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  11. 六波羅探題

六波羅探題

ジャパンナレッジで閲覧できる『六波羅探題』の国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典のサンプルページ

国史大辞典

六波羅探題
ろくはらたんだい
鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関、およびその長をいう。「探題」は元来、仏教で論議の際に論題を定め、問答の可否を判定する役を意味するが、転じて政務を裁決するこの重職を指すようになった。鎌倉時代末期に著わされた『沙汰未練書』に「探題者、関東者両所(執権・連署)、京都ニハ六波羅殿ヲ云也」とあり、元弘三年(一三三三)三月の忽那重清軍忠状(『忽那文書』)に「長門周防探題」とあるから、そのころには六波羅探題の称も成立していたと見られる。しかし、鎌倉時代に六波羅探題と称した証拠はなく、単に六波羅・六波羅守護などと呼ぶのが普通である。六波羅はかつて平氏の本拠地であり、のち没官地として源頼朝に与えられたものと思われる。文治元年(一一八五)に北条時政が上洛して以来、京都守護の庁舎は六波羅にあったらしく、他に頼朝邸や御家人の館も建っていたようである。承久元年(一二一九)摂家将軍として鎌倉に迎えられた九条頼経も、六波羅から出発している。同三年、承久の乱が起ると、京都守護のうち大江親広は後鳥羽上皇方に招かれ、伊賀光季は上皇方に討たれた。この乱に幕府勢を率いて都に攻め上った北条泰時・時房は、そのまま六波羅館に住み、乱後の処理や庶政にあたったが、これが六波羅探題の起源である。泰時は六波羅北方、時房は同南方となったが、それ以来、北・南各一名の探題が北条一門の中から選任された。ただし、この中では北方の方が家格が高く、南方にはしばしば欠員があった。両探題の中の一方は、執権探題として政務を主導した。『京都坊目誌』に、北方は五条末から六条坊門末、南方は六条坊門末から六条末、いずれも大和大路以東とあるが、そのように広大な館があったとは思われず、六波羅の地には北殿・南殿(六条大和大路にあった)のほか、若干の館や空地などもあったと思われる。鎌倉時代後期には摂津(北方)・播磨(同)・丹波(南方)など、京都周辺諸国の守護を兼ね、被官を守護代に任じて、強力な支配を樹立した。六波羅探題の職務は、第一に「洛中警固」、すなわち京都をはじめ、近国の治安維持であり、南北両探題の被官が検断頭人としてこれにあたり、在京(在地)の御家人を指揮した。第二に「西国成敗」、すなわち西国に関する裁判である。すでに元仁元年(一二二四)には美作国梶並荘の新補地頭をめぐる相論について、六波羅で問注が行われ、問注記が作成されたこと、奉行人が存在したことが知られる(『宮寺縁事抄』)。評定衆は弘長三年(一二六三)六月の後藤基政・安達頼景が(『吾妻鏡』)、訴訟機関としての引付は弘安元年(一二七八)十二月が(内閣文庫所蔵『美濃国茜部庄文書』)、それぞれ史料上の初見である。最初はすべてを引付が処理したが、正安二年(一三〇〇)―正和二年(一三一三)の間に検断方が成立し、引付は所務・雑務沙汰を、検断方は検断沙汰を担当するようになった。引付は五方に分かれ、一方ごとに評定衆を兼ねる頭人の下に、引付衆や奉行人が置かれた。検断方では、検断頭人の下に奉行人が置かれていた。西国、すなわち六波羅の管轄区域は尾張・加賀以西であったが、永仁五年(一二九七)―元応元年(一三一九)の間に三河が六波羅の管轄に移った。また鎮西探題の成立後は、鎮西の諸国が六波羅の管轄から離れた。六波羅では守護・地頭などを処罰できず、終局確定の判決を与える権利を持たず、主として訴訟準備手続の進行を行うにすぎなかったが、領家・地頭の相論が増加し、関東の政務は繁忙で渋滞し、六波羅の権限を強める必要が生じた。文永四年(一二六七)までには越訴機関も成立しており、建治三年(一二七七)ごろを中心に、六波羅の機構は次第に整備され、裁判権も強化されていった。しかし、それでも探題個人の裁量権がかなり強かったし、六波羅の裁判権は幕府のそれに対しては従属的で、鎌倉時代末に至るまで、重要事項の裁判は幕府で行われた。第三に前述の二項のいずれとも関係するが、朝廷との交渉が挙げられる。これには、朝廷側の関東申次である西園寺家を介することが多かった。しかし重要事項は六波羅を越えて、直接東使があたる場合もあり、六波羅や関東申次の披見を許されない文書もあった。裁判についていえば、朝廷側で提起された訴訟を移管されて審理、裁決し、強制執行を行う場合もあり、そのため朝廷の裁判権を蚕食する結果となった。職員は検断頭人を除けば文筆官僚が多く、そのため鎌倉幕府の滅亡にあたっては簡単に脱落し、次の建武政府や室町幕府で事務官僚として活躍する者が多かった。正慶二年(一三三三)五月、後醍醐天皇方の千種忠顕・赤松則村・足利高氏らの攻撃を受けて六波羅探題は陥落した。両探題は持明院統の光厳天皇および後伏見・花園両上皇を奉じ、関東に逃れようとしたが、南方の北条時益がまず苦集滅道(くずめじ)で戦死し、北方の北条仲時以下も近江の番場(ばんば)で自害し、ここに六波羅探題は滅亡を見るに至った。→京都守護(きょうとしゅご),→探題(たんだい)
[参考文献]
佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』、森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』、上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』、瀬野精一郎編『鎌倉幕府裁許状集』下、木内正広「鎌倉幕府と都市京都」(『日本史研究』一七五)、外岡慎一郎「六波羅探題と西国守護」(同二六八)、森幸夫「南北両六波羅探題についての基礎的考察」(『国史学』一三三)、同「六波羅探題職員ノート」(『三浦古文化』四二)、高橋慎一朗「六波羅探題被官と北条氏の西国支配」(『史学雑誌』九八ノ三)
(上横手 雅敬)


日本大百科全書(ニッポニカ)

六波羅探題
ろくはらたんだい

鎌倉幕府が京都の六波羅に設置した機関、およびその長官。ただし探題という称呼は南北朝時代以後のもので、鎌倉時代には単に六波羅、六波羅守護などとよんだ。1185年(文治1)以来、幕府は京都守護を置いたが、1221年(承久3)の承久 (じょうきゅう)の乱の際、後鳥羽 (ごとば)上皇に滅ぼされた。この乱にあたり、幕府軍を率いて上洛 (じょうらく)した北条泰時 (やすとき)・時房 (ときふさ)は、そのまま六波羅の北・南の居館に駐留し、乱後の処理にあたった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され、これを六波羅北方(北殿)、同南方(南殿)とよび、幕府の執権 (しっけん)、連署 (れんしょ)に次ぐ重職であった。しかし北と南とでは、北方のほうが上席であり、南方にはしばしば欠員があった。探題の職務は、第一は朝廷との交渉で、これには朝廷側の関東申次 (もうしつぎ)である西園寺 (さいおんじ)氏を介することが多かった。第二は京都をはじめ近国の治安維持で、これには探題の被官が検断頭人 (けんだんとうにん)としてあたり、御家人 (ごけにん)を統率した。第三が裁判で、六波羅評定衆 (ひょうじょうしゅう)、同引付衆 (ひきつけしゅう)らが担当したが、その職員には、幕府の評定衆をはじめとする事務官僚の上洛したものが多い。これら六波羅探題の諸機関は徐々に整備が進められ、幕府の機構に準ずるものとなった。裁判の管轄区域は、尾張 (おわり)(のち三河 (みかわ))、加賀 (かが)以西で、鎮西 (ちんぜい)探題の成立後は九州が管轄から離れた。六波羅の裁判権はしだいに強化されていったが、重要事項については鎌倉末に至るまで、幕府が裁判権を握っていた。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐 (ごだいご)天皇方の千種忠顕 (ちぐさただあき)、赤松則村 (あかまつのりむら)、足利高 (あしかがたか)(尊)氏 (うじ)らが六波羅を攻撃、探題北条仲時 (なかとき)は持明院統 (じみょういんとう)の後伏見 (ごふしみ)・花園 (はなぞの)両上皇、光厳 (こうごん)天皇を奉じて逃走したが、近江 (おうみ)で敗死し、ついに六波羅探題は滅亡した。

[上横手雅敬]



世界大百科事典

六波羅探題
ろくはらたんだい

鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関,およびその長。鎌倉末期,1319-22年(元応1-元亨2)ころ成立した《沙汰未練書》に〈探題とは,関東は両所,京都には六波羅殿を云ふ〉とあるのが六波羅探題の呼称の初見であり,通常は単に〈六波羅〉ということが多かった。1185年(文治1)以来幕府は京都守護を置き,洛中の警備や京・鎌倉の連絡に当たらせた。しかし1221年(承久3)後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ,承久の乱が起こると,京都守護の一人大江親広は招かれて上皇方に加わり,今一人の伊賀光季は上皇方に討たれた。この乱に当たり,幕府軍を率いて上洛した北条泰時とその叔父時房は,そのまま都にとどまり,六波羅の北・南の館に駐留し,乱後の処理に当たることになった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され,これを六波羅北方(北殿),六波羅南方(南殿)とよんだ。両者の中では北方が上席であり,南方にはしばしば欠員があった。南方,北方を歴任した人物は3名ある。北条兼時は1284年(弘安7)12月から87年8月まで南方,93年(永仁1)正月まで北方,北条時敦は1310年(延慶3)7月から15年(正和4)6月まで南方,20年(元応2)5月まで北方に在職した。特異なのは金沢(かねさわ)貞顕の場合である。1302年(乾元1)7月から08年11月まで南方の任にあった貞顕はいったん鎌倉に帰った後,10年6月北方として上洛し,13年11月まで在任したが,再度の六波羅勤務には不満であったという。

 六波羅探題の所在地は,北方が五条末(現在の松原通)から六条坊門末(現在の五条通),南方が六条坊門末から六条末(現在の正面通)にわたり,いずれも大和大路以東に位置していた。六波羅にはかつて平氏の邸館があったが,のちその地は源頼朝に与えられ,頼朝は平頼盛邸跡に新邸を造り,1190年(建久1)の上洛の際には宿所とした。鎌倉に帰るに当たり,頼朝は六波羅新邸の留守を一条高能に命じた。しかしこの頼朝邸は1203年(建仁3)火災で焼失し,ついに再建されなかった。六波羅探題はこの跡地に建てられたものと思われる。

 探題の職は執権・連署に次ぐ重職であり,泰時,長時,宗宣,基時,貞顕らの執権はいずれも六波羅を経験しているが,北条氏一門の家督,あるいはその予定者で六波羅探題となったのは,初期の泰時・時氏父子のみである。探題の職務としては,まず朝廷との交渉があり,これには関東申次(もうしつぎ)であった西園寺(さいおんじ)家を介することが多かった。次に西国の政務や裁判がある。文永(1264-75)前後から諸機関の整備が進められ,1267年までに評定衆(ひようじようしゆう),78年までに引付(ひきつけ)ができ,97年までには五方引付が成立している。所務沙汰(しよむざた),雑務沙汰は,鎌倉末まで引付が担当していたが,はじめは探題の権限が強く,引付を中心とする裁判が確立したのは1300-08年(正安2-延慶1)ころであった。検断沙汰も最初は引付で担当していたが,1313年までには検断方が成立し,探題の下に検断頭人(とうにん)が置かれた。評定衆をはじめ上級の事務職員は,幕府評定衆など幕府職員の上洛した者が多かった。検断頭人には探題の被官があてられ,探題の交代に応じて更迭されたが,事に当たって御家人を指揮する権限をもっていた。政所(まんどころ),問注所(もんちゆうじよ),侍所(さむらいどころ)などは六波羅には置かれなかった。

 地域的には東海道で尾張(のち三河),東山道で飛驒(のち美濃),北陸道で越前(のち加賀)以西の西国が六波羅の管轄であった。ただし1319年5月,三河,伊勢,志摩は鎌倉幕府の政所,尾張,美濃,加賀は問注所の管轄に移されたが,一時的に過ぎず,翌20年9月には六波羅の管轄に復した。鎮西探題などが成立して後は,九州は六波羅の管轄から離れた。1259年(正元1)幕府は西国の訴訟については,特別の重要事項を除き鎌倉に注進せず,六波羅で裁決するように命じ,六波羅の権限を強め,裁判の敏速化を図った。しかし六波羅の裁判は,鎌倉幕府のそれに対して完全な独立を達成するには至らず,その後も六波羅を越えて幕府に訴える者は少なくなく,鎌倉末に至るまで重要事項は幕府で裁判が行われた。

 北条氏一門の有力者たちが探題に就任しただけに,探題が幕府の政争にまき込まれた場合もあった。1264年南方に赴任した北条時輔は,68年異母弟の時宗が執権となったのを不満としていたが,72年時宗は時輔の与党名越時章,同教時らを鎌倉で討ち,さらに六波羅北方義宗に命じて時輔を討たせた(二月騒動)。84年には時宗没後の政局の混乱の中で,六波羅南方時国は突如関東下向を命ぜられ,常陸に流された上,殺された。そして1333年(元弘3)後醍醐天皇方によって六波羅は攻略され,両探題北条仲時・時益は後伏見・花園両上皇,光厳天皇を奉じて逃走したが,南方時益がまず討死し,北方仲時らも近江の番場で自害し,ここに六波羅探題は完全に滅亡した。
[上横手 雅敬]

[索引語]
六波羅 承久の乱 六波羅北方 六波羅南方 北条兼時 北条時敦 金沢(かねさわ)貞顕 評定衆 引付 二月騒動
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〔名〕承久の乱以後、京都に設置された鎌倉幕府の出張機関、およびその長官。尾張(後に三河)・加賀以西の西国の政務を管轄した(後に九州は鎮西探題の管轄下に入る)。は
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全文全訳古語辞典
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古事類苑
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1221年〈承久3 辛巳⑩〉 6・16 北条時房・泰時,六波羅館に入る( 六波羅探題 の始め)(吾)。 1230年〈寛喜2 庚寅①〉 11・7 幕府, 西国地
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19. あいかわ-ときはる【淡河時治】
日本人名大辞典
?−1333 鎌倉時代の武将。六波羅探題北条時盛の子という。越前(えちぜん)(福井県)牛原(うしがはら)の地頭。元弘(げんこう)の乱で朝廷方の豪族たちの蜂起(ほ
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21. あおむら【粟生村】大阪府:箕面市地図
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日本歴史地名大系
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世界大百科事典
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24. あかしし【明石市】兵庫県
日本歴史地名大系
建長八年(一二五六)四月七日多聞寺(現垂水区)住侶は明石泊での勧進を認められている。元応元年(一三一九)春、六波羅探題は悪党取締のため明石などを警固させた。ほか
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日本歴史地名大系
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26. あかなべのしょう【茜部庄】岐阜県:岐阜市/旧厚見郡地区
日本歴史地名大系
いたこともあった。〔東大寺と地頭の相論〕文永三年(一二六六)預所賢舜が地頭請所停止の訴訟を六波羅探題に持込んで以来、鎌倉幕府滅亡に至るまで、東大寺は執拗に裁判を
27. 茜部荘
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(文永3)には東大寺は地頭請の停止,年貢の納入時期,見絹・見綿による年貢納入などを要求して六波羅探題に訴訟を提示し,以後鎌倉末まで地頭との間で相論がくり返された
28. あかはしもりとき【赤橋守時】画像
国史大辞典
?―一三三三 鎌倉幕府最後の執権。六波羅探題北条久時の長男。母は北条宗頼の女。足利尊氏の妻登子の兄。徳治二年(一三〇七)左近将監、従五位下、応長元年(一三一一
29. あかはし-よしむね【赤橋義宗】
日本人名大辞典
はら)探題北方として京都にはいる。翌年8代執権北条時宗(ときむね)の命により時宗の異母兄で六波羅探題南方の北条時輔(ときすけ)を討つ。のち評定衆となった。建治(
30. 赤松則村
日本大百科全書
南北朝時代の武将。法名円心えんしん。元弘げんこうの乱のとき六波羅探題ろくはらたんだいの攻略などに活躍し、建武けんむ政権の成立に功があったが、1336年(延元1・
31. 赤松則村
世界大百科事典
1277-1350(建治3-正平5・観応1) 南北朝時代の武将。法名円心。護良(もりよし)親王の令旨に応じ,六波羅探題の攻略など元弘の乱で活躍し,建武政権の成立
32. あかまつむら【赤松村】兵庫県:赤穂郡/上郡町
日本歴史地名大系
佐用庄は鎌倉後期には北条得宗家領で、六波羅北方探題が支配していたと考えられているので、赤松氏も六波羅探題被官であった可能性がある。元弘三年(一三三三)大塔宮護良
33. 朝日氏
世界大百科事典
関して六波羅探題より現地調査を命ぜられている。またその子頼氏は,翌年に同国西門真(にしかどま)荘地頭代の召喚を命ぜられ,14年(正和3)には同国草部(くさかべ)
34. あしかがいえとき【足利家時】画像
国史大辞典
鎌倉時代後期の武将。頼氏の子、尊氏の祖父にあたる。母は上杉重房の女。字は太郎。式部丞、従五位下伊予守。室は六波羅探題北条時茂の女。今川了俊の『難太平記』に、足利
35. あしかがさだうじ【足利貞氏】画像
国史大辞典
一二七三―一三三一 鎌倉時代後期の武将。家時の子。尊氏・直義の父にあたる。母は六波羅探題北条時茂の女。はじめ三郎(『尊卑分脈』、ただし『足利系図』では太郎)。
36. 足利尊氏画像
日本大百科全書
社前で源氏再興の旗をあげた。5月、赤松則村のりむら、千種忠顕ちぐさただあきらと京都に侵攻し六波羅探題ろくはらたんだいを滅ぼし、奉行所ぶぎょうしょを置いて、全国各
37. 足利尊氏
世界大百科事典
)八幡宮で倒幕の旗を挙げた。そして密書を諸国の豪族に送って決起を呼びかけ,京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方,関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を
38. あしかがたかうじ【足利尊氏】画像
国史大辞典
足利貞氏の次男、母は上杉頼重の女清子。元応元年(一三一九)十五歳で従五位下治部大輔に叙任。六波羅探題北条久時の女登子赤橋氏(執権守時の妹)を迎えて妻とした。元弘
39. あしかがたかうじ【足利尊氏】
日本架空伝承人名事典
)八幡宮で倒幕の旗を挙げた。そして密書を諸国の豪族に送って決起を呼びかけ、京都に攻め入って六波羅探題を滅ぼした。一方、関東では上野の新田義貞が挙兵南下して鎌倉を
40. あじきごう【葦敷郷】岐阜県:岐阜市/旧方県郡・本巣郡地区/蘆敷村
日本歴史地名大系
河の用水を打止めたため、庄内の公田以下多数の田地が荒廃したとして、新儀の濫妨を停止するよう六波羅探題に訴えている。この訴訟について、年未詳一一月七日の北条宣時召
41. あそうごう【麻生郷】大阪府:貝塚市
日本歴史地名大系
生五郎入道西入と弟信家が、御家人と号して近木庄に乱入し年貢を押領したとして金剛峯寺衆徒から六波羅探題に提訴されている(同年九月三日「六波羅御教書案」高野山文書)
42. あそこれとき【阿蘇惟時】
国史大辞典
建武三年(延元元、一三三六)惟直の没後大宮司に還任した。元弘三年(一三三三)一族の上島惟頼とともに六波羅探題を攻め、建武二年には新田義貞に従い、東下して箱根竹ノ
43. あつむら【厚保村】山口県:美祢市
日本歴史地名大系
駅馬」の項に記される「阿津」がのち厚保になったとされる。徳治三年(一三〇八)九月二七日付の六波羅探題金沢貞顕の長門探題北条時仲宛の文書(「注進案」所収正法寺文書
44. あてがわのしょう【阿〓河庄】和歌山県:有田郡/清水町
日本歴史地名大系
)。預所は次いで米持王・粉河寺讃岐房・寂楽寺別当任快が順次補任されて入部、また本家・領家は六波羅探題に対し文永二年頃から訴訟を展開した。同四年頃の雑掌重陳状案裏
45. あびこのみくりや【網曳御厨】大阪府:泉大津市
日本歴史地名大系
網曳御厨領として多くの給免田や浦が和泉国内に広く散在していたという点である。これよりさき承久四年にも、六波羅探題は網曳御厨供御人らの「給田并網庭浦日根鮎川等」に
46. あまぎし【甘木市】福岡県
日本歴史地名大系
乗せてモンゴルの軍船攻撃に向かっており、鎌倉幕府の御家人になっていたようで、元弘三年(一三三三)の京都六波羅探題没落の際には、北条仲時とともに番場宿蓮花寺(現滋
47. あまたぐん【天田郡】
国史大辞典
建久三年(一一九二)土肥実平が初代守護に任ぜられ、のち北条時房、その子時盛が受け継いだが、その後は六波羅探題南方が兼任した。室町時代には明徳の乱後細川頼元が守護
48. あらかわのしょう【荒川庄】和歌山県:那賀郡/桃山町
日本歴史地名大系
を殺害、六波羅探題方に召禁されたが赦免を得ずにひそかに還住し、さらに和泉国麻生庄に乱入して一〇余人を殺害、弘安八年(一二八五)には荘内上田村(神田村)でも殺害事
49. ありだぐん【有田郡】和歌山県
日本歴史地名大系
本家・領家と対立を深めた。本家・領家は別に預所を補任するとともに文永初年以来地頭湯浅氏の非法を六波羅探題に提訴、幕府法にくわしい雑掌を起用し、幕府法を乗越えて領
50. ありまのしょう【有馬庄】長崎県:南高来郡/北有馬町
日本歴史地名大系
の地頭職を深江入道蓮忍に譲っており、文永一〇年(一二七三)牧地・馬・牛などについての相論を六波羅探題が裁許するなかでも、深江村のうちに朝澄の開発田があった(同年
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(世界大百科事典・日本国語大辞典)
共和制,武家政治などによって支配の座を追われていた君主政体が,ふたたび旧体制を回復すること。通常,O.クロムウェルの共和政治崩壊後のイギリスにおけるスチュアート朝のチャールズ2世の即位,ナポレオン1世没落後のフランスにおけるブルボン朝のルイ18世の即位,および日本の明治維新
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
出羽の名は「続日本紀」和銅元年(七〇八)九月二八日条に「越後国言、新建出羽郡、許之」とみえるのが初見で、越後国の申請を受けて新たに越後国の北部に出羽郡を置いたと記す。同二年七月一日条には「令諸国運送兵器於出羽柵、為征蝦狄也」とあり、軍事基地として


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六波羅探題(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関、およびその長をいう。「探題」は元来、仏教で論議の際に論題を定め、問答の可否を判定する役を意味するが、転じて政務を裁決するこの重職を指すようになった。鎌倉時代末期に著わされた『沙汰未練書』に「探題者、関東者両所
公正取引委員会(世界大百科事典)
独占禁止法,〈不当景品類及び不当表示防止法〉,下請代金支払遅延等防止法等の運用にあたる行政委員会。1947年発足。組織的には,総理府の外局として内閣総理大臣の所轄に属してはいるが,一般の行政庁と異なり,その職務執行に関し他からの指揮監督を受けない独立


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