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アヘン戦争

ジャパンナレッジで閲覧できる『アヘン戦争』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

アヘン戦争
アヘンせんそう
中国へのアヘン密輸入問題から発展したイギリスの中国に対する最初の侵略戦争(一八四〇年(道光二十)―四二年)。鴉片戦争・阿片戦争とも書く。一六八五年清朝がイギリス・オランダなどのヨーロッパ諸国の通商を許可して以来、茶・生糸・磁器などの輸出によって中国へは多額の銀が流入し続け、この銀の流入によって中国経済は未曾有の繁栄を持続していた。ヨーロッパ諸国の中でもイギリスは最大の茶消費国として大量の茶を輸入し、十八世紀末には中国の外国貿易をほとんど独占するに至ったが、中国への商品輸出は振るわず、茶の購入代金はもっぱら銀で支払われていた。ところが十八世紀末からインド産の棉花・アヘンなどの輸出がのび、特に一八〇〇年ごろから中国のアヘン消費が急増したため中国への銀の流入は漸減し、一八二七年以後は逆に毎年多額の銀が流出するようになった。そのため中国国内の流通銀はたちまち欠乏し、国内経済は深刻な不況に傾き、国家財政も危機に瀕した。清朝は一七九六年にアヘンの輸入および吸飲を禁止して以来、頻繁に禁令を重ねたがほとんど効果があがらず、アヘン商人と結託した地方官や軍隊の保護のもとに密輸入が半ば公然と行われていた。そこで清朝はアヘン厳禁を唱えて着々実績をあげていた湖広総督林則徐を起用して欽差大臣に任じ、広東に派遣してアヘン密輸の取締りを命じた。林則徐は一八三九年三月、イギリス領事および英米のアヘン商人を商館に監禁して所有アヘンの引渡しを強要し、二万余箱を提出せしめてこれをことごとく廃棄し、厳刑を以てアヘン輸入禁止の方針を明示した。イギリス政府はこの処置を不当とし、武力を以てアヘン貿易を確保するとともに、中国との国交確立、開港場の増加など、従来の懸案をも一挙に解決すべく、一八四〇年中国に遠征軍を派遣した。イギリス全権ジョージ=エリオット、次席全権チャールズ=エリオットはまず舟山を占領し、大沽に赴いて清朝に要求をつきつけた後、林則徐に代わった欽差大臣〓善と広東で交渉を行い、ついに武力を行使して広東省城まで制圧したが、結局条約の締結に失敗したため、イギリス政府はあらためてヘンリー=ポティンジャーを全権に任命した。ポティンジャーは一八四一年七月から厦門・舟山・寧波を占領し、翌四二年に乍浦・上海・鎮江を攻略して南京に迫ったので、清朝はついに屈服して八月二十九日南京条約を締結し、香港の割譲、広州・福州・厦門・寧波・上海の開港、林則徐が没収したアヘン代価六〇〇万ドルの補償、軍事費一二〇〇万ドルの賠償、両国官吏の対等な交渉権などを承認して和を講じた。この後さらに五港通商章程、虎門寨追加条約が追加され、領事裁判権、最恵国待遇条款、関税・国内通過税に関する協定など中国に不利な条項が一層明確に規定され、中国と列国との不平等関係の発端になった。なおイギリスにならってアメリカ・フランス両国も一八四四年に大体南京条約に近い内容の新条約を締結した。
[参考文献]
H.B.Morse:The International Relations of the Chinese Empire,The Period of Conflict,1834―1860(1910);W.C.Costin:Great Britain and China,1833―1860(1937).矢野仁一『アヘン戦争と香港』
(佐々木 正哉)


日本大百科全書(ニッポニカ)

アヘン戦争
あへんせんそう

1840~1842年、イギリスと中国(清 (しん))との間に行われた戦争。中国の半植民地化の起点となった。

原因

18世紀後半以来、産業革命を進めていたイギリスは、広州 (こうしゅう/コワンチョウ)1港に限定して行われていた中国貿易に対しても、積極的に市場の拡大を図り始めた。そのため、開港場の増加、公行 (コーホン)(広東 (カントン)十三行)とよばれる清の官許の商人による外国貿易独占体制の打破を目ざし、1793年使節マカートニーを派遣して交渉させたのをはじめ、アマースト(1816)、ネーピア(1834)などを送ってその実現を図ったが、拒絶された。その間、初め毛織物、のち綿紡織品、金属などの工業製品の輸出拡大を図ったが売れ行きは伸びなかった。他方、イギリス国内の新興工業都市で飲茶(紅茶)の風習が広がったため、中国茶(紅茶)の輸入が激増し、在来の生糸、陶磁器輸入と相まって、こと中国貿易に関する限り、圧倒的にイギリスの入超で、多額の銀を中国へ輸出しなければならなかった。1834年まで中国貿易独占権を賦与されていたイギリス東インド会社は、本国政府から統治権を与えられていたイギリス領インドにおいて、18世紀末アヘンの植え付け、精製の専売制度を実行し、これを冒険的な民間のイギリス商人に売り渡して中国に密輸させた。1776年以前には毎年200箱(1箱の重さ約60キログラム)程度のインド産アヘンが医薬品として中国に輸出されていただけであったのが、1800年には2000箱、1830年になると約2万箱、東インド会社の中国貿易独占権が廃止されて以後の1837年には、アメリカ商人による密輸を含めて3万9000箱ものアヘンが中国に輸出され、200万人を超えるアヘン吸飲者がつくりだされた。清朝は1796年最初の禁令を発布して以来、再三アヘン輸入禁止令を発したが、腐敗しきった官僚機構に阻まれて無効に終わった。このアヘン貿易は、イギリス領インド政府に莫大 (ばくだい)なアヘン税収入をもたらし、それはイギリスのインド支配にとって不可欠のものとなっていった。またインドにおけるアヘン収入が、イギリスのインドに対する綿製品輸出の拡大を可能にした。さらに東インド会社、のちに民間商人はアヘンによって茶の買付け資金を獲得でき、そのため中国茶の輸入が増加し、それがイギリス本国政府に莫大な茶税収入をもたらした。こうして中国へのアヘン密輸は、当時のイギリス資本主義にとって死活の重要性をもつに至ったのである。

 一方、中国では、1820年代以降、多額の銀が国外に流出し(1821年から40年間に最低でも1億ドルに達した)、そのため銀価が騰貴して、財政、経済に破壊的な影響を及ぼした。当時、中国で通用していた貨幣は銀と銅で、18世紀末には銅銭700~800文で銀1両に交換できたが、1830年代には1600~1700文が必要になった。日常、銅銭を使用しながら、銀に換算して納税しなければならなかった農民や手工業者にとっては、実質的に税負担が増大し、収税は困難になり、国庫の蓄えは日増しに減少していった。加えて軍隊内でのアヘン中毒の広がりが支配層の危機感を高めた。1838年、道光帝はこれらの危機的状況を鋭く指摘して、アヘンの厳禁を主張した湖広総督(湖南 (こなん/フーナン)、湖北 (こほく/フーペイ)両省を統轄する地方長官)林則徐 (りんそくじょ)を、欽差 (きんさ)大臣(特命全権大臣)として広州に派遣し、アヘン密輸を厳禁する役目にあたらせることにした。1839年春、広州に到着した林は、貿易停止、武力による商館包囲など強硬手段をもって、イギリス商人から2万余箱のアヘンを没収、焼却した。当時イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対していた。だが、大アヘン商人ジャーディン・マセソン商会をはじめ、インドと中国の貿易にかかわる貿易資本は、没収アヘンの賠償と、この問題を機に「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るよう、強力にパーマストン外相に働きかけた。1840年4月イギリス議会は、9票差で「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」(グラッドストーン)中国への遠征軍派遣を承認した。

[小島晋治]

経過

1840年夏、48隻の艦船、4000人の兵員からなるイギリス艦隊が北上して大沽 (タークー)、天津 (てんしん/ティエンチン)を脅かすや、清朝はいったん休戦を命じ、徹底抗戦派の林則徐を罷免し、妥協派の琦善 (きぜん)を全権として広州で講和交渉を行わせた。しかし和平草案はイギリス政府にも清朝にも受け入れられず、戦争が再開された。コレラの蔓延 (まんえん)に苦しんだイギリス軍は、1841年インドから約1万余の兵を派遣して揚子江 (ようすこう/ヤンツーチヤン)に侵入、南京 (ナンキン)に迫った。一部を除いて清軍は腐敗、無能をさらけ出し、しかも林則徐が広東で試みようとしたように、ヨーロッパ諸国から近代兵器を購入することも、地方の有力者の指導下に農民、漁民などを武装させて抵抗することも禁止した。そして南京の失陥によって清朝の権威がさらに揺らぐことを恐れ、その直前にイギリスの全要求を受諾して南京条約を結んだ(1842年8月)。この間、広州郊外の三元里で、イギリス軍の暴行に憤激した数万の村民が自発的に反英武装抵抗を起こす動きもみられ、近代中国の反侵略闘争の先駆として評価されている。

[小島晋治]

結果と意義

南京条約とこれを補足する「五港(広州、厦門 (アモイ)、福州 (ふくしゅう/フーチョウ)、寧波 (ニンポー)、上海 (シャンハイ))通商章程」(1843)ならびに「虎門寨 (こもんさい)追加条約」(1843)によって、中国は領土の一部(香港 (ホンコン)と開港場の一画に設けられた租界)と関税自主権、司法上の主権を失い(領事裁判権の承認)、片務的最恵国待遇を与え、没収アヘンの代価と軍事費を内容とする巨額の賠償金を支払い、開港場におけるキリスト教布教を認めることになった。続いて1844年フランス、アメリカも、イギリスに倣って、それぞれ黄埔 (こうほ)条約、望廈 (ぼうか)条約という不平等条約を結んだ。清朝支配者はこれらの不平等条約が時代を画する意義をもつことを認識せず、従来の「外夷」に対する一時的懐柔策と同じようなものとしか認識していなかった。だがこれらの不平等条約は、発展しつつあった資本主義の世界市場のなかに、中国が従属的な地域として恒常的に組み込まれたことを意味した。さしあたり中国では、伝統的な手工業がなおランカシャー綿布の市場拡大に頑強に抵抗し、イギリスの工業製品輸出は予期したほどは伸びなかった。

 だが事実上合法化されたアヘン貿易は一段と発展して、財政、経済に悪影響を及ぼし、賠償金(計約1900万両)と戦費(約7000万両。当時の清朝の歳入は約3700万両)を賄うための重税の重圧と、ぶざまな敗戦による清朝の権威の失墜とが相まって、やがて太平天国の大動乱を引き起こす要因となった。

 アヘン戦争前まで、日本の武士の多くは、中国を文化の源流であり、また世界の強大国とみなしていた。海防問題に鋭敏だった渡辺崋山 (かざん)や徳川斉昭 (なりあき)のような識者も、イギリスやロシアはまず日本を支配下において根拠地とし、ついで清国を攻めるだろうと予測していた。この清国の惨敗は、同時代の日本に大きな衝撃を与えた。林則徐の同志であり彼が創始した欧米事情の研究を継承、完成した魏源 (ぎげん)の『海国図志』をはじめ、アヘン戦争に関する多くの書物が出版された。そして、固有の儒教文化を絶対視して欧米文明の長所、とくに兵器、艦船、航海術などの吸収を怠ったこと、アヘンの氾濫 (はんらん)を許したことに清の敗戦の主因を求め、その失敗のあとを踏まぬための方策が活発に論議されるようになった。

[小島晋治]



世界大百科事典

アヘン戦争
あへんせんそう

アヘンの輸入をめぐって起きた,清朝とイギリスとの戦争。阿片戦争,鴉片戦争ともかく。

背景

19世紀初頭に至り,中国市場は,イギリス・インド・中国およびイギリス・アメリカ・中国それぞれの三角貿易関係によって国際市場に組み込まれた。前者は,インドへイギリス工業製品を,中国へインド・アヘンを,イギリスへ中国茶をという貿易関係であった。イギリスはこれらの関係を形成することにより,(1)自国工業製品の販路開拓,(2)銀を対価としない中国茶輸入の確保,(3)植民地インド政府の財源確立,という課題を果たさんとした。そのため,東インド会社にアヘン貿易独占権を与え,その東インド会社は,アヘン輸入を禁ずる中国に対し,ジャーディン・マセソン商会などの私貿易商人を通じて密輸出するという,中国市場と表裏二層の貿易関係をとり結んだ。したがって,この関係は次の矛盾を内包していた。すなわち,(1)本国産業資本家による自由貿易の主張と,対外貿易を広州1港の公行に排他的に独占させている清朝政府との対立,(2)1834年に対中国貿易独占権が廃止された後も,アジア貿易金融の実権を握る東インド会社に対するイギリス貿易商人の批判,(3)清朝側では,許乃済らアヘン弛禁派と黄爵滋(1793-1853),林則徐らの厳禁派との対立,以上の3点である。イギリス政府が対清貿易を直接に管理すべく,34年から派遣したネーピア卿(1786-1834)にはじまる貿易監督官も貿易商人や両広総督の反発にあい,清朝にあってもアヘン禁止の効があがっておらず,それぞれが事態の打開に動くなかでイギリスはついに武力による解決を図った。総じて,アヘン戦争は,アヘン貿易の歴史的性格がもたらした帰結であったばかりでなく,通商外交関係をめぐる問題の広がりにかんがみれば,中国の近代を,ひいてはその後のアジア近代史の方向を刻印した事件であった。

戦争の勃発

1839年(道光19)3月,湖広総督林則徐はアヘン禁絶の特命を帯びた欽差大臣として広州に到着し,外国商人にアヘンの提出および今後アヘン密貿易にたずさわらぬという誓約書の提出を命じた。イギリス政府の駐広州貿易監督官C.エリオットはついにアヘン提出を認め,林則徐はそれを虎門海岸で焼棄した。ただしエリオットはイギリス船に誓約書の提出は拒否させて,一方では戦闘態勢を整え,9月九竜港付近で清朝海軍と砲火を交え,アヘン戦争が勃発した。10月1日イギリス政府は中国との戦争を決定し,40年4月,ジョージ・エリオット,チャールズ・エリオットを正副全権代表とする4000人の将兵を派遣した。イギリス軍は広州,厦門(アモイ)を経て定海を攻略した後,北上して8月には天津に至り,G.エリオットは清朝政府に照会を送って,アヘン貿易の合法化,没収アヘンの賠償,領土割譲などの要求を提出した。清朝政府はこの問題を広州における地方的事件として処理せんとし,9月に直隷総督琦善(?-1854)を広州での交渉に派遣し,イギリス軍も南下した。

穿鼻仮協定と広州和約

1841年1月,イギリス軍は大角,沙角の砲台を突破し虎門に侵入した。C.エリオットは穿鼻(せんび)草約を提出し,琦善はこれに基づいて,アヘン賠償金600万元の支払い,広州貿易の回復,香港割譲などを含む穿鼻仮協定を結んだ。しかし,道光帝はこれを知るや琦善の帰京を命じ,代わって甥の御前侍衛内大臣奕山(えきさん)(1790-1878),戸部尚書隆文,湖南提督楊芳(1770-1846)を広州に派遣した。2月,虎門の戦に敗れ,虎門砲台を守る広東水師提督関天培(1780-1841)が戦死した。楊芳はC.エリオットと停戦協定を結び,3月から5月までの通商が回復した。5月末には,広州の戦でイギリス軍は広州城に迫った。奕山は広州和約を結び,清朝軍の広州城撤退,贖城(しよくじよう)費の支払い,イギリス軍の駐留承認,イギリス商館への賠償などを約した。

三元里の戦

5月末,イギリス軍は広州城北方の三元里で,付近一帯の郷村指導者によって組織された平英団に包囲され,大打撃を被った。その後広州近隣では,郷村教育機関であった社学を中心に,地主,郷紳が地方自衛組織としての団練を作り,それらはアヘン戦争を機に拡大する傾向を示した。後にイギリス軍の広州入城要求に対しても社学は反対し,大きな威圧を加えた。

イギリス軍の北上

イギリス政府は穿鼻仮協定に満足せず,C.エリオットを召還しH.ポティンジャーを全権公使に任命した。8月に彼は澳門(マカオ)に到着し,イギリス軍は北上を開始した。たちまち鼓浪,厦門を落としたが,以降しだいに清朝防衛軍の強い抵抗を受けた。9月定海,10月鎮海を陥落させた後,寧波(ニンポー)を占領した。道光帝は,協辦大学士奕経(1791-1853),侍郎文蔚,蒙古副都統特依順らに浙江防衛を命じたが,1842年3月の反攻は失敗し,イギリス軍はさらに慈渓を攻め落とした。かくして,奕山が指揮した先の広州戦役に続き,奕経による浙江戦役も大部隊を集めながら敗北した。道光帝は和議に転じ,盛京将軍耆英(1790-1858)と両江総督伊里布(1772-1843)を講和交渉のために浙江に急派した。しかしポティンジャーは和議を拒否し,5月に寧波,鎮海を撤退して舟山を基地とし,乍浦(さほ)を攻略して長江(揚子江)への進攻を開始した。6月呉淞(ウースン)砲台を攻略して宝山,上海を占領し,7月には7000の兵を率いて鎮江を攻め,激戦の末に陥落させた。

南京条約

1842年8月29日,清国全権耆英,伊里布とイギリス全権ポティンジャーとの間に南京条約が締結され,ここにアヘン戦争は終結した。南京条約では,五港開放,賠償金,領事駐在,公行制度の廃止などが規定され,追加条約たる翌年の〈五口通商章程〉〈虎門条約〉と合わせ,新たな中・英間の外交通商関係が定められた。さらに44年には米・清の望厦条約,仏・清の黄埔条約が締結され,これらを通じて列国は中国を強制的に世界市場に引き込むとともに,片務的最恵国条款,土地租借,領事裁判権などの権益を拡大した。
[浜下 武志]

日本における影響

アヘン戦争に関する情報は,長崎に入港するオランダ・清両国の貿易船によって,逐次日本にもたらされた。オランダ船のものはイギリス側の情報によったもので,清国船のものは現地での見聞に基づくものであった。一方,従来から海防の問題に苦慮し,西洋諸国の動向に注目していた幕府も,この戦争には多大の関心を示し,みずから積極的に情報収集に乗り出し,特に1843年(天保14)7月にはイギリス軍の兵力・装備・戦術についての質問書を長崎在留のオランダ・清両国人に下して回答を求めている。これらの情報により,西洋諸国の軍事力が圧倒的に優勢であることがいよいよ明白になり,幕府当局者らに深刻な衝撃を与えた。ちょうどこの時期に幕政の実権を握った水野忠邦によって開始された天保改革も,全体としてこのような対外的危機感を背景としているが,具体的な施策としては,1825年(文政8)以来の異国船打払令を撤回し,薪水給与令を発して紛争の回避をはかる一方,長崎町年寄高島秋帆の建言により,彼が研究を重ねてきた西洋流砲術を採用して伊豆韮山代官江川太郎左衛門(英竜)に伝授せしめ,後には一般の希望者にも伝授を許した。また,江川に鉄砲方を兼帯させて同方の強化をはかり,諸大名に対しても日本全体の防衛の観点から軍備強化を指令している。しかし,幕府中枢部に対外的危機の認識はあったものの,幕府が本格的に軍事改革をはじめとする対応策を実施するのは,約10年後のペリー来航以後のことであった。一方,アヘン戦争の情報は知識人にも大きな衝撃を与え,次の弘化・嘉永年間(1844-54)には,斎藤竹堂《阿片始末》をはじめ,戦争の経緯や清の敗因などを論じた書物が数多く著され,広く読まれている。佐久間象山,吉田松陰をはじめとする幕末の思想家たちの思想形成も,これらの影響を抜きにしては考えられない。
[梅沢 秀夫]

[索引語]
東インド会社(イギリス) 林則徐 ネーピア,W.J. 琦善 穿鼻仮協定 広州和約 香港(ホンコン) 奕山 楊芳 三元里の戦 団練 エリオット,C. ポティンジャー,H. 奕経 耆英 伊里布 南京条約 五口通商章程 虎門条約 望厦条約 黄埔条約
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検索コンテンツ
1. アヘン戦争
日本大百科全書
ぶざまな敗戦による清朝の権威の失墜とが相まって、やがて太平天国の大動乱を引き起こす要因となった。 アヘン戦争前まで、日本の武士の多くは、中国を文化の源流であり、
2. アヘン戦争画像
世界大百科事典
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国史大辞典
Costin:Great Britain and China,1833―1860(1937).矢野仁一『アヘン戦争と香港』 (佐々木 正哉)
4. 第2次アヘン戦争
世界大百科事典
受けた結果,半植民地への道を強いられていくが,第2次アヘン戦争はまさにその道程を決定づけたものといえよう。→アヘン戦争浜下 武志 アヘン戦争 アロー戦争 アロー
5. あいしんかくらえきちょ【愛新覚羅弈詝】(Àixīnjuéluó Yìzhù)
世界人名大辞典
正式に軍権を与え,湘軍が太平天国に対抗する主力部隊となる.他方,アロー号事件を契機に第2次アヘン戦争が勃発[56],天津条約によって一旦収束する[58]も,大沽
6. あいしんかくらびんねい【愛新覚羅旻寧】(Àixīnjuéluó Mínníng)
世界人名大辞典
を欽差大臣として広州に派遣しアヘン問題の解決を命じる[39]が,イギリスとの対立を惹起し,アヘン戦争が発生[40],敗戦が続くと林則徐を罷免[同].英軍が長江下
7. しょうこう【韋紹光】(Wéi Shàoguāng)
世界人名大辞典
別名:進可〔†1901[光緒27]〕 中国清代の義兵.広東省南海県三元里(現,広州市)の貧農.アヘン戦争時,イギリス軍の三元里侵攻[1841:道光21]に際し,
8. いりふ【伊里布】(Yīlǐbù)
世界人名大辞典
3.5[道光23.2.5]〕 中国清代の宗室,官僚.鑲黄旗満洲人.進士[1801:嘉慶6].アヘン戦争時,欽差大臣として浙江に赴いたが,イギリス軍と妥協して停戦
9. えききん【奕訴】(Yìxīn)
世界人名大辞典
人.兄の愛新覚羅奕詝(えきちょ)が咸豊(かんぽう)帝に即位すると恭親王に封ぜられた.第2次アヘン戦争で英仏連合軍が北京に迫り[1860:咸豊10],咸豊帝が熱河
10. えきけい【奕経】(Yìjīng)
世界人名大辞典
官僚.満洲鑲紅旗人.吏部尚書,協弁大学士を兼ね[1841:道光21],揚威将軍に任ぜられ,アヘン戦争で奪われた浙江の定海,鎮海の回復を試みたが大敗.寧波奪回と虚
11. えきざん【奕山】(Yìshān)
世界人名大辞典
中国清末の皇族,軍人.鑲藍旗満洲人.道光帝の甥,侍衛出身.伊犁(イリ)参賛大臣,伊犁将軍などを歴任.アヘン戦争時,靖逆将軍として広州に赴任[1841:道光21]
12. おうしゃくほう【王錫朋】(Wáng Xīpéng)
世界人名大辞典
津市)の人.武挙出身.福建汀州鎮総兵[1833:道光13],安徽寿春鎮総兵[38]を歴任.アヘン戦争開戦後,陳化成とともに呉淞(上海市)の防備にあたる[40].
13. おうとくろく【王得禄】(Wáng Délù)
世界人名大辞典
と,義勇兵を招募し平定に協力したため太子少保を,後には太子太保の官銜を授けられた[36].アヘン戦争時,澎湖諸島に駐屯したが病気で陣没.〖文献〗 清史列伝39.
14. かいれい【海齢】(Hǎilíng)
世界人名大辞典
満洲人.西安,江寧の副都統を経て,京口(現,江蘇鎮江)副都統となる[1841:道光21].アヘン戦争でイギリス軍が鎮江に進攻すると,旗兵・青州兵を率いて防戦.奮
15. かつうんひ【葛雲飛】(Gě Yúnfēi)
世界人名大辞典
1[道光21.8.17]〕 中国清代,アヘン戦争時の武官.浙江山陰(現,紹興)の人,武進士[1823:道光3].浙江定海鎮総兵に任じられる[39]も,辞して帰郷
16. かんてんばい【関天培】(Guān Tiānpéi)
世界人名大辞典
字:仲因 号:滋圃〔1781[乾隆46]~1841.2.26[道光21.2.6]〕 中国清代,アヘン戦争時の武官.江蘇山陽(現,淮安)の人,太湖営水師副将,蘇松
17. がんこうちょう【顔浩長】(Yán Hàocháng)
世界人名大辞典
中国清末の広東での反英運動指導者.広東番禺(現,広州市)の貧農.武芸を習い,定拳長のあだ名もある.アヘン戦争中の広州三元里で,平英団を旗印にした武装自衛組織と英
18. がんはくとう【顔伯燾】(Yán Bótāo)
世界人名大辞典
〕 中国清代の官僚.広東連平の人.嘉慶年間[1796-1820]の進士.巡撫,総督を歴任.アヘン戦争中の41年[道光21]に閩浙(びんせつ)総督となると積極的に
19. きえい【耆英】(Qíyīng)
世界人名大辞典
29:道光9],工部尚書[34],戸部尚書を歴任,一時降格されたが盛京将軍となり[38],アヘン戦争が始まるとアヘン取締りと沿岸防備に努めた.欽差大臣[42]と
20. きぜん【琦善】(Qíshàn)
世界人名大辞典
],以後,山東巡撫,両江総督,四川総督等を歴任して直隷総督[31-41:道光11-21].アヘン戦争が始まると,イギリス軍の北上に備えて天津の海防を督励していた
21. きょうしゅうらん【姜秀鑾】(Jiāng Xiùluán)
世界人名大辞典
山区へ進駐,開墾を行い,隘寮(見張り小屋)を設け,原住民の侵入を防いで,巨万の富を築いた.アヘン戦争が起こると,兵を率いて鶏籠で防御に当たり,英国船を撃沈,英軍
22. きょうしんりん【龔振麟】(Gōng Zhènlín)
世界人名大辞典
 中国清代の造船,鋳砲技師.江蘇長洲(現,江蘇蘇州)の人.浙江省で県丞に在職時,アヘン戦争に遭い,軍艦建造に携わる.林則徐(りんそくじょ)の下で新式砲車も開発.
23. げん【魏源】(Wèi Yuán)
世界人名大辞典
の間に両江総督陶澍(とうじゅ)の幕友として,大きな成果をあげた淮北の塩政改革にも関与した.アヘン戦争末期に両江総督裕謙の幕友になり,イギリス軍の攻撃に対抗する画
24. すうよう【伍崇曜】(Wǔ Chóngyào)
世界人名大辞典
東十三行の中で最も富裕な怡和行を継承[1833:道光13].清朝政府と外国勢力の間に立ち,アヘン戦争・アロー号戦争時期の政治・外交に深く関与した.また蔵書・刻書
25. じょけいよ【徐継畬】(Xú Jìyú)
世界人名大辞典
建で按察使,布政使,巡撫等を歴任.晩年は同文館に勤務した.職務上西洋人との交流が多く,またアヘン戦争に衝撃を受け,世界のことを知るために世界地理書《瀛環志略》を
26. せんこう【銭江】(Qián Jiāng)
世界人名大辞典
東屏〔1800[嘉慶5]~53[咸豊3]〕 中国の釐金(りきん)制度の創案者.浙江長興の人.監生.アヘン戦争後,何大庚とともに《全粤義士義民公檄》を発し[184
27. そうきん【曹謹】(Cáo Jǐn)
世界人名大辞典
1853)はその功績を称え〈曹公圳〉と命名した[38].その後,淡水同知に転任し[41],アヘン戦争では鶏籠(基隆市)と大安(台中市)でイギリス軍を防いだが,病
28. そうこくはん【曽国藩】(Zēng Guófān)
世界人名大辞典
守るための決起と意義づけ,団練への参加を呼びかけている.団練はこうして拡充され湘軍に発展した.第2次アヘン戦争が起こり[56],窮地に立った清朝はこれら漢人の団
29. たつこうあ【達洪阿】(Dáhóng'ā)
世界人名大辞典
〕 中国清の軍人.富察氏の出自.満洲鑲黄の旗人.台湾鎮総兵に着任[1835:道光15]後,アヘン戦争では台湾道姚瑩(ようえい)と共に台湾へ進攻した英軍を防いだ[
30. たんえい【譚瑩】(Tán Yíng)
世界人名大辞典
長く務めた.また地域社会を代表する知識人として,粤秀書院・越華書院などの監院(理事)を歴任し,アヘン戦争後の広州入城問題では政治的にも指導的役割を果たした.広東
31. ちょういへい【張維屏】(Zhāng Wéipíng)
世界人名大辞典
袁州同知,南康知府等を歴任したのち広東に家居した[36].その詩論は性情を主としたもので,アヘン戦争時の《三元里歌》《三将軍歌》等,国難を憂えた詩で有名.黄培芳
32. ちんかせい【陳化成】(Chén Huàchéng)
世界人名大辞典
16[道光22.5.8]〕 中国清代の軍人.福建同安(現,廈門(アモイ))の人.行伍(兵士)出身.アヘン戦争時,福建水師提督としてイギリス艦隊に打撃を与え,江南
33. ていこくこう【鄭国鴻】(Zhèng Guóhóng)
世界人名大辞典
道光21]〕 中国清代の軍人.湖南鳳凰の人.浙江省処州鎮総兵となる[1840:道光20].アヘン戦争時,処州の兵を率い,定海鎮総兵葛雲飛(かつうんひ),寿春鎮総
34. ていしゅそん【丁守存】(Dīng Shǒucún)
世界人名大辞典
頃〕 中国清代の官僚,化学者,機械製造技師.山東日照の人.進士及第[1835:道光15].アヘン戦争時に船砲を製作,以後,天津,広西,山東で新式火器の製造に従事
35. とうていてい【鄧廷楨】(Dèng Tíngzhēn)
世界人名大辞典
が派遣され,林ととともにアヘン厳禁を推進した.その後,閩浙総督に転じ,福建の海防に努めた.アヘン戦争の戦況不利のなか,林とともにイリに流されたが,後に赦されて官
36. はんせいおん【潘世恩】(Pān Shì'ēn)
世界人名大辞典
歴任した.道光年間[1821-50]には体仁閣大学士に至り[33:道光13],軍機大臣を兼任した[34].アヘン戦争が勃発すると,林則徐を支持し,広東に赴いて禁
37. ばいせいきょう【貝青喬】(Bèi Qīngqiáo)
世界人名大辞典
木居士〔1810[嘉慶15]~63[同治2]〕 中国清代後期の詩人.呉県(現,江蘇蘇州)の人.諸生.アヘン戦争期,浙東でイギリス軍と戦う揚威将軍奕経(えきけい)
38. へきしょう【壁昌】(Bìchāng)
世界人名大辞典
国からの侵入勢力の排除にあたった.両江総督となり[43],海軍兵力の増強や砲台の増設など,アヘン戦争後の対外防衛体制の整備に尽力した.〖主著〗 葉爾羌守城紀略,
39. ゆうけん【裕謙】(Yùqiān)
世界人名大辞典
22].湖北各地の知府のあと江蘇で按察使,布政使を歴任し,江蘇巡撫[39:道光19].翌年アヘン戦争が起こり,舟山群島の定海が占領され,その奪回のため両江総督伊
40. ようえい【姚瑩】(Yáo Yíng)
世界人名大辞典
中国清代の文学者.桐城(現,安徽桐城)の人.進士となる[1808:嘉慶13].台湾兵備道に在職中,アヘン戦争が勃発,台湾に侵入した英国船を撃沈する[41:道光2
41. ようしょう【姚燮】(Yáo Xiè)
世界人名大辞典
文,絵画に優れた.挙人となる[1834:道光14]が,会試で挫折し,文章や絵を売って暮らす.アヘン戦争中の疎開等で郷里をたびたび離れ,潘徳輿,魏源,王韜(おうと
42. りくすう【陸嵩】(Lù Sōng)
世界人名大辞典
学金を給付される者)から,鎮江府学訓導に至る[1838:道光18].郷勇(義勇兵)を募り,アヘン戦争時の英軍侵攻[42]や太平天国の攻撃[53:咸豊3]との戦い
43. せいげん【李星沅】(Lǐ Xīngyuán)
世界人名大辞典
撫,陝甘総督,江蘇巡撫,雲貴総督などを歴任し,官は両江総督に至った[47].アヘンの禁止やアヘン戦争におけるイギリスへの抵抗で知られる.咸豊(かんぽう)帝の即位
44. りょうていなん【梁廷枏】(Liáng Tíngnán)
世界人名大辞典
歴任し,当局から委嘱を受けて,《広東海防彙覧, 1835》《粤海関志, 1837》の編纂の任にもあたった.アヘン戦争を中心に揺れた広州の政治に深く関わり,欽差大
45. りんしょうい【林昌彝】(Lín Chāngyí)
世界人名大辞典
19],各地を巡る.《小石渠閣文集》《衣讔山房詩集》《海天琴思録》《射鷹楼詩話》等の著作でアヘン戦争を痛憤した.〖文献〗 清史列伝73.〖参考〗 林淑貞:詩話別
46. りんそくじょ【林則徐】(Lín Zéxú)
世界人名大辞典
にアヘンの引き渡しを命じ,強硬手段によって大量のアヘンを押収し処分した.反発したイギリスがアヘン戦争をしかけると,恐慌をきたした清廷によって解任され,新疆に左遷
47. いつどう【魯一同】(Lǔ Yītóng)
世界人名大辞典
徐や曽国藩に認められるが,会試には及第できなかった.潘徳輿に詩歌を学び,また古文に秀でた.アヘン戦争や太平天国の乱が続く時勢に対して一家言をもち,それらを論じた
48. 璦琿条約
世界大百科事典
両国の共有地とされた。極東進出をめざす東シベリア総督ムラビヨフは,清が太平天国の乱と第2次アヘン戦争に苦しむのに乗じてこの条約を認めさせた。のち清は条約を否認し
49. 上知令
世界大百科事典
除く諸大名,旗本に命じられた。“最寄り”の範囲は,およそ両城の10里四方と考えられる。その目的は,アヘン戦争に伴う対外的危機への対応を直接的契機とした江戸,大坂
50. アジア画像
日本大百科全書
)、アフガニスタン、イラン、トルコなども、相次いで西欧列強の植民地、従属国となった。中国もアヘン戦争(1840~1842)での敗北を契機に半植民地化の道をたどり
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アヘン戦争の結果、イギリスと中国との間で締結された条約。一八四二年八月二十九日南京でイギリス全権ヘンリー=ポティンジャーと清国全権耆英(欽差大臣)・伊里布(乍浦副都統)・牛鑑(両江総督)によって調印された。この条約で清国は香港の割譲、広州・福州・厦門
アヘン戦争(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
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