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長良川

ジャパンナレッジで閲覧できる『長良川』の日本歴史地名大系のサンプルページ

日本歴史地名大系

岐阜県:総論 > 長良川
長良川
ながらがわ

県のほぼ中央部に東西に横たわる位山くらいやま分水嶺山脈中に位置する見当けんとう(一三五二・一メートル)を源流とし、濃尾平野を経て、伊勢湾直前で揖斐いび川に合流する。地形的には河川争奪によって流域拡大がなされたとも考えられる大日だいにち(一七〇八・九メートル)叺谷かますだにを源流とする説もある。古くは地域ごとに藍見あいみ川、因幡いなば(稲葉)川、郡上ぐじよう川などとよばれた。山間部において吉田よしだ川・亀尾島きびしま川・板取いたどり川・津保つぼ川・武儀むぎ川などの支川を、平野部で伊自良いじら川など、流域面積一〇〇平方キロ以上の支川を流入する。流域面積一九八五平方キロ、幹川流路延長一六五・七キロ。一級河川。

〔流域とその地形の特徴〕

流域の地質は、本流源流域に鮮新世の安山岩・火砕岩と白亜紀の面谷流紋岩が、吉田川上流域に濃飛流紋岩が、そして板取川上流域に面谷流紋岩が分布するものの、全域的には石灰岩を挟んだ砂岩・粘板岩・チャートなどの中・古生界からなっている。地形は北西から南東、北東から南西と南北走向に配列する特徴を示しながら、本流源流域においては早壮年期山地を、それ以外の山地は急峻な斜面と深いV字谷からなる満壮年期山地を形成している。中流域のとくに武儀川から津保川流域にかけての山地には、岩石の風化・浸食に対する抵抗力の相違に起因した山稜部と鞍部とが交互に配列する特徴的な組織地形が形成されている。これらの地形は平面形態的には逆くの字形に屈曲する形態を示して分布し、金華きんか山はその最南端にあたる。当川もまた他川と同様廊下状の峡谷部と、堆積域にあたる盆地が交互に繰返し出現し、郡上郡白鳥しろとり町から八幡はちまん町にかけての地域や、美濃市から関市にかけての関盆地や、芥見あくたみ盆地などがその盆地の例である。これらの盆地には八幡断層や根尾谷断層・武儀川断層など、活断層やそれを想定させるリニアメントが会合しており、その特徴を反映した形態をとっている。また盆地内には高位・中位・低位の三段からなる段丘地形が分布している。山地から平野部にかけては砂礫床からなる扇状地が、岐阜市長良を扇頂として、伊自良川の合流点付近まで約一〇キロにわたって広がり、扇端部においてガマとよばれる顕著な湧水をみていた。この下流側に砂・シルトなどからなる自然堤防・後背湿地の卓越する帯域が、海津かいづ平田ひらた町付近まで約二〇キロにわたって広がり、この下流の同郡海津町には三角洲が帯域的に広がる。

河流は扇状地帯域において網状流、自然堤防・後背湿地の卓越する帯域や、三角洲帯域では曲流(蛇行流)する。扇状地帯域においては、扇頂を要として洪水の都度、河道が変遷するといっても過言ではなく、このために河道は網状形態を形成し、河道と河道に挟まれた河間地(中洲)は、島状形態を結果的に形成する。岐阜市内の近島ごんのしま旦島だんのしまなる地名はこのような地形からなる地域にあてられたものともいえる。昭和三〇年代までは、これらの網状流跡はおもに水田に、島状の河間地は桑畑や畑として利用されていたが、都市域の拡大に伴う宅地化や、河川改修に伴う盛土などの地形改変によって不明瞭になった。この網状流跡の名残が長良古ながらふる(早田川原)長良古々ながらふるふる(正木川原)や、その他の低水路などの地形である。昭和一一年(一九三六)に古川と古々川が岐阜女子短大の南で締切られ、長良川は現在の河道にほぼ固定された。なお当川の小支川にさかい川と荒田あらた川があり、両川流域は長良川との合流点に逆水樋門が設置されるまでは、長良川の連続堤形成に伴う天井川化と洪水時の洪水量の相違のために、内水氾濫の繰返される地域であった。

三〇〇分の一以下であった扇状地内の河床勾配も扇端部で変化し、自然堤防と後背湿地の卓越する帯域においては、一千分の一以下に減少する。往時には、自然堤防は集落と畑に、後背湿地を含む氾濫平野は水田・遊水地に土地利用されていた。三角洲帯域における河床勾配は、三千分の一以下になり、水田の卓越した土地利用になる。長良川沿いには、輪中が顕著に分布しているが、これらの三帯域はそれぞれ異なった水とのかかわりあいから形成された地形からなり、独特な自然環境を形成している。なお長良川はかつて芥見盆地内の岐阜市中屋なかやから、同市太郎丸たろうまる山県やまがた高富たかとみ町・岐阜市岩利いわりを経て、伊自良川の現河道を流れていたとする、いわゆる高富貫流説なる記録が存在するが、(一)高富―岩利間の谷中分水界の存在、(二)伊自良川水系の河床構成物・河流形態およびその地形特徴などから、一時的に洪水流の一波がこの区間を流れたとしても、恒常的な流路とは考えられない。

〔河道の変遷〕

長良川は、天文三年(一五三四)の大洪水によって、今日の姿に近いものとなったとされる。それ以前は奥美濃の山間から岐阜市西部までは、江戸時代郡上川と称された川筋を通り、右岸に武儀川、左岸に津保川を合せながらほぼ現在と同じ流路を流れたとみられる。金華山付近で濃尾平野に出ると岐阜市長良地区からそのまま西流し、同市早田そうでんの北、則武のりたけの南を通り、木田きだに至って現在の伊自良川筋を南下したという(長良古川)。それが天文三年の大洪水で早田の字馬場ばんばあたりで井水口を破壊して(現長良川)をつくり、岐阜町の北に沿って南西に流れて江口えぐちで以前からの長良古川と合流した。また慶長年間(一五九六―一六一五。一説に一九年)の長良川洪水で、長良の崇福そうふく寺前からさぎ山の南、則武と正木まさきの間を経て木田で現伊自良川筋に合流する新川(長良古々川)ができたという。寛永一三年(一六三六)に馬場にあった長良川役所が中河原なかがわら(現岐阜市)に移されているところから、この頃までに平水は主として井川を通り、出水の度合が大きくなるにしたがい、長良古川そして長良古々川へも通水するという状態であったと考えられる。また、墨俣すのまた(現安八郡墨俣町)付近で木曾川と合流して南下した墨俣川は、天正一四年(一五八六)の洪水で木曾川の流路が東寄りに変わったのに伴って、長良川の幹流となった。

〔用水〕

曾代そだい用水は、武儀郡曾代村で長良川から取水して、上有知こうずち松森まつもり(以上現美濃市)下有知しもうち・関・小瀬おぜを通って小簗おやな(以上現関市)で長良川に放流する用水で、寛文七年(一六六七)に着工され同九年にほぼ完成した。忠節ちゆうせつ用水は、長良川の水を忠節村(現岐阜市)で取水して、厚見あつみ郡一帯を灌漑し、少なくとも一六世紀中頃にはできていた。管理は、はじめ四人の井頭によって、幕末期には六人と見習一人によって行われた。このほか山県用水などが当水系を利用した。

〔運材〕

中世末から近世にかけて長良川は、郡上方面や金山かなやま(現益田郡金山町)を通じて飛騨からもたらされる材木・木製品の搬出川として重きをなしたことが、当時代官的豪商であり大材木商でもあって長良に拠点を構えていた中島両以についての記録「中島両以記文」などからうかがわれる。また長良川役所(現岐阜市)は、尾張藩の長良川の運材・舟運の取締の中心であったが、少なくとも岡田将監治政下の慶長期にはこの役所が存在したことは間違いなく、それに付属した問屋西川氏は材木筏を差配していた土豪的存在であった。元和五年(一六一九)に尾張徳川氏が長良川の運材・舟運の支配権を幕府より与えられてからは、近世を通じて尾張藩の役所であった。ここには御国奉行と代官の手代がそれぞれ一人ずつと(天明三年に常駐廃止)、日常の役銀徴収業務などにあたる問屋がおかれ、江戸時代を通じては西川氏が、それ以外に二、三人詰めていた時期もあった。同役所のおもな仕事は、もともとは材木一六本に対して一本徴収(木曾・揖斐川では六本に一本)するというのが役銀に変化した「十六分一役」や、竹筏・筏乗役銀と船荷物や、のちには「五寸榑船」「小船」「灰船」などの船に課せられた役銀を徴収することにあった。こうした役銀総額は、幕府が尾張藩に付与する際に「長良川高三百石」と見積られた。寛永一九年、材木は樹種や材種・規格により、船は積荷の種類に応じて徴収する役銀額を詳細に定めた役銀手鑑が作られて、材木や筏、荷船の取締制度が確立した。

長良川の上流郡上川では、慶安三年(一六五〇)に六割公収・四割拾い主という流木拾い木の制度ができて、立花たちばな(現美濃市)又兵衛が円城寺役所管轄でその取締を命ぜられた。立花村は筏の出発点で、寛文四年には五四人の筏乗手がいた。長良川役所のある中河原には、役所付き問屋西川氏が差配する四六人の筏乗手、四〇人の小揚人足がいた(西川文書)。津保三郷仕出材木は、津保川筋で陸揚げされる分については、享保八年(一七二三)から三郷庄屋が材木改と役銭徴収をすることになった(尾張地方古義)

〔舟運〕

長良川の舟運は、初めは榑木運搬が主要なものであったらしいことは、七寸榑を積む船の役銀が五匁四分八厘と最高であったこと、本来五寸榑を運んだ五寸榑船が荷船の代名詞になっていたことなどから想像できる。また近世前期から下流地域で燃料とされた藁や豆木などの灰が上流地域で肥料として使われ、それを運ぶ船を灰船と称して、役銀は干大根・たまり・かは・きわた・くり・わさびを積んだ船と同額の一匁一分九厘と最も安い船役銀であった。享保九年船の規格が、五寸榑船は長さ八間・幅四尺五寸、小舟は長さ五間・幅三尺三寸などと定められ、船役銀は積荷の種類ではなくて右の規格船に応じて、前者には二匁七分四厘を、後者には一匁一分九厘が課せられることになった。灰船は五寸榑船であっても灰を積上る限りは灰船であって、役銀は小舟と同額であった。そして船役銀の集計が五寸榑船と灰船の二つに換算されていたということは、灰船が役銀一匁一分九厘を上納する荷船の代表的な存在であったことを物語っている。

岐阜町と対岸の長良三郷および池上いけのうえ尻毛しつけ(現岐阜市)など伊自良川と長良川との合流地あたりは、このような五寸榑船や小船・灰船所持者が最も多かったところで、長良川舟運の一大拠点であった。幕府への書上によれば、享保八―一〇年に長良辺から下った船は、一年に平均して一千七〇〇艘であったという。荷船の取締や役銀徴収は、長良川役所以外では須原すわら保木脇ほきわき番所(現美濃市)が貞享四年(一六八七)に設置され、荷船の役銀徴収にあたったほか、長良川下近在から岐阜に運ばれる荷物については、元禄一四年(一七〇一)から池上村庄屋が役銭徴収にあたり、また抜荷監視役として宝永五年(一七〇八)に鵜匠安藤氏が川通目付に任じられた。また延享三年(一七四六)から抜荷守が設置され小瀬村の鵜匠足立氏が任じられた。

〔湊〕

長良川の川湊のおもなものは、近世後期には、立花・上有知・小瀬、長良・岐阜・河渡ごうど(現岐阜市)・墨俣・中島などであった。上有知は、紙や林産物・茶・生糸などを下す長良川最上流の湊として栄えた。とくに生糸は、上有知の曾代に集荷されて船積され、河渡経由で駄送で岐阜町や京都方面に送られ、曾代糸として知られた。また正保四年(一六四七)には、飛騨の材木・白木で武儀郡の金山役所を経由しない抜荷の、上有知への駄送が禁じられているところから材木市場が形成されていたと考えられる。また長良川が西流から南西流に大きく変わるところに位置する鏡島かがしま(現岐阜市)は、長良川を遡上する荷船の最終地点とされていた。もともとは地形的制約から遡上しうる最終湊だったのであろうが、文禄元年(一五九二)に織田秀信が与えた判物(馬淵鈴之助氏所蔵文書)によれば、来住の自由と、そこでは世俗の主従関係などの絆から解放されることが保証された楽市であったことがわかる。こうした楽市はこのほかに呂久ろく(現本巣郡巣南町)の渡しなどいくつもあったが、慶長期になると大かた湊の楽市的性格は失われて、鏡島湊も湊町という名前に名残をとどめるだけになった。しかしこの頃は上流への航行が可能になっていたにもかかわらず、岐阜や加納あるいは上流地域へは、領主荷物など以外はこの湊で陸揚げして駄送するという旧来からの制度が、加納藩や幕府によって認められていた。これに対して、加納かのう城下(現岐阜市)にとっては、鏡島湊を経由して陸送されるより、長良川から荒田川に入って大野おおの(現岐阜市)に至り、清水川を経て城下に至るルートのほうが有利であったから、宝暦元年(一七五一)には、荒田川から正法寺しようぼうじ用水、さらに下川手村新堀通から清水川に通じる水路が加納町人によって計画されたが、鏡島の強い反対にあって挫折した。しかし幕末には、城下の長刀堀下と大野を直結する新川が開かれて、大野湊と城の南脇門とが結ばれた。

〔鵜飼〕

近世の長良川の鵜飼は、鵜匠が住む小瀬と長良とが尾張藩領であったこともあって、尾張藩が管理・統制していた。しかも元和元年に徳川家康が観賞し鮎鮨を所望したことから将軍家献上用として、鵜飼・鮎鮨製造さらに江戸への運搬に至るまでが、幕府や尾張藩から手厚く保護された。全国的にみても、領主の管理と保護とが最も行届いた鵜飼であったといえよう。

鵜匠の人数は、一八世紀中頃以降長良が七人、小瀬が五人にほぼ固定した。五月五日から九月九日まで鵜飼舟一艘一夜(一ヵ月に七夜は月夜で鮎がとれないので免除)につき鮎三七匹を定値段で御鮨所おすしどころ(御鮨屋)に、三月二日より五月四日までは小鮎を納めた。このため、鵜匠の所持高に賦課される諸役が免除されたほか、扶持米・金、篝松代・鵜餌代・新鵜買入代・舟乗給などが藩から支給された。尾張藩御用の鮎鮨をつくる御鮨所は、初めは河崎家一軒であったが、のちに同族二軒で勤め、藩から屋敷地の除地をはじめ切米支給や、鮨製造に必要な炭薪・塩・米・鮨を入れる籠などが支給された。将軍家献上の鮎鮨は、岐阜・加納から笠松かさまつ(現羽島郡笠松町)を経て尾張一宮・清洲・熱田と東海道を、老中奉書を掲げて優先的に江戸まで宿継で運ばれ、藩用は馬で中山道経由で運ばれた。このように手厚く保護された鵜飼ではあったが、鮎の減少とほかの漁法の盛行とによってしだいに不漁となり、宝暦二年には幕府から、長良川・郡上川・津保川・河浦川・さかい川・まき川・武儀川・板屋いたや川・伊自良川・大桑おおが川・糸貫いとぬき川・五六ごろく川・真桑まくわ川で、新簗・新そじ打ち・堰留、鵜舟の先での網漁など鵜飼の妨げになることがいっさい禁止された。長良川水系は鵜飼最優先の川とされたのである。しかし、文久二年(一八六二)になると献上鮎鮨が停止されたことや、慶応期(一八六五―六八)には鵜匠から釣人二千人と見積られるほどの鮎釣の盛行などによって、鵜飼の優越的地位は失われつつあった。そこで鵜匠たちは、この鮎釣や一九世紀に入って盛んになってきた庶民の鵜飼観賞船などを管理統制しようと試みたり、幕府が倒れて新政府が成立するや有栖川宮家に塩粕漬鮎を調進するなどして、それまでのような他漁に対する鵜飼の優越的地位を保持しつづけようとしたのであった。



日本大百科全書(ニッポニカ)

長良川
ながらがわ

岐阜県の中央部を南流する河川。一級河川。延長166キロメートル。水源を大日 (だいにち)ヶ岳(1709メートル)に発し、山間部で吉田 (よしだ)川、板取川、武儀 (むぎ)川、津保 (つぼ)川など、平野部で鳥羽 (とば)川、糸貫 (いとぬき)川などをあわせたのち、羽島 (はしま)市南端から木曽 (きそ)川と並んで伊勢 (いせ)湾に注ぐ。木曽川、長良川、揖斐 (いび)川の木曽三川のなかでは、もっとも上流まで川沿いに平地が開け、集落が比較的多い。下流では、水害を防ぐため、古くから輪中 (わじゅう)が発達し、三川分流工事も行われてきた。一方、伝統の鵜飼 (うかい)が、多くの観光客を集めている。

[上島正徳]



世界大百科事典

長良川
ながらがわ

岐阜県のほぼ中央部,美濃地方を南流する川。幹川流路延長165.7km,全流域面積1985km2。長柄川とも書き,古くは,因幡(いなば)川(《今昔物語集》)などとも称されている。上流は郡上(ぐじよう)川という。郡上市の旧高鷲村,大日ヶ岳に源を発し,奥美濃山地を南流,旧八幡町で吉田川,美濃市で板取川を合わせ,関市で分流して川中島をつくる。岐阜市芥見(あくたみ)で武儀川と津保川,やや下流で伊自良川,荒田川などを合わせ,海津市より下流は木曾川と瀬割堤を隔てて並流し,三重県桑名市で揖斐(いび)川と合流して伊勢湾に注ぐ。上流の郡上市の旧白鳥町,旧八幡町付近では川幅も広く河岸段丘を発達させ,岐阜市で緩傾斜の扇状地をつくり,瑞穂市から下流に低湿な三角州を形成する。上流には発電用のダムがなく,木曾,揖斐,長良の木曾三川のうちで最も自然河川に近い川である。本支流の各地にキャンプ場が開かれ,アユ釣りでも親しまれる。岐阜市内も清流が流れ,水泳場にもなり,夏の夜には観光鵜飼いが行われる。また都市用水,灌漑用水にも利用される。上流の山地は多雨地帯で,梅雨期,台風期にはしばしば大洪水をもたらし,たびたび流路も変わり水害を受けた。そのため三角州地帯では洪水の自衛手段として集落や田畑を囲む輪中堤が発達したことで知られる。明治以降も洪水と内水排除の闘いの連続であるが,明治20年代の木曾三川の分流工事完成後は輪中堤もしだいに姿を消しつつある。1988年から桑名市の河口付近で河口堰が建設され,この計画の推進にあたっては,治水と利水をめぐって賛否両論が,激しく闘わされた。95年4月末までに推進派と反対派の会議は続けられたが,両者の主張は平行線のまま終了,河口堰は完成し,5月末に運用が開始された。
[高橋 百之]

歴史

古くは長良川の主流は,上流郡上川が山県(やまがた)郡の中屋から西流して伊自良川を合わせ,方県(かたがた)郡の岩利(いわり)(ともに現,岐阜市)から南流して津保川を入れ,墨俣(すのまた)で境川(古木曾川)に合流していたが,1534年(天文3)の郡上川の大洪水で中屋から南下して,芥見で津保川に合流し,長良,鏡嶋(かがしま)(ともに現,岐阜市)を経て境川に入るようになった。1611年(慶長16)の洪水では,長良崇福寺の前に新川が分出して伊自良川に合流するようになった。

 鎌倉時代,主流沿いの方県郡鵜飼荘の荘民が鵜飼いを行って魚年貢を納め,室町時代末,鏡嶋の乙津(おつしん)寺に宿泊していた一条兼良が江口で鵜飼いを見物しているなど,早くから長良川の鵜飼いが行われていた。主流が岐阜の北を流れるようになると,鵜飼いも長良で行われるようになり,領主の保護もあって盛んになった。水運も戦国末~近世初頭以来盛んとなり,上流に上有知(こうずち)湊(現,美濃市),中流に長良,河渡(ごうど)(現,岐阜市),墨俣などの河岸が出現した。鏡嶋湊は登せ荷物陸揚げを独占し,上有知湊は飛驒の木材,林産物,奥美濃の木材,林産物,美濃紙,茶,生糸などを川下げする港町として発展した。木材が揚げられる岐阜の中河原には材木市場が立ち,近くに材木町も発達した。はじめ早田(そうでん)の六分一番所,のち長良川役所が設けられ,川下げされる商品に役銀が掛けられた。中山道の河渡の渡,岐阜町と長良との往来などに渡船があった。水害も多く,中・下流に輪中ができ,宝暦年間(1751-64)の三川分流工事には,揖斐川に流れ込む分流の大榑(おおぐれ)川の洗堰工事が行われている。
→宝暦治水事件
[高牧 実]

[索引語]
長柄川 郡上(ぐじよう)川 輪中 木曾三川 境川(木曾川) 鏡嶋 鵜飼い 上有知 長良 河渡 墨俣
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1. 長良川画像
日本大百科全書
糸貫いとぬき川などをあわせたのち、羽島はしま市南端から木曽きそ川と並んで伊勢いせ湾に注ぐ。木曽川、長良川、揖斐いび川の木曽三川のなかでは、もっとも上流まで川沿い
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日本国語大辞典
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4. ながらがわ【長良川】
国史大辞典
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5. ながらがわ【長良川】岐阜県:総論
日本歴史地名大系
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6. ながらがわ【長良川】三重県:桑名郡
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7. 長良川(ながらがわ)
古事類苑
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古事類苑
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9. 長良川河口堰
日本大百科全書
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日本歴史地名大系
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12. なから川(著作ID:392836)
新日本古典籍データベース
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17. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
七坪・一三坪・一九坪を東端としていたという(前掲永治二年解案)。厚見郡の条里の起点は、一条が長良川付近、一里が現岐阜市日置江付近と思われ、北から南へ一条・二条、
18. あきえむら【秋江村】岐阜県:海津郡/海津町
日本歴史地名大系
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19. あくたみかし【芥見河岸】岐阜県:岐阜市/旧山県郡・各務郡地区/芥見村
日本歴史地名大系
[現]岐阜市芥見町屋 郡上川(長良川)筋の川湊で、町屋河岸ともいう。上流筋に中屋と小瀬(現関市)、下流筋に日野・長良・河渡などの川湊があるが、当河岸は長良河岸に
20. あくたみごう【芥見郷】岐阜県:美濃国/各務郡
日本歴史地名大系
「各務原市史」もそれに倣っている。郷の西端、長良川を望む地に式内社伊波乃西神社があり、さらに隣接して日子坐皇子(開化天皇の子)のものと伝える墓がある。また東山道
21. あくたみむら【芥見村】岐阜県:岐阜市/旧山県郡・各務郡地区
日本歴史地名大系
各務郡の北西端に位置し、広い村域の北西部で長良川と武儀川が合流する。「和名抄」記載の各務郡芥見郷の遺称地で、中世は芥見庄として推移する。村内を郡上街道が通り、郡
22. あぐりごう【安群郷】岐阜県:美濃国/郡上郡
日本歴史地名大系
しかし「日本地理志料」の説は、西和良村が飛騨川水系の和良川筋にあるのに対し、下川村・嵩田村は長良川流域の下川筋にあり、また両地区は山系によって隔てられており、一
23. あげもんちょう【上ヶ門町】岐阜県:岐阜市/岐阜町
日本歴史地名大系
西の町並。北を長良川が南西流し、東は七曲町、西は岐阜町惣構堤を越えて忠節村・明屋敷新田村に至る。岐阜町四四町の一。岐阜町の西町口にあたり、西ノ町口・上ヶ門口とも
24. 足半
世界大百科事典
いた足半を,敵の首をとってきた金松又四郎に下賜したといい,そのときの足半が今に遺存している。長良川の鵜匠が履く足半は三角形で,より多く指が接地するようくふうされ
25. あたげむら【安毛村】岐阜県:美濃市
日本歴史地名大系
[現]美濃市安毛 長良川とその支流板取川との合流点南側に位置する山方の村。南は前野村。慶長郷帳に「あたげ村」とみえ、村高一一八石余。元和五年(一六一九)幕府領か
26. あつみぐん【厚見郡】岐阜県:美濃国
日本歴史地名大系
加納城下町とに分極していた。岐阜町は諸物資の集散地として繁栄し、隣接する中河原新田村には長良川舟運をつかさどる長良川役所、古屋敷新田村には献上鮎鮨をつくる御鮨所
27. 厚見郡岐阜町絵図(町絵図)[文献解題]岐阜県
日本歴史地名大系
金華山下に広がる町内や周辺の村方に成立した町筋を記載し、町名を示しており、尾張藩岐阜奉行所・同長良川役所などもみられる。 複製 「岐阜県史」史料編近世四付録
28. あなぼらむら【穴洞村】岐阜県:郡上郡/高鷲村
日本歴史地名大系
[現]高鷲村大鷲 長良川右岸の山地で、南は白川街道で中切村に、南東は長良川を隔てて向鷲見村。正保郷帳によれば田方九石余・畑方四九石余。宝暦六年(一七五六)の郡上
29. 油坂峠
世界大百科事典
阜県郡上(ぐじよう)市の旧白鳥町の境にある峠。標高750m。九頭竜川の上流穴馬(あなま)谷と長良川の上流上ノ保(かみのほ)川の谷を結び,古くから大野と白鳥間の重
30. あぶらさかとうげ【油坂峠】岐阜県:郡上郡/白鳥町
日本歴史地名大系
白鳥町向小駄良と福井県大野郡和泉村とを結ぶ県境の峠。越美山脈にかかり標高七八〇メートル、長良川の支流向小駄良川の水源である。当峠から向小駄良への道は急坂であった
31. あぶらじましんでん【油島新田】岐阜県:海津郡/海津町
日本歴史地名大系
[現]海津町油島 金廻村の南、長良川右岸に立地する。伊勢国桑名郡に属し、天保郷帳では西の江内村の枝郷となっている。宝暦治水工事のうちの難工事である油島締切工事で
32. あゆ‐ずし【鮎鮨】
日本国語大辞典
〔名〕塩、酢に漬けた鮎の腹に、飯を詰めて作った鮨。江戸時代に最も知られたのは、尾張藩のもので、自領長良川の鵜飼(うかい)で獲れた良型の鮎を材料とした。幕府や禁裏
33. あらたがわ【荒田川】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
岐阜市南西部を西流し、日置江で長良川に合流する。全長六・四キロ。古くは百曲川とも称され、「木曾川概況」に「水源美濃国金華山ヨリ発シ下奈良村ニテ長良川ニ会ス」とあ
34. 安八[町]
世界大百科事典
岐阜県南西部,安八郡の町。人口1万5271(2010)。町の東西を長良川,揖斐(いび)川が流れ,三角州が町全域を占める。古くから水害に悩まされたが,住民は輪中堤
35. あんぱち【安八】
日本国語大辞典
岐阜県の南西部の郡。長良川・揖斐(いび)川の流域にある。古くは「あはち」「あはちま」といい、安八磨・味蜂間などと書いた。*二十巻本和名類聚抄〔934頃〕五「美濃
36. あんぱちぐん【安八郡】岐阜県
日本歴史地名大系
たため、現在の安八郡は南部の輪之内町・安八町・墨俣町と北部の神戸町に分断される。南部の三町は長良川の右岸、揖斐川の左岸の輪中地帯に位置し、東は岐阜市・羽島市、西
37. あんぱちちょう【安八町】岐阜県:安八郡
日本歴史地名大系
面積:一八・三四平方キロ 安八郡の中央部に位置し、東は長良川を隔てて羽島市、西は揖斐川を隔てて大垣市、南は輪之内町、北は墨俣町と本巣郡穂積町・巣南町に接する。明
38. いくしごう【生櫛郷】岐阜県:美濃国/武藝郡
日本歴史地名大系
本地理志料」など)。中有知地区は長良川左岸にあり、南に連なる現関市の長良川左岸部を郷域に含める見解がある(大日本地名辞書・日本地理志料)。しかし中世以前の長良川
39. いくしむら【生櫛村】岐阜県:美濃市
日本歴史地名大系
[現]美濃市生櫛 長良川左岸に位置し、東は松森村、下有知村(現関市)。生串・猪串などとも記し、村は上下に分れる。当村辺りの長良川は流路をしばしば変え、中世以前は
40. いけじりむら【池尻村】岐阜県:関市
日本歴史地名大系
[現]関市池尻 湾曲流する長良川右岸にあり、東から南の対岸は下有知村・小瀬村。武儀郡に属し、白鳳期の弥勒寺跡がある。村名の由来を「新撰美濃志」は「池水の流れ出る
41. いけのうえむら【池之上村】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
県明神にあたるとされる(新撰美濃志)。かつては長良川の堤防上に位置し、欅の森の中にあった藤を神木としていたというが、昭和一二年(一九三七)長良川の改修工事に伴い
42. 十六夜日記(中世日記紀行集) 276ページ
日本古典文学全集
「心さへ結ぶの神や作りけむとくるけしきも見えぬ君かな」(詞花・恋上 能因)。解消せぬ恨み。為氏との確執をさす。長良川。安八郡墨俣町東部を流れる辺りでの称。マサキ
43. いしがめしゃいせき【石亀社遺跡】岐阜県:郡上郡/美並村/大矢村
日本歴史地名大系
[現]美並村大原 大矢 長良川左岸、北西へ下る河岸段丘の緩斜面に位置し、石亀社の周囲約二〇〇平方メートル。昭和四九年(一九七四)発掘調査が行われ、縄文時代後期・
44. 石本美由起[約4000曲の歌謡曲作品を残した作詞家、死去]
情報・知識 imidas
美空ひばりの「港町十三番地」「悲しい酒」など約4000曲の作品を手がけ、83年の「矢切の渡し」、84年の「長良川艶歌」では日本レコード大賞2年連続受賞。日本音楽
45. いしもと-みゆき【石本美由起】
日本人名大辞典
「憧れのハワイ航路」「悲しい酒」などおおくのヒット曲をつくる。58年の「矢切の渡し」,59年の「長良川艶歌」で連続日本レコード大賞。平成元年日本音楽著作権協会理
46. いじらがわ【伊自良川】岐阜県:岐阜市/旧方県郡・本巣郡地区
日本歴史地名大系
山県郡南西部から岐阜市北西部を流れる長良川の支流。山県郡伊自良村の西北端釜ヶ谷山を源として南流し、同村長滝で伊自良湖を形成、さらに南流して同郡高富町の西端をかす
47. 伊勢国
世界大百科事典
四日市,若松,白子,津,大湊などの港湾を結んで発達した。河川交通は北勢の木曾,揖斐(いび),長良川で盛んだったが,中勢以南では平坦で便利な陸路に恵まれていたため
48. 伊勢平野
世界大百科事典
堤と後背湿地をもつ沖積平野が南北に連なり,山麓の段丘や扇状地群と接している。北端には木曾川,長良川によって形成された輪中地帯,揖斐(いび)川の三角州,鈴鹿川,岩
49. 板取川
日本大百科全書
長良川ながらがわの一支流。岐阜・福井県境の平家岳へいけだけ(1442メートル)に水源をもち、岐阜県関市板取、同市洞戸ほらど地域内を南流し、さらに美濃みの市牧谷ま
50. いたどりがわ【板取川】岐阜県:武儀郡
日本歴史地名大系
長良川の支流で、全長五二・八キロの一級河川。流域面積は三一三平方キロ。牧川ともいう。板取村北西端の左門岳(一二二三・六メートル)東麓に源を発し、日永岳・明神山・
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ライン川(世界大百科事典)
Rhein[ドイツ]Rhin[フランス]Rijn[オランダ]アルプスに源を発し,北海に注ぐ中部ヨーロッパの河川で,西部,中部ヨーロッパではドナウ川に次ぐ流量を誇る。ドイツでは〈母なるドナウ〉と対照的に〈父なるラインVater Rhein〉と呼ばれ
長良川(日本歴史地名大系)
県のほぼ中央部に東西に横たわる位山(くらいやま)分水嶺山脈中に位置する見当(けんとう)山(一三五二・一メートル)を源流とし、濃尾平野を経て、伊勢湾直前で揖斐(いび)川に合流する。地形的には河川争奪によって流域拡大がなされたとも考えられる大日
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冬から春へと季節が移るころ、冬のうちとは風向きの異なる強風が急に吹き出すことがある。この現象を戒めたことばで、漁業従事者たちの間で、海難防止の意味合いで使われだしたといわれる。春一(はるいち)ともいう。冬のうちの北風、西風を吹かせた西高東低型の気圧
富士山宝永噴火(国史大辞典)
宝永四年(一七〇七)十一月二十三日に始まり、十二月八日まで続いた富士山南東側中腹付近での大噴火。大量の火山弾、火山灰が降ったため「宝永の砂降り」ともよばれる。被災地域は駿河・相模・武蔵三国に及び、江戸でも降灰があり雪が降るようであったという(新井白石
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アルデバラン(日本大百科全書・世界大百科事典)
おうし座のα(アルファ)星の固有名。アラビア語で「後に続くものAlDabaran」の意で、同じおうし座のプレヤデス(すばる)よりも少し遅れて日周運動していることに由来する。日本でもいくつかの地方で「すばるの後星(あとぼし)」とよばれている。冬の夜空で
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