日本人が北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に拉致されたという事件とそれをとりまく問題。
日本人拉致という国家的犯罪行為が注目されたのは、1987年(昭和62)11月に発生した大韓航空機爆破事件の実行犯である金賢姫 (キムヒョンヒ)(1962― )が、拉致された日本人女性、李恩恵 (リウネ)から日本語・文化の教育を受けたと供述したことによる。1992年(平成4)11月、日朝国交正常化交渉の第8回本会談で、日本側がこの問題を提起したところ、北朝鮮側は一方的に協議を打ち切った。その後、1997年2月、元北朝鮮工作員の証言によって横田めぐみ(1964― )拉致事件が浮上したものの、北朝鮮側は「でっち上げ」だと全面的に否定した。
拉致事件の多くは1970年代後半から1980年代前半にかけて発生したが、物証が乏しかったこともあり長らく一般には知られていなかった。朝日放送(大阪)記者の石高健次 (いしだかけんじ)(1951― )が1996年末、韓国(大韓民国)に亡命した元北朝鮮工作員の話として拉致された日本人女性の存在を月刊誌に書き、この女性が横田めぐみである可能性が高いことが判明した。日本人拉致事件が広く知られるようになったのは、これ以降のことである。それまでは、一部の熱心な支援者やジャーナリストによる支援が行われていたが、大手の新聞やテレビはあまり取り上げていなかった。それどころか、日本語として「拉致」ということばすら一般には定着していなかったのである。
その後、「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」(「家族会」)や、「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(「救う会」)が活動を開始し、多くの署名を集めてこの問題が国民的関心事となった。そして、史上初の日朝首脳会談が平壌 (ピョンヤン)で実現した。
2002年(平成14)9月17日、首相小泉純一郎が政府専用機で平壌入りした後に行われた会談直前の事務折衝で、北朝鮮側は8件11人の拉致事件被害者を含む14人の消息を明らかにした。その内訳は「8人が死亡、5人が生存、1人は入国の事実なし」という衝撃的なものであった。国防委員長の金正日 (キムジョンイル)は小泉純一郎に対して拉致の事実を認めて謝罪し、「背景には数十年の敵対関係があるが、まことにいまわしいできごとであった。1970年代、1980年代初めまで、特殊機関の一部が妄動主義、英雄主義に走って、こういうことを行ってきたと考えている。(拉致には)二つの理由がある。一つは、特殊機関で日本語の学習ができるようにするためであり、もう一つは、他人の身分を利用して南(韓国)に入るためだ。私が承知するに至り、責任ある人々は処罰された。これからは絶対にしない。遺憾なことであったと率直におわびしたい。二度と(拉致を)許すことはしない」と述べた。拉致に携わった人々が本当に処罰されたかどうかなどさまざまな疑問が残るとはいえ、拉致問題は「日本政府の捏造 (ねつぞう)劇」としていたことから考えれば、180度の方針転換であった。
その翌月には、拉致被害者5人、蓮池薫 (はすいけかおる)(1957― )・奥土祐木子 (おくどゆきこ)(1956― )夫妻、地村保志 (ちむらやすし)(1955― )・浜本富貴恵 (はまもとふきえ)(1955― )夫妻、曽我 (そが)ひとみ(1959― )の帰国が実現した。
しかし、北朝鮮側が横田めぐみや有本恵子 (ありもとけいこ)(1960― )を含む8人について「死亡」と通告し、疑問点の多い報告書を出したために、日本の世論が猛烈に反発した。また、首脳会談で署名された「日朝平壌宣言」では、「拉致」ということばのかわりに、「日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題」という抽象的なことばが入ったことに対しても日本国民からは大きな反発があった。金正日は謝罪に踏み切ったが、やはり文書に「拉致」ということばを残すことには応じなかったのである。
北朝鮮の犯罪行為は南北対立が激化した1970年代後半と1980年代前半(韓国では朴正熙 (ぼくせいき)政権末期と全斗煥 (ぜんとかん)政権初期)に多発している。工作員による身分証明書の偽造、工作員教育係の確保、さらには拉致被害者自身を工作員として訓練しようとするなど、対韓・対日工作と密接に関連したものとみられる。
「救う会」は、政府認定の17人のほか、寺越昭二 (てらこししょうじ)(1927―?)、寺越外雄 (そとお)(1939―1994?)、寺越武志 (たけし)(1949― )ら7人を加えた24人が「確度の高い複数の情報で確定された」被害者であると主張したほか、2003年に設置された民間団体「特定失踪者問題調査会」は、拉致の可能性が「濃厚」なのは77人にも上るとした。
小泉純一郎は、2004年5月に再訪朝し、金正日から「白紙に戻して再調査する」との言質を取り付けた。しかし、同年8月(第1回)および9月(第2回)に日朝実務者協議が北京 (ペキン)で開催され、安否不明者に関する再調査について北朝鮮側から報告があったが、断片的な経過説明にとどまった。さらに、11月に平壌で開催された第3回協議で横田めぐみらの「遺骨」とされる物的証拠が提供されたが、それを精査した日本側は、まったく不十分で遺骨は別人のものと結論した。
日朝間の不信感が募り、長らく停滞状態に陥っていたが、拉致問題の解決を掲げて国民的人気を得た安倍晋三 (あべしんぞう)がふたたび首相になり、わずかながら好転の兆しがみえた。2014年5月26日から28日にストックホルムで開催された日朝政府間協議において、両国は、日朝平壌宣言にのっとって不幸な過去の清算と国交正常化実現の意思を明らかにしたのである。日本側は、北朝鮮側が日本人に関する包括的調査のために「特別調査委員会」を立ち上げ、調査を開始する時点で制裁を一部解除する方針を示した。
2014年7月1日、北京での日朝政府間協議において北朝鮮側は、特別調査委員会には、国家安全保衛部(秘密警察)、人民保安部(警察)、人民武力部(国防省)、人民政権機関等の関係者が含まれ、全体で30人程度であり、地方にも支部をおくと説明した。委員長には国防委員会安全担当参事兼国家安全保衛部副部長の徐大河 (ソデハ)が就いた。そもそも秘密警察の存在を伏せていた北朝鮮にすれば、やはり大きな転換のようにみえた。
また、拉致被害者、行方不明者、日本人遺骨問題、残留日本人・日本人配偶者の4分科会が設置されるとした。同月4日、北朝鮮側が国営メディアを通じ同内容と調査開始を発表したため、日本側は、(1)人的往来の規制措置、(2)支払報告および支払手段などの携帯輸出届出の下限金額の引下げ措置を解除し、(3)人道目的の北朝鮮籍船舶の入港を認めることにした。
しかし、北朝鮮側からの調査結果は公にされず、2016年2月北朝鮮側は、ミサイル・核実験にともなう日本政府の独自制裁に反発する形で、調査の全面中止と特別調査委員会の解体を発表し、ふたたび停滞状況に陥った。
「私の手ですべての拉致被害者を家族のもとに返してみせる」と何度も豪語した安倍晋三は、拉致問題解決どころか、1人の拉致被害者も奪還することができずに、2020年(令和2)菅義偉 (すがよしひで)政権が誕生することになった。その間にも拉致被害者の家族は高齢化しており、一刻も早い解決が望まれる。
2021年10月20日