白川静先生の文字学との直接的な出会いについてお話する前に、少し自分の子供時代のことをお話してみたいと思います。あれは小学生高学年の頃だったでしょうか、父の本棚に『古代文字の解読』(高津春繁・関根正雄共著、岩波書店、1964年発行)という本を見つけて、ちょっと興味を持って手に取ったのが最初の古代文字との出会いでした。
もちろん子供ですから、きちんと読むというよりパラパラとページをめくって眺めて楽しんでいたのでしょうね。その本に書かれているさまざまな古代文字、エジプトの聖刻文字やスメルの楔形文字といったものにすごく魅力を感じました。古代文化への興味といいいますか、不思議さ、おもしろさを強く感じたのをよく覚えています。
子供の頃から私は、「何かが生まれるとき」というのに非常に興味があったみたいなんです。とても不思議な感じがしていたのですね。例えば、なぜ植物にこれだけいろいろな種類があるのとか、なぜ地球が存在するのとか、なぜ宇宙や星々があるのとか。どうしてなんだろう? どうしてこういうものはこの世に生まれてきたんだろう? すべてが不思議に思えたんですね。古代文化への強い興味というのもそれが「何かが生まれたとき」だからだったのかもしれません。
人間がまだ文化を持たなかった時代、それどころか人間がまだ今の形を成していなかった時代に惹かれるというのは、何かが始まった瞬間、何かが生まれた瞬間にとても興味があったからだと思います。博物館に行くと、よく動物の小骨に穴を開けて作った針などが展示してあります。それを見るととても感動してしうまうんですね。人間が初めて道具を持ったとき、初めて針という道具を創造した人間って、どうだったんだろう。また、「道具」の発明とは比較にならない大きな精神のうごきだと思いますが、人間が初めて「文字」というものを持ったとき、目に見えない、すごい大きなエネルギーが働いているのじゃないかと思うんですね。
「何かが生まれる瞬間」という意味では、古代っていうだけじゃなくて、現代でも起こりうることだと思います。ただ、現代の人間が何かのエネルギーを感じることは、日常では難しいですね。子供の頃から、世界に始まりがあるということがとても不思議で興味深々でしたが、世界には終わりもあるかもしれないということも同様に心動かされます。そんな宇宙のエネルギーに関わりたいという願望が私には今も強くあります。
話を戻しますね。子供の頃出会った古代文字をはじめとして、遺跡とか遺物など古代文化全般にも興味が芽生えてきまして、かつてNHKで放送されて話題になったドキュメンタリー『未来への遺産』(1970年より放送)を熱心に見たりしたのも懐かしい思い出です。自分で本を買えるようになってからは、白川先生の著書、中公新書の『漢字百話』とか岩波新書の『漢字』、東洋文庫の『甲骨文の世界』などを買って眺めたり、少しは読んでいたことはいたのですが、白川文字学の本当のすごさといいますか、魅力に気づいたのはもっとずっと後のことでした。
私は音楽大学のピアノ科に進み、卒業しました。卒業後に、音楽をもっと勉強したいと思い、「音楽美学」を学んだんですね。音楽美学とは、なぜ音楽が美しいのか、人間にとって音楽とは何かなどを研究する学問です。私がそこで一番共感したのは、古代ギリシャの音楽観。哲学者のプラトンが言うような「イデアの世界」というものがあって、それは生きてている人間には目に見えないものなんだけど、その「模倣」を人間世界でするのが人間の音楽や演劇や詩といった「芸術活動」なのだという考えでした。
この世に生きている人間には決して聞こえない宇宙のハーモニーというのがあって、生きている人間でそれを聞けるのはピタゴラスだけとプラトンは言います。そういった、宇宙に鳴り響くハーモニー、宇宙の根源の音というのが本当はあるんだけど、普通の人間には聞こえない。人間はそれに憧れて「人間の音楽」という形で何とかそれに近付こうとするのです。
その後、私は雅楽の古典楽器である「笙(しょう)」を始めるようになりました。笙を選んだのは古い「伝統楽器」であるからというよりも、純粋にその楽器の音に惹かれたからです。古代中国でも宇宙のハーモニー、天の音楽、あるいは黄帝の音楽といわれているような音楽があります。普通の人間の力ではどうしようもできないエネルギーを秘めた音楽があるということがいわれていますが、そういったエネルギーを自分でも感じてみたかった。この楽器を通してそれが感じられるような気がします。
笙を始めてから、あるとき中国の方から笙のことを表す「甲骨文字」があることを教えられました。早速、図書館に行って、一所懸命調べたんです。ここで「白川文字学」との2度目の出会いがありました。そのときは白川先生以外のものもいろんな文献を調べたのですが、白川先生の著書には、他にはみられない文字の根源的な姿がありました。文字の中から溢れる生命力、それは私が音楽を通して近付きたかったものと驚くほどの共通性を持っていました。私が子供の頃から憧れながら、まだぼんやりとしてつかみきれなかったものが「白川文字学」によってはっきり言葉を与えられたという感じでした。人間の目には見えないけれども、神様からの「応答」がある、それが「音」なのだということを白川先生は書かれています。文字もまた神様と人間とのそういった応答~問いかけがあり、答がある~という応答の媒介であるということを教えてくれました。それからですね、白川先生の著作を夢中になって読み出したのは。
私は『字通』を、音楽と宗教(両者は密接な関係にあります)に関する文字に付箋をつけ、調べ味わいながら、読み進めてきました。辞書を「引く」というより、一冊の本のように最初のページから読む醍醐味を味わっています。付箋をつけたのは、例えば「歌」、「謡」、「音」、「言」、「楽」といった漢字ですが、今では私のつけた付箋で『字通』は、分厚くかなり盛り上がってしまっています(笑)。中国の古代の音楽関係の名詞とか、雅楽のなかでも意味のあまりよく分からない言葉(例えば曲のジャンルであったり題名であったり、楽器の名前であったり)を調べて、この『字通』や白川先生の他の著作で、本来はどういう意味を持っていたのかを調べたりします。そういうときは、『字通』を「読む」のではなく「引く」わけです。いずれにしても、全文検索できるJK版の登場で『字通』とのつき合い方も変わっていくと思います。
私たちは今、活字を見たら、数字もそうですがただ記号のように感じることが多いと思うのですが、白川先生の手にかかると、文字が肉を持って、動きを持って生きてくるんですよね。私も、甲骨文字を見ていると動いて見えてくるんです。
「可」という字があります。可は歌という字の元の字ですが、これは
(さい。祝詞を入れる器)の上に木の枝をかざしている形ですね。雅楽の舞の中でこれと同じような所作をするものがあります(さい)ではないんですが、かがり火を焚いて、神様ここに降りてきて下さいとお呼びするわけですけど、そのとき榊の枝を振りかざして舞うというものがあります。実際、私などそういう舞をするので、この文字の根源的な意味を「体感」して感動しました。また、音楽の「楽」の甲骨文字は、巫女さんが振る鈴の形といわれていて、これも実際に私も舞うことがあるのですが、同じように「楽」の根源的な意味を体現しているわけです。ここでいう鈴の音は、神様降りてきて下さいという合図であり、神様からの応答を受ける媒介にもなるものなんですね。そうそう、「神楽(かぐら)」ってありますよね、宮中の「御神楽」っていうのがありまして、神様に目印のところに降りてきていただいて、一晩中楽しんでいただくという儀式です。神様には、歌と舞で存分に楽しんでいただき、夜明けにお見送りをする。そのあと、御神楽が成就したということで今度は人間たちによって飲めや歌えの宴会が始まる。白川先生がおっしゃるように、「遊ぶものは神である」「神のみ遊ぶことが出来る」「人間は神によって遊ぶことができる」ということが、こういった御神楽という音楽の儀式にも現れています。『字通』をはじめとする白川先生の著作を通して、私は世界の始まりのエネルギーやそういった人間と神との関係など、さまざまな事柄を実感しています。