Organization of Petroleum Exporting Countriesの略称。石油輸出国機構と訳される。1960年9月,イラン,イラク,サウジアラビア,クウェート,ベネズエラの5ヵ国が,イラクのバグダードで開催した会議で結成された。その後カタル(1961),インドネシア,リビア(1962),アブ・ダビー(1967。74年にアラブ首長国連邦(UAE)に委譲),アルジェリア(1969),ナイジェリア(1971),エクアドル(1973年加盟,92年脱退),ガボン(1975年加盟,96年脱退)が加盟し,現在の加盟国は11ヵ国である。北側の先進地域と東側の社会主義地域を除く南側の発展途上地域の主要産油輸出国が集まった国際機関である。結成の直接的契機は,1959年2月と60年8月の2回にわたり,国際石油会社(メジャー)が行った原油公示価格(産油国に対する利権料と所得税の基準となる計算(価格))の引下げに求められる。しかしその基礎には,石油資源の保有国がその資源に対する恒久主権をもつという考えが国際的に確立されはじめ,資源ナショナリズムが高揚しつつあった事実がある。ところが実際には,価格決定権をはじめ,石油の生産,輸送,精製,販売等のすべては,国際石油会社の手中に握られており,産油国は受動的に利益配分を受け取るだけの状況に対する不満や反発が,その主動因であったといえよう。
OPEC結成以来1960年代においては,世界の石油市場は,需給緩和状態が持続したために,公示価格のいっそうの引下げを阻止し,その維持に成功したという消極的成果をあげるにとどまっていた。70年代に入ると状況は一変し,OPECは巨大な力を発揮し,いわばOPECの世紀が実現したかのごとき事態が発生した。その原動力となったのは,価格の低迷によって需要が急増し,石炭から石油への転換が急進していったのに対して,新規の開発は進展せず,市場で需給逼迫化の傾向が顕著となったことであろう。まず,70年9月,リビアが原油公示価格と国際石油会社の所得税率の引上げに成功し,71年2月には,アラビア湾岸6ヵ国と国際石油会社との間にテヘラン協定が結ばれて,所得税率と公示価格の以後5年間の引上げ方式が規定された。さらに72年1月と73年6月には,通貨調整によるドル購買力の低下を補塡(ほてん)するための公示価格引上げ方式を規定したジュネーブ協定と新ジュネーブ協定とが締結された。この公示価格や利益配分率の引上げにとどまらず,石油資源の恒久主権を確保するために,産油国による自主開発と既存産油会社への事業参加がOPECの政策目標として打ち出された。その交渉は難航したが,サウジアラビアとアブ・ダビー両国と国際石油会社との間で72年12月にリヤード協定が調印された。その内容は73年の25%の事業参加からスタートし,82年には51%の過半の参加を達成するというものであった。
しかし,OPECと国際石油会社との交渉・協定による問題解決の方式は,73年10月の第4次中東戦争を契機にまさに劇的に展開されたOPECの攻勢により姿を消し,OPEC側が一方的な決定権を獲得するようになった。まず73年10月に,一方的に原油公示価格の70%引上げを決定し,74年1月からは,さらに131%強値上げされ,3ヵ月足らずのうちに,4倍近くにも高騰した。この結果,世界経済とくに日本を中心とする石油輸入国は,第1次石油危機に苦悩することとなった。
78年末からのイランの国内混乱(イスラム革命)を契機として第2次石油危機が発生して,原油の公式販売価格GSP(government sales price)(100%の事業参加や国有化がなされた結果,公示価格は意味を失う)はさらに3倍近くも値上げされ,81年11月から,標準原油のアラビアン・ライトの価格は,1バレル当り34ドルとなった。しかも,事業参加も,第1次石油危機以降急激に進められ,ほとんどの国で100%の事業参加や国有化が達成されており,その他の国でも60%参加が実現している。このように1960年代は苦節の10年であり,重要視されることのなかったOPECであるが,70年代には目ざましい成功の10年を謳歌することになる。加盟各国は巨額の産油収入を獲得して,意欲的に工業化,経済発展計画を推進してきた。
ところが,かかる石油価格の高騰は,世界経済とくに先進輸入国経済を困難におとしいれ,景気は低迷し,省石油およびOPEC地域以外での石油開発や代替エネルギーへの転換を大いに促進した。1980年代に入ると石油需要は絶対的に大きく減少を続け,石油市場はだぶつき状態を持続し,そのしわ寄せがOPEC加盟国に集中するようになった。この結果,82年には西側の非共産圏世界におけるOPEC諸国以外の原油生産は,OPEC諸国を上回るようになり,OPEC全体では生産能力の半分近い減産を余儀なくされた。ついに83年3月のOPEC臨時総会で,標準原油価格の1バレル34ドルから29ドルへの引下げを決定し,加盟各国は生産割当量を厳守することとなった。
OPECは,輸出国カルテルないし生産国カルテルといわれているが,加盟国全体が一致して生産を調整・制限し,価格の維持や値上げを図る行動を実行したのは,80年代に入り,価格引下げ実施に追い込まれるようになった前後からである。従来はむしろ消極的な意味で利害の調整を図り,各国独自の大幅な価格や生産量の変更を排除するためのゆるやかなグループであったという性格づけができよう。加盟11ヵ国をみても,政治体制や政治志向,国の規模や経済の発展水準や工業化水準等において,まったく種々雑多であり,最近の原油だぶつき時代を迎えて,利害や意見の対立は深刻化している。穏健派グループ(サウジアラビア,アラブ首長国連邦等)と急進派グループ(イラン,リビア,アルジェリア等),ロー・アブソーバーlow-absorber(人口規模も比較的小さく,工業化の基盤を欠き,産油収入の吸収能力が低く,巨額のオイルマネーをもつ国。サウジアラビア,クウェート,アラブ首長国連邦,カタル,リビア)とハイ・アブソーバーhigh-absorber(人口規模も比較的大きく,工業化の基盤をもち,産油収入の吸収能力が高く,収入が不足する国。その他6ヵ国)等の関係を考慮することが重要であろう。
OPEC全体として,原油の世界確認埋蔵量の3分の2を現在も保持している。今後世界景気が好況を持続し,石油需要も回復し,世界石油市場における需給関係がタイトになっていくとすれば,供給増大の主たる源泉は,OPECに依然として求めざるをえず,OPECを軽視することはできない。しかし1970年代のような圧倒的な力をふたたびもつとは思えないし,OPEC自体が内部の利害対立や多様性をどう調整していくのかも,大きな問題であろう。
OPECの機構は,総会(最高の決定機関で加盟国代表により年最低2回開催される),理事会,事務局(総長室,行政,経済,情報,法律,技術の各局,統計部)からなり,本部はウィーンにおかれている。すべての議決は,手続問題を除き,全会一致を原則としている。
→OAPEC(オアペック)
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