佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』、森茂暁『鎌倉時代の朝幕関係』、上横手雅敬『鎌倉時代政治史研究』、瀬野精一郎編『鎌倉幕府裁許状集』下、木内正広「鎌倉幕府と都市京都」(『日本史研究』一七五)、外岡慎一郎「六波羅探題と西国守護」(同二六八)、森幸夫「南北両六波羅探題についての基礎的考察」(『国史学』一三三)、同「六波羅探題職員ノート」(『三浦古文化』四二)、高橋慎一朗「六波羅探題被官と北条氏の西国支配」(『史学雑誌』九八ノ三)
国史大辞典
日本大百科全書(ニッポニカ)
鎌倉幕府が京都の六波羅に設置した機関、およびその長官。ただし探題という称呼は南北朝時代以後のもので、鎌倉時代には単に六波羅、六波羅守護などとよんだ。1185年(文治1)以来、幕府は京都守護を置いたが、1221年(承久3)の承久 (じょうきゅう)の乱の際、後鳥羽 (ごとば)上皇に滅ぼされた。この乱にあたり、幕府軍を率いて上洛 (じょうらく)した北条泰時 (やすとき)・時房 (ときふさ)は、そのまま六波羅の北・南の居館に駐留し、乱後の処理にあたった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され、これを六波羅北方(北殿)、同南方(南殿)とよび、幕府の執権 (しっけん)、連署 (れんしょ)に次ぐ重職であった。しかし北と南とでは、北方のほうが上席であり、南方にはしばしば欠員があった。探題の職務は、第一は朝廷との交渉で、これには朝廷側の関東申次 (もうしつぎ)である西園寺 (さいおんじ)氏を介することが多かった。第二は京都をはじめ近国の治安維持で、これには探題の被官が検断頭人 (けんだんとうにん)としてあたり、御家人 (ごけにん)を統率した。第三が裁判で、六波羅評定衆 (ひょうじょうしゅう)、同引付衆 (ひきつけしゅう)らが担当したが、その職員には、幕府の評定衆をはじめとする事務官僚の上洛したものが多い。これら六波羅探題の諸機関は徐々に整備が進められ、幕府の機構に準ずるものとなった。裁判の管轄区域は、尾張 (おわり)(のち三河 (みかわ))、加賀 (かが)以西で、鎮西 (ちんぜい)探題の成立後は九州が管轄から離れた。六波羅の裁判権はしだいに強化されていったが、重要事項については鎌倉末に至るまで、幕府が裁判権を握っていた。1333年(元弘3・正慶2)後醍醐 (ごだいご)天皇方の千種忠顕 (ちぐさただあき)、赤松則村 (あかまつのりむら)、足利高 (あしかがたか)(尊)氏 (うじ)らが六波羅を攻撃、探題北条仲時 (なかとき)は持明院統 (じみょういんとう)の後伏見 (ごふしみ)・花園 (はなぞの)両上皇、光厳 (こうごん)天皇を奉じて逃走したが、近江 (おうみ)で敗死し、ついに六波羅探題は滅亡した。
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鎌倉幕府が京都の六波羅に置いた機関,およびその長。鎌倉末期,1319-22年(元応1-元亨2)ころ成立した《沙汰未練書》に〈探題とは,関東は両所,京都には六波羅殿を云ふ〉とあるのが六波羅探題の呼称の初見であり,通常は単に〈六波羅〉ということが多かった。1185年(文治1)以来幕府は京都守護を置き,洛中の警備や京・鎌倉の連絡に当たらせた。しかし1221年(承久3)後鳥羽上皇が討幕の兵を挙げ,承久の乱が起こると,京都守護の一人大江親広は招かれて上皇方に加わり,今一人の伊賀光季は上皇方に討たれた。この乱に当たり,幕府軍を率いて上洛した北条泰時とその叔父時房は,そのまま都にとどまり,六波羅の北・南の館に駐留し,乱後の処理に当たることになった。これが六波羅探題の起源である。その後も北・南各1名の探題が北条氏の一門から選任され,これを六波羅北方(北殿),六波羅南方(南殿)とよんだ。両者の中では北方が上席であり,南方にはしばしば欠員があった。南方,北方を歴任した人物は3名ある。北条兼時は1284年(弘安7)12月から87年8月まで南方,93年(永仁1)正月まで北方,北条時敦は1310年(延慶3)7月から15年(正和4)6月まで南方,20年(元応2)5月まで北方に在職した。特異なのは金沢(かねさわ)貞顕の場合である。1302年(乾元1)7月から08年11月まで南方の任にあった貞顕はいったん鎌倉に帰った後,10年6月北方として上洛し,13年11月まで在任したが,再度の六波羅勤務には不満であったという。
六波羅探題の所在地は,北方が五条末(現在の松原通)から六条坊門末(現在の五条通),南方が六条坊門末から六条末(現在の正面通)にわたり,いずれも大和大路以東に位置していた。六波羅にはかつて平氏の邸館があったが,のちその地は源頼朝に与えられ,頼朝は平頼盛邸跡に新邸を造り,1190年(建久1)の上洛の際には宿所とした。鎌倉に帰るに当たり,頼朝は六波羅新邸の留守を一条高能に命じた。しかしこの頼朝邸は1203年(建仁3)火災で焼失し,ついに再建されなかった。六波羅探題はこの跡地に建てられたものと思われる。
探題の職は執権・連署に次ぐ重職であり,泰時,長時,宗宣,基時,貞顕らの執権はいずれも六波羅を経験しているが,北条氏一門の家督,あるいはその予定者で六波羅探題となったのは,初期の泰時・時氏父子のみである。探題の職務としては,まず朝廷との交渉があり,これには関東申次(もうしつぎ)であった西園寺(さいおんじ)家を介することが多かった。次に西国の政務や裁判がある。文永(1264-75)前後から諸機関の整備が進められ,1267年までに評定衆(ひようじようしゆう),78年までに引付(ひきつけ)ができ,97年までには五方引付が成立している。所務沙汰(しよむざた),雑務沙汰は,鎌倉末まで引付が担当していたが,はじめは探題の権限が強く,引付を中心とする裁判が確立したのは1300-08年(正安2-延慶1)ころであった。検断沙汰も最初は引付で担当していたが,1313年までには検断方が成立し,探題の下に検断頭人(とうにん)が置かれた。評定衆をはじめ上級の事務職員は,幕府評定衆など幕府職員の上洛した者が多かった。検断頭人には探題の被官があてられ,探題の交代に応じて更迭されたが,事に当たって御家人を指揮する権限をもっていた。政所(まんどころ),問注所(もんちゆうじよ),侍所(さむらいどころ)などは六波羅には置かれなかった。
地域的には東海道で尾張(のち三河),東山道で飛驒(のち美濃),北陸道で越前(のち加賀)以西の西国が六波羅の管轄であった。ただし1319年5月,三河,伊勢,志摩は鎌倉幕府の政所,尾張,美濃,加賀は問注所の管轄に移されたが,一時的に過ぎず,翌20年9月には六波羅の管轄に復した。鎮西探題などが成立して後は,九州は六波羅の管轄から離れた。1259年(正元1)幕府は西国の訴訟については,特別の重要事項を除き鎌倉に注進せず,六波羅で裁決するように命じ,六波羅の権限を強め,裁判の敏速化を図った。しかし六波羅の裁判は,鎌倉幕府のそれに対して完全な独立を達成するには至らず,その後も六波羅を越えて幕府に訴える者は少なくなく,鎌倉末に至るまで重要事項は幕府で裁判が行われた。
北条氏一門の有力者たちが探題に就任しただけに,探題が幕府の政争にまき込まれた場合もあった。1264年南方に赴任した北条時輔は,68年異母弟の時宗が執権となったのを不満としていたが,72年時宗は時輔の与党名越時章,同教時らを鎌倉で討ち,さらに六波羅北方義宗に命じて時輔を討たせた(二月騒動)。84年には時宗没後の政局の混乱の中で,六波羅南方時国は突如関東下向を命ぜられ,常陸に流された上,殺された。そして1333年(元弘3)後醍醐天皇方によって六波羅は攻略され,両探題北条仲時・時益は後伏見・花園両上皇,光厳天皇を奉じて逃走したが,南方時益がまず討死し,北方仲時らも近江の番場で自害し,ここに六波羅探題は完全に滅亡した。
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