、領主制の地主制への脱皮と商工業の自由というブルジョア革命としての最小限の課題は果たそうとしたのである。ところが、国王一家は、1791年4月のミラボーの死後、革命の成り行きに不安を感じ、大臣任命権への制約に不満なこともあって、6月20日、パリからの逃亡を図りバレンヌで捕らえられた。パリの急進派はこれを怒り、とくにコルドリエ協会の市民は7月シャン・ド・マルスに王制廃止の請願運動を起こし、ラ・ファイエット指揮の国民衛兵はこれを鎮圧した。議会ではバルナーブらが憲法の完成を急ぎ、9月、全編を採択して解散した。
革命戦争の開始
1791年10月1日招集された立法議会では、王権護持にたつフイヤン派と、王権を制約しようとするジロンド派が対立した。ジロンド派はベルニヨ、ジャンソネなど南西部の出身者と、ブリソ、コンドルセらパリ選出の理論家の寄り合い所帯で、地方貿易商、企業家をはじめとする中産ブルジョアを基盤にしていた。亡命者財産の没収や宣誓拒否僧への俸給の停止など強硬処置を可決させたが、同派の主眼は戦争政策にあった。戦争遂行のなかで国王の態度を明確にさせようとしたのである。1792年3月、ブリソは外相ドレッサールの軟弱外交を批判し、勢いに乗じて国王に内相ローランらのジロンド派内閣を任命させた。国王は4月20日、オーストリアに宣戦したが、内心は外国軍によって革命が抑えられることを願っていた。フランス軍は戦える態勢になく、将軍ラ・ファイエットらは攻撃不能を宣言。パリでは愛国的感情が高まり、国王が連盟兵の城外野営や近衛 (このえ)兵の廃止決議に拒否権を発動したうえ、ジロンド派内閣を罷免したことも手伝って6月20日、市長ペチヨンを先頭にチュイルリー宮前の示威運動が起きた。
八月十日事件
パリ諸区、国民衛兵隊、市総評議会は二つの陣営に分かれ始めたが、立法議会ではジロンド派が優位にたち、1792年7月11日に「祖国は危機にあり」の宣言が出された。同月19日には、国王行政権の停止を目的とした請願運動が、助役ダントンの勧めで民主派区を中心に展開された。ジャコバン協会の解散を企てて失敗したラ・ファイエットは、前線からオーストリアに投降した。ブリュンシュビック宣言が8月1日パリに伝わるや、請願運動は蜂起 (ほうき)行動に転じ、同月9日パリ市庁を占拠して蜂起コミューンを樹立し、王党派の国民衛兵指揮官マンダを射殺した。呼びかけに応じて翌10日、場末サン・タントアーヌの国民衛兵を先頭に受動市民の武装隊も加わってチュイルリー宮へ数万が進撃、多数のスイス人傭兵 (ようへい)を殺害した(八月十日事件)。国王一家は議会に難を逃れたが、身柄は新パリ市当局に引き渡された。王権は停止され、パリは蜂起コミューンの指揮下に置かれ、王党派の武装解除が断行された。9月初めベルダン陥落の知らせが入ると、マラーの呼びかけもあって激高した民衆は同月2日と3日アベイ監獄などを襲い、宣誓拒否僧を主とする囚人を虐殺した。
国民公会の成立
バルミーの戦勝の届く1792年9月21日、新憲法を作成するために国民公会が招集された。公会は王制の廃止を宣し、共和制が樹立された。蜂起コミューンのメンバーは少なからず公会のパリ県選出議員となり、また先の行きすぎを批判されて合法コミューンに交代することとなった。国民公会は、右翼に自由主義経済と議会主義にたつジロンド派、左翼にやはり中産ブルジョア出身だがパリ・コミューンや民衆と折り合いをつけようとする山岳派が対峙 (たいじ)し、中央にキャスティング・ボートを握る平原派が位置した。山岳派のなかには、革命独裁を早くから主張したマラー、八月十日事件後に蜂起委員となったロベスピエールがおり、後のジロンド派離脱後のジャコバン・クラブを率い、いわゆるジャコバン派としてパリ世論に影響を及ぼした。
国民公会成立当初は、コンドルセとダントンの提携による国防連合政府が成立したが、まもなくローランとダントンが対立し、ルイ16世裁判問題でジロンド、山岳両派の反目は決定的となった。1793年1月21日、山岳派の主張が微差で通り、ルイ16世は公敵として処刑された。この対外的影響は大きく、2月初めにイギリス、オランダと、3月初めにはスペインと開戦することとなった。また2月末に議決した30万人徴用令は、宣誓拒否僧の影響を受けていたバンデー地方の農民一揆 (いっき)(バンデーの反乱)を引き起こした。ジロンド派はなお政権を維持したが、将軍デュムーリエの北部戦線での頓挫 (とんざ)のため苦境にたち、また食糧問題で放任政策を主張したことからパリ民衆の反感を買うこととなった。ロベスピエールなど山岳派は、過激派の一人ジャック・ルーを押したてた民衆の食糧暴動や、閣僚逮捕をねらったバルレらの蜂起行動を制しながら、革命裁判所を設置させ、ジャコバン・クラブを通し、また議員自ら3月末にパリ諸区に創設された革命委員会に赴いて民衆との接触を深め始めた。ジロンド派が決議したマラーの裁判は、パリ民衆の神経を逆なでし、その釈放後、急速に蜂起の気運が高まった。その際、1793年になって顕著にみられたアッシニャの下落、パン価格の騰貴、食糧の欠乏が重要な要因であったことを見逃してはならない。ジロンド派が助役エベールやバルレを逮捕してパリ・コミューン自治に介入しようとしたのが転機となり、1793年5月31日、6月2日両日の国民公会包囲でジロンド派議員の多くが追放された。
山岳派独裁
山岳派は平原派の消極的支持のうえに、公安委員会を軸として独裁体制を固めた。1792年8月20日の領主権の無償廃棄をさらに徹底し、農民の不安を取り除いた。1793年7月13日、マラーがジロンド派を信奉する女性コルデーに暗殺されるや、27日、公安委員会にロベスピエールが加わり、恐嚇手段の採用を本格的に検討し始めた。山岳派の共和国憲法は、男子直接普通選挙と選挙人会による議員喚問・法律の再審を原理的に承認した画期的なもので、前文をなす人権宣言も、所有権を否定しないながら平等を前面に出して蜂起権までをうたっていた。これは6月24日可決され、人民投票で圧倒的支持を受けたが、8月10日布告と同時に施行が延期されたのは、反革命の危険が迫っているためと説明された。次に山岳派内の自由経済支持勢力を抑え、買占め取締法と公設貯蔵庫の設置が定められ、8月23日にはカルノーの提議で国民総徴用令が可決された。干天のための飢饉 (ききん)がパリ民衆をふたたび行動に駆り、9月5日にはエベール派を先頭に、最高価格令と食糧徴発のための「革命軍」を要求、国民公会はこれらをいれて29日、生活必需品39品目につき、一般最高価格令の制定などを行う一方、これに先だって反革命容疑者令を可決した。公安委員会もビヨー・バレンヌなど山岳派の急進分子を加え、ここに恐怖政治が日程に上った。なお、9月に改暦委員会が発足、11月には共和暦(革命暦)が公布、実施された。
ロベスピエール政権
前述のようにジャコバン派独裁による共和暦2年の恐怖政治は、民衆運動の政治的圧力を背景にし、議会主義を一歩超えた革命政府を軸に創出された。この社会的基盤は、中産市民下層と、小ブルジョア民衆のやや恵まれた部分にあったといえよう。その前半期は、革命委員会や人民協会、それに革命軍など民衆自身が構成する組織により、政府諸法が実施されたが、そこには教会閉鎖から礼拝禁止に進む非キリスト教化、大借地農や富裕商人の蓄財への干渉など、民衆的テロルが広がる余地があった。しかしこの間、追放されて以来ジロンド派が引き起こした連邦主義反乱、バンデーの貴族と農民の反乱、ミディ(南仏)の王党派の反乱などは共和国軍や派遣議員の力で鎮圧され、対外戦争でも1793年10月を境にフランスは反攻に転じていた。その結果、12月14日、革命政府は公安委員会独裁を整備し、民衆的テロルを抑制する方針を打ち出した。キリスト教破壊運動は農民層を敵に回すことから警告され、所有権の尊重が唱えられた。1794年3月、革命路線をめぐるエベール派とダントン派との抗争が強まったが、ロベスピエールは「徳と恐怖」を唱えて3月末から4月初めにかけ、両派を相次いで処刑した。これは、経済的統制を緩めつつも道徳的原理の裏づけを独裁に与えようとするものであった。しかしこれによってジャコバン派独裁を支える基盤は弱まり、さらにクートンの示唆になる6月10日の法律によって国民公会は議員を革命裁判所に引き渡す排他的権利を奪われたため、ロベスピエール独裁は議員さえも戦慄 (せんりつ)させた。かくして独裁打倒の気運は高まり、公安委員会内部の対立も絡んで7月27日(共和暦2年テルミドール9日)、バラス、タリアンなどはロベスピエールとその一派を捕らえて処刑した。これをテルミドールの反動という。
総裁政府
テルミドール派はすぐさま、革命政府の改組、ジャコバン・クラブの閉鎖を行い、残る急進山岳派を追放、また1795年春の二度にわたるパリ民衆の食糧蜂起を鎮圧し、同年8月22日、共和暦3年の憲法を制定。10月27日には二院制議会と5人の総裁からなる総裁政府を発足させた。被選挙資格を高くつり上げ、上層・中産ブルジョアに有利な体制となった。これとは別に、シエイエスが推進した10月24日の法令が、武装蜂起した王党派、ひそかに帰国した亡命者、また宣誓拒否僧を市民権剥奪 (はくだつ)の対象にしたため、敵対関係が固定化された。1796年、旧ジャコバン派と民衆の戦闘的分子を糾合し人民独裁をねらったバブーフの陰謀が未然に発覚したが、その後、1797年3月の選挙で立憲王党派が両院に進出し、前記の法令処置が廃止されたため、シエイエス、バラスらの純共和派は、軍隊の威力をてこにクーデターで王党派議員を追放した。ついで1798年の選挙におけるジャコバン派の進出に対して選挙の無効を宣し、1799年6月にはふたたびトレヤールら立憲王党派の総裁を排除した。このように総裁政府は再三にわたって非常手段を行使し、その権威は失墜した。財政政策は、低落を続けていたアッシニャ紙幣を回収・廃棄したものの、強制公債などに頼って旧フィナンシエ(王政と結託した金融業者)・銀行家層を冷遇した。司法・行政についても官職者が選挙制であったことから政治的圧力が大きく、安定性を欠いた。信仰の自由は確認されたとはいえ、立憲僧は俸給と公務員資格を奪われ、公的施設の礼拝を許されなかった。
ブリュメールのクーデター
こうしたなかで、国民公会解散時、王党派の反乱を鎮定した実績をもつナポレオン・ボナパルトがイタリア方面軍総司令官としてオーストリア軍を連破し、フランスでの名声を高めつつあった。エジプト遠征では、イギリス軍のために一時窮地にたったが脱出し、1799年11月9日(共和暦8年ブリュメール18日)、シエイエス、カンバセレスなどと組んでクーデターを起こし、総裁政府を廃して統領政府を樹立、強力な中央集権体制を築いた。それとともに議会を三院制にして共和主義的批判勢力を封じ込め、ブルボン家の復位を図る王党派やジャコバン急進派を弾圧した。その一方で新旧の官職者を才能・経験重視の立場から統領制下の要職につけ、さらにフランス銀行の設立、政教協約の締結などによって国民諸階層の欲求を満たし、国内の安定をもたらすことになる。これをもってフランス革命は終息したとすることができよう。
フランス革命像の展開
「国際的陰謀説」から「革命の神話化」まで
フランス革命についての見方=革命像は、その後のフランスにおいて時代とともに変化する。まず、革命時からナポレオン1世時代まで(1789~1815)の注目すべき革命像は、保守派(反革命派)の主張にみられるもので、それは、革命をフランスの正しい歴史から逸脱した国際的陰謀とし、国王の処刑・恐怖政治などの非人道的行為に満ちた犯罪であるとして非難した。この保守派の反革命的見解に反対して革命を弁護し、後代の革命像の原型ともみられるものを提供したのが、復古王政時代(1815~1830)の自由派の革命像である。保守派貴族の支配する政府に対する批判として、自由派はフランス革命をフランスにおける自由の歴史の必然的帰結として位置づけて正当化し、「1791年憲法」にみる立憲君主制を革命の遺産として、その実現を要求した。チエールやミニェの各著作『フランス革命史』(前者のものは1823~1827年、後者は1824年刊)は、この自由派の革命像を示している。
1830年の七月革命によって成立した七月王政(1830~1848)は、この自由派革命像の理想の実現といえる。これに対し七月王政後半に反政府勢力として台頭した共和派は、フランス革命の「1793年憲法」の再現を理想として革命を神話化する。ロベスピエール、ジャコバン主義、平等、人民などが高く評価され、共和主義的革命像の実現を夢みた。ルイ・ブランやミシュレの各著作『フランス革命史』(前者のものは1847~1862年、後者は1847~1853年刊)はこの夢想に拍車をかけた。1848年の二月革命によって成立した第二共和政(1848~1852)によって、この共和派のフランス革命像は現実化したかにみえたが、歴史を半世紀戻すことはできず、共和政は短命に終わってふたたびナポレオン3世の独裁、すなわち第二帝政(1852~1870)へと移行する。
反政府運動のスローガンとしてのフランス革命像は、独裁下では活動できない。この時期には、あまりにも現実と密着した革命像への反省、革命像の脱神話化、革命から独裁への行程の考察など、革命そのものについての批判的考察への道が準備される。トックビルの『旧制度と革命』(1856年刊)はその一例である。
フランス革命が本格的な学問研究の対象となるのは第三共和政時代(1870~1940)、とくに革命100年記念を契機に、大学での講座、学会、機関誌などがつくられてからで、オーラールを中心に官製の革命像ができあがる。政治史中心のこの革命像に対して、19世紀末の社会主義運動の台頭を背景にジャン・ジョレスなどの社会経済史的革命像が現れる。この伝統はマチエによる階級闘争的革命像、ルフェーブルによる複数革命論へと発展し、革命像は多様化する。20世紀後半には、アナール学派の成立など歴史学全体の大きな変化とともに、革命の「心性史」「社会史」的考察も試みられ、革命像はふたたび大きな展開を示しつつある。
多様化する革命像
革命200周年記念(ビサントネール)行事を、日本は国際的、国内的にもっとも熱心に取り組んだ国としてあげられよう。国際学会の日本支部会といってよいシンポジウムでは、フランス革命がなんらかの衝撃を与えたものとしてロシア革命、中国辛亥 (しんがい)革命、明治維新などの意義を問い直す機会にもなった。国内各学会も独自の取組みをし、そこでは、アメリカ独立革命をよく扱ったものと、ヨーロッパ18世紀から19世紀なかばの諸革命とフランス革命の関連を問うものが現れた。日本政治学会編『年報政治学――18世紀の革命と近代国家の形成』、『社会思想史研究14号――シンポジウム・フランス革命の思想的衝撃』はその一例である。『社会思想史研究』誌には、国際委員会が主催した大会参加記「フランス革命二百周年国際シンポジウムを振り返って」も掲載されている。
このときすでにみられた動向であるが、その後さらに確かな潮流として現れる心性史的把握が注目される。政治史や経済史をいったん離れ、フランス革命を、革命指導者の言説とそこに宿された心象、事件や祭典に参加した民衆の抱くイメージやジェスチュアによって解析しようとするリン・ハントLynn Hunt(1945― )のものが代表的である(『フランス革命の政治文化』)。ここでは1790年7月の連盟祭と1794年6月の最高存在の崇拝が比較対照される。前者では「法、国民、国王」という、垂れ幕に書かれたスローガンで区別を越えた相互の感情融和のうちにフランスの新しい出発を祝い、立憲聖職者が立ち会った。後者には、カトリックが関与する余地はなく、市民的徳がこれにかわり、大きな張りぼてが山岳派のこれまでの業績と、民衆の公共事への参加をたたえ、ロベスピエールの革命終結の意図を感じさせたが、同時に民衆の平和への渇望が見て取れると読み解かれる。
フランス革命のもっともフランス革命らしさはカトリック宗教の地位低下にあるとの前提にたち、これを「長期展望」と事件史的把握を交えて理解するのがミシェル・ボベルMichel Vovelle(1933― )である。啓蒙 (けいもう)期において都市住民の宗教実践は衰え始めていたが、フランス革命は非キリスト教化によってこれに決定的な打撃を与えたとする。これでいうと、立憲聖職者と宣誓拒否僧侶への分裂も、それ自体が、革命前から生じていた聖職者任地の流動化や、かれらと農民信者の関係の複雑化によって生じており、分裂がまた、その後の非キリスト教化にも影響を与えている(ミシェル・ボベル著『フランス革命の心性』)。
バンデーの反乱解釈も、ブルジョアと農民の土地購入をめぐる争いだけでなく、ジャコバンによる都市民衆優遇策が中農民層に反感を抱かせ、その意味では革命中の政策が20世紀にいたる構造を規定しているとのエマニュエル・ル・ロワ・ラデュリEmmanuel Le Roy Ladurie(1929― )の解釈もある(森山軍治郎著『ヴァンデ戦争』)。このような革命への反対者と同様、半独立少数集団としてのユダヤ人や、重商主義植民地の西インド諸島サン・ドマング島の独立運動を取り上げたものがでた。前者ではユダヤ人の運動の分析まではいかないが、グレゴワール司祭の解放論や、ナポレオンによる処遇などが注目され、人権宣言の普遍的適用によって解放をみたとされたユダヤ人にも問題が残っていたことがわかる。後者ではサン・ドマング島の黒人奴隷の運動と、バルナーブやブリソ、ロベスピエールらの、奴隷解放への対応を異にする革命議会指導者の関係が明らかにされる(浜忠雄著『ハイチ革命とフランス革命』)。さらに、革命とカトリックとの和解を告げる1801年コンコルダ(政教協約)の、交渉当事者の方針を軸にした研究もかなり深まりつつある。
女性運動の研究でも、1791年に発表された「女の人権宣言」の著者オランプ・グージュについての伝記的紹介が出ている(オリビエ・ブランOlivier Blanc(1951― )著『女の人権宣言』)。
これらのかたわら、正攻法的なフランス革命研究も着実に伸びており、モノグラフィーではあるがフランス革命とナポレオンを両にらみで進める研究も現れ始めた(遅塚忠躬 (ちづかただみ)著『フランス革命とヨーロッパ近代』、専修大学人文科学研究所編『フランス革命とナポレオン』)。
ただし、これらのなかには、国民公会やジャコバンの限界を一面的に指摘しかねないようなものもあるが、革命史研究には現実の焦燥感を反映したような熱っぽさだけでなく、冷静にとらえ返す作業も必要で、その点、山岳派、ロベスピエール、民衆運動指導者を真正面から見据えた研究(遅塚忠躬著『ロベスピエールとドリヴィエ――フランス革命の世界史的位置』)や、フランス革命をいきなり画期性として扱うかわりに、絶対王政末期とナポレオン時代の間に漬けてみればどうなるかを、主として官僚制の発展から考察した研究に立ち戻ることも求められる(岡本明著『ナポレオン体制への道』)。ナポレオン体制は、そこでは反動や反革命としてではなく、1789年人権宣言からは予測はされなかったが、その原理を引き取り、近代フランスを語るうえで重要なメリトクラシー原理=「才能の貴族制」を定立させようとしたものとして描かれている。
最後に、P・ゲニフェーPatrice Gueniffey(1955― )のジャコバン論は、言説の理解をもとに、単一のジャコバン主義ではなく、バルナーブ、ブリソ、ロベスピエールの「3世代のジャコバン」が存在したとの認識を示す。かれらの共通点は、中間者を省き代表者と民衆が意志伝達可能な関係にたつとの認識である。革命の競り上がり現象として恐怖政治に行き着くという考え方は、政治史を拒んではいないのだが、革命が新たな革命状況をつくり出すとの考えにたつ点で、政治文化史的な理解と共通するものがある(P・ゲニフェー著『恐怖政治――革命的暴力についての試論 1789~1794』)。
このほかにも、ハバーマスの市民的公共圏の考えでフランス革命をとらえ直すとどうなるかという課題がまだ残っている。フランス革命は全体として何であったのかを問うこの課題にとって、ゲニフェーの考えが示唆するものは小さくない。