H.B.Morse:The International Relations of the Chinese Empire,The Period of Conflict,1834―1860(1910);W.C.Costin:Great Britain and China,1833―1860(1937).矢野仁一『アヘン戦争と香港』
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
1840~1842年、イギリスと中国(清 (しん))との間に行われた戦争。中国の半植民地化の起点となった。
18世紀後半以来、産業革命を進めていたイギリスは、広州 (こうしゅう/コワンチョウ)1港に限定して行われていた中国貿易に対しても、積極的に市場の拡大を図り始めた。そのため、開港場の増加、公行 (コーホン)(広東 (カントン)十三行)とよばれる清の官許の商人による外国貿易独占体制の打破を目ざし、1793年使節マカートニーを派遣して交渉させたのをはじめ、アマースト(1816)、ネーピア(1834)などを送ってその実現を図ったが、拒絶された。その間、初め毛織物、のち綿紡織品、金属などの工業製品の輸出拡大を図ったが売れ行きは伸びなかった。他方、イギリス国内の新興工業都市で飲茶(紅茶)の風習が広がったため、中国茶(紅茶)の輸入が激増し、在来の生糸、陶磁器輸入と相まって、こと中国貿易に関する限り、圧倒的にイギリスの入超で、多額の銀を中国へ輸出しなければならなかった。1834年まで中国貿易独占権を賦与されていたイギリス東インド会社は、本国政府から統治権を与えられていたイギリス領インドにおいて、18世紀末アヘンの植え付け、精製の専売制度を実行し、これを冒険的な民間のイギリス商人に売り渡して中国に密輸させた。1776年以前には毎年200箱(1箱の重さ約60キログラム)程度のインド産アヘンが医薬品として中国に輸出されていただけであったのが、1800年には2000箱、1830年になると約2万箱、東インド会社の中国貿易独占権が廃止されて以後の1837年には、アメリカ商人による密輸を含めて3万9000箱ものアヘンが中国に輸出され、200万人を超えるアヘン吸飲者がつくりだされた。清朝は1796年最初の禁令を発布して以来、再三アヘン輸入禁止令を発したが、腐敗しきった官僚機構に阻まれて無効に終わった。このアヘン貿易は、イギリス領インド政府に莫大 (ばくだい)なアヘン税収入をもたらし、それはイギリスのインド支配にとって不可欠のものとなっていった。またインドにおけるアヘン収入が、イギリスのインドに対する綿製品輸出の拡大を可能にした。さらに東インド会社、のちに民間商人はアヘンによって茶の買付け資金を獲得でき、そのため中国茶の輸入が増加し、それがイギリス本国政府に莫大な茶税収入をもたらした。こうして中国へのアヘン密輸は、当時のイギリス資本主義にとって死活の重要性をもつに至ったのである。
一方、中国では、1820年代以降、多額の銀が国外に流出し(1821年から40年間に最低でも1億ドルに達した)、そのため銀価が騰貴して、財政、経済に破壊的な影響を及ぼした。当時、中国で通用していた貨幣は銀と銅で、18世紀末には銅銭700~800文で銀1両に交換できたが、1830年代には1600~1700文が必要になった。日常、銅銭を使用しながら、銀に換算して納税しなければならなかった農民や手工業者にとっては、実質的に税負担が増大し、収税は困難になり、国庫の蓄えは日増しに減少していった。加えて軍隊内でのアヘン中毒の広がりが支配層の危機感を高めた。1838年、道光帝はこれらの危機的状況を鋭く指摘して、アヘンの厳禁を主張した湖広総督(湖南 (こなん/フーナン)、湖北 (こほく/フーペイ)両省を統轄する地方長官)林則徐 (りんそくじょ)を、欽差 (きんさ)大臣(特命全権大臣)として広州に派遣し、アヘン密輸を厳禁する役目にあたらせることにした。1839年春、広州に到着した林は、貿易停止、武力による商館包囲など強硬手段をもって、イギリス商人から2万余箱のアヘンを没収、焼却した。当時イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対していた。だが、大アヘン商人ジャーディン・マセソン商会をはじめ、インドと中国の貿易にかかわる貿易資本は、没収アヘンの賠償と、この問題を機に「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るよう、強力にパーマストン外相に働きかけた。1840年4月イギリス議会は、9票差で「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」(グラッドストーン)中国への遠征軍派遣を承認した。
1840年夏、48隻の艦船、4000人の兵員からなるイギリス艦隊が北上して大沽 (タークー)、天津 (てんしん/ティエンチン)を脅かすや、清朝はいったん休戦を命じ、徹底抗戦派の林則徐を罷免し、妥協派の琦善 (きぜん)を全権として広州で講和交渉を行わせた。しかし和平草案はイギリス政府にも清朝にも受け入れられず、戦争が再開された。コレラの蔓延 (まんえん)に苦しんだイギリス軍は、1841年インドから約1万余の兵を派遣して揚子江 (ようすこう/ヤンツーチヤン)に侵入、南京 (ナンキン)に迫った。一部を除いて清軍は腐敗、無能をさらけ出し、しかも林則徐が広東で試みようとしたように、ヨーロッパ諸国から近代兵器を購入することも、地方の有力者の指導下に農民、漁民などを武装させて抵抗することも禁止した。そして南京の失陥によって清朝の権威がさらに揺らぐことを恐れ、その直前にイギリスの全要求を受諾して南京条約を結んだ(1842年8月)。この間、広州郊外の三元里で、イギリス軍の暴行に憤激した数万の村民が自発的に反英武装抵抗を起こす動きもみられ、近代中国の反侵略闘争の先駆として評価されている。
南京条約とこれを補足する「五港(広州、厦門 (アモイ)、福州 (ふくしゅう/フーチョウ)、寧波 (ニンポー)、上海 (シャンハイ))通商章程」(1843)ならびに「虎門寨 (こもんさい)追加条約」(1843)によって、中国は領土の一部(香港 (ホンコン)と開港場の一画に設けられた租界)と関税自主権、司法上の主権を失い(領事裁判権の承認)、片務的最恵国待遇を与え、没収アヘンの代価と軍事費を内容とする巨額の賠償金を支払い、開港場におけるキリスト教布教を認めることになった。続いて1844年フランス、アメリカも、イギリスに倣って、それぞれ黄埔 (こうほ)条約、望廈 (ぼうか)条約という不平等条約を結んだ。清朝支配者はこれらの不平等条約が時代を画する意義をもつことを認識せず、従来の「外夷」に対する一時的懐柔策と同じようなものとしか認識していなかった。だがこれらの不平等条約は、発展しつつあった資本主義の世界市場のなかに、中国が従属的な地域として恒常的に組み込まれたことを意味した。さしあたり中国では、伝統的な手工業がなおランカシャー綿布の市場拡大に頑強に抵抗し、イギリスの工業製品輸出は予期したほどは伸びなかった。
だが事実上合法化されたアヘン貿易は一段と発展して、財政、経済に悪影響を及ぼし、賠償金(計約1900万両)と戦費(約7000万両。当時の清朝の歳入は約3700万両)を賄うための重税の重圧と、ぶざまな敗戦による清朝の権威の失墜とが相まって、やがて太平天国の大動乱を引き起こす要因となった。
アヘン戦争前まで、日本の武士の多くは、中国を文化の源流であり、また世界の強大国とみなしていた。海防問題に鋭敏だった渡辺崋山 (かざん)や徳川斉昭 (なりあき)のような識者も、イギリスやロシアはまず日本を支配下において根拠地とし、ついで清国を攻めるだろうと予測していた。この清国の惨敗は、同時代の日本に大きな衝撃を与えた。林則徐の同志であり彼が創始した欧米事情の研究を継承、完成した魏源 (ぎげん)の『海国図志』をはじめ、アヘン戦争に関する多くの書物が出版された。そして、固有の儒教文化を絶対視して欧米文明の長所、とくに兵器、艦船、航海術などの吸収を怠ったこと、アヘンの氾濫 (はんらん)を許したことに清の敗戦の主因を求め、その失敗のあとを踏まぬための方策が活発に論議されるようになった。
世界大百科事典
アヘンの輸入をめぐって起きた,清朝とイギリスとの戦争。阿片戦争,鴉片戦争ともかく。
19世紀初頭に至り,中国市場は,イギリス・インド・中国およびイギリス・アメリカ・中国それぞれの三角貿易関係によって国際市場に組み込まれた。前者は,インドへイギリス工業製品を,中国へインド・アヘンを,イギリスへ中国茶をという貿易関係であった。イギリスはこれらの関係を形成することにより,(1)自国工業製品の販路開拓,(2)銀を対価としない中国茶輸入の確保,(3)植民地インド政府の財源確立,という課題を果たさんとした。そのため,東インド会社にアヘン貿易独占権を与え,その東インド会社は,アヘン輸入を禁ずる中国に対し,ジャーディン・マセソン商会などの私貿易商人を通じて密輸出するという,中国市場と表裏二層の貿易関係をとり結んだ。したがって,この関係は次の矛盾を内包していた。すなわち,(1)本国産業資本家による自由貿易の主張と,対外貿易を広州1港の公行に排他的に独占させている清朝政府との対立,(2)1834年に対中国貿易独占権が廃止された後も,アジア貿易金融の実権を握る東インド会社に対するイギリス貿易商人の批判,(3)清朝側では,許乃済らアヘン弛禁派と黄爵滋(1793-1853),林則徐らの厳禁派との対立,以上の3点である。イギリス政府が対清貿易を直接に管理すべく,34年から派遣したネーピア卿(1786-1834)にはじまる貿易監督官も貿易商人や両広総督の反発にあい,清朝にあってもアヘン禁止の効があがっておらず,それぞれが事態の打開に動くなかでイギリスはついに武力による解決を図った。総じて,アヘン戦争は,アヘン貿易の歴史的性格がもたらした帰結であったばかりでなく,通商外交関係をめぐる問題の広がりにかんがみれば,中国の近代を,ひいてはその後のアジア近代史の方向を刻印した事件であった。
1839年(道光19)3月,湖広総督林則徐はアヘン禁絶の特命を帯びた欽差大臣として広州に到着し,外国商人にアヘンの提出および今後アヘン密貿易にたずさわらぬという誓約書の提出を命じた。イギリス政府の駐広州貿易監督官C.エリオットはついにアヘン提出を認め,林則徐はそれを虎門海岸で焼棄した。ただしエリオットはイギリス船に誓約書の提出は拒否させて,一方では戦闘態勢を整え,9月九竜港付近で清朝海軍と砲火を交え,アヘン戦争が勃発した。10月1日イギリス政府は中国との戦争を決定し,40年4月,ジョージ・エリオット,チャールズ・エリオットを正副全権代表とする4000人の将兵を派遣した。イギリス軍は広州,厦門(アモイ)を経て定海を攻略した後,北上して8月には天津に至り,G.エリオットは清朝政府に照会を送って,アヘン貿易の合法化,没収アヘンの賠償,領土割譲などの要求を提出した。清朝政府はこの問題を広州における地方的事件として処理せんとし,9月に直隷総督琦善(?-1854)を広州での交渉に派遣し,イギリス軍も南下した。
1841年1月,イギリス軍は大角,沙角の砲台を突破し虎門に侵入した。C.エリオットは穿鼻(せんび)草約を提出し,琦善はこれに基づいて,アヘン賠償金600万元の支払い,広州貿易の回復,香港割譲などを含む穿鼻仮協定を結んだ。しかし,道光帝はこれを知るや琦善の帰京を命じ,代わって甥の御前侍衛内大臣奕山(えきさん)(1790-1878),戸部尚書隆文,湖南提督楊芳(1770-1846)を広州に派遣した。2月,虎門の戦に敗れ,虎門砲台を守る広東水師提督関天培(1780-1841)が戦死した。楊芳はC.エリオットと停戦協定を結び,3月から5月までの通商が回復した。5月末には,広州の戦でイギリス軍は広州城に迫った。奕山は広州和約を結び,清朝軍の広州城撤退,贖城(しよくじよう)費の支払い,イギリス軍の駐留承認,イギリス商館への賠償などを約した。
5月末,イギリス軍は広州城北方の三元里で,付近一帯の郷村指導者によって組織された平英団に包囲され,大打撃を被った。その後広州近隣では,郷村教育機関であった社学を中心に,地主,郷紳が地方自衛組織としての団練を作り,それらはアヘン戦争を機に拡大する傾向を示した。後にイギリス軍の広州入城要求に対しても社学は反対し,大きな威圧を加えた。
イギリス政府は穿鼻仮協定に満足せず,C.エリオットを召還しH.ポティンジャーを全権公使に任命した。8月に彼は澳門(マカオ)に到着し,イギリス軍は北上を開始した。たちまち鼓浪,厦門を落としたが,以降しだいに清朝防衛軍の強い抵抗を受けた。9月定海,10月鎮海を陥落させた後,寧波(ニンポー)を占領した。道光帝は,協辦大学士奕経(1791-1853),侍郎文蔚,蒙古副都統特依順らに浙江防衛を命じたが,1842年3月の反攻は失敗し,イギリス軍はさらに慈渓を攻め落とした。かくして,奕山が指揮した先の広州戦役に続き,奕経による浙江戦役も大部隊を集めながら敗北した。道光帝は和議に転じ,盛京将軍耆英(1790-1858)と両江総督伊里布(1772-1843)を講和交渉のために浙江に急派した。しかしポティンジャーは和議を拒否し,5月に寧波,鎮海を撤退して舟山を基地とし,乍浦(さほ)を攻略して長江(揚子江)への進攻を開始した。6月呉淞(ウースン)砲台を攻略して宝山,上海を占領し,7月には7000の兵を率いて鎮江を攻め,激戦の末に陥落させた。
1842年8月29日,清国全権耆英,伊里布とイギリス全権ポティンジャーとの間に南京条約が締結され,ここにアヘン戦争は終結した。南京条約では,五港開放,賠償金,領事駐在,公行制度の廃止などが規定され,追加条約たる翌年の〈五口通商章程〉〈虎門条約〉と合わせ,新たな中・英間の外交通商関係が定められた。さらに44年には米・清の望厦条約,仏・清の黄埔条約が締結され,これらを通じて列国は中国を強制的に世界市場に引き込むとともに,片務的最恵国条款,土地租借,領事裁判権などの権益を拡大した。
アヘン戦争に関する情報は,長崎に入港するオランダ・清両国の貿易船によって,逐次日本にもたらされた。オランダ船のものはイギリス側の情報によったもので,清国船のものは現地での見聞に基づくものであった。一方,従来から海防の問題に苦慮し,西洋諸国の動向に注目していた幕府も,この戦争には多大の関心を示し,みずから積極的に情報収集に乗り出し,特に1843年(天保14)7月にはイギリス軍の兵力・装備・戦術についての質問書を長崎在留のオランダ・清両国人に下して回答を求めている。これらの情報により,西洋諸国の軍事力が圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になり,幕府当局者らに深刻な衝撃を与えた。ちょうどこの時期に幕政の実権を握った水野忠邦によって開始された天保改革も,全体としてこのような対外的危機感を背景としているが,具体的な施策としては,1825年(文政8)以来の異国船打払令を撤回し,薪水給与令を発して紛争の回避をはかる一方,長崎町年寄高島秋帆の建言により,彼が研究を重ねてきた西洋流砲術を採用して伊豆韮山代官江川太郎左衛門(英竜)に伝授せしめ,後には一般の希望者にも伝授を許した。また,江川に鉄砲方を兼帯させて同方の強化をはかり,諸大名に対しても日本全体の防衛の観点から軍備強化を指令している。しかし,幕府中枢部に対外的危機の認識はあったものの,幕府が本格的に軍事改革をはじめとする対応策を実施するのは,約10年後のペリー来航以後のことであった。一方,アヘン戦争の情報は知識人にも大きな衝撃を与え,次の弘化・嘉永年間(1844-54)には,斎藤竹堂《阿片始末》をはじめ,戦争の経緯や清の敗因などを論じた書物が数多く著され,広く読まれている。佐久間象山,吉田松陰をはじめとする幕末の思想家たちの思想形成も,これらの影響を抜きにしては考えられない。
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