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  11. 尾高惇忠

尾高惇忠

ジャパンナレッジで閲覧できる『尾高惇忠』の国史大辞典のサンプルページ

国史大辞典

尾高惇忠
おだかあつただ
一八三〇 - 一九〇一
明治時代前期の殖産興業推進者の一人。幼名新五郎、字は子行、藍香と号す。天保元年(一八三〇)七月二十七日、武蔵国榛沢郡手計村(埼玉県深谷市)の名主尾高保孝の子として生まれた。母は同郡血洗島村渋沢宗助の娘。農耕と藍玉商売のかたわら剣術と学問に精出した。明治元年(一八六八)には、渋沢喜作らとともに彰義隊を創設したが、のち脱退し、振武軍を結成、飯能において官軍と戦い敗退した。渋沢栄一の義兄という関係から、翌二年静岡藩勧業附属となり、三年には民部省監督権少佑に任ぜられ、ついで大蔵省勧業寮富岡製糸場掛(のち勧業大属)となって同製糸場の建設・経営にあたった。他方、秋蚕の飼育法を研究し、その普及に努力した。九年末に同製糸場を辞し、翌年より第一国立銀行盛岡支店・仙台支店に勤めつつ、製藍法の改良と普及につとめた。二十五年同行をやめ、三十四年一月二日、東京にて死去、生地に葬られた。七十二歳。著書に『蚕桑長策』『藍作指要』などがある。
[参考文献]
塚原蓼洲『藍香翁』
(石井 寛治)
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1. おだかあつただ【尾高惇忠】
国史大辞典
一八三〇―一九〇一 明治時代前期の殖産興業推進者の一人。幼名新五郎、字は子行、藍香と号す。天保元年(一八三〇)七月二十七日、武蔵国榛沢郡手計村(埼玉県深谷市)
2. おだか-あつただ【尾高惇忠】
日本人名大辞典
1830−1901 明治時代の殖産家。文政13年7月27日生まれ。渋沢栄一とともに官営富岡製糸場の建設につくして所長となり,養蚕,製糸の振興につとめる。のち第一
3. 尾高惇忠[文献目録]
日本人物文献目録
【書誌】:0件 【図書】:5件 【逐次刊行物】:0件 『藍香翁』塚原蓼洲(編)『噫尾高藍香翁』渋沢栄一『水戸学と藍香翁』山口平八『製糸業の先覚者尾高新五郎』高橋
4. おおかわへいざぶろう【大川平三郎】
国史大辞典
一八六〇―一九三六 明治・大正時代の製紙技師兼事業家。武蔵国川越藩士大川平兵衛の次男修三と尾高惇忠の妹みち子の次男として、万延元年(一八六〇)十月二十五日、同
5. おだか-じろう【尾高次郎】
日本人名大辞典
1866−1920 明治-大正時代の銀行家,実業家。慶応2年2月17日生まれ。尾高惇忠の次男。渋沢栄一の娘婿。明治24年第一銀行にはいり名古屋,釜山,仁川などの
6. おだか-ゆう【尾高ゆう】
日本人名大辞典
1860−1923 明治時代の工員。万延元年4月4日生まれ。群馬県の官営富岡製糸場所長尾高惇忠(あつただ)の長女。紡績技術工のフランス人がのむワインはわかい娘の
7. かわかみ-ちんせき【川上鎮石】
日本人名大辞典
(そんじょう)運動家,官吏。天保(てんぽう)10年生まれ。尾高惇忠の門人。武蔵(むさし)榛沢(はんざわ)郡(埼玉県)の農民。尾高惇忠の門人。京都で諸藩の尊攘派と
8. ざいごうおよびしかんじだい【在郷および仕官時代】 : 渋沢栄一/(一)
国史大辞典
右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍を兼営。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て
9. しぶさわえいいち【渋沢栄一】
国史大辞典
右衛門・エイの長男として生まれた。家業は農業で、養蚕と製藍を兼営。栄一は家業を手伝うかたわら尾高惇忠について漢学を習い、文久年間(一八六一―六四)には江戸に出て
10. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 191ページ
東洋文庫
いうことになったのであります。公 なるほどそういうわけであったか。関係人の名は密かに聞いたよ。阪谷 尾高惇忠がよくその時の話をしておった。山岡鐵舟・高橋泥舟など
11. 昔夢会筆記 徳川慶喜公回想談 6ページ
東洋文庫
初名右膳。下総守,のち長門守。目付をへて京都町奉行,禁裡附,勘定奉行を歴任した。   じゅんちゅう 尾高惇忠 1829-1901養蚕・製糸の功労者。武蔵の人。渋
12. 富岡製糸場画像
日本大百科全書
まず群馬・埼玉・入間いるま(現、埼玉)・栃木・長野の5県で募集し、応じる者が少ないので、初代場長尾高惇忠おだかあつただ(1830―1901。入間)は郷里から13
13. 富岡製糸場
世界大百科事典
いたためといわれる。政府内で立案・実施を担当したのは大蔵省の渋沢栄一と民部省(のち大蔵省)の尾高惇忠であり,尾高は76年まで初代所長をつとめた。尾高は全国から伝
14. とみおかせいしじょう【富岡製糸場】
国史大辞典
選んだ。製糸場は横須賀製鉄所(造船所)の建築技師バスティアンが設計し、民部省(のち大蔵省)所属の尾高惇忠らが実務を担当して同四年三月に着工、同五年七月にほぼ完成
15. とみおかせいしじょう【富岡製糸場】群馬県:富岡市/富岡村
日本歴史地名大系
たが、廃止などによって大蔵省勧業司、勧農寮、租税寮と変わる。同三年閏一〇月に杉浦譲地理権正、尾高惇忠を富岡に派遣。両者のほか三名とブリューナが同行、杉浦の「客中
16. ふかやし【深谷市】埼玉県地図
日本歴史地名大系
蚕糸業であったが、明治一〇年代になって生糸輸出が本格化し、群馬県の官営富岡製糸工場の初代所長尾高惇忠(下手計村出身)や御用達韮塚直次郎(明戸村出身)の名が知られ
17. やすだ-りさく【安田利作】
日本人名大辞典
真綿問屋をつぐ。生糸の品質改良につとめ,慶応2年結束を四折法にした掛田折り返し糸を創出。また尾高惇忠(あつただ)の協力をえて,秋蚕種の飼育にも成功した。明治29
18. 【総論】埼玉県地図
日本歴史地名大系
すでに同五年県出身の実業家渋沢栄一の上申に基づいて富岡製糸場(現群馬県富岡市)が開設され、渋沢の推挙で同郷の尾高惇忠が初代所長に任じられ、フランス人技師ブリュー
19. 1901年〈明治34 辛丑〉
日本史年表
創刊。 井上哲治郎・蟹江義丸編 『日本倫理彙編』 刊(~明治44年)。 【死没】 1・2 尾高惇忠(72、富岡製糸場長)。 1・10 河竹新七(3代)(60
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